Maria Schneider
初めて見たのは1995年の6月のニューヨークでした。Evanescenceを聴いて存在はチェックしていて、初めてNYCに行った時に迷わず見に行ったのでした。初めて聴いた彼女のバンドの音は、ビッグバンドのサウンドを油絵だとするとパステル画のような印象でした。それから2002年くらいまでは毎年NYCに行っていたのですが、私にとってはマンデイナイトはVJOよりマリアでした。Visionesでマンデイナイトを持っていた時期のバンドサウンドのまとまりは半端なものではなく、その時期に録音されたComing Aboutがあまり評価されていないのは少し残念な気がします。3作目のAllegresseからバンド名にJazzの名前が消えました。2000年のJazz Standardでのライブ盤の録音を初日に見ることができたのですが、Visionesがクローズした後でバンドの一体感がマンデイナイトを持っていた頃と違う感じもしたものでした。Artist Shareに行ってからの彼女の作品は実はあんまり持っていないのですが、バンドにアコーディオンを置くことでブラジルな感じやミュゼットな感じも醸し出すことができるようになって彼女のオーケストラが完成したような感覚を受けます。初来日は2012年(当初2011年の予定が福島原発事故で延期になった)でした。もし私がプロモートビジネスをやっていたら20世紀のうちに招聘してたのになぁ、とは今でも思うことです。この時はトークショウがあったのですが、彼女が「自分のバンドではギターはリズム隊とホーンセクションを繋ぐ乳化剤のような仕事をしている」と言ったことが非常に印象的でした。Ben Monderの役割はまさにそれだったし、今回ギターを担当したJeff Milesもその役割を引き継いでいました。前回の来日は見ることができず今回となったわけですが、90年代から参加しているのはGreg Gisbert, Keith O'quin, Geroge Flynn, Rich Perry, Scott Robinsonの5人でした(グレッグがあまり本調子でないように聴こえたのは気のせい?)。ソリスト以外は基本生音(ギターとアコーディオンとベースは薄く増幅してました)による柔らかいアンサンブルは健在でした。私が見たセットでは初期のものから最新作まで満遍なく並んでいました(毎セットごとでセットリストは変わっていた模様)。初期のレパートリーでもソロ中の構成が変わっていたりなど、単なるノスタルジーにならない仕掛けがされていたのは流石でした。サウンド自体は初めて見た時の印象がそのまま引き継がれている感じで新たに驚愕するようなことはありませんでした。変わったと感じるのはここ数年の社会の荒廃や分断化などの問題に対する彼女の問題意識を音楽に反映させようという気概でした。前作のData Lordsにもそれははっきり伺えるのですが、最新作のAmerican Crowではそれが更に前面に出ているように思われました。MCでの楽曲についての説明からもそれははっきりと伺うことができました。かつて1960年代後半にジャズと公民権運動がリンクするような時代がありましたが、今の彼女のアティテュードを見るに、アメリカにおける社会の分断は外から見ている我々のイメージより遥かに深刻であることも伺い知ることができます。MCなどを通じて感じられる彼女の印象派一言で言うと"Charming"なのですが、同時にさまざまな社会問題に対しての問題意識やそれに向かう芯の強さみたいなものも存分に感じることができました。アメリカン.コンテンポラリー.インストゥルメンタル.ミュージック(ジャズというワードは外していいように思われる)の旗手としてその動向はこれからも注目するべき存在であるなぁ、という思いを強くしました。今回少しだけお話しさせてもらったのですが、30年前にVisionesで話した時と全然変わらないことに驚きを感じました。
There is …の文は倒置!
いい年をして英文法の学び直しをしています。日本語で書かれた参考書は私が10代の頃に読んだものとほぼ何も変わっておらず、ややこしい言い回しなので、そっちはサブにしてケンブリッジの英語で書かれた教材をメインにして学んでいます。このスタイルで学んでいると、日本語の参考書には修正されていない沢山の誤謬があることが理解できますし、英文法というものが案外シンプルなルールであることがわかってきました。その中で、タイトルにしたThere isの文章は長年の課題でした。SVCの倒置であることは疑っていたのですが、今までアカデミックな記述を見つけられませんでしたが、今回ようやく発見したので書きます。
There is …の文は第2文型の倒置です。ウェブ上にあるケンブリッジの辞書のサイトに書いてありました。
つまり、例えばHere comes the bus.がThe bus comes here.の倒置であることと同じ仕組みなのです。SVC→CVSの倒置で出る典型的な例文にHappy are the people in the village.というのがあります。英語は言いたいことを先に出す言語なのでSVCがS=Cならばどっちが先でも良いようにも見えます。ならば、A book is there.が倒置してThere is a book.となっているという解釈は当然できると思います(これのアカデミックな裏付けが欲しかったし、Cambridgeにあったということ)。ちなみにジャズのスタンダードには"Wild is Love"という曲もあります。本来であれば"Love is wild"であるはずです。
There is …の文についてはもう一つ疑問があります。前置詞句のついた文をどう説明するか、です。つまり
There is a book on the table.の"on the table"が違和感なく文末に置ける根拠がなかったのです。これについてはちょっと今どのサイトだったか思い出せませんが、こんな表記をしているサイトがありました。
A book is on the table.→There is a book on the table.
いずれにしても、このような解釈であれば、訳さないthereが文頭にくることは納得できます。これ、この数年ずっと自分の頭の中にぶら下がってた宿題でした。これで英文法で釈然としないことはほぼ解消したような気がします。
これからは英語教育より日本語教育の方が大事になるのかもしれません。
私はまだ使っていないのですが、昨今のAIの発展は相当すごいみたいです。金融経済の世界だと、FRBの声明とかもあっという間に日本語にしてくれるみたいです。とすると、これからはそうしたものをいちいち自分で英語で読んで翻訳する必然性が減っていく可能性があります。とするならば、自国語の言語能力を可能な限り高くしておかないと、相手のことを論理でねじ伏せることが非常に難しくなってしまいます。国際的なネゴシエーションの場で言語の問題が解消されるのであれば、そこに必要になるのは国語力です。第一言語を超える第二言語の理解はない、という常識に立てば、国語教育が重要なのは自明なのですが、おそらくそれがさらに重要性を増していくことが予想されます。文部科学省が英語学習で希求していることは時代遅れになる可能性があります(もちろんリアルなコミュニケーションでは互角力があった方が良いのはいうまでもないことです)。
私は自分の学びの現場では自動翻訳はほとんど使いません。なぜなら、自分で 原語で読んでざっくり日本語にした感覚と自動翻訳の言葉に乖離があって違和感を持つことが多いからです。もう一つ言うと、機械に任せると「自分で読み切った」という征服感というか満足感がありません。だから自動翻訳には頼るつもりはありません。自分の年齢や、今まで読んできたものを振り返るともう自分として国語力を磨く、というのはしなくても良いとは思いますが、若い世代にとっては非常に重要になるだろう、と。
