「理解」という限界を超えて | 成功体質のための対話力向上公式ブログ

「理解」という限界を超えて

自分自身の思考のパターンなのかもしれないが、「ゆれ」としてあることがある。

脳力開発、人材開発に関しては、「努力」が優先なのか、それとも「手法そのものが人を成長させる、という考え方である。

 

努力すれば成長するか?というとそうとは限らない。正しい努力しなければ意味がない。

とはいえ、何が正しいかどうかは、人によって違う気がする。その人の限界を超えるには、その人自身しかわからないぎりぎりを攻めないとわからないことがある。

自分はどちらかというと、とてもまじめに取り組んでいくほうなので、そこそこできるようになる。しかし、ある程度までくると「これ(ここ)は自分の目指すことではない」ということがわかるとそうじゃないことが現れる。

 

手法の中身というよりも、「関わり方」の態度にあるようであります。

 

さて、では「理解」を超えるのがなんでいいのか?というと人は、往々にして知識量があればあるほど「できる」と考えがちではあるが、しかし知識量があってもできないことがある。それこそ「社会」の問題は、知識量があればあるほどできるようになるが、国語に関しては、いくら文学史やら漢字をしっていても、「文章題」ができないのと同じである。

 

多くの脳力開発、人的な手法に関しては、知識はとっかかりにはいいが、知れば知るほど、「頭でっかち」になりがちであり、そのことの本質を見えなくなってしまうことがよくある。

以前某手法を実戦している人が「直感ワーク」というのをやっていた。その直感とは、何かを選択する(たとえば、「犬」と「猫」のうちどちらかを選ぶ)。その後、その選択した語を口に出さずに、他の参加者の人で「自分と同じ選択をした」人とグループをつくる。グループを作るときに会話をしてはいけない。質問も不可。自分の直感を信じ、同じだと思う人と集まる。「同じ」と他人に思われても、その同じと思われた他人が「違う」と判断したら、グループを作らなくてもいい。最終的に、その「同じ」と思われるグループで「犬」とか「猫」などと宣言して「答え合わせ」をする。というものだった。

しかし、「考えない人」はここで終わる。ただ「合ってた、間違っていた」で終わる。しかし、「そもそもこの現象って何だろう?」ということを突き詰めてみると、「同じ」と思った時の「直感」と、その直感に対して「判断」というプロセスがはいる。もっというと、直感と思われたことも実は過去の経験からくる判断であって、なかなか純粋な直感を使っていないことがわかったりするのではあるが、「あってた/間違っていた」というところで止まる人はその先の深い意味を問うたりしない。その手の「あと一歩」のワークを、いろんなところでいろいろ見てきました。

その「あと一歩」のワークの特徴は、だいたいは、探求が足りないからおきるような気もします。平たくいうと、慣れたらその慣れを崩さないといけない。

 

理解はとても大事ですが、理解で終わらせていると、その先にあることはつかめないわけですが、そういう限界を超えた体験がない人は言葉でいってもなかなか伝わらないわけですが、いろいろ試す価値はあると思ってはいます。