州の避難プラン
昨日のローカルニュースで、リタに関係する死者数が、Harris地域(ヒューストンの南側の地区・ウチも北辺としてぎりぎり含まれる)で31人もいたと報道していた。避難途上の車内で、熱中症などで亡くなった方も多い。水・ガソリン・サービスのない大渋滞の悲惨さが伺える。街が落ち着きを取り戻すにつれて、人々の話題は「リタ直撃を免れて良かった!」から、「州の避難プランはどうなってるんだ!」にシフトしつつある。
夫が聞いたニュースによると、死者数のうち半数は元々危険な状態にあった人たちだったという。そうなると↑のニュースとかなり違うような。州に責任ないんじゃない?みたいな。アメリカは局によって報道姿勢がかなり異なるので、油断ならないっす。
リタからの避難3
のんびり避難道中のことを書いてるうちに、リタは消滅し、私たちはヒューストンに戻ってきました。街は看板が落ちてたり、信号が壊れてたり、ちょっと異変がありましたが、ほとんど無傷でした。家もぴっちり閉めた窓から砂が少し入ってきていて、風の強さが伺えましたが、他には何の異変もなかったので良かったです。
さて、昨日の続きのあのケンタウロスなんですが、あのあたりいったいは歴史保存地区としての観光地だったらしいのですね。なので、あれが普段着といえば普段着なのか…。
しかしその道も最悪に混んでいて、人々のイライラはつのり、だんだん無法地帯に…。車の屋根から顔を出して確認しながら対向車線を走る車、道なき路肩を行く車(ピックアップというごついトラック型の車がテキサスでは人気なんですが、これをやるのはほとんどこの車)など、良い子のみなさんは真似しないように…というワイルドな車がけっこういました。
私たちは異国の地で何かあったら大変なので、良い子にしてたのですが、けっきょく渋滞を抜けるまで、普段は2時間弱(210km)で行くところを12時間かかってしまいました(泣)そして、今度はガソリンが残りわずかに…。ウチの車は燃費が最高に良いおりこうカローラなので、給油なしでなんとか渋滞を抜けることができたのですが、さすがにその先320㎞は無理です。でも、どのスタンドもout of gas(ガソリンなし)という無常な貼り紙が。
やっと見つけたガソリンのあるスタンドにはなんと、パトカーが数台と警官が監視の目を光らせていましたー。こわ~。でもむしろ安心か。たしかに警官がいないことには、どんな状態になるかわからん雰囲気でした。待つこと40分、やっとガソリンを入れてスタンドで水を買っていると、へとへと状態の私たち夫婦に、スタンドのおばさんが笑顔でひとこと。"It will make you strong if you manage it".(もしこれを何とか切り抜けたら、きっと強くなるわよ。)励まされた。じーん。しかも超前向きに。アメリカらしく。ちょっといい経験でした。
避難先の先輩宅の家の明かりを見たときは、ほんとに安心しました。奥様がむいてくれた梨がおいしかったことといったらもう…。(BGMはブームの♪なし)
避難先からの帰りは、市長の避難計画に思いっきり反して、土曜の夕方に早々と出発した結果、とてもスムーズに高速を通って帰ることができました。ヒューストン在住の日本人用の掲示板に、ウチのアパートの被害状況を聞いたら、無傷とのことだったので。渋滞状況もブログで発信されてたりして、ネットは便利ですねぇ。
ちなみに、帰りのヒューストンの街中の高速道路には全く車がなく、5車線ほどある広ーい道が貸切状態で、かなり楽しかったです。BGMはイエモン♪ばら色の日々で。いつもは見えるビル群の灯りはなく、道路だけオレンジに照らされて、ちょっとしたものでした。
これで、リタからの避難物語は終わります。長文にお付き合いくださり、ありがとうございました。結果的には、リタはヒューストンを避けてくれたので、避難の道中の方がむしろ大変だったかも?と思いますが、めったにない経験ができたので良しとします。
今回のことでは、避難先の先輩夫妻を始め、家族や親戚、日本・アメリカを問わず、たくさんの友人から励ましのメールをいただき、本当にうれしかったです。ありがとう^^
リタからの避難 2
午後2時頃の会話。
「こんなとこまで渋滞してるなんて…」
「ていうか、ここどこ?」
「知らない。」
「…よねぇ。」
「あっち向きに車が渋滞してるよ。あっちが北?」
「いや、東なんじゃない?」
「なんで?」
「太陽がこっちにあるし。」
「じゃなんで東向きが混んでるの?」
「高速かなんかあるんじゃない?」
「東に行ってもなぁ。あ、北向きの道路が空いてる。」
「行ってみるか。」
というわけで、この先は太陽を頼りに北へ、もしくは西へ進んだのでした。まさにリタさんに追われるよう。かなり原始的で夜は使えないこの方法は成功だったらしく、車が詰まっている道を避けて、住宅街などを抜け、北・西・北・西…と進むこと3時間、ダラスとヒューストンの真ん中あたりの田舎地帯に。何にもないところで、遠くに牛と馬の点景が。アメリカっぽいなぁ。と呑気に考えていたら、目の錯覚か?!伝説の半馬人、ケンタウロスが!!…なわけなくて(笑)、茶色い馬と同じ色に日焼けして、上半身裸で、テンガロンハット+ウエスタンブーツの人でした…ていうか、この人は誰?これが普段着!?
(つづく)
リタからの避難 1
130万人もの避難者がいっせいにリタを避けて都市のある北や西を目指しました。避難経路は、高速道路はもちろんのこと、普段は沿道に牛が草を食んでいるような何もない一般道路まで大混雑でした。この前代未聞の大渋滞の中、私たちは、痛ましい事故があったInterstate-45(州間高速道路,I-45)を避け、ヒューストンの中心部を比較的スムーズに抜けることができました。夫が移動前ににラジオで道路情報を確認していたおかげです。夫よ、でかした。
聞いた話ではこのI-45は、強制避難命令が出ているガルベストンから避難する場合、通行せざるを得ない道なのだそうです。ヒューストン以南から避難される方々のご苦労は計り知れないものがあります。
しかし、問題は中心地を抜けたあとにも待っていました。ヒューストン中心地から先の一般道の詳しい地図を持っていないので、抜け道ができないのです。出発をした木曜の朝の段階でヒューストン市内はゴーストタウン化しており、店は軒並みシャッターを閉ざしていました。当然、地図など買えるはずもなく…。ガソリンスタンド併設の小さな店のみが営業していましたが、ガソリンを求めて見たこともないほど長い列ができていました。私たちは火曜日の夜に満タンにしておいたので、ひとまず大丈夫でした。
結局、地図はないもののあくまで州間高速は避け、USハイウェイ(インターステート・ハイウェイを補佐する道路)へ。しかし、走ること数分にしてすでに大渋滞。先は長すぎるほど長いのに…。けっきょくこの高速も降り、ステイト・ハイウェイ(日本の地方国道、主要県道に相当)へ。こちらは少し流れが良かったのですが、けっきょくまた渋滞に。このまま進むか、他の道を探るか。ちょっとした賭けでしたが、他の道を探すことにしました。辛うじて持っていたヒューストン中心部の地図の端っこ(その時いた場所)に、道路を示す線だけ引いてあるような道へ。しかしなんと、この道も渋滞していたのです。ありえない…。
(つづく)
避難完了しました。
なんとか無事に、避難先のダラス近郊にたどり着きました。ご心配いただき、ありがとうございました。
朝10時に出発して、到着は翌朝5時でした。通常、5時間程度の距離を19時間かかりました。道中の様子は、またあとで書きますね。ハイライトはガソリンスタンドかなぁ。ね、眠い…。
避難することにしました。
ハリケーンはカテゴリー5に発達して、ヒューストンに向かっています。私たちは、ウチから300Km離れた夫の先輩の家に避難することになりました。これからパッキングします。どうなることやら…。
ハリケーン・リタ
どうやら、ハリケーン・リタがヒューストンに向かっているもよう…。
現時点でヒューストン直撃の可能性は10~20%らしいです。
昨夜、電池など必要なものを買いにスーパーに行ったのですが、ニューオーリンズのこともあってか、さっそく水や食料を買い求める人々で、平日の夜にはありえないほど混んでいました。しかも、そのスーパーは、早くも水が売り切れていました。
ウチは、こないだアパートが断水したときに買っておいた水があったので、事なきを得ました。断水には困ったけど、かえって良かったかも?
昨日も今日もハリケーンの影響か、気温が37℃を超えています。みんな着々と、避難または屋内待機の準備をしているようです。私たちも、頑丈な造りの大学か、他都市の友人宅に避難することになるかも…。
歌なんか歌ってる場合じゃなかったなぁ。
Japanese Ladies Chorus
日本人女性合唱団(Japanese Ladies Chorus)に入りました!
このコーラス団の歴史はだいぶ古いようなんですが、私にとって今日は初めての練習。
久々に大勢で歌を歌って、中学時代に合唱部で歌ってた頃のことを思い出しました。
10月の老人ホーム慰問に向けて、みなさん真剣に練習されてます。
私のパートはメゾ。アメイジング・グレイスなど定番の曲もあるけど、ほとんど知らない曲でした。
覚えきれるかなぁ。
それにしても、日本人がたくさんいて、久々の雰囲気になんだか和みました。
牛乳に相談だ。
(社)中央酪農会議という硬そうな団体が、高校生に牛乳をもっと身近に感じてもらおうという目的で作ったHP牛乳に相談だ。 です。4コマがかなり面白い。
このTVCMは日本では普通に放送しているのでしょうか?
サン違い
いつも道覚えのいい夫が、なぜ間違えて反対方向に50kmも行ってしまったのか?
その真相は…(というほど大げさなものではありませんが)
私たちはサン・マルコスというところに向かってたのですが、逆方向ににサン・アントニオという街があって、夫は「サン・アントニオまであと70km」みたいな看板を見て、サン・マルコスと勘違いしてたらしいんです。そういえば、「けっこうまだあるなぁ。遠いね。」と言ってたな…。だから、50km地点で着かなくても余裕だったんですね。
ところで、来た道を戻るときは雨が降ってたのですが、晴れていた行きではのんびり草を食んでいた牛が、柵の前に並んで雨に打たれてました。牛って雨が降ると柵の前に並ぶ習性があるのでしょうか?ちょっとなぞです。
ちなみに、間違った道は一般道なのに、制限時速80マイル(約100キロ)でした。