【強迫症、完璧主義】新明一星
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強迫症と家族関係

みなさん、こんにちは

 

臨床心理士の新明一星(しんめいいっせい)です。

 

私は強迫症(強迫性障害)の治療をして11年ほどになります。

 

日々、多くのご相談を受けているのですが、その中で多いのは家族関係です。

 

特に、お子さんが強迫症で引きこもってしまったり、荒れてしまうと家族の負担はとても大きくなります。

 

素直で手のかからなかったお子さんが強迫症になると、さまざまなことを要求したり、癇癪を起こしたりするようになります。

 

お子さんに徹底抗戦する家族もいれば、辛さを軽減するために要求に従う家族もいます。

 

私の経験では、後者の方が重篤化しやすいように思います。

 

強迫症は、洗浄、確認、不吉な何かを過剰に避けたり、しっくりいくまで何かを繰り返します。

 

例えば、学校で使っているカバンや教科書がが汚れていると思えば、それを消毒して欲しいとお子さんは要求するかもしれません。

 

消毒してあげれば、一旦は落ち着きます。

 

ところが、一度綺麗にしたものはその状態を保ちたくなりますし、次に帰宅した時には消毒をしたくなるのです。

 

結果的に、私物を消毒することが習慣化しますし、消毒の念入りさもどんどん増していきます。

 

習慣化したものは、簡単に取り消すことができません。

 

さらには、より細かな部分が気になっていきます。

 

さまざまな理由で、荒れるお子さんに向き合うことが難しいご家族がいます。

 

感情的に荒れる人がいない環境で育った方も、逆にものすごく荒れている家族に気を使ってきた方もいます。

 

いずれにしても、荒れるお子さんの要求を保留することが難しいのです。

 

強迫症は、納得いくまで洗浄、確認を行えば行うほど、症状が悪くなります。

 

悪くなる時は一気に悪くなります。

 

このような状態になったら、なるべく早く支援を求めていただきたいです。

 

症状は悪くなったり、落ち着いたりするのですが、いつかよくなると考えて数年が経過してしまうことが多いです。

 

繰り返しですが、習慣化した行動は簡単に消去できないのです。

 

YouTubeの方でもたくさん動画を公開していますので、ぜひ強迫症について知ってくださいね。

 

 

 

 

【強迫症】強迫症は自然に良くなる?

【強迫症】強迫症は自然に良くなる?
https://youtu.be/ppu4pLzI5iI

自他境界線(罪悪感なくNoを言える、傷つかずNoを受け取れる)

自他境界線とは、文字通り人と他人とを隔てる境界線なのだが、自他境界線が曖昧になることで様々な問題が起こる。

大きく分けて2つの反抗期が成長過程にあると言われているが、この反抗期は自分と親との分離を達成させるために必要な時期になる。親にとっても、微笑むばかりの我が子がイヤイヤ期に入ると、なかなかに苦労する期間になる。思春期は、より成長し、行動力も力も持っているので、より激しいものになりやすい。

反抗期は、自己主張と妥協を学ぶ時期だと私は思っている。若い時期に、自己主張と妥協を親とのやり取りの中で学べた人は幸いなことだ。最近は、反抗期がなく、思春期を経過する方が増えている印象がある。それには様々な理由がある。反抗期に親が耐えられず、過度な叱責や先回りで、自己主張を阻んでしまうことがある。

心理学用語で投影同一視という言葉があるが、人は自分が満たされなかったり、傷ついた思いを人の中に映し出してみることがある。自分が傷ついてきたから叱ることができない、かなわなかった夢を子に託す、自分が受け入れられないのだから社会も拒絶するだろうなど、自分の思いが他人に投影されると、他人が個別で独自な人間だと思えなくなるのだ。

人には自分の本当の姿を見たいという欲求がある。子供にもそれはあるし、親にもある。親は子供の反応を見て、自分がしっかりやれているのか、存在の意味を確認することがある。それが過度になると、期待や価値観(比較、批判)を受け取るばかりで、自分が見えなくなっていく。親の思いはわかるけれど、自分の思いはわからないとするならば、この状態にあると言えるかもしれない。

子にとっても、親にとっても、自他境界線を知り、学ぶことは、大きな成長のチャンスだ。思春期や成人期の人間関係の背景に、この自他境界腺問題が潜んでいることは少なくない。自他境界線の質を確かめるには、いかに快適にNoを言い、Noを受け取れるかを探ればよい。

ご興味があれば、自己理解を深めるべく、書籍を読んだり、カウンセリングを受けられるとよいのではないだろうか。


自他境界線引き方

自他境界線に興味を持つ人は、アダルトチルドレン、HSPに自分が該当する、または、生きにくさや人間関係の辛さに葛藤する方だろうか。パワハラ、モラハラ、カサンドラ症候群などに気づき、書籍などで学ぶうちに自他境界線に気づく人もいることだろう。心理学の歴史として、成育史に焦点を当てるアプローチがあり、親子関係を振り返ることに納得する方もいれば、過去に嫌悪感を抱く人も、今現在できる解決方法を知りたいと思う人もいるだろう。カウンセリングをやっていて、この辺りのニーズと興味は、人によって違うものだとよく思う。

私が自他境界線について知ったのは、臨床心理士になるよりもずいぶん前のことだ。20代の前半に、「許し(自分、他人)」をテーマにしたセミナーテープを聞いたことに始まる。そこで、自他境界線について聞き、バウンダリーズという書籍を読んだ。自他境界線とは、文字通り他人と自分を分つ境界であるが、所有物だけではなく、精神的な距離感をも含む。親子関係、夫婦関係、上下関係の問題には、ほぼこの自他境界線の問題が関与する。なぜかというと、自他境界線が曖昧であったり、強固であったりすることで、人は必ず葛藤を抱くからだ。

人はそれぞれが人間関係のスタイルを持っている。大きく分けると、近い関係を好む人、人と交わらず孤で生きたい人の2種類だ。問題は距離が近すぎる、遠すぎる時に起きる。距離感が近いということは、自分と他人の区別がないということだ。どういうことかというと、他人は自分の心の中にいるので、他人が自分と違う人間だと思えてない。厳密にいうと、文字通りこのように考えているわけではないが、自分と違う考えを持つ人に強い嫌悪感を抱く、相手を修正するためにあらゆる手を尽くす人がいる。人は自分の世界にあるものは、支配下にあると考える。結果的に、自分の心の内側にある他者を支配していても、違和感を覚えない。コントロールできない現実は辛い感覚を伴うが、それが見捨てられ不安として経験される。

逆に、孤で生きたい人は、他者が自分の領域に侵入してくることに、嫌悪感や不安がある。自分の話をしたところで何も得られるものはなく、助けを求めようと考えること自体を無意味だと考える。他者を信頼してガッカリする、感情を揺さぶられるくらいなら、1人でいる方がずっと楽だと考える。自己完結的な生き方は、その人が思っている以上にストレスフルであり、無理を自分に強いている。そう思うことにも嫌悪感があるので、より1人で努力し、防御を固めていく。

これらの問題に気づくことがまず第一歩である。気づいている人は、そうでない状態よりも大きく前進している。実際に、自他境界線を見直すことは生き方を変えることと同じで、とても難しいことでもある。愛着理論においては、これらは人生の早期に獲得された人間関係のパターンで、親に合わせることによって形作られている。人間は一定の年齢に達するまで、親からの分離は不可能であるし、実際にそうすれば死を意味する。なので、生き延びるためには、親に合わせて、なんとか世話をしてもらわないといけない。そのために覚えた人間関係の雛形が幼少期にあるという考え方だ。だから、変えようとすると、自分がどうかなってしまうかのような苦痛が生じる。

実際には少しずつ、今までとは違うことを試していくことが良い。そうすることで自分が楽になっていく、意味を見出せるようになっていくことが重要である。人は元の状態に戻ろうとする性質があるので、変われない時があっても自分を責めすぎないことも大切。自他境界線は、自他の中で育まれるものなので、自他境界線をある程度確立した人に付き合ってもらうと、コツが掴みやすい。自分を大切にすることや、他人を許すことを、体で体験できると、違った世界を経験できると思う。

強迫性障害と曝露療法:続けられる課題を選べ!

曝露療法をご存知の方は、ある程度強迫性障害に知識のある方だろう。

 

汚れること、無用心、無礼なことを我慢するなんて無理、曝露療法だけは絶対にやりたくないとおっしゃる方は少なくない。

 

わかりにくいかもしれないのだが、曝露療法=強迫行為をせず、不安、不快感を感じることであって、曝露療法=絶対にしたくないことをするではない。

 

早く治りたいと思い、耐え難い曝露課題を選択して、その後に症状が増悪するケースあある。

 

考えてもらいたいのは、不安、不快感を感じるというのは能力であって、練習することで身に付くということだ。

 

不安耐性、ストレス耐性とも言うが、瞬時には身につかない。

 

アマチュアだったら基礎練習が必要で、急にプロのようにはできないのだ。

 

プロ練のようなことをやって、その場でできても、体を壊してしまったら二度と練習できない。

 

負荷はかかるのは避けられないが、続けられる課題を選ぶことが重要。

 

そうやっているうちに、だんだん強迫観念が緩んでいき、徐々に強迫行為のない生活を選びたいという気持ちになっていく。

 

短期間で完治するのは稀だと思っていて間違いはない。

 

時間をかけて、しっかりと不安、不快感に向き合う習慣を少しずつ自分に教えていくことが大事。

 

それは症状がなくなった後も、人生というレースを走る上で大切な知識となるのだから。

双極性障害:服薬以外にできること

躁状態(テンション高い、怒りっぽい、逸脱行動)と、うつ状態(自己否定、やる気が出ない、動きたくない)を交互に繰り返す精神疾患の一つである。

 

精神科では気分安定薬での治療になるが、心理的な要因への対処も役に立つ。

 

躁状態の時には、多くの人がそれが本来の自分だと感じている。

この状態が心地よいし、続いてほしいと思うし、うつの時にできなかったことを挽回しようと思う。

 

この時に、没頭しすぎたり、休みなく動いたり、快楽的な行動に身を投じると、大きく失敗したり、疲弊したりする。

 

この時に、やり過ぎてしまった自分、信用や財産を失ってしまった現実が、気分を大きく停滞させる。

これがうつへのトリガーになることも少なくない。

 

躁状態の時には、できる感覚に囚われやすくなるので、あえてゆっくり動き、行動を振り返ると良い。

ゆっくりしゃべり、ゆっくり歩き、あえてこまめに休憩すると、良い意味で躁状態を健全に長引かせることができる(躁状態はいけないものだと病院では言われるでしょう?)。

 

うつ状態の時に、良い考えが生まれることはない。

突き詰めて考えても気が滅入るだけなので、活動や行動を増やすと良い。

考え事は、気分が上向いてからすればいい。

 

カウンセリングでは、躁状態の自分、うつ状態の自分を把握するようにしている。

気分は自分の一部だから、意識しないと把握ができない。

自分がわかるだけでも、随分と双極性との付き合いは楽になる。

 

没頭は不安や虚無感からの回避?

私は、物事を始めるのに時間がかかる方なのだが、一旦始めてしまうと中毒のように没頭することがよくある。あまり度が過ぎると、疲れるし、他のことが手につかなくなる。ADHDの過集中とも言えるかもしれないが、自分としては違った見解を持っている。

 

臨床で患者さんの話を聞いている時も、自分自身についても、没頭することは触れたくない感覚からの防衛なのではないかと感じることがある。自分自身に満足できない、常に新しいことをしていなくてはいけない、特別でなくてはいけない、でも、自分にはそれがないと思うと、慢性的に焦燥感に苛まれているのだ。それが当たり前すぎて、焦燥感という自覚がない。

 

もちろん、没頭して、フローに入り(苦なく集中し、成果を出せる状態)、良いこともたくさんあるのだが、疾走した後に、どこに向かっているか分からなくなる。そんな時は、一旦止まっていて、自分の感情を感じてみる必要がある。没頭や繰り返しの行動には、感情制御力がある。強迫性障害、摂食障害、依存症、嗜癖障害など、没頭という楽園に逃れると、現実を見ずにすむ。

 

実際に自分の内面を見ていくと、先延ばしにしていることや、孤立している時には不安が強くなりやすいし、自分や他人への感謝を忘れて、理想ばかりを追求すると虚無感に苛まれることが多い。自分が自分であって良いと思えない人も、没頭にはまり込み、向上心中毒になり、いつの間にか行き先が見えなくなりやすい。

 

長きにわたり、マインドフルネスの理解が深まらず、距離を取っていたが、いったん立ち止まって目を閉じてみると、実に様々な「感覚」が自分の行動を支配していることがわかる。というわけで、私は時々立ち止まって、「目を閉じる」ことにしている。

自他境界線(罪悪感なくNoを言える、傷つかずNoを受け取れる)

自他境界線とは、文字通り人と他人とを隔てる境界線なのだが、自他境界線が曖昧になることで様々な問題が起こる。

 

大きく分けて2つの反抗期が成長過程にあると言われているが、この反抗期は自分と親との分離を達成させるために必要な時期になる。親にとっても、微笑むばかりの我が子がイヤイヤ期に入ると、なかなかに苦労する期間になる。思春期は、より成長し、行動力も力も持っているので、より激しいものになりやすい。

 

反抗期は、自己主張と妥協を学ぶ時期だと私は思っている。若い時期に、自己主張と妥協を親とのやり取りの中で学べた人は幸いなことだ。最近は、反抗期がなく、思春期を経過する方が増えている印象がある。それには様々な理由がある。反抗期に親が耐えられず、過度な叱責や先回りで、自己主張を阻んでしまうことがある。

 

心理学用語で投影同一視という言葉があるが、人は自分が満たされなかったり、傷ついた思いを人の中に映し出してみることがある。自分が傷ついてきたから叱ることができない、かなわなかった夢を子に託す、自分が受け入れられないのだから社会も拒絶するだろうなど、自分の思いが他人に投影されると、他人が個別で独自な人間だと思えなくなるのだ。

 

人には自分の本当の姿を見たいという欲求がある。子供にもそれはあるし、親にもある。親は子供の反応を見て、自分がしっかりやれているのか、存在の意味を確認することがある。それが過度になると、期待や価値観(比較、批判)を受け取るばかりで、自分が見えなくなっていく。親の思いはわかるけれど、自分の思いはわからないとするならば、この状態にあると言えるかもしれない。

 

子にとっても、親にとっても、自他境界線を知り、学ぶことは、大きな成長のチャンスだ。思春期や成人期の人間関係の背景に、この自他境界腺問題が潜んでいることは少なくない。自他境界線の質を確かめるには、いかに快適にNoを言い、Noを受け取れるかを探ればよい。

 

ご興味があれば、自己理解を深めるべく、書籍を読んだり、カウンセリングを受けられるとよいのではないだろうか。

摂食障害はいかに改善し得るか?

この一年で摂食障害に介入することが増えた。

 

摂食障害の治療は難しいとよく言われる。医師、栄養士などと連携しながら、介入を進めていくことが望ましいのだが、摂食障害だけをよくしようとするうまくいいかないことが多い。食べること、太ることへの嫌悪と、それをコントロールする達成感、それらを必要とする心理状態が言語化されるには時間を要するが、個人的にはとても重要だと思う。

 

メディアや雑誌を見ると、スリムなモデルさんがおいしいものを食べていたりする。健康維持に必要なだけ食べれば良いし、必要なだけ運動すれば、体型は維持できる。しかし、体型に関する価値観は、多様なビジネスにより、どこか過剰になるように操作されている感じがする。


患者さんには、性格的に真面目で誠実な方が多く、背景に上手に甘えられなかった、努力と我慢が過度になりやすい(自覚なく)、母子関係が近く、お母さんもかなり頑張り屋さんな方が多い印象がある。

 

摂食障害に至る背景には、親子間の葛藤が見えない形で潜んでいることが多い。食べるという行動は、ある意味、情緒的なやりとりで、食べ物は(自活できるまでは)誰かに与えられるものだ。だから、食べ物には関係性が反映されているとも言える。

 

ダイエットや運動は、達成感や習慣性があるもので、それ自体は悪いものではない。しかしながら、そこに過度に没頭する背景には、空虚感や孤独感があったりもする。本来、喜びや達成感は人と一緒に感じるものなので、どうして自己完結する方法を選んだのかを考えると、回復のヒントが見えてくることもある。

 

私は強迫性障害の治療を多数してきたのだが、症状がその人にとって何らかの役割を果たしていることがあると感じることが多々ある。以前は、抑圧した感情から身を守るために、強迫性障害の症状があるのだと考えられていた。現在では、認知行動療法が優勢になり、私も強迫行為をせずに不安を感じさせる行動療法を多く行ってきた。複雑な症例を見る中で、対人関係、心理発達に対する介入が、症状を改善させる経験が多数あった。

 

そういうわけで、摂食障害においても、食事摂取と心理的側面を同時に考えて、一緒に解決を探っていくのが私のやり方になっている。

自分を知るために必要なもの

以前、定期的にブログを更新していたのだが、HPの移行作業時に全て消失してしまった。そこから、なかなか再開できていなかった。最近、自分の知識や経験を分かち合う必要性を再認識したのので、気を新たに書いてみたいと思っている。

 

うつの原因は様々だ。原因が明らかな場合には、環境調整したり、負荷を減らすことで、うつは開戦する。一方で、慢性的に自責的であったり、自分の限界を知らないことなども原因になり得る。

 

自責はうつの症状であるのだが、自分は良くないものだという信念とも言える。心理療法では生育歴に遡って、自己概念がどのように形成されたかを聞く。過去を振り返っても仕方がないという話を気ことがある(そう聞くこと自体が、特徴的なのだが)。生育史には、養育者から何を受け取ってきたか、何が足りなかったかという情報があるから聞く。

 

基本的に、人は自分で自分を知ることはできない。人の反応を見て、自分を知ることになる。人には適度な反応が必要で、全く応答がない、過剰に反応されるなどで、自分の内面は見えにくくなる。鏡がないか、眩しすぎるかで、素顔は見えにくくなるのと同じだ。

 

親も人間なので、子供に愛情を持ちながらも、自分の存在意義になってもらいたかったり、成長を感じたいと欲求するものだ。それ自体は間違いではないのだが、人間には自立する欲求があり、それを親が妨げることが多々あるのだ。

 

もちろん、虐待やネグレクトのように激しい形のものもあれば、自分が親にされたくなかったことを再現しないために、子供への愛情が過剰になることもある。親から離れることを分離といい、分離を拒む心理状態を分離不安という。

 

両者にとって、それは辛いことで、葛藤を多く生じる時期となる。この時期に、親子逆転したり、全くの放任、過保護に転じてしまう親子もいる。葛藤は、人を成長させるため、全く葛藤を避けることは、逆に様々な問題を生じさせることになる。

 

摂食障害、強迫性障害(完璧主義、潔癖)、引きこもりなどの背景には、このような問題が潜んでいることが少なくない。

 

 

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