「“私が”相手の幸せを願う事で相手に幸せになって欲しい」ってエゴじゃないのか。と思うんですよね。 | 「向こうの景色を見に行こう」

「向こうの景色を見に行こう」

“ツインレイ”は自分を信じて進みましょう。あなたにはもう、他者の答えは不要なはずです。
「自分を生きる方が面白い」

それは未知です。 誰も知りません。 あなただけが知っている。

あなたの人生を語り合う相手が、あなたにはもういるはずです。

支配と言うか、母親みたいですよね。

***

 

ツインレイでたまにあるんですよね。

・相手の幸せを願えますか
・相手が自分じゃない相手と結婚しても受け入れられますか

みたいな。

あくまで「自分が上」は譲らないで、相手を支配下に置きたい。
息子の幸せを願う母親視点のような。

「相手の心に自分がいることが前提」みたいなお話です。


だって、そもそも、

相手が「幸せになりたいと思っているはずだ」と、憶測で物を言っているじゃないですか。

 

 

 

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そう言うのを「エレクトラコンプレックス」とか「エディプスコンプレックス」と言うのかどうか。

 

 

エレクトラコンプレックス(ドイツ語: Elektrakomplex、 英語: Electra complex)は女児のエディプスコンプレックスを指し、ユングによって提唱された名称。コンプレックスを日本語訳し、エレクトラ複合と呼ぶこともある。
概要

エレクトラコンプレックスはエディプスコンプレックスの女児の場合を言い、女児が父親に対して強い独占欲的な愛情を抱き、母親に対して強い対抗意識を燃やす状態を指す[1]。

この理論に見られる近親相姦的欲望をユングは、ギリシア悲劇の一つ『エレクトラ』(エレクトラ女王)になぞらえ、エレクトラコンプレックスと呼び始めた。『エレクトラ』は、父王を殺した母に復讐するために、弟オレステースを誘惑する。英雄的な父アガメムノーンの暗い運命についての思い出は、死ぬまでエレクトラが結婚することを妨げ続けた[2]。

ちなみにエディプスコンプレックスの提唱者であるフロイトは、エレクトラコンプレックスの概念と名称を不要のものと否定している。そのためフロイト派では女児も「エディプスコンプレックス」という名称を使う。

 

 

 

エディプスコンプレックス(独語:Ödipuskomplex,英語:Oedipus complex)は、ジークムント・フロイトが提示した概念で、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことをいう。男根期に生じ始める無意識的葛藤として提示された。日本では訳語としてエディプス複合と呼ばれることもある。フロイト派では男女ともに適用される用語であり、心的発達の重要な転換点として、また神経症の発症段階として注目されている。

概要
フロイトは、この心理状況の中にみられる母親に対する近親相姦的欲望をギリシア悲劇の一つ『オイディプース』(エディプス王)になぞらえ、エディプスコンプレックスと呼んだ(『オイディプス』は知らなかったとはいえ、父王を殺し自分の母親と結婚(親子婚)したという物語である)。

男児のエディプスコンプレックス
まず子供は母親を手に入れ、父親のような位置に付こうとする。男児においては母親が異性であり、ゆえに愛情対象である。子供は父親のような男性になろうとして(同一化)強くなろうとする。子供はじきに父親を排除したいと思う。しかし父親は子供にとって絶対的な存在であるので、そのうち父親の怖さに気付く。最初は漠然とした不安や憎しみしか抱いてないが、子供が実際に母親ばかりにくっついていると、父親は「お前のペニスを切り取るぞ」と脅すのだという。

ただしこの言葉は実際に言われるとは限らず、大抵の子供はこの脅しを無意識的な去勢不安として感じるようになる。こうして子供はジレンマに陥る。母親を求めれば「去勢される」し、父親の元に跪いて父親に愛される母親の立場に収まるのならば、子供は「去勢されている」と感じるのであり、どちらにしろペニスを保持するための葛藤にさいなまれるのである。

この際に子供は自分のペニスを保持するために、近親相姦をする欲求を諦め、また父親と対立することも諦めて、両親とは別の方向へ歩き出す。こうしてエディプスコンプレックスは克服されて、子供はペニスを保持しながらも社会に飛び立つ。その後の時期は潜伏期と呼ばれ、幼児的な欲求(性的な欲求)を無意識化に抑圧して、ほとんど表出しなくなるのである。

 

心的構造の形成
エディプスコンプレックスでは二つの側面が生じる。子供は最終的にこの葛藤から逃れるために両親を捨てるのであるが、子供は父親と対立するために「同一化」していた強い男性的側面と、父親から「やってはいけない」と言われた禁止事例を、超自我として形成するのである。それは良心や倫理感や理想として保持され、潜伏期以後の子供の行動を統制するようになる。

またエディプスコンプレックスの葛藤を克服すると、子供は近親相姦的願望やそれに付随しているリビドー、それに去勢不安や父親への攻撃心などを無意識に抑圧する。これらの欲望はエディプスコンプレックスが生じるまでは子供の思いのままに表出されていたが、この葛藤と克服を機に、それらは捨てられることになる。

これらの欲求は無意識に捨てられる。つまり無意識に抑圧される。こうして、その頃までは曖昧だった意識と無意識の境界が明白に形成されるようになる。子供はエスから自我を派生分化させて、つまり抑圧によって近親相姦的願望や去勢不安などを無意識に押し込めて、現実的な自我を作る。また同一化した部分と禁止事項が合わさって超自我が作られる。こうして三つの心的構造が作られるのだとジークムント・フロイトは主張している。

女児のエディプスコンプレックス
女児はペニスがないために男児と発展過程が異なる。

女児も男児と同様、最初は母親に愛情を抱き続けている。ただ女児が成長するとともに、同性のクリトリスが小さいのを見たりして、子供の女性にはペニスが無いことを徐々に認識し始める。ただしこの時点ではまだ女児は「大人になったら私もペニスが生えてくるんだ」と信じているのだという。[要出典]

 

男児との違い
男児は去勢コンプレックス(父親に去勢されるかもという不安)から母親を手に入れることを諦め、エディプスコンプレックスが崩壊するために、近親相姦の欲望などは放棄されることになる。しかし女児は去勢コンプレックスが生じて、それが契機になって母親から父親への愛情対象の転換が起こるとされている。故に女児はいつまでも父親を愛したままになり、フロイトは女児のエディプスコンプレックスはいつまでも続き、崩壊するきっかけがないと言っている。

そのため、女児には男児のように強力な超自我が生じないと言う結論を主張している(明確な超自我形成にはエディプスコンプレックスが放棄される必要がある)。

フロイトは女児の場合もエディプスコンプレックスという用語を使っていた。男児も女児も同じような葛藤構造が生じるからである。弟子のカール・ユングがエレクトラコンプレックスという用語を提示していたが、フロイト自身はその言葉を採用せず、女児の場合もエディプスコンプレックスと呼んでいた。

 

 
私は、貴方のすべてを支配したかったです。
貴方の人生の過去すべてに、存在したかったと泣きました。
 
でも、貴方の人生は貴方のものです。
 
貴方が貴方である貴方を、私は迎え入れたいのです。

それが貴方なのです。
今あるすべてが貴方なのです。
何かが欠けていてもダメなのです。

良いことも悪いこともあって、
楽しい思いも辛い思いもした貴方が貴方なのです。

そんな貴方から出てくる言葉が、
そんな貴方から感じるすべてが、
私は心地よく感じるのです。
 
 
だから究極で言ったら、貴方が幸せかどうかですら。
私が決めることではないのです。

何を“幸せ”とするか。みたいなところでもあります。

貴方が願うのなら、たとえ私から見て不幸のどん底にいても。
無一文で明日に困っていても。
何か再起不能に陥っていても。

それを貴方が望むなら。
それが貴方の願いなら。
私には何も言えないのです。

貴方がこうあれば幸福だろうと、“勝手に”決めつけることはできないのです。


だから、
・相手の幸せを願えますか
・相手が自分じゃない相手と結婚しても受け入れられますか

なんか違いますよね。

だって、相手が、
「これなら幸せであるだろうと言うその状態」を、例えているじゃないですか。
「私の思う幸せを感じて欲しい=私の想定内にいて欲しい」と言うことです。


そもそも、
相手が「幸せになりたいと思っているはずだ」と言う憶測でしかないのです。


それを決めるのは私ではないのです。

だからそれは支配のように思うのです。

息子の幸せを願う母親視点のような。

まぁ、母親気取り。と言うか。
あくまで、上に立ちたい。

「私が主導権を握っている」みたいな。


***

最終的に私は、貴方の恋人になることにしました。
母親や他の何かになるのは諦めました。
それは、違うのです。

私は貴方の、恋人なのです。
 
貴方の母親と姉と妹は、貴方のご家族に任せます。
(ただし、家族構成は知りません。←)
学生時代の先輩、後輩は譲ります。
私はもう大人です。
職場の上司とか後輩とか同じ仕事をしている人たちとの関係も譲ります。
私は貴方と同じようには働けません。
誰かに師事を受けた。と言うような師弟関係も譲ります。
私は貴方より上には立てないのです。
弟子は、、、私たち、趣味違うと思います。←

まぁ、それっぽいことを言ったり、何かできる事はあるかもしれません。
何かの場合によってはありかもしれません。
その時はやります。


私は、貴方と並んで歩きたいのです。
だからせめて、並びたって見劣りしないくらいにはなりたい。
そう、思いました。
貴方の、何かの役に立たなければ、私よりもっと役立つ人が現れたら、捨てられてしまうのでないか。
と、考えていたからです。

それはもう、良いのかな。と思いました。
 

誰かや、何かと比べて役に立つ、で、選ばれてはならないのです。
 
私は、愛を受け取るには、何かの証明が必要だとも思っていました。
選ばれるために。
でも、そのために選ばれたのであれば。
それの証明が無くなったら、もっとできる人が現れたら、捨てられてしまうかもしれません。
 
それでは、
「もっと優秀な人が現れたらいつか捨てられてしまうのかもしれない」と貴方を、疑い続けることになってしまいます。
貴方を試すような真似をし続ける訳にはいかないのです。


愛はそこにあるのです。
誰かから奪うものではないのです。
 
誰かよりたくさんもらった、誰かより少なかった。と、
損をした、得をした、と感じて。
誰かより多く欲しい、こんなに少ないはずがない。と、
損をしたくない、得をしたい。のだと。

愛に限りはないのです。
地球上の海の水のように、元の量が決まっているものではないのです。
私たちは愛と言うプールの水を奪い合ってはいないのです。

あなただけの泉は今も、こんこんと湧き上がっているのです。
 

また、母親とは結婚できません。

責任は半分この、私たちなのです。
 
私たちについて。
そこで生まれる連帯感。
責任は半分こです。
貴方と半分こ|•,,)ドキドキ...♡
 
話を読み返した方がいいような気がする。と思ったので雑誌を買ってきました。
 
 
***
 
私は、貴方と共にいて地獄でも構わないと思いました。

 

 

貴方が選ぶ場所が私にとって地獄でも、置いて行かれたくなかったのです。
 
でも、それはもういいのだ。と、そう言われた気がしてこうなりました。
 
いつまでも「地獄についてく」はちょっと体裁が悪い。と。
【地獄】\_( ゚ロ゚)ハィ! ここ! 変更! みたいな。

考えたら貴方の力量不足のようにもなってしまいます。
私からしたらこれ以上ない殺し文句みたいなものですけど。

気持ちはわかった。と。
わかりました。
 
 
そもそもの始まりは、
貴方が好きなのに告白する勇気もない私が考えた、
「この世の女がすべていなくなれば、貴方が選ぶのは私だけ」です。
 
心の中では、やってやれないことはない。とそんな気分です。
 
それこそ、支配欲全開です。
 
それはこうなりました。
 
だから貴方の愛をもっと下さい。
 
私はやっぱり、貴方の恋人で奥さんなのです。