「甘えを許さない」正義に溺れていた
私がここ数年ずっとうまくいかなかった理由は、「しっかり練習を積んで目標に到達する」という競技スタイルにこだわりすぎていたことだと思います。これ、私が現役時代にできなかったことなんです。あまりに早急に速くなりすぎて、しっかり練習を積んだというプロセスの部分の実感がありませんでした。というのも中学にはトラックも練習メニューもなかったんです。顧問の先生も「好きにやったらええねん」と大らか。それが自分には合ってたんだと思います。だけど、練習を積んで目標を達成したという実感がない。その後、まるで伸びなかったことから、「練習が積めなかったからダメだった」という記憶に繋がっています。それがトラウマのように突き刺さっていて。私がずっと背負い続けている十字架のようなものです。素質はあったのになあ。何でうまくいかなかったんだろう。そういう想いをずっと抱えていたためムダに拗らせてしまいました。だから毎日継続することにこだわったり、計画を変更することにすごく抵抗がある。量を増やすのはGJなのに、量を減らす判断はなかなかできません。体の声を聴くのも苦手で、疲れていてもそれを無視することをよしと思っていました。そして「ほらできた!」となれば万歳三唱。逃げなくてよかった、と自分の判断に拍手する。何かを判断する時は必ず自己チェックが入ります。「それは甘えじゃないか?」ラクな道と苦しい道があれば、苦しい道を選ぶことが正義。それができないと強くなれないと信じていました。どMかよって感じですけど、自分的にはその関門を通過しないと、才能を浪費した自分を許すことはできなかったんです。そしてどんどん追い込む。どんどん疲れる。頑張れど頑張れど成果は上がらない。トレーニングすらおぼつかなくなってくる。でも結局これって、現役時代と同じことを繰り返していたってことになります。私が練習を真面目にやりだしたのは、中学3年生あたりから。普通はもっと練習をしているとわかってきた。そして高校ではガッツリ頑張りました。でもボロボロ。ボロボロのまま大学に進学してさらにボロボロ😭ちょっとくらいは走れるんです。うまくタイミングがあえば、全国大会で入賞したり、都道府県対抗駅伝で区間賞をとったりもします。だから全然走れない状況にまではいかない。でもなんとなくずっと疲れているような状況で、パワー全開とまではいかない。これと同じことを、マスターズで再開してからも繰り返していたことになります。学習していない。過去を乗り越えることに重点を置きすぎていた、というよりも私がよしとする価値観が間違っていたんですよね。継続は力なりとか、苦しいときこそ頑張りどきとか、苦手を克服しないと成長しないとか、日々の積み重ねが大事とか。そういうわかりやすい価値観をスポーツマンは受け入れやすいのです。もちろん、そういう価値観で頑張れる人もいらっしゃると思います。でも誰にでも合うわけではないし、結局自分に合うやり方を見つけない限り、うまくいかない。私はこの数年、何もしていなかったわけではなく、ずっと「もっと休め」と自分に言い聞かせていました。でも全然足りていなかった。「もう十分休んだから大丈夫」と練習を再開し、「これくらいなら大丈夫」と練習量を減らしきれず、再起できない日々。なので今もまだ「本当にもう大丈夫なのか?」と思っています。ただこれまでと違うのは「間違っているかもしれない」と思いながら進んでいること。だから危ないと思ったら、その感覚を無視して前に進むのではなく、ひとまず尊重します。成長って螺旋階段を上っていくようなもの。ぐるぐる回っているからほとんど景色が変わらない。だから「こんなに上っているのに、全然上達してない」と絶望しそうになります。手応えをつかむことが難しい。でも、ずっと上り続けたらある時「こんなに高いところに来たんだ」となります。なるはず。上り続けることは、負荷をかけ続けることではない。身体を最適な状態に保ち続けること。人生はもう下り坂に差しかかっていますから、まずはそこを目指す。「そんな低い目標はイヤ!」「もっと頑張りたい!」と私の中の14歳の少女は訴えますが、60歳の私に必要なのは、華麗にスルーする知性だと思います。