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杉並区長選雑感

私の住んでいる杉並区の区長選が終わりました。現職再選ということで個人的にはまぁ良かったのではないかと感じています。選挙期間中のあれこれをネットで観戦していたのですが、相変わらず目につくのは保守陣営側からのネガキャン(オフラインの時代には「怪文書」と言われてたものです。これは保守系の戦法で革新系が仕掛けるのは見たことがありません)が多かったということです。ネット言論の影響力というのは侮れないところがあるので、これの影響力には若干の不安がありました。が、選挙戦後半になるにつれてその意識は薄れていきました。理由は簡単で、腐るほど出てくるデマツイートやスレッズを書いている人の大半が区外の部外者で的外れなものが大半で、それが保守系候補側から出てくるネガキャンの信憑性も引き下げるような効果を与えたように見えるのです。国政レベルだと釣られてしまう人も相当数いるようなのですが、市区町村の首長の選挙ということであれば生活に密着しているので、有権者がそうした情報に惑わされなかった可能性が高いと推測できるのです。これは個人的には興味深い現象でした。ネット上ではバーチャルがリアルを凌駕してしまうことが多々発生しますが、今回はそうではなかった、と。これは個人的には一つの発見でもありました。

 

前期の区政では区の財政の健全化を進めるなどの仕事があったようで、敗れた保守系候補の区民への経済支援が実現しようものならこれが台無しになるところでした。そもそも区税は区の行政サービスの対価として収めているものであるので、これを区民の経済支援で戻す、ということは、行政サービスの後退もしくは劣化を意味するからです。しかもその金額は100億円単位でした。落選したから良いようなものの、これは体のいい有権者買収のようなものです。そんな政治に進まなくて良かった、というのが個人的心境です。

 

日本では選挙が終わったら後はほったらかし、というケースが大半です。が、それではダメで、区議会をちゃんと傍聴するなどして、区議会でどのような答弁や議論がなされているのか、不規則発言で議会の品格を汚し、議事進行を妨げるような議員がいないかを区民が監視しないといけないのです。そうした有権者の意識の高さも問われるのだと理解しています。私の育った流山市では50年前に常磐道の建設にかかる住民の反対運動があり、反対派から市議会議員を擁立し、自治体と手を取り合いながら運動を進めて、幸運もあって高速道路の宅地にかかる部分を覆蓋化し、その上部を公園にすることに成功しました。地方自治に住民が参画するある意味理想的な形ではなかったかと思われるのです(この運動については今年の1月に書籍化しました)。この時も住民の議会傍聴は積極的に行われました。選挙して終わりではないのです。その辺りまで有権者が動くようになれば杉並区の次の4年も面白いことになるのではないかと想像しています。

新宿DUG

ジャズ喫茶、高校の近所にジャズやフュージョンをかける店があって入り浸るようになり、大学に入って本格的にジャズをやり始めてからは隙間時間に色々なところに出入りして多くの音源を聴いたものでした。上野のイトウ、神保町にあった響、四谷のいーぐる、高田馬場のイントロなどなど。新宿は行動範囲から外れていたのでDUGには若い頃にはさほど通った記憶がありません。90年代にライブもできる別館みたいなのがあった時代があって、その時はそこでドゥスコ.ゴイコヴィッチなんかを見たものでした。ジャズに限らず音楽喫茶というものは、都心にいながらそれを一切遮断できる時間と空間で好きでした(もちろん今も好き)。銀座にあったジャズカントリーなんかはその典型で、こっちがラッパを吹くのを知ってからは、行くたびにマスターがレアなブツを回してくれて楽しかったものです。新宿New DUGには打ち合わせみたいな感じで行くことが多く、また自分の演奏のフライヤーもよく置かせてもらいました。イトウやジャズカントリー的な穴蔵な感覚が希薄で、個人的にはコーヒー一杯で延々と粘るという昔のジャズ喫茶的使い方はあまりしなかったように思います。都心の喧騒を遮断してくれる音楽喫茶、徐々に絶滅危惧種になっていっているような気がします。どこかで再開してくれそうではあるので、それを楽しみにしたいと思います。

"Like"と"want"という2つの落とし穴

いい年をして英文法の学び直しをしています。日本語で書かれた参考書の文章がわかりにくくて鬱陶しいので、ケンブリッジの本あたりを見ながら進めています。語族が違うので文の構造とかを国文法の参考書とも併せて見ているのですが、理解を混乱させる2つの動詞があるのです。それが"like"と"want"です。日本語と英語の述部には決定的な違いがあります。日本語では述語部分を「用言」と表現しており、用言になれる品詞は動詞、形容詞、形容動詞、名詞+助動詞です。他方英語では術後は必ず動詞でなくてはなりません。つまり、国文法で「動詞」と定義されるものは英文法の一般動詞であり、日本語で形容詞、形容動詞、名詞

+助動詞で述語を構成するものにはBe動詞を使うことが必要となります。まずここの仕切りで一つ壁ができるのですが、ここで曲者なのが"likeと"want"なのです。なぜって、日本語に訳すときにこの2つの単語は動詞として訳されないのです。

I like music.は「私は音楽が好きです」と訳されますが、日本語で考えるとこれは述語が動詞ではありません。好きです、と言うならば I'm fond of music.であるべきですがそうはなりません。文語的に、「私は音楽を好む」であれば動詞になるのですが。

またwantではこんなことになります。

I want to be a musician.「私は音楽家になりたい」これは厄介です。国文法的に見ると動詞「なる」の連用形に希望を表す助動詞「たい」が加えられた形です。これもまた文語的に「欲す」として「我音楽家になることを欲す」としないと動詞が述語になる日本語とならないのです。むしろ戦前の学生が漢文の読み下し文を訳す漢字の方が近いような気さえします。likeと違って代替できる日本語がないのです。こうしたところで、日本語と英語の述語構造に混乱が生じてしまいやすいのです。なのに一般動詞の例文で頻出なのがこのlikeとwantなのです。考えてみれば、日本語での用言が動詞でない文を英語にするにはBe動詞が必要なのですが、ここでのBe動詞の日本語での役割は断定の助動詞である「だ・です」なのです。つまり、日本語と英語で文法用語が錯綜しているのも混乱する理由の一つなのです。この辺りをきちんと整理できるかできないかと言うことは、英語学習でかなり大事なポイントなのではないかと最近は考えています。