成功体質のための対話力向上公式ブログ -3ページ目

内側と外側という前に。

最近、自分の周りに自分の「外側」と「内側」という言葉で表現をしている人がいる。

 

人によっても違うのですが、だいたい、そういう、内-外モデルを使って語っている人は、

要は「皮膚」の内側と外側という喩えで使っている。

 

んでもって、簡単に言うと、「全部自分の中に答えがある」というような言い方をする。

スピ系、コーチング系、自己啓発系・・・・だいたい「内面」を重視している人は、「外側じゃなくて内側にある」

というような言い方をしている。

 

最近しかし、内か外かという区分というよりも、なんというか「物体的」なのか、物体的じゃないのか、という区分の方が

自分にとってはスッキリする気がする。

 

内か外かという人はまあ、言葉はともかく「内」が大事なのか、または「心」が大事だという。

たしかに、誰かの行動原理は、人によってよって違う。つまり意思決定のパターンが「心」に癖があるのだ、と言う。

ただ、「心」というとなんというか日常用語なんで、コーチングでは、だいたい、beとかbeing(あり方)なんて言葉を使う。

ビジネス系のとある人々だと「マインドセット」という言葉を使い、組織開発だと、「メンタルモデル」とかいう言葉を使う。

ちなみに、心理学だと「信念(体系)」などという言葉を使う人もいる。

まあ、人によって異なる「それが当たり前だと信じて疑わない」ような信念を仮定している。

これは後天的に獲得されたこと(育ててこれた両親の影響や家系の考え方、家訓とか)もあれば、どうみても、

その人固有の「そうだと信じていること」があるように思う。どちらが強く出るのか?などという単純なことは言えないが、

何回か無意識的にその信念(またはbeing、マインドセット、メンタルモデル)を生きてみてあるいは「試してみて」、適合する

事象ばかりが起きればそれが「正しい」と強化される。

しかし、時にはその信念は何らかの理由で崩壊することがある。その信念が崩壊する時は、「自分がなくなる」ぐらいに

強固になる場合もある。また、急激に変わる場合もあれば、徐々に変わる場合もあるように思う。

コーチングを習い始めたときは「急激に変わることが良い」という信念体系の中にいたので、自然と「すぐに変わる」ような

レバレッジを探していたが、しかし、本当になくなる場合は、「いつの間にかなくなっていた」みたいな方が深い気がする。

自覚して除去する、という方向性だけではなくて、直接それを変えようとしなくても「なくなっていた」みたいな時もある気がする。

(テクニック的には、もっと土台を揺るがしていって、その強固な信念が存続できないことが起きるということがある)

 

さて、その「外側じゃなくて、内側にある」と言った場合、多分文脈的に「外側に答えを求めるのではなくて、自分の内側に求めよ」っていう

文脈で使われているのだと思うのですが、なんというか「内側」だけだと「何がどうなっているのか」がわかりにくいのだと思います。

たとえば「まじめ」が自分の史上最大最強の戦略として生きている人は「まじめ」を体現するのが人生の全てなので、約束守るとかには

強烈な縛りが働き、約束を守らない人を見ると、だめ出しをしたりする。しかし、「まじめ」を生きているのはあくまでもその人にとって今まで

都合がよかったから、そういう生き方をしているだけであって、それが「本当に正しい」のかどうかはまた別です。また、まじめな人が、

不真面目(というか、いい加減。。時間にルーズとか)な人と対峙する場合トラブルが起きやすい。しかし、「不真面目さ」というとなんか

イメージ悪いけど、自分できっちりと決められないような世界で生きている人、農業をはじめ、自然を相手にしている人だと、自分が決めた

時間通りに事は運ばない。常に修正を迫られる。だとするとあまりきっちりした計画は機能不全になることもある。しかし、そういう「不真面目」な人が、サラリーマンになると、「いい加減なやつだ」と信頼されない傾向にあったりするので、その状況で変わる。

「自己理解」というか自分が変化する、変わる時は、自分とは異なる「外部」を見ながら、自分を見ると、「自分の特異性」が見やすくなると思う。(その時批判ばかりしていると、「違い」が見えにくくなる)そんな風に考えると「内」と「外」という区分も大事だが、要は「外側」と感じることと「自分の内側」と感じる(単なる皮膚の延長にとどまらない)ことの対比を見ると、違いがわかりやすいと思う。

 

私がやってる気功では、内と外を隔てるものは「ほぼない」という過程からイメージングしていくと自分が大きくなる感覚が得られる。最終的に、「私」というものは、ある「事象」でしかないと思える。あるポジティブな波長がその周りに波及してそれが自分に返ってきて自分自身ポジティブになる。

 

内と外という区分よりも、自分にとっては「物質的」なことなのか、それとも、物質に影響を与える物質ではない「もの」の区分の方が大事だと思われる。「物ではないもの」でもいい。それは「他人からは目に見えないけれど、当事者=自分に確実に影響を与えている何か」であり、しかし、昨今のいろいろなリサーチにより、どうも、そういう「物体ではない体系でなりたつ世界」というのがあるとしか言えないということはある。気功で扱っている「気」も物理的とは言いがたい(測定すれば、赤外線がどーのとかはあると思うのですが、どういう測定値がその本質かは難しい)のだが、確実に「感じる」ことはできる。何らかの物質的というか、身体的な基盤に基づいているらしいことはわかるが、しかし、通常の「物質」でもないような気もする。(まあ、仮説として「粒子」としての物質よりも、「波」としての物質みたいなものなのかなーというのはあるのですがよくわからない)そんな風に気功ですらリアルな「感じるもの」がある以上、人々の「心」みたいな何かで物質を基盤としない世界システムは想定してもいいとおもう。どうも、そういう「目に見えないけれど感じられること」の方が現実にリアルにそして強く影響を与えている、ぐらいはもう言ってもいい気がするのです。

 

 

 

 

 

シンプルな

 

 

 

 

 

情報を鵜呑みにしないために。

最近、とあるデバイスがすごくほしくてネットで情報をあさっていたら、

とあるサイトで(ってwiredってところですが)、「こんなの時代遅れデース」みたいな

記事を見つけた。

よくよく読んでみると「何が」または「なんで」時代遅れなのかについては書いてない。

ただ「時代遅れ」って書いてある。

主観としては別に「好き」とか「嫌い」とかかけばいいのに、もっともらしく、

わけのわからない概念を並べている。

誰かがいっているのをそのまま引用しているにちかい。

頭悪い人はそうやって「概念」をこねくり回すだけの、でも、その「概念」に使われている、という事が起きる。

どうでもいいが、そのwiredのあんぽんたん頭悪い評論家以外の批判的な記事は見たことない。

ただ、批判としてははっきり書いてないが、「○○な人なら、これは使える」とか、そういう書き方してある。ってことは

○○な人でなければ、全く買わない方がいい、とも読める。そういう記事の方が公正だし、「どのポイントに注目すれば

この製品はよい」とか「だめだ」とか判断がしやすい。もちろん、その意見もその記事を書いている人の主観であることに

注意深くあれば・・・だが。

そういう批判的に評価を読んでいると、そもそもAIスピーカー「すごいすごい」って言ってる宣伝マンの人の主張とかが

ばからしくなってくる。なんだかんだいって、これって、siriをPCに適用したようなもものだが、しゃべるよりも、入力した方が

早かったりする場合も多いので、あまり使えるような印象もない。

音楽をがんがんきいたりするユーザーには役に立つとは思うのですが、そんなに言うほど使える機能だとも思えない。

siriも、入力が速い人にとっては全くまどろっこしい機能であるにすぎない。そもそも、入力が早く出来なくスマホが「退化」した

のが問題なだけであって、「いま一般的に流行っている」デバイスと、それが「製品としていいかどうか」はまた別な訳であります。

iphoneユーザをあまり敵に回したくないけど、自分としては、iphoneはipadとか少しだけ使うappleとの連携でとても「使える」とは

思うのですが、しかし、多くの「割れた画面」のiphoneを見ていると、要は「割れやすい素材」を使っているという携帯としては

致命的な欠陥もあるとは思うのですが誰もそれは語らない。アンドロイドで割れているとか見たことないですよね。

音楽きくとか、いろんなことをしようとすると電池のもちがわるくなり、セカンドバッテリーを持ち歩く羽目になる。そしていつの間にか、

PC本体より高いiphoneとか売られている。。。。。そんなのいるか!って思う。このさいスマホは、電話機能とスケジューリングと、

メール、連絡用にLINEとfacebookのメッセンジャー機能が使えればいいのではないかと思う。あとはwebがみられればとりあえずいいのではないか?と思う。「高機能」とか不安定要素なんでいらないと自分は考えてしまう。

流行だから、家電とかデバイスには一つの「安くなる」要素だと思うのですが機能って本当に必要かは時々考えた方がいいと

思う.何でも出来るってことはメリットの裏返しにデメリットもあるわけですよね。

 

家電に限らないですが、提灯記事とかみるといらっとしてしまいますよね。その人の主張の根拠というか「なんでこういうこというのか?」

ってことに注目しないとまずいなって時々思います。

 

 

 

 

 

「知っている事」を「出来ること」に変えるのがコーチングであります。

コーチングとはなんぞや?とう事に関していろいろな観点でいろいろな意見が述べられているのだと思う。

私にとっては、ざっくりいうと2つの観点が大事だと思います。一つには「知っている事」を「出来ること」に変えるという観点です。これはマネジメントの一つの定義だともいえます。もう一つは、「知っていると思っていることを再構築すること」です。

 

1点目「知っている」ことは、いろんなところから情報が取れているので、ネットやらで「知る」ということに関しては、いろいろなところで「知る」ことは可能です。しかし、そのしった事(=情報)の「意味」ということをよくわかりません。

「ああ、それ知っている」というのは普通の人の反応。しかし、人は「知っているorわかっている」と思うと、それで、さらにもう知らないと思います。ほとんどのいろんなビジネススキルは「知ってい」ても、それだけでは「使えない」ことが多いです。簡単にいうと、知識というか「説明」がわかった時点では「汎用知識」なので、その人の状況に合わせてカスタマイズしないと使い物にならないのです。

そういうカスタマイズもしくは、実際に「使ってもらう」ことで、その人なりの「コツ」をつかんでもらうのがコーチングです。

 

また、「知っている事の再構築」とは、簡単にいうと、自分の思考の癖を突破したり、違う発想をする、ということをサポートします。いままで「これでいいと思っていた」というのが人にはあります。それぞれ成功体験によって、「これが正解」という信念があります。極論いうと、たとえば、子供が「やだやだこれ買って」といってだだをこねるとうまいこと親が黙らせるために「買ってあげた」という過去があるとします。(実際に数年前に、ロイヤルホストの精算時に、地面に寝転がって駄々をこねている5,6才ぐらいの子供を見たことありますが、もだえ方はすごすぎて、とうとう店員が無料でその子にその「ほしがっているもの」を提供していました)そうするとその子供はまた「やだやだ買って」ということをします。それがストレートに通用しなくなると、「買って」の応用型、ただ駄々をこねるのではない、スキルを上げる駄々のコネ方を習得します。さて、その駄々をこねていると、今度は忍耐を学んだり、相手を説得してこちらに提供するという説明能力を鍛えようということができなくなる可能性があります。それで手に入られないとさらに駄々をこねるか、または、「諦め癖」がつく場合もあります。人は、根本的に「危機回避」からの行動を3,4才ぐらいに身につけた戦術を手を変え品をかえ繰り返します。(それが「三つ子の魂100まで」ということわざの意味だと私は考えます)何が適切なスキルなのかh人によっても違いますし、場合によっては、駄々をこねてもOKな環境にいたらそれはそれでいいかもしれませんが(よくすごい偉い人が、ただのだだっ子とマインドが似ているとかよくありますよね)、基本的にコーチングに依頼に来る人は「いままでの作戦がうまくいかなくなった」から、依頼するわけで、いままでの「だだっ子」だけではだめだから「変わろう」という動機で来るわけです。なので、だだっ子でうまくいっていた部分は変えないで、それに追加して新しいスキル(たとえば「相手を説得する説明能力」を身につける必要があるのですが、しかし、自分の「いつものパターン」から脱却するにはそれなりにストレスがたまるものです。時には「過去の自分の死」ぐらいに感じる場合もあります。しかし、その「変化」をサポートするのがコーチングのもう一つの役割です。

なので、いろいろ「知っている」ことは大事なのですが、知っている事自体つまり、土台とか「前提」を変えるということをコーチングはするので、目の付け所が違うのです。戦術は軽視しませんが、戦術をいっぱいしっていても、「これはどこでどう使われるか?」という生の知識がない限り使えません。そういう意味で「人」や「自分」に関して、深く検討するのがコーチングなのです。

・・・・などということをとある人のfacebookの書き込みをみて思いました。その人はコーチングでよく使われる概念について説明していました。(まあ、その説明も、なんか微妙な感じでしたが)ただ、感じたのは、「こいつ使ったことないな」という感想です。説明としては一見筋が通ってますが、なんというか「ありきたり」なのです。自分の言葉で説明していないのです。誰かの受け売りです。それをまとめたにすぎません。説明上手であっても相手の心に刺さるかどうかはまた別です。しょせん、頭で納得しても、動かないのは人間の性です。腑に落ちる、肚に落ちる、というか、「自分自身の世界に起きている現実」として認知しない限り人は動きません。そのために多くの人は「脅す」ということをしますが、それはそれで効果はあるのですが一過性です。「回避行動」から、脅されたことに関して恐怖を覚えて行動するに違いなく、生きるか死ぬかという状況の時は、それは有効ですが、持続性はないので「とりあえず助かった」あとに、次に持続性のある何かをしなければなりません。。。。などというようにおもってみると、「人」と関わってみて自分なりに真剣に考え、悩み、時には一緒に喜び、時には一緒に悲しみながら、関わっていく敷かないと思うのですが、facebookでの自分のサービスを「営業」している人に魂というか心がないと感じる人には「自分の言葉で話していない」と感じるからなのだと思います。

極論すれば、あらゆるスキルというか方法論はそれなりに使えます。しかし、その方法論が「全部を解決出来る」と考えるのは無謀だと思います。時には普段使わない、Aという知識をBという全くことなった背景の所に使ってみる、というのは、あると思います。しかし、「技」も使いどころを間違えるとすっとんきょうになるとおもうのですよね。

そんなことを思ったりしました。

人の前進を妨げること(もの)

最近、引きよせとかシンクロみたいな話をしていて、でも、そういう現象に目をむけているとふと感じる事は、そういう「シンクロ」のシェアをするときに、「それってシンクロですよね」とかいっている人の心理には、もしかしたら「それは特別なこと」っていう目線があるのかなと思うこともあるのですが、ざっくりシンクロとか引きよせとかいっても、単純に「行動」の結果として起きる部分がほとんどだというふうに認識していたら「当たり前のこと」だと思えたりもします。

まれに、我々の「思考」が届かないレベルでいろいろな出来事が次の結果を生み、そして別の意思決定が起きてそれで行動を引き起こした結果で、あまりつながりが見えないようなことを「引きよせ」といっているだけで、起きる時は起きるし、想定していないことにつながるときは、起きなくなることもある。

ただ、まあ、「シンクロが起きてラッキー」ぐらいに思っていると楽しかったりするので、とりあえず、底に関わっている人とか出来事に感謝していると起きる確率があがるような気がする。

 

・・・というようなことを考えていると、引きよせを「念じている」系のちょっと信仰はいっているような態度も別にそれはそれで悪くないけど、他力すぎるのもどうかなーと思うのです。本当に「やりきった」人だけが、「あとはもう手放す」と思えばいいのであって、別にいつも最初からたりきってのもどうかと思う。

 

さらに、先日とある人のf/bでの投稿で「非難ごうごう」っていうのを観たことがある。自分はそんなに知らないけど、なんか「私を見て見て」みたいな感じの投稿で最初は「不幸」を慰めたり、「そんなこというんじゃないよ」とか説得する人とか居たりして、友達がきれたり・・・などということが起きていたものの、最終的に、「え?それってないだろ?」っていう投稿があり、結構バッシング的になっていた。それってある意味「引きよせ」といえば引きよせだが、ある意味自業自得ともいえなくもない。

ただ、そういうネガティブな引きよせがおきたり、友達失う系のことがお着る人にはどこかで「自分に言い訳」があることが多いと思うのです。政治家が不祥事で辞めるときも出来事や事実で辞めるのもあるけど、その事実に対して「言い訳」をすることで問題が大きくなる。だから不倫(二股?)をしても、ちゃんと謝罪するとそんなに怒られない人もいる。人は出来事じゃなくて、その後のその人の態度に対し腹を立てたりする。そういうことが巡り巡って「味方をしてくれない」ということがおきる。

 

先日久々(2,3年ぶり?)にとある人から連絡があって、その人のやってきた企画が10年を迎えるに当たって誘ってくれた。素直にうれしいし、「いや絶対行きますよ」って思ったりしたのが、そういう「人を大事にする」というその人の心持ちは人を動かすのかなーと思うのです。そういうのが巡り巡ってシンクロとかを引き起こしたくなるのだとおもう。他力の前に自力でがんばった人は他力を引きよせやすくなるのでは内科と思うのであります。

 

 

 

 

どういうときに起きてどういうときにおきないのか?という

「理解」という限界を超えて

自分自身の思考のパターンなのかもしれないが、「ゆれ」としてあることがある。

脳力開発、人材開発に関しては、「努力」が優先なのか、それとも「手法そのものが人を成長させる、という考え方である。

 

努力すれば成長するか?というとそうとは限らない。正しい努力しなければ意味がない。

とはいえ、何が正しいかどうかは、人によって違う気がする。その人の限界を超えるには、その人自身しかわからないぎりぎりを攻めないとわからないことがある。

自分はどちらかというと、とてもまじめに取り組んでいくほうなので、そこそこできるようになる。しかし、ある程度までくると「これ(ここ)は自分の目指すことではない」ということがわかるとそうじゃないことが現れる。

 

手法の中身というよりも、「関わり方」の態度にあるようであります。

 

さて、では「理解」を超えるのがなんでいいのか?というと人は、往々にして知識量があればあるほど「できる」と考えがちではあるが、しかし知識量があってもできないことがある。それこそ「社会」の問題は、知識量があればあるほどできるようになるが、国語に関しては、いくら文学史やら漢字をしっていても、「文章題」ができないのと同じである。

 

多くの脳力開発、人的な手法に関しては、知識はとっかかりにはいいが、知れば知るほど、「頭でっかち」になりがちであり、そのことの本質を見えなくなってしまうことがよくある。

以前某手法を実戦している人が「直感ワーク」というのをやっていた。その直感とは、何かを選択する(たとえば、「犬」と「猫」のうちどちらかを選ぶ)。その後、その選択した語を口に出さずに、他の参加者の人で「自分と同じ選択をした」人とグループをつくる。グループを作るときに会話をしてはいけない。質問も不可。自分の直感を信じ、同じだと思う人と集まる。「同じ」と他人に思われても、その同じと思われた他人が「違う」と判断したら、グループを作らなくてもいい。最終的に、その「同じ」と思われるグループで「犬」とか「猫」などと宣言して「答え合わせ」をする。というものだった。

しかし、「考えない人」はここで終わる。ただ「合ってた、間違っていた」で終わる。しかし、「そもそもこの現象って何だろう?」ということを突き詰めてみると、「同じ」と思った時の「直感」と、その直感に対して「判断」というプロセスがはいる。もっというと、直感と思われたことも実は過去の経験からくる判断であって、なかなか純粋な直感を使っていないことがわかったりするのではあるが、「あってた/間違っていた」というところで止まる人はその先の深い意味を問うたりしない。その手の「あと一歩」のワークを、いろんなところでいろいろ見てきました。

その「あと一歩」のワークの特徴は、だいたいは、探求が足りないからおきるような気もします。平たくいうと、慣れたらその慣れを崩さないといけない。

 

理解はとても大事ですが、理解で終わらせていると、その先にあることはつかめないわけですが、そういう限界を超えた体験がない人は言葉でいってもなかなか伝わらないわけですが、いろいろ試す価値はあると思ってはいます。

 

つまらなくなっていること。

ある「発見」をすると楽しいけど、でも、その発見は実際に他人に提供できるレベルではなかったりすることもある。ある意味「飽きてる」ぐらいが他人に役に立つということもあるような気もする。

 

つまらないことにみえることに情熱を傾けて、他人に提供するのも時には必要かなーとおもう。

 

「広告とはそもそも洗脳である」ととある広告屋さんが言っていたこと

最近講演(とかワークショップ)についてよくおもうこと。

メルマガとか、facebookで、「○○で有名な」とか、いろんな実績とかをもとに

宣伝するメッセージを見かけるのですが、でも、そういうのに期待してその

講演会に行った場合、結構はずれ、というのが経験上多い気がする。

 

宣伝で売ってるという構造自体なんかどうかなーとおもう。(かといって、口コミがいいのかという議論もあるのですが)

 

誰かが言っていたのかもしれませんが、自分の感覚で言うと、「真理は自己宣伝しない」という想いがある。(別に証明できるとかそういう次元じゃなくて、なんとなく感覚的に思っている)

 

有名人でもだめだめな人はいるし、無名でもいい人はいる。(もちろん有名でよくて、無名でだめな場合もありますが。。。最悪ですなw)

 

そういう「広告」ではすごいこといっているけど、なんか、「提供している内容」がだめだめなのを、水増しして広告で何とかするとかの場合はほんとにだめだめだなーと感じます。

 

自分が「よい」とか「これはだめだ」という基準をもっていないと、売り手の宣伝文をそのまま鵜呑みにしちゃうなーとは思います。

真理じゃないから宣伝するんだろうなーとよく思います。

 

「モノ」に関しては、スペックとか他に同じモノをつくるので、性能とかで比較できるので、「広告」に意味があるとおもうのですが、でも、ことさら、講演とか(ワークショップとか)に関しては、提供している側の「メッセージ」も読み取らないとだめだめになるなーとほんとに思います。


題名の「洗脳」ってのはなんかいいすぎな気もしますが、でも、「広告」系の人って本質をみないなーとよく思います。中身かパッケージか?ということはよくロン損になりますが、少なくとも自分は中身をよくしていくことを目指したいですね。

新しいからいいという幻想

先日、とある番組で小説についての解説番組で、そこにいたタレントが最後にいった台詞で「200年前にこんな小説が書かれていたなんて」的な話がありました。

 

200年前は、だめなのだろうか?

これって小説に関しては、新しければいい、なんてことはないのは小説読んでいる人からすれば常識なようなきもするが、20才ぐらいより前だと「新しいことはいいことだ」と思う傾向にあるような気もするのですが(なぜなら経験がない分「自分ができていない」と実感するには、経験が足りなさすぎるから)、でも、まあまあの「知的」なイメージで売っているタレントが、「昔に書かれたのに結構いけてるじゃん」みたいなことをいっているのは、一言にいって、見識がなさ過ぎると思えるのであります。

 

ひねくれた見方ではなくて、夏目漱石以上の作家が2000年代以後にでている、と断言できる人はいるだろうか?芥川龍之介以上の作家がここ最近いるだろうか?

むしろ、昔の方が、情報が少ない分、時間に余裕があり、「小説」を書くのにはいい環境なのではなかっただろうか?とも思えるのです。

もちろん、移動の不便さはあるので、ちょっと新宿いって、横浜いって、品川いってなんていったら、昔なら2,3日かかることも、数時間で出来てしまう。(用事込みで)ただ、その「用事」も、ある意味移動が便利だからこそ「忙しくなる」ので、し筆活動に集中出来ないとかはあったのではないか?ともおもえる。

 

小説に限らず、新しい方がいい、というのは、たとえば、機器というか物欲を満たすものには、確かに新しい方がいいものが多いとは思う。50年前のテレビよりも2010年のテレビの方がいい。20年前のエアコンよりも、現在のエアコンの方が便利だし、消費電力も少なくて済む。値段も安い。そういった機器の類いは新しいものの方がふつーはいい。(オーディオとかだとそうともいえない気もするし、伝統芸能だと「失われた技術」とかあるので、職人芸に依存するような特異な技術は単純にはいえないですが)。

新しくなってよくなったといのは「便利」になったことはあるけど、あるいは情報量が多くなったとは言えるのですが、必ずしも新しいからいいともいえないことはよくあると思う。

 

シェイクスピアを超えた作家はいるのだろうか?源氏物語を「超えた」物語はあるのだろうか?とか考えても(まあ、その時代にはそれしかない的なことは考慮にいれないといけないとも言えるが)古いのになかなかやるじゃん、というのは、なんか、あまりにも稚拙な考えだと私は考えるのであります。

 

フィードバックをうける。

成長にはフィードバックが大事。とはおもうものの、とある「いたい」系の人のブログを見ていると「かわらないなー」と思う。

10年?以上かわらない。ある意味人はほっておくとかわらない。それはそれでいいことかもしれないが、しかし「成長」をテーマにかかげている人がかわれないのは、なんかみていていたいたしい。

そういう人の特徴

・私っていけてる って思っている

・言っていることが多少意味不明。(伝えきれてないのではなくて、伝える内容がないのに、むりくりがんばってる)

・他人に何が提供(貢献)できるのか、じゃなくて「他人から何をもらうか」を考えている

 

ようなのがあげられる。

 

かわろうもいつか手放すのだとおもうのですが、変わるためには、やはり、何歳になっても諭してくれるというか自分の「だめなところ」を言ってくれる人が周りにいるかどうかは大きいとおもう。(なかなかそういう存在は難しいが)

 

違和感というか、怒られたりしたら、その瞬間はとてもへこんだりいやな気持ちになるでしょうが、しかし、それはそれで貴重な意見として参考ぐらいにはした方がいいと思う。(別に全部依存する必要はないが)

 

とくに、自信がない人に限って(もっといと「自分で選択していない」人に限ってかな)、言うことなすことが、独善的な気がする。いつまでも「ちやほやされたい」と思っているのだろうか。

 

・・・少し厳しいけど、他人の言動をみて自戒を込めて書いてみました。

 

 

嫉妬

自分ができないこと、自分が感じられないこと、そういうのを他人に見ると、自分は嫉妬している。しかし、「同じ」にはなれない以上、まねしてもしょうがないと思う。やっていったプロセスは真似ができるが、所詮真似は真似だ。

 

自分は優れている、と自己主張しなくてはいけない人に巻き込まれるのもなんか違う気がしてきた。笑