イラン戦争停戦協議中との報あるが、中東情勢は今なお不透明。
そんな中、2005年の映画『キングダム・オブ・ヘブン』(リドリー・スコット監督)を観た。
第2回十字軍遠征後(第1回十字軍のエルサレム簒奪から約100年後)の1,184年。日本では木曽義仲が範頼と義経の軍に敗れ、頼朝勢が京都を制圧。西に向かって平家追討軍を催していた頃。
フランスの寒村で、村の司祭が墓堀人に、若い女性の遺体を埋めさせようとしている。女性は子の早世を苦にして自殺した若妻で、いわば呪われた存在。どうせ地獄行きだからと司祭は彼女の首にかかっていた十字架のペンダントを奪い、その首を切り落とす。
女性の夫、バリアン(オーランド・ブルーム)は村の鍛冶屋。妻の自殺は夫にも罪ありと、投獄されていた。そんなある冬の日、領主ゴッドフリー・オブ・イベリン(リーアム・ニースン)が一隊を率いて村へやって来る。十字軍に入る者を募る体で、実は自分の私生児たる、息子バリアンを迎えに来たのだ。
牢から出されたバリアンは、領主の誘いをいったん断る。が、「もうこの村にお前の居場所はない」。そう告げる司祭。遺体の首を切ったと仄めかす、彼の首には亡き妻の十字架が。
バリアンは逆上し、司祭を刺して鞴の火に彼を投げ入れる。
一気に燃え上がる鍛冶場。バリアンは馬にまたがり、ゴッドフリーを追いかける。
森で一隊に追いつき、領主に告白する。「私は人を殺しました」。
「十字軍たる私たちも同じだ」と、ゴッドフリー。
そしてバリアンは問う。
「聖地エルサレムに行けば、私と妻の罪は赦されるのでしょうか」
領主は答える。「それを一緒に確かめに行こう」。
こうしてバリアンはエルサレ厶へ。
『キングダム・オブ・ヘブン』は一見壮大な、いわば大河ドラマである(自分が観たディレクターズカット版は3時間14分)。村の鍛冶屋が旅の途中で父の後を継ぎ、男爵に。フランスの寒村から陽光溢れるメッシーナへ。地中海で難破して、打ち上げられた砂漠での、あるサラセン人=ムスリム(アレクサンダー・シディク)との邂逅。これが後に奇縁となる。
ハンセン病を患う、仮面姿のエルサレム王・ボードゥアン4世(エドワード・ノートン)に謁見したバリアンは、その姉たる既婚の王女シビラ(エヴァ・グリーン)と恋に落ちる。
彼の運命は縷々転々。
ただしその結構は、聖地を巡るキリスト教(西洋)とイスラー厶(西アジア)との対立。物語はほぼ史実に基づいていて、今に通ずる部分も多い。
ボードゥアン4世が英明だったのは本当のようで、映画では、ムスリムもユダヤもクリスチャンも、エルサレム王国で共生している。これはイスラエル建国前の状況に近い。
※宗教を跨ぐ共生は、教皇レオ14世が現在しきりに訴えていることでもある。
いっぽうエルサレムの外は強大なサラセン帝国が取り巻いていて、王国の平和もあくまで戦間期の、危うい均衡の上で成り立っている。いつ均衡が破れてもおかしくない。そして必ず、これを破ろうとする者が現れる。王の側近、ルノー(ブレンダン・グリーソン)とシビラの夫、ギー(マートン・チョーカシュ)は停戦協定に違背しサラセンのキャラバンを攻撃。
このあたり、今のイスラエルそのものだ。
両権力の凄さは聖都・王宮の佇まい
や、軍団の威容・その兵数
に表れ、ラストの戦闘シーンも迫力満点。リドリー・スコットらしい派手な作りだが、実際こうだったのだろう。
印象的なのは西洋(及びイスラム)の“Fullfil Your Obligation”(汝の義務を果たせ)ということ。領土領民を支配する者は、先頭に立って戦わなければならないというのが向こうの貴人の掟。なので、いわゆるノブレス・オブリージュ=高貴なる者は相応の義務を負う ー も、単なる道徳ではなく王室の成立過程に基づく歴史的概念だ。
ここが日本の皇室とは異なる。
バリアンも、亡き妻と自身の罪を贖うためにエルサレムへ行ったはず。が、男爵すなわち騎士となったからには、相応の義務を果たさなければならない。
エルサレムの、父の邸宅や土地を継いだ彼は、まず領地の灌漑に勤しむ。領民とともに汗をかき、率先して水源を探る。「井戸掘り名人」もバリアンの民の1人だ。
じきに砂漠の黄白色は、濃い緑に変わる。
死に瀕したゴッドフリーは息子に4つの誓いをさせる。
「敵を前にしても恐れるな」
「勇敢で、かつ正直であれ」
「常に真実を語れ」
「弱者を守り、正しいことをせよ」
バリアンは、その第二の人生における指針を示された。そして父は、ナイトの印たる宝剣を彼に譲り渡してこの世を去る。
いっぽう、ボードゥアン4世はバリアンにこう語る。
「覚えておけ。誰がお前を操ろうとも、お前の魂はお前自身の中にある」
「たとえお前を操るのが王であっても権力者であっても、神の前に1人で立った時お前は“でも、他の人からそうするように言われたんです”とか、“あの時は美徳を表すのに都合が悪かったんです”などと言うことはできない」
妻の自殺=呪われた死、そして自責の念からの、救いを求めてエルサレムに行ったバリアン。だがこれらの言葉を与えられ、次第にナイト(騎士)へ変わっていく。
これがラストの凄まじい籠城戦につながる。
本作はいわば貴種流離譚。ただし青年は、位地にとどまらず魂のレベルで変わっていく。
結局、彼に救いはもたらされたのだろうか。王も他の貴族もいなくなり、たった1人で指揮する籠城戦。強大なサラセン軍を相手に奮闘し、なんとか五分の停戦に持ち込んだバリアンは英雄だ。
だが、エルサレムを明け渡し、シビラとともに故郷の村に戻った彼は、第3回十字軍の徴募でやって来た獅子心王リチャード1世に言う。
「わたしはただの鍛冶屋です」
英国王の誘いを断り、そして亡き妻が埋められたと思しきあたりを一瞥すると、彼は故郷を去っていく。
「歴史や宗教に疎い自分に3時間超えはキツかった」「妻子を喪った悲しみが、もうひとつ深掘りできていない」「いきなり後を継いだからといって、部下がそうそう信頼するものだろうか」など、ネット上のツッコミは様々。ロッテントマトの平均点も5,60/10だから、決して高いとは言えない。
が、自分の心には深く残った。3時間などあっという間。
時勢も時勢だしそもそも自分は歴史好き、クリスチャンでもある ー ということはあろう。それ以上に、オーランド・ブルームの抑えた演技と敢えて心情には深く分け入らず「事(何が起きたか)」をより重視した、つまり叙情詩というより叙事詩に寄った作りはテンポ良く、却って余韻を残らせた。ゴッドフリーやボードゥアン王の言葉が、だから生きたのだ。
救いは果たしてあったのか。映画でそれは明示されない。
ただ、サラセンの王・サラディン(ガッサーン・マスウード)は、「エルサレムとは何か」と問うバリアンに答えて、
「無だ。そして全てでもある」
本作の奥行きは、このひと言に集約されていると思う。
*
◆ボブ・ディランのChanging of The Guards(衛兵の交代)にのせた、素晴らしい動画。
16年
16の旗が連なる 善き羊飼いが嘆く沃野に
絶望した男たちと女たちが分かれて広がる
舞い落ちる、枯葉の上で翼のように・・・













