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羞恥心や強迫観念は学びの邪魔でしかないので学びの場では捨てよ。又は「難しさ」を誤解しないこと。

ジャズのインプロビゼーションや外国語会話学習については、日本人の多くが非常に大きな壁を持っています。それは、

「間違えてはいけない」

という強迫観念と

「間違えたら恥ずかしい」

という羞恥心

です。これはおそらくはどちらも「自己表現」の習得の場で出現します。なぜそう断言できるかというと、例えばスポーツではこれがほとんど出ないからなのです。野球だろうがサッカーだろうがバスケットボールだろうが、どんなに自分のプレイがヘボでも何にも臆することがないのです。水泳だってそうです。バタフライの初心者が外から見ていてどんなに無様な姿であろうとも本人はお構いなしで必死に練習しています。ビデオゲームの類だってそうです。時々タレントさんがゲームをやってる動画とかもあったりしますが、視聴している人はヘタクソであることで笑ったりしますが、やってる本人は真面目そのものです。こういうのを表す古い日本語に「岡目八目」というのがありますよね。

でもなぜか音楽や言語ではそうならないのです。そしてそうした理由をつけて躊躇するということは、「恥ずかしさや強迫観念に邪魔されて練習できない」ということになってしまうので、どんなに外国語学校などに通っても上達しない、ということになってしまいます。最近はアプリも増えましたが、実戦で対面でやるとあがっちゃう人が多いのではないかと推測します。個人的には言語や音楽について多くの日本人学習者がここでものすごく大きな損をしていると感じます。

 

それともう一つ大きな誤解があるのが「難しい」という言葉の捉え方です。例えば非対称の破れでノーベル物理学賞を取った益川論文があります。あれ、論文そのものは片面印刷で6枚で完結していますが、素粒子物理学など全く知らないから、その式が何を意味しているのかなどということは普通の人には全くわからない、というか、そもそもこれは数式なのか?というレベルです。論文の形式は非常に美しいことだけはわかりますが、全くわかりません。これは「難しい」のです。

他方、音楽を含むいわゆる「義務教育で学ぶレベルの内容」は難しくありません。その大半は非常にシンプルもしくはわかりやすいことから始まって、徐々に段階を追って複雑になっていきます。この

「徐々に段階を追って複雑になること」

とは「難しい」を意味しません。ゲームのステージが上がると新しいアイテムやキャラやシステムが出てきてそれに慣れないとステージクリアができないのと同じです。つまり

「慣れていないから上手くいかない」のであって、これは益川論文的「難しさ」とは次元が違います。もちろん素粒子物理学を学んでいけば、徐々に理解できるようになるはずで、その意味では「段階を追って複雑になることの究極なレベル」です。だからいきなり見ても「分からない」のです。囲碁の初心者がいきなり19路盤で打てないのと同じようなものです。

 

では音楽や言語ではどうでしょう?

音楽なんて普通には1オクターブ12音で西洋音楽ではアイオニアンスケールという7音スケールを基準にルールが作られているだけで、欧米言語は26字程度のアルファベットを組み立てているだけです。決して複雑なものではないのに、「エニーキーで演奏できない」とか「単語を覚えるのが大変」というようなことが学び手の大きな足枷になっているようにしか思えないのです。これは「難しい」のではなく、「慣れないから難しく見える」の典型であると思います。ここに羞恥心が加わることで、多くの人が挫折しているようにしか見えないのです。義務教育で学ぶことをきちんと再確認することをしないでいきなり難しいことを見ようとするから余計に難しく見える側面もあるように思います。

ここを見落としている人が日本人には多いように思えますし、ここは乗り越えて欲しいと思うところです。

音楽スタイルの保存とジャズ。もしくはウィントン.マルサリスとスコッティ.バーンハート。

個人的には音楽とは音のデザインであると考えています。クラシックにバロックや印象派など美術とリンクしたカテゴライズがされるのがその証左です。時代によって様々な様式が存在します。ジャズもまた同じです。個人的にはジャズはバウハウスからミッドセンチュリーモダンデザインと共振していると考えています。クラシック音楽が時を超えて再演されることでその姿を留めているように、ジャズもまたそうあるべきなのではないかと考えています。ジャズの場合でもビッグバンドなど大規模編成の音楽では、流行することで楽譜が出版されて様々な地域や場所でその音楽が演奏されることがあります。しかし、大半の譜面は使い捨てであり、録音で使われた後には何も残りません。従って、時代やスタイルを代表するような音楽であってもそれを再生することはできません。オリジナルな古い録音を聴くことでしかその音楽を楽しむことはできません。そして生演奏で再生されない音楽は時代に埋没して消えてしまうでしょう。音楽は音のデザインなのですから、それを再生できる仕組みを作ることもまた大切なような気がしています。名画が様々な形で複製されて個人の家などに飾られるように、また、傑作と言われる家具やインテリアが設計図をもとに複製されて現代に売られているように、クラシック音楽がコンサートで再演されることでその価値を維持し続けるようなことがジャズでも行われるべきではないかと思えるのです。オリジナルの演奏にはオリジナルならではの時代性が反映されており、それをリアレンジすることは、クラシックで他の作曲家が誰かの曲の「変奏曲」を演奏するのと同じようなものです。その作品の面白さはありますが、同時にオリジナルもまた良いものとみなされるはずです。だからどちらの作品も演奏されるわけです。オリジナルなスタイルは大切にされなくてはなりません。

ではジャズではどうかというと、トラッドジャズについてはニューオルリンズにプリザベーションホールがあり、そこに行くと100年くらい前のスタイルでの演奏を聴くことができます。モダンジャズに目を向けると、ウィントン.マルサリスが長年音楽監督を務めるLincoln Center Jazz Orchrstraが様々な活動をしています。私はアメリカに居住したことがないので、LCJOのプログラムを詳細には知らないのですが、古い素材をそのまま演奏するというよりはむしろ、古い素材を用いつつも現代の視点で再編曲されたものが演奏されているイメージがあります。また、アメリカ音楽でありながら、どちらかというと黒人系の音楽家のものが取り上げられているような気もします。いずれにしてもLCJOは伝統に重きを置きながらも進歩を求めている気配があります。

他方、スコッティ.バーンハートはカウント。ベイシー.オーケストラのディレクターとしてもはや30年以上活動しています。彼もウィントンが学んだNOCCAの後輩であり、親友でもあります。スコッティにはスコッティなりに自分のやりたい音楽があるはずなのですが、それを脇に置いてベイシーのスタイルを守ることに注力しています。この「スタイルを守る」という姿勢はもっと認められても良いのではないかな?という気はしないでもありませんし、この20年くらいのejazzline.comの譜面の発掘&再構築の仕事ぶりや、ミュージシャン自身による過去のジャズアルバムの再構築なども増えてきています。音楽には常に新しさが求められているような気がしますが、音楽的に新しいことというのは20世紀中期くらいのコンクレートや電子音楽や偶然性の音楽などでほぼほぼ出尽くした感があります。本当に新しさを求めるのであればその音楽がジャズである必然性は全くないのです。

芸事には古典と新作があります。落語や歌舞伎でも古くからある古典と現代の創作が共存しています。クラシックも同じです。ならばジャズもまた「古いものをきちんとやる」ことがきちんと評価されるべきなのではないかと思えてなりません。ビッグバンドの世界ではヨーロッパではそうしたことはかなり前から行われていますが、日本だと「焼き直し」な印象が強いように思われます。その辺りが変わっていくと良いのではないかと漠然と考えています。

日本人のジャズ、アメリカ人のジャズ、ヨーロッパのジャズ。

今のご時世、白人だの黒人だのというのはレイシズム的なので控えるべきではないかという気もしないではないですが、20世紀後半くらいまではジャズでは演奏する人種の違いがハッキリ聴き分けることができました。今でもその痕跡は残っています。明文化、定量化は困難ですが、差があるのです(そこに優劣をつけられないので差別にはならない)。そして多くの人が「黒人のようなジャズをやりたい」という意識を持っています。この意識を持つのは非黒人です。その意味において、アメリカの白人も日本人も異人種ルーツの音楽を演奏するという点では同列です。ならば、白人のジャズのアプローチは日本人にも親和性が高いのではないのか?と思えるのです。個人的な経験からすると、ベイシーが演奏した譜面をベイシー的に演奏するよりは、ウディ.ハーマンの演奏した譜面を演奏する方がオリジナルっぽく演奏するのは容易であるように感じられます。日本人というアメリカ人でない人がアメリカ黒人由来のジャズを掘り下げるには、アメリカ黒人ではないアメリカ白人のアプローチというか「白人のジャズ的なるもの」をディグすることもまた有益である、と。音楽は言語のようなもので、スタイルなどの違いは方言の違いに似ているものです。日本人の古いジャズが「和ジャズ」と言われるのはその音楽のアーティキュレーションがアメリカと異なるからでしょう。でもアメリカのオリジナルアートファームを演奏するならば、「アメリカ音楽のアーティキュレーション」で演奏できなければいけないと思います。それを体得するのに、黒人に憧れてジャズをやろうとした白人のアプローチは我々日本人にもヒントになるはずなのです。


ジャズはブラックミュージックが持つヒプノティックなビートの感覚にヨーロピアンな音楽理論が加わることで洗練されてきました。お互いが手を取り合って発展してきたのだと思えます。だから、特定の地域や時代に凝り固まることなく、幅広く先入観を持たずに音楽に接することが大事なように思えます。もっと大きく俯瞰すると、アメリカン.コンテンポラリーミュージックとして見るならばもはやジャズとクラシックという垣根も邪魔なのです。エリントンにはクラシックの印象派の影が見えるし、更に時代が降りるとバルトークやシェーンベルグなんかも入り込んで来るように思えるからです(個人的には20世紀のアメリカ音楽には東欧やスラブ系の音楽家の影響が重いと感じています)。最後に突き当たる壁はビートとアーティキュレーションの問題になると思われるのです。