1杯目↓
2杯目↓
3杯目↓
しかして今日は、4杯目。
枕。明日のヴィクトリアマイル(G1)、早くも昨晩、もう買っちゃいました。
ほぼほぼ最終追い切り見ただけで。軸はやっぱりマスクトディーヴァじゃね?
相手は同じく、阪神牝馬S組中心にぱらぱらと。
なんとかなりませんか。
本題。前回(3杯目)は、もっぱら表題作の〝つくり〝について書きました。以下はそれを踏まえつつ、演者のアレにも言及します。
1杯目と2杯目で、キャストをめっちゃ上げたいっぽう、〝うーん🧐〝的なところも。
ユダ役の佐久間さん。パワフルな歌唱が時として、ガナリ立てるの裏目にも。
氏はジーザス役の神永さん以上に〝主役〝である。また本作が、ひとことで言うなら「苦しみ」の謂であるがゆえ、それを最も体現すべきはジーザス以上にユダの佐久間氏である。
キリストが十字架刑の死に赴く。対して彼を奇しくも(?)売っちゃったユダは、作品の上ではいちおう生き延びる。なので却って苦しむわけだ。
師ジーザスを愛しているから。
斯くなる重要な役どころだからか気合いが入りすぎ、ボーカルが明後日方面に。
いや音程を外すとか、そんな意味ではありません。劇団四季たるもの、不具合は許されないしミスる人などほぼいない。
つまり熱情入りすぎ「悲しい、苦しい」、そう訴えることの連続に。
一般に、「悲しい悲しい」と百万回言ったところで諸人は
「へー、そすか(塩」
である。どこまでも他人事であり、むしろ他人の不幸は蜜の味、美味しかったりする。
世間は大概そんなもの。だから芸能人のスキャンダルもバズるわけ。
で、ユダの不幸は美味しかったかというと、あんまり美味しくなかったし〝悲しい苦しい〝が全然伝わらなかった。
理由は佐久間さんが「悲しい苦しい」をそのボーカルで、歌い=語りすぎたこと。文学もとより「悲しい苦しい」となんぼ書いても逆効果。伝えるには、例えば今日のような快晴の日に、ふと青空を見上げた佐久間さん。佐久間さんじゃなくてもいいのだが、彼は微笑む。
「気持ちのいい日だなあ。そういえば、昨日姉からメールがあって、母が遂に老人ホームに入居」
「同じ話を何度も何度も寸分違わず、まるでテープレコーダーのように繰り返すようになったとか。なんとなれば、一所懸命介護してくれた姉や弟を覚えていても、諸般の事情でそれもできない俺のこと、はてこの人は誰なのか。もうすぐ忘れちゃうんだろうなあ」
深い悲しみって、こんな感じじゃね?
むろん『ジーザス』にこんな場面は作れない。でも、言っていることわかるでしょ?
要は「力で押してもダメ」つーことを言いたいわけです。
本件、いち佐久間さんだけの問題ではない。宝塚はもとより四季の他作品でも、休憩入れて約3時間。
対して本作の上演時間はちょうど1時間40分。こんな短い尺の中ですべてを語り尽くさねばならない。なので、ちゃっちゃチャッチャと進行する。いやむしろ(あくまでも2024年5月6日の13時公演に於いて、だが)チャップリンの映画『モダンタイムス』よろしく、
「はい次はい次、急がねば。仕事をサクサク処理せねば」
的な感が見受けられた。
オリジナルは分からぬが、劇団四季のバージョンは、こんな短い尺のなか、詰め込み感があり過ぎた。あくまで2024年5月6日・・・以下同文。
なので「間ァ」どころではない。
音の並べ方も、守山ちひろ氏のゆっくりまったりメジャーコードで癒したあと、いきなり佐久間のユダさんが、マイナーコードでガッツリと、
♪ わたしのイエスはどこ行った、わたしはイエスを愛しているが、だから却って売らねばならぬ♪
♪ ああ、この辛さ苦しさよ。これでいいのか自分♪
的に、アップテンポの曲でガナリ立てる。
この作りってば、めっちゃ単純よね。
しかも延々このパターンが繰り返されるから、オレもう疲れちゃったもん。。。
前回、マイうさぎを材にして
「まんまるなぽんたくん。いっぽうアレは、いかにも直線的である」
と書いたのは、斯くなるゆえん。
佐久間話を続けます。つーか、これまた氏ィだけの問題ではないかも。
ユダもやはり捕えられ、グレーブルーの照明の、おそらく牢獄に入れられる。そこで氏は歌うんだが・・・
「わいたー、わいたー!」
と言っていたからワタクシは
「ん? いったいどんなミステイクをしたのだらうか。おお、とにかくこれは大ごとばい」
と。
解説すると「わいたー!」とは福岡弁で〝人を轢いてしもうた。こーら大ごと。わいたー!〝的なヨーホーレイク、もとい用法である。
むろんジーザスをアレしちゃったから〝わいたー!〝なのだが、よーく聞いてみると実は
MyGod, My God
と言っていたのでありました。。。
佐久間さんてば入れ込み過ぎ。そんなことでは東京府中の2,000mのレースじゃ保ちませんぜ。
音響の問題かも知れない。が、1階のどセンターな自分はもちろん、2階のクソ下手であろうとも、音がクリアに聞こえなければ、そもそもミュージカルをやる劇場とは言われない。
俺の耳が悪いせいか? いやしかし、ロックにズージャ、クラシックでさえ不肖自分は音にうるさいんだがなあ。。。
演出は故・浅利慶太。70年代初頭から半世紀にわたって劇団四季は延々と、この『ジーザス』をやり続けている。同カンパニーの看板作品のひとつである。
ということは、This isボーカル(台詞)やダンス等であれこれ訴求し、客に受け続けているの証左でもある。相応の値打ちがあるはずだ。
ただし2024年5月6日の京都劇場(以下同文)に限っては、この値打ちが一部キャストを除いては、あまり感じられなかった。
※ 佐久間さんだってめっちゃ褒めたんだぜ✌️ 詳細は、上に貼った過去ログをご参照。
再三申し上げたとおり、劇団四季のキャストの実力は折り紙付きである。だが、芝居といふものテクニックが有ればそれでイイってもんじゃない。
見事なボーカル・見事なダンス。だが肝心なのはその向こうに、大きな丸い塊が見えるかどうかということだ。
舞台が進行するにつれ、この塊が、ごろっ、ごろっと前に出てくる。そしてこの塊こそ、ソウル=魂に他ならない。
客は、この魂にこそ感動する。
言いたいことは概ね述べました。次回は蛇足つーか総括つーか、そんなことに致します。
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では表題〝ある意味ロックな〝(以下同文)的に、またぞろ真のロックをば。
イエスやピラトとの邂逅から英仏の百年戦争、アナスタシア姫が虚しく叫んだロシア革命、ナチスドイツの電撃戦、ケネディ兄弟の暗殺に至るまで、人類の歴史とともにあった悪魔がその来歴を語ります。
◆ストーンズ、かの有名なラヴ・ユー・ライヴより『悪魔を憐れむ歌』。
「いったい誰がケネディ兄弟を殺したのか。結局それは、俺とお前たちだったじゃないか」
ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』に取材した、ミック・ジャガーの名曲のひとつです。