◾️1杯目↓
◾️2杯目↓
◾️3杯目↓
◾️4杯目↓
そうして遂に、大団円(笑
またぞろ枕。
昨日のヴィクトリアマイル(G1)、いちおうワタクシ馬券は取ったのだが。。。
でもさすがにテンハッピーローズは買えませんでしたねぇ。
◆レース動画
モレイラ、下手やなぁ。まるで先週のルメールを見ているみたい。
1番人気のマスクトディーヴァ、直線で詰まる。これな、外から確かに⑮のドゥアイズ(鮫島克駿)が蓋をしてはいるけれど、もっと早くに内か外か進路を決めなきゃ。なんならちょっぴりブレーキ踏んで。
ヤフコメ中心に、アレな人々は「これは仕方がない」などと。こいつら96年秋の天皇賞・サクラローレル事件を知らないんだろうなぁ。
マスクトディーヴァの今回ほどあからさまではないけれど、ポケットに入って勝ちを逃してますよね。
当時、サクラ鞍上の横山典弘騎手は境勝太郎調教師から「あーあ、1億円損した」とディスられたもの。
※ ちなみに、これを糧に横山典氏が次走・有馬記念をサクラローレルで圧勝したのは周知のとおり。
横山典弘が下手なら、昨日のモレイラだって下手でしょう。
自分はかろうじて2着3着のワイドを拾いました。最終オッズは4.7倍も、厚めに買っていたので何とかプラス。
マスクトディーヴァを軸にして、相手は最終追い切りだけで選びました。
枕、終わり。
劇団四季『ジーザス』の感想文をこの1週間書いたけど、自分は「劇団四季」や『ジーザス』を、全くディスってなんかいませんぜ。
上掲の過去ログ、1杯目と2杯目ではむしろ褒めた。
俺が「うーん、この🧐」としたのは、あくまでも2024年5月6日の13時公演についてであって ー それでも褒めたんだが ー、 いいですか。舞台といふのは最低でも2回は観なけりゃ分からない。
自分は当該の、2024年5月(以下同文)しか観ておらず、この瞬間的な観劇のみの感想文を上げたわけです。
にもかかわらず「スパイスの野郎、ディスりやがって!」と思うなら、それは君が馬・・・もとい、そもそもシアター・ゴアーでない証拠。
だってアレだぜ? 演るも人間、客も人間。ライヴパフォーマンスとはすなわち「生もの」なので、全く同じ演目・同じキャストでさえ、公演によって全然違う。
これが演劇の面白さであり、この愉悦を知悉して、同じ演目を何度も観る人を“Theater Goer“と申します。
ある意味玄人よね。
宝塚歌劇でも、好きな人は例えば宙組の同じ演目を、日本全国津々浦々追っかけて、何度も何度も観劇す。うむ、確かに好きなスタアはありましょう、が、おそらくそれだけではない(たぶん、ふつう)。
毎回変わる生ものの、その手触りがたまらないからだ。
「毎回違う」。これ、覚えておいてくださいね。試験に出るぞー
言い訳を、しているつもりは全くない。真の芝居好きにはわかるだろうが、単に事実を述べています。
ゆえに『ジーザス』も、ワタクシ機会があればまた観たい。いったいどういうことになっておるのか。
当該の、2024年5月6日(以下同文)に話を戻すと、自分はあれこれ思ったが、客は概ね拍手喝采。
ここで右と左が峻別される。あなた、ホントに良いって思ったの? いや周囲に影響されたんじゃなく、母親の霊に誓って。キリストの神に誓って。
劇団四季『ジーザス』=レジェンド作品だから、拍手したんじゃないの?
もしそうなら、日本の観客(というより、あそこにいた客)は、アレなのかも。。。
何が言いたいかというと、5月6日の京都劇場に限らず、どこまでも自分の頭で考えれ。つーこと。
君は果たして、本当に良かったのか?
むかし話。今から20余年前のこと。
蜷川幸雄『マクベス』を近鉄劇場で観た。キャストはマクベスに唐沢寿明、マクベス夫人が大竹しのぶ。あとは六平直政等。
シェークスピア作品は台詞が命であるが、(先日の『ジーザス』よろしく)タッタカタッタカやるもんで、肝心な台詞が全く聞き取れない。ゆえに、ほれ、劇場に、よくアンケート用紙が置いてあるでしょう?
俺はこの点、めっちゃ書きました。「頼むから、そこんとこ夜・露・死・苦」つって。
シアター・ゴアー的に、翌日も観に行きました。すると、あら不思議。
台詞回しがゆっくりに。すごく聞き取りやすくなっていました。
いかな蜷川さんとは言い条、そんなもんなんだよ。
くだんの『マクベス』。台詞問題さりながら、唐沢君の芝居はいかにも平板・直線的。大竹しのぶは名優だが、彼女はあくまで映像の女優なので、舞台はまた別儀。
舞台セットは凄かったけど、言うたらただそれだけ。
なので不躾ながら、隣の席の見知らぬ女性についうっかり、聞いてしまいました。
「これ、どうでした?」
「良かったですよ」
そっか、この人には良かったんや。。。
感想は、確かに人それぞれである。自分だけが正しいとは言われない。
そこで問われるのは、一切忖度抜きで、蜷川作品だからとか劇団四季だからとか、なんなら宝塚歌劇団だからとかの「ブランド」にこだわらす、
本当に良かったかどうか。
自分自身の心に問うて、己の頭や感性に、聞いてみることであります。
※ できればそれを「何ゆえに」と言語化して。
一般ピープルならそこまでしなくてもよろしい。でも、シアター・ゴアーなら。
「良い」と思わなかった作品に、変に拍手しちゃったりすると劇団も演者も「ああ、良かった」「ウケたから、これでイイんじゃね?」。そう勘違いしますもの。
すると、どうなるか。日本の演劇レベルが、どんどんどんどん下がります。しょうもない作品ばかりになっちまう。
いち演目・いち演劇にとどまらず、これめっちゃヤバいって。政治でも何でも同じ事です。
送り手vs受け手の縦軸、送り手同士・受け手同士という横軸もすべて、みんなが馬鹿になるから。
馬鹿にならない方法は、はあ、まず日本舞踊を観る事でしょうねぇ。たおやかな、ひとつの指先。腰をちょっぴり捻ったら、直ちに男性から女性に変わる、あの動き。それを先ず、認識できるようになる事。
あるいは競馬のパドックを観る事。いや、生き物の「動き・姿」てば、動物だろうが人間の芸術だろうが、基本おんなじなんだってば。美しいものは美しく、ダメなものはダメ。
で、それが「結果」につながる。
「結果」とは、しかして、リテラシーの事であります。何が本物で何が偽物か、それをわかるのリテラシー。
やたらと刺激を求める昨今。ゆえに斯くして「ゆっくりまったり、じっくりと」観たら、自ずとわかるようになるのです。
だってオレ、最終追い切りの「動き」だけ見て、いちおう馬券取ったんだぜ?
ーーー
〝ゆっくりじっくり〝言いながら、今夜は激しいこの動き(音)。
◆ヴェルヴェット・アンダーグラウンド ー Sister Ray
なんか凄くね?
延々と、同じような激しいリフの繰り返し。
しかしいっぽう「音を聴くリテラシー」が醸成されると、これが情感に変わるのです。
ーーー
京都劇場の帰りはJRで山崎へ。そこからちょっぴり、阪急大山崎まで歩きました。
今にも雨が降りそうな曇り空。山崎の駅前は、淀の競馬場に通っていた20数年前と変わらぬ寂れよう。
ただ、この寂寥感がすごく懐かしく。
てなこと含め、『ジーザス』を観に京都へ行った1日は、とっても楽しゅうございました。
ありがとうございました。