うぎゃぁ
ちわっすっ だいぶサボっていました。
それなりに、ブログが更新できなかった理由はあるんだけど・・・
そんなことより、ロト6が当たっていたとか騒いでいた芸能人がいるんだけど
騒ぐほどのことじゃない だって4等らしいし・・・
たかが、4つの数字が当たっていただけ
オイラは4等なら何度も当たっている
今回も4等は当たりました。
5口買って、12600円 まぁまぁかな
改めて、数字を見てみると驚いた
オイラの4等は、08 16 20 24 42 46
当選番号は・・・08 20 23 24 42 43 (16)
23と43がない・・・4の倍数で買ったのがいけなかったか
ラッキーナンバー入っているし・・・
46が43か23なら、2300万だった・・・
まぁ、4等などではよくあることだ と半分あきらめた
気を取り直して、月曜日に「ナンバーズ3」を買った。
4つ当たったのだから、3つは当たるかもしれないな
と、宝くじ屋のおばちゃんと大笑い。
今度は、セットで「528」を2口ずつ3日分
いきなりでたっ!
[529]
前後賞かよっ orz
グリーンジャンボの前後賞を狙って、バラで買うかな・・・
明日は、ナンバーズ4で、1259を買う予定
ストレートより、セットで複数口買ったほうが配当が良いみたい。
有馬記念が近づいてきた・・・
入院していました…
ストレス性で胃腸の動きがおかしくなった
仕事が忙しかったのもあるけどストレス溜まっていたのかなぁ~
仕事も遅れ気味なので、年末年始は仕事が決定してしまった
時が流れるのが早いのか、もう有馬記念である
ルドルフのことはとりあえず後回しにして、有馬記念について書いていきたいと思う。
今でこそ、「有馬記念」と言う名称で定着しているが
本当は「グランプリ」とか「中山グランプリ」と言う名称であろう。
オイラは、この「有馬記念」が競馬会のレースの中で一番好きである
数々の名勝負を生み出し、感動も数多く与えてくれたレースだと思っている。
まさに「ドリームレース」だと思う。
有馬に勝つ馬が一番強いんだよっ!と大きな声で叫びたいぐらいである。
さて、有馬記念はどんなレースかと言うと…
簡単に言えば、競馬会のオールスターゲームである。
年齢なんて関係ない、牡馬も牝馬も関係ない
今年活躍した馬を、ファン投票してみんなまとめてよーいドン
そして、一番強い馬を決めようじゃないか と言うようなレース。
有馬記念の創設は、1956年
当時の中央競馬会理事長であった有馬頼寧氏によって創設される
年末の中山開催には中山大障害レースがあったが「華」がないと言う理由で
プロ野球のオールスターゲームと同じように、
ファン投票で競走馬を選ぶと言う方法を取り入れた
このファン投票によるオールスターレースは、
当時の競馬先進国であるヨーロッパでも行われておらず
画期的な方法と言っても過言ではないであろう。
しかし、第一回中山グランプリを開催して年が開けると
提唱者だった有馬頼寧氏が急死してしまったため
第2回目からは「有馬記念(グランプリ)」と名称された。
有馬記念優勝馬が「グランプリ馬」と呼ばれているのはこれが理由である
また、八大競争の中で唯一最初から開催地が変わらないのは有馬記念だけである。
フルゲートは、16頭
18頭にすると有利不利が出てくるので16頭らしいけど
最内と最外は、不利が出てくる可能性は高い。
ファン投票10位までが出走権が与えられ、残りの6頭は過去一年の賞金額で決められる
賞金額で決められるため、地方競馬出身の競走馬もこの方法で選出されるときもある。
数々の名勝負があったと、上でも書いたが
オイラの有馬記念の名勝負ベスト1は、「第22回 有馬記念」である
父親に聞いた話では実際に、そのときに中山競馬場に連れて行かれ
レースをみているらしいのだが記憶にはなかった。
しかし、競馬に興味が出てからビデオで見たレースである。
まさに魂が震えるようなレース…
こんなレースは、今まで見たことがないし、これから見れることがあるのであろうか
と、思えるようなレースであった。
このレースについて書いていきたい…
時代は、TTG3強時代 オイラ自身もビデオで見た記憶であるので
間違えがあったらご容赦願いたい
天馬 トウショウボーイ
貴公子 テンポイント
そして、思い出のグリーングラス
テンポイントは、阪神三歳ステークスで、杉本清氏の名実況の言葉の一つである
「見てくれこの脚!見てくれこの脚!これが関西の期待テンポイントだ!テンポ
イントだ!テンポイントだ!テンポイントだ!」
と、実況され期待されていた
この実況の言葉を思い出せるのは、オイラの父親の世代ではないではなかろうか…
ビデオで見たけど今でもはっきりと覚えている実況である。
しかし、テンポイントは、トウショウボーイにはどうしても先着できなかった。
そして、第22回 有馬記念のレースを迎えたのである
8頭のレースで、最小頭数のレースであった。
ライバル トウショウボーイの手綱を持つのは、「ターフの魔術師」と呼ばれる武邦彦
武豊の父親である
テンポイントは、最初から騎手の替わることのない鹿戸明
レースは、トウショウボーイが先行して、先頭を走る
それに併せて抜きに来るテンポイント
抜かれると、また抜き返すトウショウボーイ…
このビデオを見たとき、最初の感想が
「なんだこいつら、そんなレースしていてゴールはずっと先だぞ」と思った
しかし、少しずつ「えっ?嘘だろ… 他の馬はなにしているの?」
トウショウボーイの敵は、テンポイントだけ
テンポイントの敵は、トウショウボーイだけ という感じ
他の馬なんて、レベルが違いすぎて敵ではないというか無視の状態であった
それがゴールまで続くのである
マッチレースとはこのことではないのであろうか…
そして、テンポイントの勝利
トウショウボーイに初めて勝ったのである
ビデオでのレースとは言え、オイラは固まった…
実際にその場に、親父に連れて行かれたのに見ていなかった
このことを今でも悔やんでいます。
このレースは、レンタルでもあったと思うので競馬ファンの人にお勧めのレースです
見て絶対に損はないはずです。
シンボリルドルフは、本当なら三冠馬ではなかったっ!
シンボリルドルフは、本当なら三冠馬ではなかったっ!
と言う題名だけど、これはオイラの記憶である
ルドルフの現役時代を知っているファンなら皐月賞での事件を知っているであろう
今の競馬ファンにとっては、
「なに言ってんだっ!ルドルフは競馬史上に残る七冠馬であろう」
と、思うであろうが事実はひとつなのである
シンボリルドルフは、馬主や生産者などに翻弄された馬であることも知っていてもらいたい
三冠馬のことはゆっくりと話していこう…
まずは、主戦騎手がなぜ岡部騎手になったのかを話したい。
岡部騎手は、ビゼンニシキという馬の主戦騎手でした。
ルドルフのデビューは、北海道か中山を予定していた。
しかし、新潟に行っていたときにあまりにも調子が良いので走らせたらしい
管理している、野平調教師は柴田政人騎手に乗らせようと思っていたらしい
柴田騎手は、ルドルフの兄や姉にも乗っていたからである
新潟デビューには、もうひとつ理由がある
ルドルフの兄である、シンボリフレンドが札幌のデビュー戦で
ダートの砂をかぶり、それから気性が激しくなったこともあったから
ルドルフには、「芝」でのデビューを考えていた
当時の札幌競馬場は、芝コースがなかったのである。
さて、ルドルフ3歳(旧)は、3戦しています。
デビューは新潟競馬場での新馬戦。
いちょう特別の東京競馬場
普通のオープンレース 東京競馬場
なぜか、朝日杯3歳ステークスを避けている
理由は、11/27に東京競馬場で行われるジャパンカップで来ている
海外の競馬関係者に「日本にもこんな凄い馬がいる」
ということを見せてやろうとのオーナーの考えだったらしい…
確かに、このオープンは見た記憶がある1600メートルのレース
2馬身ほど差で、シリボリルドルフは勝利を挙げるのだが
タイムは平凡だった、1分40秒ほどだったと記憶している。
こんなタイムで、海外の競馬関係者が驚くとは思えない
なにを考えているかわからんっ!
しかも、次の年でのジャパンカップでは、勝つどころか3着に終わる
さらに、日本の馬であるカツラギエースにも負けてしまう。
少しは考えてくださいよ、和田(馬主)さん と言いたかった
考えてみれば、この時点で世界に出すと言うのは無理だった気がする。
4歳(旧)になって初戦は、弥生賞である
なんと、+18キロで出走してくる
太ったと言う訳ではないのであろうが、+18は増えすぎでは?と思った。
この体重の増量が原因かもしれないけど、ルドルフは初めて2番人気となる
ルドルフが、日本国内のレースで1番人気が取れなかったのは
この弥生賞と、4歳(旧)でのジャパンカップだけである。
しかし、レース結果は、ビゼンニシキに1馬身と3/4馬身差で勝利する
次に出走するのは、皐月賞 クラッシック第1戦目である
弥生賞を勝利して、シンボリルドルフは歴史に名を残すためには
絶対に負けられないレースである。
弥生賞のときの+18にも驚いたが、この弥生賞でも驚いた
馬体重は、なんと-22だった…
外傷的な怪我をして調教ができなくて集中して調教して体重を減らしたらしいのだが
大丈夫かよっ!と本気で思ったし…
ルドルフがそんな強いのだろうか…と疑問にも思っていた時期である。
題名である「シンボリルドルフは、本当なら三冠馬ではなかったっ!」
と、いう事件はこの皐月賞である
この皐月賞ではルドルフは、先行していた
岡部の勝利の方程式であろう
4コーナーで先頭に立っていたが、直線ではビゼンニシキとの叩き合い
手に汗を握った記憶がある
そのとき、ルドルフは、外側にいるビゼンニシキにぶつかるのである
「斜行」と言う立派な反則である。
レース結果は、レースレコードでのルドルフの勝利
1着 シンボリルドルフ
2着 ビゼンニシキ
斜行をしたのに、なぜ1着なんだろうと言う人もいるであろう
理由は簡単である
今のルールと違い、「降着制度」がなかったからである
降着制度が取りいえられたのは、1991年である
ルドルフの出走した皐月賞は、1984年であった。
この降着制度のルールのため1991年の天皇賞秋で、メジロマックイーンが
ぶっちぎりの1着だったのに、18着に降着されている
競馬の世界に、「れば・たら」はないのはわかっている
しかし、反則をしたのは事実であることも確かなのである。
表彰式で、岡部騎手は三冠を意識して指を一本あげる
武豊騎手が、ディープインパクトでも同じことをした
しかし、岡部騎手はこの「斜行」で2日間の騎乗停止処分を受けている
2日間の騎乗停止と言うことは、偶発的か馬に非があるあるかと言うことらしいけど
競馬会が「反則」と認めたということである。
ルドルフのファンとしては、悲しいことだけど事実は事実
現実から目をそらさずに認識したいと思う。
シンボリルドルフは、牡馬クラッシックの初戦である第44回皐月賞では
「斜行」と言う反則を犯すが、勝利をあげたのである と…
こういうことを、シンボリルドルフという七冠馬の名前を知っている
競馬ファンに伝えて行きたいと思っています。
次は、ダービーからのことを書きます。