Prose  -5ページ目

ぇぇーと...。

先日、思い立ったように 長文挙げましたが、
なぜか、たまには書いてとリクエストくれる人が、
実はダーツやってない人だったり、あるいは、
日頃、それこそホームでリアルに会って、
時折、手合わせしてるダーツァーから、
あの記事のあそこ‥なんて遠回しに言われてみたり。


先日、そんなこともあって、
どこに載せようかと思い悩み
とりあえず従業員とのミーティングのネタとして
仕立てた文章を多少変更して
ここに貼りつけたのが事の真実。 


このダーツを始めてから、すでに4年  


、 よねん? !! ぇえ!



皆さん、どうなってるんでしょ?


辞めちゃった人もいるのでしょうか?



書くのをやめたのか、
ダーツ自体をもやめてしまったのか?!‥


仕事が忙しくなってしまった人。
生活環境の変化からダーツに関しての
様子がわからなくなった人。(名古屋のアナタですw)
ときどきLINEで連絡をくれる人。


みんなそれぞれ元気そうで、
たまにブログを拝見すると
それぞれ顔も浮かんで、
懐かしさ覚えたり。


だんだん書いてきて悩んでいたことが
まるで霧が晴れるようにできるようになると、


過去、できるようになるために
あれほど繰り返した思考錯誤(考える)や
実体験失敗なども

記憶の彼方に飛んで消えていき、

「結局、矢るしかないんだよ。」なんて
言いたくなりませんか?(笑) 


ぃや、言ってませんか?。


そんな自分を見ると、あの時、
シンプルに自信満々、
一言でさまざまな分野で道を説いてみせた
あの教祖さまやあの達人たちも


もしかして?‥などと 穿(うが)ってみたりの天の邪鬼w。


通ってみないと知れぬ道

とはこのことでしょう。


さて、


実際の入る入らないは、

別として(別でいいのか?笑)


もう「やるしかないんだよ。」と導きだせたなら、
あなた自身の達観は成されたのかも知れませんね。

そこが全てと思えば、そこば全てですし、
あるいは考えるに疲れたら、思考を止めるのも一興。


人は、すべからく、
それぞれの解釈の世界に生きているのだから。


自分以外の世界(価値観)を
自分の世界(価値観)へ取り込んで、
照らし合わせたり、融合させてみようと思う動機、


それはまるで客観的に それを選んでいるようで、
実は自分と、思考的に そう遠い距離になかったり
「好き」と好感を持ってたり、あるいは、
解り易い、覚えやすい等の深層心理に適った上での
出来事であることが多いものですし。
(学問的に視てもそういう傾向がある)


ここ数年は、無料でも質を確保したダーツ講座テキスト、
(有料ではあるけれど)映像や一応のメソッド化なども
序々に構築され、より解り易くなってきたこの世界。


あっと言う間に上手で、強くなる若い人も
どんどん出てきています。 


負けてられないなぁ~。。

ちゃんと 同じテンションで続いてますよ的報告エントリーで

ございました。^^

⑤ シナプス反応

今回、それぞれ時系列としては
別々に生じた事象たち。


昨日、WBCのあのダブルスチール失敗にしろ、
わが社の社員研修でのCAの方の講義にしろ、
ペーパードライバー研修エピソードにしろ、
多くを関連づけて いろいろ学ぶ事ができる。


「感じる」とは、箇条書きにできないほど、
また、言葉に表せないほどの
種々雑多でありながらも重要性を持つ情報が
もの凄い数、もの凄いスピードで脳内処理されている。


その感じながら判断、決断するときに、
大枠のガードレールの意味あいとして、
また、自分個人の概念や感情に左右されて
舵の切り先を見誤らないために、「考える」
「考えられた」 決まり事がある。

そして、

その決まり事も、

実は、先人の「感じる」を
丁寧に抽出された「コツ」という名の
知識の上澄みで出来ている。


そういえば・・

ある有名選手、才能人の言葉で、
「考えるな!感じろ!」というのを

聴いたこともあるだろう。


そういった多くの科学的な

フィルターを通してみると


それらの発言の多くは、

たいがい今現在、才能を開花した後の

発言である事に注目したい。


「感じる」という<直感>は、
無意識下にまで落とし込まれた

多くの経験たちが、それぞれ手を結び、

新しい対象、処理、そしてそれが又
経験記憶として増えていくことを物語っていて、


経験の浅い者の <あてずっぽう>とは、
まったく異質なものだということ。


先の才能発揮されている人の発言も、
嘘ではないけれど、実は、

そういった高いレベルだからこそ、
「感じる」ことの必要性が理解でき、
シンプルに答えが向かっていくということを知るべきだ。


努力がいらないとか、

何も考えないでいいということではないはずなのだが、

人はたいがい、思いだしていると自分自身錯覚をして
悪気なく その時に思い描いた「作話」 という

症状で語る脳の癖がある。


それを知っておくことも、

先駆者と呼ばれる人の話しを
正しく理解するためのコツだと言うこと
これも付け加えておこうと感じた。


それにしても ザンネン (´・ェ・`)


④ シナプス反応

つまり、運転という、

長く経験すれば無意識下に刷り込まれる前の、

未だ「考える(ながら)」段階にある人に、


更にカーナビ情報などを見聴ききさせ、
「考える」脳内作業を加わえてしまうことで
処理が間に合わないという状態を
作りだしてしまう。 


カーナビに頼ってると道を憶えない。

などと聞くこともあろう。それは、
まったくの初心者にとっては、
カーナビに頼るどころか、運転がおぼつかなくなる。


せいぜい 音声が唯一少ない情報流入であり、
目で追う画面、信号、歩行者、路地、標識、
などは目から入った多くの情報が、

網膜を通して脳内処理されているわけだから、
そういう意味でも 足かせが増える・・となりかねない。


カーナビで思いだしたが、

自分自身今は、運転しながらカーナビを流し、
i-Padでもナビを表示したりする。

プログラムした人によってだか、
条件設定によるものだか、

その目的地に誘導する道筋が当然のように違う。


その中で、自分は無意識に「感じ」ながらチョイスし、

時に、どちらの誘導路もそむいて舵を切る。


仮にだ、技術革新の今の世、
右側の前後タイヤの方向性を
i-Padナビに連動させ動かし、


左側の前後タイヤの方向性を
カーナビと連動させて動かしたなら


運転手である自分がハンドルを離し、
まさしく 「いけるなら行け」 

安全に早く行けと手をほどいた場合、

うまく連動をはかれるとは思い難い。


どちらも プロと言われるプログラマーが
プログラミングし制作された商品であるはずなのだが。


安全に到着を叶えるならば、
やはり、ナビゲーションを一つにするか、
あえて二つ使う場合には、条件設定や連動性を高め
やはり自分が ハンドルを握り 曖昧にしないこと。

そして、自分で決めてルートを選んでいくことと言える。


コンピューターのプログラミングより、

さらに高次な処理能力を持つ、人間の頭なら

なおさら 曖昧は、多くの可能性を導きだしてしまい、

そのぶんだけ合致する選択肢の確立を低くしてしまいかねない。



(⑤につづく)




③ シナプス反応

作戦構築は「考える」もので
盗塁実行は「感じる」もの。


しかし

その実行の上での「感じる」とは、
経験の繰り返し(量:経験の体験記憶)を大前提とした
考える作業(質を高める補正作業)の多くの補正、
繰り返しの上に構築されるもの
という
大原則が 成り立っていることが知れる。
(科学的な見地から視ても)



「感じる」と「考える」を解き明かすとき、
どうしても「感じる」を
「いきあたりばったりの衝動的行動」
と捉える向きもある。

感じて行動する「身体性」よりも
考えるという「精神性」の方を貴重なものと
する向きも少なくない。


********************


先だって興味深い事があった。


わが社において、
車線変更が上手にできない
ペーパードライバーの進入社員がいた。


数週間に渡って 運転技術やコツの教習を
おこなうことになったのだ。


その際に担当した者からの報告で
それは、終業間近、本人も運転が慣れ
最後の帰社ルートに限って、
カーナビも併用して帰社してみようかと提案したという。


ところが、カーナビを作動させた途端、
曲がる方向(曲がる所ではなく)すら
間違えてしまったのだと言う。


慌てて、カーナビを使用するのを
止めましたというもの。


もともと運転の操作とは、
操作機器類のスイッチ場所など憶えるという

そもそも暗記しておかなければ操作すらできなものと、


その他、

運転するに合理的な椅子の位置(ドライビングポジション)
ハンドルを持つ両手の位置 などなど、
過去の経験に基づいた (最大公約数的)合理的な
位置、角度というものを憶える(知識の蓄え)ということも
遠回りを回避し上達を促すために有効な
コツとしての記憶もある。


これは、他人が経験記憶から

無意識下にまで落としこまれた有効な手立てを
それぞれ形、言葉、映像などに後から

有意識上に抽出し暗記レベルにまで絞りだしたものもある。


実際の運転と言えば、ハンドルを回すのに、
上腕筋を収縮し、右大腿筋を緊張させてアクセルを踏み‥
などと憶えるものではなく、
基本的には体験によって記憶するものだ。


これは、ボタンをはめるとか、箸を使うとか、
それこそ あなた方 大人であれば、
すでに無意識下記憶が定着し、
そこは当たり前のようにできているであろうことも、

小さな子供を見ればわかるように、

幼子は、ボタンはめる時も、そのボタンと穴を凝視し、
一生懸命有意識としてはめている。


その段階的記憶の浸透具合が必要とされる。


一方、目や音(音声)などの情報(脳内処理)は、
明らかに有意識の中で聞き、判断し、
まさしく「考える」もので、「感じながら行動する」のと

「考えてから行動する」のでは、
そこにタイムラグが発生するのは必然だ。


ましてや

時間軸で明らかに動いている車の運転などは、
あきらかな差となって明確にその差を視て取れる。



(④につづく)


② シナプス反応

ここまで話せば、

どこへ話題が行ってしまったか判らぬ(笑)


昨日のWBC、プエルトリコ戦終盤での

ダブルスチールミスの共通性も視えてこよう。


ダブルスチール…1塁上にいる選手が2塁へ、
2塁上にいる選手が3塁へ、2人の走者が
 ほぼ同時に次の累を走塁によって陥れる行為。
 (打者は打たない。)ゆえに
 投げる人は、遅いモーションで投げると
 走りやすくなるので、それを阻止するために
 クイックモーションという方法により、
 その盗塁(スチール)を阻止しようと掛けひきをする。

接戦終盤、ビハインド状態。


メンバーの中では、頼れるうちの一人、
打つ確立が高いうちの一人が座する
4番目の打者であり左打ちの打者、阿部選手。


キャッチャーはメジャーリーグ屈指の強肩
と言われるモリーナ選手。


捕手から2累までと、
捕手から3累までの距離差(約10メートル)


などなど、
それぞれの条件を頭に並べたてて
成功率のソロバンをはじき判断し
決断まで持って行く。


しかし、


その「考える」条件のそれぞれの中に、
これまたそれぞれの選手が「感じる」是非が存在し、
それこそ数値化、条件化出来得ない
個性や感性をも含まれているところに
1+1ではない難しさがある。


ANAのCAの方々が目にする、
あらまぁ!と思うほどの
(思うかどうかは判りませんが、
少なくともそういう組織を目指す人にとっては、
その企業と個人の関係性から視て
それを「はぁ~?」と思う人は、
そもそも入らないのかも知れないしなぁ)
髪型に関する膨大な決まり事を作る目的もそうだったように、
個人の「個性」やら「感性」やらは、
大勢でシステム的に動かんとする時、
時として一糸を乱し、往々にして
そこから大きくほつれを見せてしまう事も少なくないし。


つまり、野球ならば敗戦を、
会社なら信用を。


個別の盗塁(個人だけに任せられた世界なら)は、
自分自身の力量を熟知した上で、「感じる」
いけるいけない(成功するしない)のタイミングをもとに
感覚的に判断、決断をする。


それこそコンマ何秒という中で。


その「考える」を更に 無意識下した「感じる」ことを
同じワンシーンの中に、
別々の感性(選手それぞれ)のするどい複数の者たちを
あの瞬時に「いけたらいってもよい」というのは、
<2塁走者、1塁走者という環境条件の違い>
<個人の走塁能力の違い>という重要な要素を
局面にフィードバックできないのは、
「挑戦」と「無謀」の狭間で大きくその針が
失敗にむかって動いてしまったと思ってしまう。


"こうしたい"(展開や流れをこちらに向けたい)

という思いが、焦りを呼び、
先だっての鳥谷選手の奇跡の盗塁の成功例も
成功体験として確実なものと見誤り、
その希望的観測と相まったのか。


それはまるで、子供時代の鬼ごっこ。


鬼が近づき、過ぎぬ間に

じっと堪えていられずに 見つかることを恐れ、

(見つかった場面を想像してしまっている)
より安全な場所に我が身を移そうと行動し、
物音立てて まんまと見つかってしまう
心理状態に似てる。


それは、

勝ちを焦り ゲーム終盤

「Nice try!!」とばかりに
自分のスタッツをかえりみず、トリプル狙いする

(実際には狙える条件を身体が満たしていない)

カット(阻止)に行く行為にも似ているよう。


そう、、挑戦と無謀は違うし、
あてずっぽうと勘も違う。


(③につづく)