マイルス.デイヴィスの発言を検証する(2)
マイルス.デイヴィス。説明する必要のないジャズの巨人です。彼の残した発言には都市伝説みたいになってるものが結構あるのですが、それは違うんじゃないか?と感じられるものが結構あります。今年生誕100年ということですので、そういう都市伝説から解放してあげたいなぁ、と思うのです。
2回目は「すべて学び、そして忘れろ」という言葉です。なんだか禅問答みたいですよね。坂本龍一も芸大出る時に同じようなことを言われた、みたいな話があったことも記憶しています。
これ、言語学習と同じようなものではないかと思うのです。我々日本人が日本語を話す時に文法のことを一切考えないのと同じです。我々は日本語の文法の知識が潜在意識化にあるから別に考える必要はないわけです。音楽と言語には共通項が多いのですが、例えて言えば、外国語会話を習得するプロセスと同じなわけです。違う国の言葉だから単語も文法も違うわけで、それを学び、書くこと読むこと喋ることを実践することによって最終的に自国語と同じように文法のことを考えずに話せるようになるわけですが(私の英会話能力はまだ道半ばではあります)、ジャズも同じです。基本的な西洋音楽理論の基礎を知り、ジャズの語法を学んでいちいちコード進行なんかを睨まなくてもさらっと演奏できることがそのゴールなのでしょう。理論なんか考える必要がなくなってそれが潜在意識の中に入り込んでしまえば良いわけです。もう10年くらい前ですが、ニューヨークのシティカレッジで教授をしていた(定年退官されましたが)作曲家でトロンボニストのスコット.リーヴスが、ピアニストのケニー.ワーナーから聞いた話として「潜在意識に入り込んでしまえば理論なんて考える必要がなくなる」ということを語ってくれました。そういうことなんだと思います。
ちなみに私は音楽は独学なのですが、幼少の頃から音楽をたくさん聴いて、自分が聴いた音楽(クラシックでしたが)をピアノで弾いてみる(メロディとコード)というのを遊びでやってたせいかどうか、スタンダードなどであれば別にコード譜をみる必要がないんです。演奏が始まって曲のキーがわかって曲の構造が分かったら譜面は不要なのです。ベースラインの流れを聴いていれば大丈夫な感じです。私の場合は音楽をたくさん聴くことで早くから「門前の小僧ならわぬ経を読み」状態であったことが幸いしたということだと理解しています。
「全てを学び、そして忘れろ」
ってのはそういうことだと思います。禅問答でもなんでもありません。
ウィントン.マルサリスのLCJO芸術監督契約満了について思うこと
今朝起きたらマーカス(プリンタップ)がFBにあと2年と書いてて、さっきNYTimesの記事も出てきましたが、ウィントンがLCJOのアーティスティックディレクターの契約更新をしないことが報道されました。長年お疲れ様でした、という一言あるのみです。
ジャズというのは厄介な音楽で、なぜか常に「新しいこと」が要求されていて、音楽は時代と共にスタイルの変遷があるのだけれど、少し古いスタイルでやると「古い」とか「焼き直し」みたいなネガティブな印象が付きやすいんです。そうしたスタイルを確立した人は非常にリスペクトされるのですが。
ともあれ、そうした中で20年以上に渡ってトラディションを尊重しながらそこにコンテンポラリーなものを織り込みながら音楽を展開することを続けたウィントンにはただただ頭が下がります。ビッグバンド的なことで言えば、スコッティ.バーンハーがベイシーのディレクターを降りたらどうなるか、とか、創設者であるサドやメルと共演歴を持つ人がいなくなったVJOの今後とか、気になることはたくさんあります。考えてみればクラシック音楽も20世紀半ばくらいまでに音でできることがあらかた探求されて、新作が世界の耳目を惹くようなことがなくなって長いです。ジャズもまたそういう道を辿るのかもしれません。
クラシックには時代によって、バロック、古典、印象派など、アートのスタイルとリンクしたカテゴライズがなされます。当時は録音はできなかったものの楽譜が残るので、その再演によって時代に淘汰されずに残ったものが名曲と言われます。ジャズは強いて言えばバウハウスからミッドセンチュリーモダンデザインとリンクした音楽ではないかというのが私見なのですが、ジャズは録音は残るけど楽譜が残らないのです。もちろん流行したビッグバンドの譜面は出版されたりしますが、中編成やスモールコンボのアレンジは使い捨てです。つまり、古い時代の傑作であっても、そこに残された「書かれた部分」はオリジナルレコーディングでしか聴くことができないので、何十年も前の録音を聴くことでしかその響きを楽しむことができないのです。ジャズにおけるインプロヴァイズというスタイルはさまざまなスタイルの中に取り入れることが可能で、ジャズ的なものはほぼ全ての音楽スタイルの中で生きるとは思うのですが、再生できない音楽は時代に埋没して失われるのではないかという危惧を私は持っています。
ウィントン後のアメリカが、自国のオリジナルアートカルチャーであるジャズをどのように扱っていくのか、興味深く眺めたいと思います。私は自分がやってることを細々と続けるしかないんだろうなぁ、と考えています。
「赤」の研究
最近のSNSなどのネット言論上では、護憲を言うと「左翼」や「アカ」というワードが返ってくることが多くなりました。国の最高法規を遵守することを支持すると「左翼」になるロジックは全くもって意味不明なのですが、このワードを言われると、言われた側が怯んでしまうこともまたよくあることなのです。これは一体なぜだろうということについて考えてみました。
「アカ」という用語ができたのは社会主義が台頭した明治時代後期と思われます。当時の日本は大日本帝国憲法の下にあり、天皇が神格化され国民は臣民、すなわち天皇の下僕でした。国民の権利が大幅に制限されていたのは、選挙権のあり方などにも明確に表れています。1910年代頃の日本で社会主義的思想に共鳴した人が主張したのがどういうことであったのかは当時のプロレタリア文学あたりに残っているのでしょうが、それがどれくらいマルクス主義と連動していたかは詳しくわかりませんが、つまりは個人の権利を認めよ、程度のことではなかったのかと推測されるのです。その流れとして大正デモクラシーがあった、と。そして金融恐慌以後は軍国主義の台頭の時代となり、権力にブレーキをかけるものがなくなり…という流れであったと思われるのです。戦前の「アカ」という言葉の使われ方とは「国家権力に唾する者」という意味であったように見えます。
戦後、現行憲法が施行され、国民主権が認められました。しかし今度は「アカ」という言葉が「政府に逆らうもの」の記号として使われるようになったように見えます。それは例えば故・安倍元首相の「アカ」というヤジの飛ばし方に象徴されていますし、空港や道路やダムなどの国家インフラ建設に対する政府側の姿勢、すなわち、計画が決まったら地域のコンセンサスなど度外視で、反対派(それを支持しようとする野党も含めて)が「アカ」呼ばわりされるのです。利害関係者である個人の権利や主張は度外視されます。これが戦後80年ずっと残っているように見えるのです。「国家権力に反対するのはアカである」と。すなわち、行政側が憲法で保障されている「国民主権」を考慮できていないのではないかと。そして権力に盲従しているだけで十分に自分で思考をしていない言論上の保守の人々が脊髄反射的にそうしたワードを匿名で使うのであろう、ということです。
つまり「アカ」というワードに残っているいわゆる言霊的な印象に振り回されることは愚かしいのでそこから脱却せねばならない、ということなのではないだろうか、と。