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リーンのガラパゴスサロン~趣味や娯楽の広場

「リーンのガラパゴス批評」の兄弟ブログです。趣味に関する記事はこちらでどうぞ。

 

『龍馬伝』に出演した俳優さんの演技は、かなり力がはいっていたように思います。前回、龍馬の人間観を書きましたが、福山雅治さんの演技は手垢じみたところがなくて好感がもてます。


 ただ演技の力量とは別に、どうしても気になることがあります。


 武士(大名)は、あそこまで感情を露にするか


 補足すれば、お武家さんは総じて江戸、幕末を生きた人間に見えないのです。いくつか列記して見ます。


1、徳川慶喜や松平容保が目を血走らせすぎる。


  武士は厳しい躾をうけており、また幕末ともなればお公家さんのような面立ちをしておとなしめのひとも多いと思うのですが。『徳川慶喜』をおぼえているひとには今回の人物造型は違和感があったでしょうし、松平容保があれほど怒りに満ちた表情をするのは、会津の人がみればおかしいと思うのでは。


2、後藤象二郎は徳川慶喜公に発言できない。


 後藤は慶喜からみれば家来(山内容堂)の家来、陪臣とよばれる存在です。本来、将軍と同じ間にいることはおかしなはずです。実際のところは後藤がいたのかもしれないのですが、陪臣はかなりうしろにいて慶喜のこえは聞こえないところにいるのものでしょう。それに家来の家来に声をかけることなど将軍は考えないでしょうし、筆者の記憶では実際の慶喜の声はききとれず、あとでおおせになった内容がかかれた紙がまわってきて内容をしるものだった、というのが二条城の会談の顛末だったはずです。手塚治虫の『陽だまりの樹』にかかれていた気がします。

 徳川慶喜は、普通は“源朝臣慶喜(みなもとのあそんよしのぶ)”と朝廷から下賜された苗字をつかって名前を書くでしょうし、名前を呼ぶのをはばかられる時代であったように思います。それを下々の武士が平気“徳川慶喜”と呼ぶ。せめて幕末の混乱になって風紀が乱れて偉そうな呼び方をうるようになった、とかひねってくれればいいのですが。


3、殿の御前で食べ物を口にする。


 最終話で、龍馬が松平春嶽公に謁見した際、脇に控えた家来の三岡八郎が節操なくやっていました。武家の世界でこれは許されるのでしょうか?それに三岡は龍馬にあったときは牢の中にとらわれていたはずですが……。



 大河ドラマを見る視聴者は、歴史を勉強するようにみる長年のファンも多いと思います。ほかのドラマ枠とはまったく違う意識をもってみる方にディテールがおかしなつくりははっきり言って疑問です。気になったのは、YAHOOドラマのコメントで高知県の方と思われる方が


 こちらでは『龍馬伝』を話題にする人はいません。事実と違いすぎる。失望しました。


 といったかなり厳しい評価が散見されました。これはかなり重く受け止める必要があるようです。


 筆者もいろいろ書いてきました。もちろん間違ったことを書いてあるかもしれません。ただ、ドラマの出来はよくても、この作品は現代劇のつくりなら受け入れられても、時代劇としてみれば時代考証をおざなりにしてしているように感じます。考証に専門家のかたが加わっているはずですが、どういった仕事をしているのでしょう。


 残念ながら『龍馬伝』の評価は


 意気込みは買えるが、偉大な失敗作


 といわざるをえません。『ハゲタカ』では押さえ込んだ屈折した感情や、緻密な買収劇を繰り広げたのに、『龍馬伝は』暗殺のカウントダウンにこだわるあまり、政治劇の複雑さをまったく描けず、おおげさなだけでそこの浅い人物ばかりつくってしまったようです。坂本龍馬は鷲津政彦のように出来なかったのでしょうか?かつらをつけた現代劇を大河ドラマで見るのは正直たくさんです。 

 賛否両論あった『龍馬伝』がついに終了いたしました。龍馬さんの情熱にひかれた方、歴史的事実から離れていると思われた方、などいろいろいらっしゃると思います。


 ただでさえ文章が長いブログですが、これはさらに長くなりそうですので2回に分けて執筆しますので、どうかお付き合いください。


 1回目は、とくに龍馬さんの人物像について描きます。


「遥かなるヌーヨーカ」の回だったでしょうか、死を間近にひかえた八平や家族とともに龍馬が浜辺(桂浜?)で夢を語る場面がありました。福山雅治さんがNHKに出演されたときに視聴者が選ぶ名場面で2位に輝いたシーンです。


 砂浜に棒切れで世界地図を描き


「みんなあを船に乗せて、世界を見せたいがじゃ」

 世界の海援隊をつくった男の原点ともいえる思考がひろびろとあきらかにされたシーンでした。


『龍馬伝』の坂本龍馬は、家族の愛情と、土佐で出会った人々に影響されて維新への扉を開いたように描いているようです。とても純粋で繊細な人物像を作り出しました。


 しかし、第4部に入ったころからひとつの疑問が湧いてきました。それは


 龍馬はいつまでも幼い子どものままで大仕事を成し遂げたのだろうか?


 坂本龍馬の人物像を端的にしめすエピソードに、“剣と銃と万国公法”という龍馬を好きな人なら誰でも知っている話があります。ある友人に熱中しているものを聞かれ、友人がいわれたとおりに熱中していると、龍馬は友人に先んじて次々に必要なものをかえて身につける、という話です。


 この話が実際のものかはわかりませんが、私はこの話に龍馬の本質があらわれているように感じます。


 坂本龍馬は、どんどん成長する。どんどん変化して大人物になっていく。


 龍馬の人生は、そのエピソードにそってわけると


1、土佐の時代(剣)

2、江戸の時代(銃)

3、奔走の時代(万国公法)


 ざっくりわけるとこうなります(かなり極端ですが)。

 

 すこし偉そうにいってしまいます。成長と一口にいいますが、それは親兄弟の精神的影響を脱し、自分の考えで生きていくことだと思っています。誰にも邪魔されない自分をつくること。


 龍馬は自筆の手紙を多く残しており、家族への愛情あふれる私信をみれば血縁からくる影響をみとめるのは自然です。しかし、単にあまえるばかりではなく、姉の乙女には


 土佐を出奔しないでください。


 とたしなめ、後藤象二郎と手を結んだことを憤慨している姉を諭している内容の手紙もあります。


 つまり、家族にもきちんとものが言える男になっている。『龍馬伝』の描き方は、たとえば最終話の冒頭で武市半平太や岡田以蔵を登場させたように、土佐の人脈だけが龍馬に大きな影響をあたえて人格形成されたストーリーを展開している。逆に言えば、とくに勝海舟の庇護をはなれてからのえがきかたは、すべての政策を龍馬の内面から湧き上がる情熱だけで成し遂げたようにかいている。元服してから情熱だけで動く人間はいないし、政治や人脈を結びつける要素はもっとどろどろしたところをわかったうえで作りあげていくのではないでしょうか。

 いつまでも、土佐の時代の心で、情熱をふりかざしているにんげんがあれほどの仕事ができるでしょうか。龍馬さんはいつまでも子どものままで、土佐時代の人格のままで幕末を生き抜いたのとはおもえないのです。


 家族を船に乗せたい一心だけで維新を成し遂げたのでしょうか?もっと後半生にも、龍馬を突き動かす出来事があったのではないでしょうか?それにふれてこそ成長なのでは?しかし、できあがった龍馬像は、ややお子様っぽく、精神的に成長していない現代的な若者にできあがっています。


 今回、福田靖氏が脚本を担当したことで、情熱にみちた新しいヒーローとしての龍馬像を造形しています。ドラマとしてみれば、私は製作側が意図していたつくりになっているとおもいます。龍馬さんに感動していた、とのコメントがおおいのは視聴者も正しいし、スタッフの力量も確かです。しかし、ドラマの放映開始から最終話まで情熱ほとばしる龍馬としてえがいてしまったために、なぜ薩長同盟をなしとげ大政奉還に参画したかがわかりにくくなっているのでは。中岡慎太郎や岩倉具視などの登場がすくない(でてこない)つくりをしてしまったために、龍馬がおこした奇跡の真の内容がつたわってこない。

 情熱はかなりあやふやで言葉にならない感情です。そこに突き動かされるだけで政治はできないのではないでしょうか。

  

 昔、『青春グラフィティ・坂本龍馬』という作品があったと記憶していますが、いつまでも青春するだけの龍馬は、ぜんぜん魅力ある人物にはうつりません。会う人によって評価が変わるようなひとは、情熱で突っ走る青年時代をのりこえた精神が宿っている、龍馬はそこが本当の魅力だと思います。33年という短い生涯以上の精神的な蓄積があったと信じています。


 いよいよ、このドラマの主題、日露戦争へと突入するのですが、冒頭のモノクロの画面でいまだに正岡子規(香川照之)が紹介されているのがやや残念です。子規は鬼籍に入ったので、別の画面に差し替えてほしい。


 今回は秋山真之(本木雅弘)と稲生季子(石原さとみ)の結婚がハイライトですが、筆者はそれ以外のシーンにこころを奪われてあまり慶事をたのしんで見る気分ではなかった。


 冒頭、秋山好古(阿部 寛)がロシアから軍事演習をみるよう誘われる。それも帝国主義に凝り固まって日本を見下すロシアの示威行動だったのですが、もはや対戦国になる日本の軍人を招くとはロシアも横柄というか悠長にみえる。現代で、メドベージェフ大統領やプーチン首相が菅総理を招待するとはとても考えられない。好古も平気で乗り込んでいくのがたくましく見えるが、日本の外交官や政治家はだれもロシアに行こうとしない。

 相手国にのりこんだ好古は、ロシア士官とたわむれ、腕相撲をして交流を深める。そして


 敵として相まみえたら、そのときは存分に戦おう。


 と高らかに声を上げる。相手の懐にはいって胸襟をひらいてまじわり、心おきなく交流する。血で血を洗いあうことはお互いわかっているのに、肌のふれあいはとことんおこなう。騎士道、武士道は相手をたたえあうことで成り立っていることが見える。核ミサイルやステルス戦闘機がはびこる現代では生まれえない精神なのでしょうか、戦争という非人道的なことが待っているのにうらやましくおもうところもある。


 真之がいよいよ出征をむかえ、習志野の自宅で家族に見守られているとき、好古は弟のために一筆したため。


 しゃかいの役 一家全滅すとも 怨みなし


 好古は自分が戦死して日本が焦土に焼かれることを覚悟しながらも、平静として覚悟の一筆を手渡す。ロシア士官との交流は忘れさったかのように目の前の大事に全力をつくすことを考えてゆるぎない。

 万事、戦略研究に没頭する真之とちがい、好古は酒をたしなみ、ひととの交流をたのしみ、折々のできごとを受け入れる懐の深さがある。こんな上司がいたらだれでもついていくにちがいない。阿部寛さんはもともと好きな方ですが、このドラマ(小説でも)で最も好きな好古を演じているだけにもっと見たいとおもってしまう。


 やがて、連合艦隊も戦闘態勢に入り、避けえないロシア戦にはいる。軍事記述が中心となって、人物ひとりひとりに惚れこむいとまがない点描画のような景色になってゆく。もはや日本そのものが主人公になり、人間のおもいが省みられない非常事態が来る、そこにただ呆然としてしまうのです。

 今回、主人公のひとり、正岡子規(香川照之)が黄泉へたびだつドラマですが、筆者は妹の律(菅野美穂)が気になってしまいました。だいじなあにさんをうしなって大丈夫でしょうか。子規は仕事のおおさを苦にしながら十七夜の日に旅立つ、その傍らで律は


 戻っておくれ……、あにさあん……


 こらえた感情が噴出すように泣き崩れた。


 ここから第2のリーさんの人生がはじまっていく。このときの彼女の表情は、脱俗して生気が抜けたような顔をしていました。このとき、律が子規をみとることですごした健気な青春が幕をそっと閉じました。


 律はそういう人柄であるために病的に人を疑うようになった。


                     『ひとびとの足音』 上巻 P102より


 子規が死んだあと、養子に入った忠三郎氏を中心とした正岡家をえがいた司馬遼太郎の小説では、律の性格をやや権高くて潔癖なものとして記している。忠三郎は養母となった律にはあまり近寄らなかったと記しているが、この小説の律と、ドラマで菅野美穂が演じるリーさんがどうしても結びつかずにやや困惑している。人を寄せ付けない律と、けなげで愛らしいリーさん、どちらが本当でしょうか。


 筆者は勝手に子規の随筆の文章をききながら、「看病に疲れて性格がくたびれてしまった」がために、リーさんの性格が年がたつにつれて意固地になったのだと決めつけている。小説では、子規の死後、律はほとんどあらわれないが、ドラマでは律の学業生活をえがかないと、どうしても人間味あるストーリーにはならない。戦争にまきこまれる弱きものが生きる姿の典型として、律の登場はまだありそうです。


 男手が消えた正岡家で女性が戦時中を生き抜くのは非常に困難だったろうし、稲生季子(石原さとみ)が登場して真之(本木雅弘)と結婚するすがたをみるのは、気丈なリーさんでもさぞつらいに違いない。リーさんの生活がつらくなるのと、戦争がふかまっていく情景が重なるかとおもうと、ドラマを見ていくことの重みをを勝手に感じてしまう。でも、明治の人は、信じがたいほど健気に生きていくでしょうから、こちらとしてもこころしてみてやろうというところでしょうか。


 菅野美穂さんの演技は、今回は大事なひとをうしなったあとににもかかわらず人生をすすむ強さと、精神的疲労がややにじむ感じがよく出ていたようにおもいます。あえて、目力を強くしていないところが秀逸かと。


 律の人生は、結婚する相手にめぐまれない人生でしたが、傍目からしろい目で見られかねない人生をおくったがゆえに、子規をふりかえるときにおもいだされる人生をおくった。なんとも、皮肉なものです。


 真之が子規の葬礼をみおくったあとから、ひきかえせない戦争がはじまる。市井のひとが否応なしに飲み込まれる、そのしのびよる足音を律の背中にみてしまうのです。

 いよいよ『坂の上の雲』がはじまりました。正直待ちわびました。香川照之さんが岩崎弥太郎から正岡子規に変身しているだけで、一気に時代は幕末から明治にタイムスリップです。青びょうたんなくせにガキ大将ぶる子規をみただけで、一年待っていた甲斐があったというものです。

 正岡子規の病状が死出のみちへ静かに行進をとめないように、日本が対露戦争へ着実に近づいていく。それがわかっていても、ドラマは重いスタートを切って奈落へとはしっていく。第一部の明るさが消え、誰もが対露戦争を意識する、こちらも心をこわばらせるおもいです。

 筆者はBS-hiで一週間早く視聴しただけに、感想を書かずにいるのはとてもしんどい。秘密をかかえているみたいで胸苦しい。


 

 余談ですが(司馬さん風です)現代の日本は外交で後手を踏んでいる。いや、手を指さずして投了したようなものだ。尖閣諸島問題では船長の抑留を解く判断を沖縄地検にまかせ(裏で地検に手を回した?)たあげくに中国に足元を見られ、ロシアのメドベージェフ大統領の北方四島訪問は指をくわえてみていた。

 事態を矮小化して「領土問題は存在しない」といいきっているが、政治家が動いて相手の懐に飛び込まなければなにも解決への道は開かない。会議があるたびに相手国とのセッティングに右往左往するばかりでは国益は守れまい。中国での会社員拘束問題でもなにひとつ有効な手立てを打てないことから見ても、今の政府では海上や国外で国民に重大な事態がおこっても守ってもらえることは期待できない。今の政府は信用ができない。



 しかし、『坂の上の雲』の時代でもけっして手放しではほめられない。明治の時代でも汚職はすでに政治家のあいだで横行していたというから、昔はよかったという気分にはなれない。

 平和ボケした筆者は戦争バンザイとはいえないし、人殺しはたくさんだ。だが、このドラマを見て明治政府が国土を守ろうとしたことはうなずけるものがある。国土が外国人に蹂躙されるとの恐怖が心中に巣食えば、日英同盟が結ばれたときに生まれていたら日章旗をふって喜んでしまうだろう。ただただドラマを見て、おおげさにいえば国家とは、戦争とはなんぞや、と問いかけるしか成すすべはない。



 

 今回の主人公は、広瀬武夫(藤本隆宏)といってもよく、アリアズナ(マリーナ・アレクサンドロワ)との交情が切なさをかもし出す。ふたりの愛も戦争の前でははかなく消えていく。それだけに、ふたりで見つめた湖から立ち上る“アサヒ”、「荒城の月」の調べに乗せてこころによぎる、桜が舞い散る中のふたりの生活……。広瀬の胸にせつなさ、はかなさが増すほど、すべてが美しく見え、それはアリアズナにとってもおなじことでしょう。

  

 広瀬はアリアズナに


 日本の軍人は力が強いだけでなく、心がやさしい。


 と静かに語り、アリアズナが、それはグマナスティだと答える。広瀬は武士の心を語ることで、日本人の慎みをかたるが、どこかで別れの悲劇を抑えようとしている。

 武士が持つ慎みを知っていた(少なくともあこがれていた)広瀬が、アリアズナへの思いを押し殺して別れる、明治時代のよさがあるとすれば、江戸時代の精神がのこっていたことだろうか。広瀬はこのドラマを貫く「武士の精神」を、湖でアリアズナに語ってみせる。ふたりが別れを話す銀世界のしーんでも、アリアズナは広瀬に

「この手に銃を握ってわが祖国と戦います」

と決意を伝える。愛情を分かち合うふたりが醸し出したグマナスティのこころ、それがはかなくも美しいシーンの隠し味になっている。デヴィッド・リーン監督の『ドクトル・ジバゴ』を思い出す、といったら古いですね。でも、古典的なにおいもする慎み深い場面の連続、ふたりが話すだけでどこもかしこも美しく、こちらはひきこまれるばかりです。

 しかし、戦争は美しいものほど無残に引き裂いていく。人間は簡単に大事なものを壊していく、罪深いいきものです。



 映像が美しいのは子規の登場シーンにもありました。


 一枝の寒梅を袖にして のどかな春でございます


 の歌に彩られて赤い梅が枝をもつ子規、これは映像美の白眉です。映画『シンドラーのリスト』に登場する“赤いコートの女の子”を思い出す絵の美しさ、この場面は、くりかえし見てしまいました。


 次回、子規が旅立ちます。待っているのは帝国主義の地獄です。戦争を扱うドラマなのに見るものすべてが美しい、その残酷さがやりきれない。