なぜジャズのセオリーは難しく見えるのか?
つまりこれは難しくない、と言いたいのです。なぜ難しく見えるのか?
それは簡単です。それについてこれから書きます。
ユーラシア大陸にある伝統的な民族音楽は全てモードミュージックなのです。どのスケールを使うかでその地域性が特定できます。そして、それらの音楽に共通しているポイントが一つあります。それは
「決められたスケールから逸脱してはならない」
ということです。沖縄やインドネシアの音楽がそれらしく聞こえるのはそのスケールに乗っ取っているからであり、インドであればラーガ、中近東であればマカームやシンズに厳格に従っているのです。スケールにない音を使うと音楽が台無しになります。ヨーロッパでも多々追えばグレゴリオ聖歌は特定のスケールに基づいた単旋律の音楽です。クラシックやジャズが理論の根拠としているいわゆる西洋音楽(個人的にはイタリア、オーストリア、ドイツ辺りの音楽と理解している)はダイアトニックスケール、すなわちピアノの白鍵のスケールに拘束されます。実際モーツァルトのハ長調の曲では黒鍵の音はほとんど使われません。つまり、枝葉末節にこだわる前にダイアトニックスケールについて学べば良いのです(これは長音階なので、短音階も合わせて理解する必要があります)。西洋音楽理論と他の民族音楽の違いは、「決められたスケールから逸脱して構わないという方便が複数ある」ことです。軸足となるスケールの学びが不十分な状況でこの方便を掘り下げようとするから難しくなるのです。ビバップ以降のスタイルだとそうした逸脱の方便を縦横無尽に使うわけですが、それ以前の音楽は基本的にダイアトニックベースなのです。せいぜいそこにブルーノートが加わる程度で。マイルスのSo WhatのAセクション、即ちDドリアンスケールとは白鍵しか使わないものです。どこも難しくありません。
日本の学校の音楽の授業で勉強する主要三和音とか長音階、短音階をきちんと理解するだけで相当部分が理解できるはずなのですが、この辺りがすっかり忘れられています。英語を喋りたいのに一般動詞とBe動詞の使い分けができないようなところで路頭に迷っているに過ぎません。メロディのフェイクであってもそれは立派なソロです。まずは鼻歌を歌うことから始めましょう。
「意味上の主語」なんてものは存在しない。
いい歳をして英文法の学び直しをしています。日頃の生活でそこそこ使いますし、日常会話ではさほど困りませんが、高校の時にドロップアウトしているので英文法は心許ないのです。で、参考書を開いてみると、昔とほとんど変わらないわかりにくい用語説明が多くて実に鬱陶しいのです。なので、英文で書かれたものをメインにしているのですが、そうすると既存の日本語の参考書には誤謬がたくさんあることがわかります。
今回のお題目は「意味上の主語」です。形式主語を使った不定詞の文で"for me"という前置詞句がそう書かれているのですが、これはハッキリと間違いです。中2くらいで初めて不定詞の名詞的用法をやるとこんな感じの例文が出ます。
To study English is hard for me.(英語を勉強することは私にとって大変です)
この時の"for me"は意味上の主語と呼ばれていないのに、形式主語で書くとなぜか「意味上の主語」と呼ばれるんです。
It is hard for me to study English.
これは「意味上の主語」などではありません。国文法にすらない用語が英文法上で闊歩してるんです。これは「対象の限定」に過ぎません。2つの文を並べてみます。
It is hard to study English.
It is hard for me to study English.
上の文は一般論であり、対象を特定していませんが、"for me"が加わることで「私にとって」大変、即ち対象が限定されるだけの話です。
「意味上の主語」というならば、
I want you to study English hard.
という文の目的格のyouもまた「意味上の主語」とされるべきでしょう。不定詞で表現されている動作の対象が目的格なのですから。
I want to study english hard.
であれば一生懸命英語を勉強したいのは「私」ですが、目的格を入れると一生懸命英語を勉強するのは「あなた」なのです。
自分の年齢を考えるに、英文法の参考書は少なくとも40年はほとんど改定されていません。おそらくは戦後から、谷崎潤一郎の文章読本の書き方からするともしかすると戦前からほとんど改定されていない可能性もあります。明治後期に初めて英文法を日本語に翻訳された当時の言語学者の努力には敬意を表しますが、今の言語学者がそれを再検証しているのかというのは疑問ですし、怠慢なのではないかと思えます。日本人の英語コンプレックスの原因の一つには「何十年も改定されないマニュアルで学ばされること」があることは疑いの余地はないと思っています。
否定疑問文のトラップに騙されてはいけない。
いい年をして英文法の学び直しをしています。高校の時にドロップアウトしているので文法的なことには心許ない部分があるのですが、日本語で書かれた参考書の文が無駄にややこしいのが当時もストレスだったので、今は英語で書かれた文法書をメインに日本語のものを比較対象しながら勉強しています。そうすると、日本語で書かれている参考書の表現ではっきり誤謬で得ることがわかることが結構出てきます。そもそも私が10代の頃に使ったものと今でほぼ一言一句違っていないということは、古いマニュアルが改定されずに流通しているということで、これではいくら文科省が旗を振っても英語を使える人は増えないだろうなぁ、と感じたりしています。
さて本題です。
そもそも「否定疑問文」自体が学校英文法できちんと取り上げられていないような気がします。付加疑問文のところで出てきますが、否定疑問文についての詳しい説明はありません。つまり
Are you tired? (あなたは疲れていますか?)に対して
Aren't you tired?(あなたは疲れていないのですか?)
という疑問文の形があることが触れられていないのです。せいぜい"Why not?"とか"Why don't you…?"というのが少し出てくるくらいで(これも詳細は説明されません)。
次に疑問文の受け答えについて考えてみましょう。
Are you tired? に対する答えとしては
Yes, I am.とNo, I'm not
なのは中1で学びますよね。否定疑問文でも
Aren't you tired?に対する答えは
Yes, I am.とNo, I'm notです。
さて、疲れている時はyes, noどちらで答えるのでしょうか?日本語の参考書にはここに巨大なトラップがあるんです。お手元の参考書でも教科書でも開いてみると一目瞭然ですが、
Aren't you tired? (あなたは疲れていないのですか?)に対する答えには
Yes, I am. (いいえ、疲れています)
No, I'm not.(はい、疲れていません)
と書かれているはずです。「日本語と感覚が逆なので」みたいなことが書かれています。
ちょっと待て。
なぜ「yes→いいえ」で「No→はい」という日本語が当てられているのでしょうか?これ、yesは「はい」、noは「いいえ」って書けば何の問題もないはずなのです。参考書を書いてる人が自分の感覚を優先させて言葉の意味をひっくり返しているから混乱しているだけです。
もう一度普通の疑問文で考えてみましょう。
Are you tired? に対する受け答えはYes, I amもしくはNo I'm notですが、これにさらに一文くわえて答えるならば
Yes, I am. I'm tired (はい。私は疲れています)
No I'm not. I'm not tired (いいえ。私は疲れていません)
になるはずです。この受け答えが否定疑問文になったときに変化するのか?という話です。
ではこれが否定疑問文になった時に変化するのか?ということですがそんなことはありえないはずです。
だから
Aren't you tired? に対する受け答えは
Yes, I am. I'm tired. であり
No I'm not. I'm not tired.
であるはずで、そこに混乱は一切発生していないのです。さらに面倒なことに学校英語教育でこの否定疑問文が出てくるのは付加疑問文で、なのです。Aren't you tired?より先に
Aren't you tired, are you?
が出てくるわけです(今の指導要領では教科書文中に否定疑問文が出てくるようですが、これについて解説がされている印象はありません)。混乱するわけです。
こうしたものが放置されて学び手が無駄に混乱するようなことが現行の(昔からそのまんまの)英文法参考書は散見されます。いつになったらこういうのが減っていくのでしょうかねぇ。