成功体質のための対話力向上公式ブログ


キャリア支援団体を立ち上げました。「自分軸」「対話力(関わり力)」「自己表現力」などの総合力を向上し、小中学生から、退職後の第2の人生を歩んでいる方まで「自己表現としてのキャリア」ということを探究する場をつくっていきたいと思います。
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悔し涙というとかっこよくきこえますが・・・

先日とある人と話しをしていて、共通の知り合いが「悔し涙」を流していたという話をきいた。

自分からみるとその知り合いが「悔し涙」を流すには、努力もそんなにしていないし、他人の助言も聞き入れず、どちらかというと、あまりやるべきことをやっていないので、うまくいかなかったとしかおもえない。一方、1年間すごく努力して、サッカーとか野球とかで負けてすごく悔しくて大泣きする場面を見たこともある。

思えば、悔しさと努力にはあんまり相関関係がなく、むしろ「努力したと思っている」という感覚と悔しさのほうが相関関係が強い。(ま、当たり前か)

成果が出る人の特徴は目標設定したら、具体的な行動をとる。そしてある結果が出たら自分の行動を修正するか、または、行動が間違っていないかどうかをチェックする。助言がもらえる人がいれば相談したりする。

しかし、成果が出ない人の特徴は、言い訳することにエネルギーを使っている。「こうした方がいいよ」という助言を無視することもあるが、とにかく「自分は間違っていない」というスタンスをとり続けて、自分の行動を修正しない。だから練習時間が増えないので、「自分が出来る程度」をキープして(高いレベルならいいが往々にしてそういう人は「マイベスト」というと聞こえはいいが、マイワーストな状態に気づけていない)それからレベルを上げられない。低いレベルでは一見「できている」ように見えるが、それ以上自分自身のレベルを上げない。そういう人は悔し涙を流してすっきりするが、それで行動を修正しない。あくまでもそういう傾向なので例外はたくさんあるが、「素直さ」というか、他人からの助言を聞ける人なのか、自分のいまの状態をはっきり把握できているのかというのは大事だが案外「自分の現状」というのをしっかり見ることができる人は少ないなーと感じる。ま、ある意味、それが出来ないからうまくいっていないということに気づけていれば何かしら手を打っているんだと思いますが。

 

めんどくさい思考停止の人。

先日、とある人からお誘いのメールをもらった。

なんというか、その人からのお誘いとか、某SNSでの書き込みをみると

いつも、同じ「文法」で話をしている。

 

独特の言語というか、「用語」を駆使した自己満足。

っていうか、先日自分が誘った内容(「めんどくさい」とかで断られましたが)

と同じじゃんって思う。ちょっといらっとする。

何がイラッとするか?っていうと、捨て台詞的に断った内容と同じ事をしているのに

その時は検討すらしなかったのに、「メンター」がいったら、謎の言葉を駆使している。

ただ、「同じような内容」とは思っているけど、その人なりの「言葉遊び」的な何かはあるのだと

思うので、なんか納得感はあるとおもう。

 

思考停止というか、はっきりいって、そういう「カルト」的なのに、はまっている人たまにいるなーと思う。

最近、スピ系とか何も考えないで「おれは(私は)特別なことやっている」病にはまっている人多いと思う。

別にタロットとか占星術とか一つのツールとして使えばいいと思うのですがいつの間にか「自己撞着」に

陥る危険と、「他人に使う場合の覚悟」もなく、感覚の拡大ではなくて、自己投影でしかない「思い込み」であることすら

検証できていない全能感に気づいていないということは危険だと本当に思う。自分だけでやっている分にはまあ、

趣味で鉄っちゃんとして週末をどっかに旅したり写真撮ったりするのに使えるお金を投入するとかも、「本人の問題」でしか

ないのですが、そういう人が他人に影響をしたいとなると時には害だなーとおもう。信じ込んでるだけ(弱気の人を

説得出来たりするので)タチが悪い。

 

カルトの人は(別に殺人するとかじゃなくて、要は「誰かの説」をそのまま鵜呑みにしているって意味で)

話がしづらい。自分なりにその「意味」も検証もしてないので、つまらない。(だめだめじゃんとか指摘すると逆ギレするしw)

 

まあ、自分はどうなんだ?ということを他山の石とすることにしようとはおもうけど、言葉による言葉でがんじがらめに

なっているただの空想家になっていくというか一言で言うと「自由さを失っていく」人をみるとなんか悲しくなりますね。

ほんとに。

 

 

 

スターウォーズを見た人の感想でおもったこと。

スターウォーズを見た人の感想で思ったのですが、ますますチャンバラ映画になってきた、的な書き方をしていた。

見た人がどういう感想をおもおうと見た人の自由なんですが、「チャンバラ」として捉えるとなんかスターウォーズみない方がいいんじゃない?ぐらいに自分は思う。(ルーカスが監督の方がよかったとかいう認識も間違いだし・・・

EP4とEP1-3はルーカス監督だけど、EP5,6はそもそもルーカスは監督じゃない。。。もしかすると制作年代をEP5,6の方がEP1,2,3より古いということをしらないかもしれませんが・・・EP5,6に関してはルーカスは脚本&プロデューサー です)

まあ、とはいえ、チャンバラ映画というよりも、フォースってどちらかというと「超能力」と捉えた方がいいと思うのですよね。

そのフォースで戦うときに、武器をライトセーバー(もともと、ライトサーベルといってましたが、いつのまにか、英語発音に近づけた)でやっているだけで、銃とか、なんちゃら砲には叶わないわけです。

むしろ今回この「超能力」みたいな、フォースの存在を特別な人が特別なだけにあるという血筋を否定しつつ(とはいえ、いままでなかったパターンのフォースが現れだした)、スカイウォーカー家の話から離れる可能性を示唆しているところが物語的にはおもしろいと思うのですよね。ストーリー的には今回結構おもしろいとおもいますよ。

まあ、この手の映画はストーリーとあと設定と両方世界観にはいれなかったらおもしろくないともおもいますし、世界観そのものにはまらない人にはチャンバラ映画っぽくうつるんでしょうね。

 

 

 

 

問題と向き合うと「創造性」がでてくることがある

何にでもそうでだとは断言できないけど、何かの資料をつくるとき、何かを読み解くとき、誰かに何かを伝えようとする時。。。いろいろな場面で「難しさ」を感じているときに、そのままその難しさと一緒にいると、時に、ある種の今までの思考プロセスとは全く関係ないような全体性が見える事もあると思うのですよね。
創造性についてはいろいろな人が創造するプロセスについて語っているとは思うものの、逆の発想でいくと「創造的」な何かがうまれていなければ、もしかして、難しさと向き合う時間が短いのかもしれない。、

まじめすぎる、ふまじめすぎる。

自分は多分自分が自分で思っているよりも「まじめ」で、それがいいように作用することもあるし、でも、それが、時には、「やめる」という選択肢をできなくてわるいように作用することもあると思っていたりします。

先日仕事はじめ(切れ目がないのであんまりいしきしてませんが)で、めっちゃ集中してたところ、結構、気を抜いた方がよかったなーと反省していますが、なんというか「場」に癒やされていることに素直に早く気がつけばよかったというか・・・・「役割」を演じる時は演じればいいし、でも、人の「前向きな心」に、そのまま自分をゆだねていればよかったとおもう。いいかえれば、どこかで「自分」という個人よりも、空間に自分をゆだねていればいいのに、どっかで、「個」として存在させようとしてめんどくさいことをしていると気づく。「まじめさ」は一つの姿勢としてとても大事だけど、時々手放した方がいいと思う。
一方、「不真面目」というか、何の根拠もなく、「どうにかなるさ」的な人をみるとなんかいらっとすることがある。笑 全部「どうにかなるさ」というスタイルを貫いているのならともかく、自分が手を抜いていることで「どうにかなるさ」っておもっているてきとーさにいらったくることがある。w まあ、ある意味で自分の「限界」ということがどれぐらいなのかってことに気づいていないだけなんだろうけど、「まじめ」な自分は結構追い込んだりする.本当に努力した人しかわからない地平に達してみてどういう感想を抱くか、ということを伝えられるかが今年(も)のテーマかもしれないとふとおもいつつつ。

 

 

初夢っていうんですかね。

休みモードになってから、体調を崩したためか、わりと長めに睡眠時間をとっていて、30,31,1日、2日と夢を見たのですが、あんまり覚えてなくて(1回分ぐらいはメモった)ただ、なんというか、普段よりも、よりリアルな感じ。確実だとはいえないけど、なんか「変われ」っていうメッセージだと勝手に受け取ってます。

まあ、あんまり小難しいこと考えなくて、心の底から話している言葉をより繊細に受け取っていこうと思う今日この頃。

 

 

自分の中で変化したこと、変化しないこと

年取ったからかもしれませんが、なんとなくいままで、すごく重く捉えていたことが「どうでもいいこと」に分類されてきていることが多くなってきていると思う。

 

ある意味、開き直りなのかもしれませんが、「いや」ならいやだといった方がうまくいく気がする。もし「いや」といってうまくいかなければそもそもそこには自分の道はない、というか、あんまり分野として無理してそこにしがみつかなくても良いとも思う。

 

・・・とか書いてますが、別に、無理に、相手を説得する必要もないとも思う。ただうすくなっていくというか、自然消滅していく感じはある。必要なところでいっしょうけんめいやればいいし、必要とされていない所では、別にそんなに、能力ださなくてもいいかなとも思う。

 

ある意味人生は修行というか修練だとも言えますが、しかし、ある程度の年齢を超えると、やはりどうしても、向き不向きが出てくる。(が、自分の場合、年取ってからの方が好奇心が高まっているのでほっとくとなんでもやりたくなるのがなんか不思議な感じもしますが・・・)その向き不向きの見極めも早めにしてしまってもいいかもぐらいに考えてはいます。

 

「変化したこと」というと、なんかたいそうな感じですが、ある意味、自分では「解決済み」というか、あまりにも、普通すぎて忘れてしまいましたが、しかし、誰かから見るととてもありがたい感じに見えることもあるらしいということもある。なんかそこら辺は不思議な気もする。とはいえ、他人の「自由さ」と「成長」を統合するというのは最近の自分のテーマだと思う。

「自由」とか「解放する」ということをイメージしているとそういうことにつながることがよく出てきている気もする。

 

年末だからってわけではないですが。。。。。

最近、自分の中で、必要な事は起きてくるものだ、という感覚がある。

いままで、「知識」として知っていたこのことだが、なんというか、ある時ふっとしたきっかけで出会った本が

もとでそのことが次々自分に知識が入ってきたり、それを学ぶための環境(時間やお金)が整ったりする。

逆もあるかもしれません。自分が必要な人(場所・環境)にあらわれる、というのもあるかもしれません。

 

ただ「起きてきたこと」なのかどうかは、自分に問いかけてみないとわからないこともある。

自分が常時ニュートラルな状態で判断できているかどうかはわからないけど、ただ、自分の内側から起きてきたことの

場合物事はスムーズに進む気がする。

 

思えば、自分の中の全体性としてあるのは「自分ができること」というのを重視しているのかなーとおもう。

たとえば私がやっている気功でいうと、「ここにくると癒やされるよ」という受け身的なマッサージではなくて、

自分で自分を癒やされるような方法論だと思う。もちろん、教室来て他の人と楽しみながらやるのと、たった一人で

修練でやるのでは違いはあるし、教室の方が効果は高いが、原理的には自分だけでできる(練習&検証)というのは

大事な気がする。

 

来年はこの流れをさらに加速させたいとおもう。さしあたって次の3点が重要かとおもう

1 自分で練習(修練)できて、自分で上達できる方法論(師匠の言うことを鵜呑みにしたり、何かを「信じ」なくてもいい)

2 それなりに汎用性があること(本物と、とりあえずは実感できること)

3 続ける事で深めることができること。(本質がわかる)

*追記していえば、「思考と感覚のバランスが取れていること」、「楽しいこと」「効果が実感できること」も大事だと思う。

 

そういう方向性で追求していこうと思う。

 

 

しばらくぶりにメッセージが。。。。

先日、PCで作業をしていたら、とある人からメッセージがくる。

 

自分はあまり「贈り物」をするようなタイプでもないが、ある時に、タイミングが

とてもあって、とある人に贈り物をしたことがあるが、それが10年たってから、

良さがわかってきたというのだ。

 

素直にうれしい。

 

何年も前にしたことで本人も忘れているようなことで、ありがとうとって言われるのうれしいですよね。

 

 

その時間と変化。

最近おもうことがある。

 

時間がたってみてわかることもあるな、と。

 

あることをいわれて、たとえば、落ち込んでみたり、いらっとしたりしてみても、

1年後経ってみて、どうでもいいと思えることもある。

 

自分の中で消化するだけの時間がたつと変化している。


知識でも、その時「すごい」と思っても、数年経って冷静にその「すごい」知識を
考えてみても「ふつうのこと」と思える事もある。

逆に最初、たいしたことない、「こんなもんか」と思えたことでも、時間が経ってから、
じわじわと自分に浸透してきて決定的に自分に変化させてしまうようなこともある。

インパクトよりも、「時間」が経ってもそれが耐えられるかどうかというのもあると思う。

 

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