マイルス.デイヴィスの発言を検証する(1)
今年はマイルスの(コルトレーンもだけど)生誕100年なので関連で色々なことがあると思います。彼は間違いなくジャズ史における巨人ですが、その発言が都市伝説化してしまっているものが多いように感じられるので、個人的な解釈をしてみようと思います。まず最初に取り上げるのはこれです。
「オレは昔と同じことはしない。」
この言葉から「ジャズは同じことをしてはいけない」という誤解が拡散しているように思えます。彼が「同じことをしない」と言ったのは「トータルなバンドのサウンド」のことでしかないと思われるのです。60年代のあのクインテットのライブアルバム群でのレパートリーの少なさ(スタジオ録音は除く)、主にブルースでのドラムソロへの受け渡しのキメなど、案外同じパターンが見受けられるのですが。晩年のドキュメンタリーでは「クリシェを覚えろ。決まりきったやり方を覚えておけば、メロディは自然に湧いてくる」とも発言しています。同時に「オリジナルなスタイルを作るには時間がかかる」とも発言しています。一見矛盾していますが、スタイルを築き上げるにはクリシェ的なものは必要だけど、それをバンドの中でマンネリにしないこと、と読めば納得できる話です。ジャズ好きな方は贔屓のミュージシャンがお馴染みのフレーズを出すと盛り上がりますよね。自分のトレードマークなフレーズはあって当たり前なのです。この辺りに様々な曲解があるように思えてなりません。
山本太郎氏の議員辞職に見る政治家としての矜持
山本太郎氏が病気を理由に国会議員を辞職したのは、彼の政治家としての矜持の高さを示すものと感じました。国会議員は病欠しても歳費は全額支給されるのですが、彼はそれを良しとしなかったからです。すなわち「病気で政治家として満足な仕事ができないのに、税金減資である議員歳費を受け取ることはできない」
という意思表明なのではないかと感じられるのです。歳費をもらってれば治療費に回せるかもしれませんが、それを拒否したわけです。私の知る限り過去にこうした行動に出た国会議員を知りません。
日本の政党政治はかなり歪で、大企業支持基盤、労働組合支持基盤、新興宗教、こんな政党ばっかりで、「普通の市民の受け皿となる政党」が存在しないんです。その意味合いにおいてはれいわはそうした受け皿になりうる可能性のある政党と見てはいるのですが、政策を全面的に支援するのは難しいし、SNSから見える支持者の言動などを見るになかなか支持する気にはなれず遠巻きに見ているのですが、今回の判断で、山本太郎氏の政治家としての矜持の高さについては支持できると感じました。
山上裁判の地裁判決から見える危険性。
昨日地裁の判決が出ました。この裁判の地裁判決は検察の主張を全面的に認めたものでした。私は驚きと共に大きな危険性を感じました。原告の主張が一切酌量されなかったからです。この事件の背景には被告の家庭環境が大きく影を落としています。被告が宗教二世でなければ起こり得なかった事件です。ところが司法がこれを一切無視しました。この量刑判断は危険です。裁判は判例を重視するので、もしこれで被告が控訴せずに判決が確定してしまうと、以後宗教二世が引き起こす事件についてもこの酌量がされなくなるリスクを孕んでいます。公人であろうが民間人であろうが同じ人なのですが、公人を殺害したことによる影響力の大きさから原告の主張を酌量しないのであれば、それは法の下の平等を無視した判断とも言えるように思えるのです。控訴されるべき事案と感じます。