奥平城は旧吉井町の中心地あたりに北の方から流れ込んでくる申田川の2km弱上流右岸にある。川沿いに突き出した丘の先端で、県道からもよく見える。
奥平氏がこの地にやってきたのは鎌倉時代、奥平氏行が甘楽郡司となって住み着いたのが始まりで、城もこの頃に築かれたと言われれているらしい。南北朝時代には南朝方で活躍し、その後応永年間に三河の作手に移り川尻城を居城としたのだとか。
近くには『奥平氏発祥の地』の石碑の立つ場所もあるが、今回はここだけ。
先に馬場城を押さえてから訪問したが近くに車を停める場所がなく、かなり離れたところの広くて車通りのほとんど無い場所から歩いて訪問した。
今回は県道171号の奥の方から徒歩でやって来たので、その脇から見える城山のようすを。
この県道からの城への入口は、ほぼ真東。
そのあたりから眺めると、末端が2段になっているようすが見て取れる。
この城は東の申田川、西の桜沢との間の舌状台地を利用して築かれていて、城山の裾に刻まれた堀のようなのが申田川。
道端に説明板。
ここから細い車道へ入って、城の真南へ。
立派な標柱が立っているが、錆びついているし背後の幟旗もボロボロ…😢
この反対側の先で、申田川に桜沢が合流している。
その内側のここも、曲輪だったのかな…?
さて、まだまだ緑に彩られたトラクター道を登ってゆくと、右手が切岸のようになってくる。
上は畑。
そして、郭内へ向けてカーブして入ってゆく。
虎口のように掘り込まれているが、南北朝時代ぐらいまでの城だとこんなハッキリと虎口を刻む山城は無かったみたいで、これは畑を拓くときに刻まれたやつか。
この道から右手、丘の末端の方が曲輪らしい。
少し末端の方に傾いた感じ。
反対側はというと…
ササとクズに覆われた、猛烈なヤブだった😂
一見手も足も出ないような雰囲気だったが、道の続きが丘の反対側の方へ入ってゆくように続いていたので、そちらへ入って覗き込んでみる。
一段高くなっているのかと思ったら、竹ヤブが濃密なだけで高さは先ほどの曲輪と同じらしい。
城の防御に必須な、高低差と傾斜…
道からは城の東側の斜面がすぐ隣り。
それなりの急斜面になっているが、それ以上に縁がハッキリしているな…
もともと丸かった角に土を盛ったり切ったりしたのか?🤔
経路は丘の北端まで続いていたが、そちらも似たような感じ…
平坦な竹ヤブが続き、縁から急斜面になって川沿いへ落ちているのだろう。
ここまで、土塁や空堀などは全く無いが、曲輪は広くて平坦、段丘崖もしっかりしていて、城を築くには良い場所だったようだ。
さてこの城は西が丘続きになっているが、そこを区切るものがあるか…?
そう思って、経路の消えた竹ヤブの中を数十メートル突っ込んで丘が細くくびれているあたりまで行ってみたが、土塁とか堀とかの痕跡は無かった…
もう少し先まで行くと、堀とか土塁とか出てくるか?
とも思ったが、霧雨が降る中で、先に何もないかもしれない、この壮絶な荒れようの竹ヤブの中を突進するのは、メンタル激しく消耗する…
そろそろ限界が来ていたので、ここまでで退散した💨💨まぁ、この先にも何もないだろう…
南北朝ぐらいまでの城となれば舌状台地そのままでも不思議はない、のか?
★奥平城
群馬県高崎市吉井町下奥平
周辺に車を停める場所無し。路駐しようにも狭い集落内の道が多く難しい。
平山城?
(2025年10月31日 記)

























































































