子どもの頃に、このタイトルを見た時は、「きっと、復活した魔女の軍団と、アスランとナルニアの軍団が大決戦をするんだろうなぁ」と勝手に妄想しながら読み始め、全然ちがう話に不満を感じた記憶があります。
それぞれにテーマ性を持ちつつも、明るく楽しい冒険活劇であったこれまでの6作品から打って変わって、ナルニア世界の最期を悲劇的に描いています。
長い平和な時代を経て、王やアスランといった権威に従うことに慣れきってしまい自分で考えることをやめてしまったかのような「ものをいうけもの」たちの愚衆ぶり。
すっかり心を閉ざして行きあたりばったりの損得でしか動かなくなった小人たち。
理想を持たず悪だくみで物事を進めることが「政治」だと思っているヨコシマやカロールメンの面々・・・描かれているものすべてが悲しい。
ナルニアがこんな「動物農場」みたいな話で終わってしまうのはあまりに悲劇的です。
また、物語がどうしようもない袋小路へ陥った時、粗末な馬小屋の中に希望の世界(イデアの世界?)が拡がっていたというのは、あまりにキリスト教的です。
最後には物語であることを放棄し、筆者の宗教観を半ば抽象的に表現しているかのようです。『さいごの戦い』はシリーズ最終作でありながら異色作として、あまり語られることのない作品ではないかと思います。
私自身も、子どもの頃に読んだ時は、ナルニアの結末がコレというのは納得が行かなかったわけですが、しかし今回の再読でナルニア国物語全体が描こうとしていたことを見渡してみると、なるべくしてなった結末だということも理解できました。
ナルニア国物語では、「こうであったらいいな、こうあってほしいな」という「夢(理想主義)」と、「こうやればいい、こうである」という「現実(功利主義)」の戦いが、さまざまな面から描かれています。そして、その戦いは、いつも「夢」が勝利するようになっています(ナルニア国物語の世界においては)。
『ライオンと魔女』における、兄姉に衣装だんすの冒険を信じてもらえないルーシィ。
『銀のいす』の冒頭で、いじめられて泣いているジル。
『魔術師のおい』における、母の病気に絶望しているディゴリー。
どれも一旦は「現実」の前に打ちひしがれますが、ナルニアを冒険して帰ってくると、現実は撤退して「夢」が現実化します。・・・しかし、それはやはり「物語の中」だけのハナシではないのか?
ナルニア国物語は、結局「物語の中」だけの、一時の気休めでしかないのでは?
「いや、そうではない!」という主張が『さいごの戦い』です。
「物語の中」とはつまり「心の中」のことで、「心の中にあるものこそが、何よりも大切で、何よりもの現実なのだ」ということが描かれています。
だから、カロールメンと戦って死ぬという現実も、列車事故で死ぬという現実も、実はかりそめの現実でしかなく、物語の中(心の中)で昇華され、馬小屋の中にあるイデアの世界(真の現実の世界?)ですべてが復活しました。
「心の中を大事にしなさい」という筆者のメッセージです。
(一読者としては悲しいけれど、読者に迎合せず、自身の感性に忠実に描いた筆者を偉大だとも思います。最期にこれを描かなければ、子どもたちへウソを語ることになってしまうという、筆者の良心のようなものを感じます)
子どもの頃の私は、子どもなりにメッセージを読み取り、それなりに納得していたと思います。しかし、それより何より私が疑問を持ったのは、もっと単純で、もっと切実でした。
「それはわかったけど、なんで、真のナルニア(イデアの世界)にスーザンがいないの?」
それまで、ほとんど登場したことのない父、母がイデアの世界にいるのに、スーザンは影も形もないのです。そんなことあるだろうか?
確かに、スーザンはナルニアのことを忘れてしまったと書かれているけれど、一緒に冒険した仲間なのだから、ちょっと反省して、真のナルニアにやってきても良いのじゃないか?
子どもの頃の疑問は、今回の再読で解消しました。
スーザンは、イデアの世界(理想の世界)にいてはならない、「現実(功利主義)」の象徴なのです。その鱗片は『ライオンと魔女』の時点でありましたし、『カスピアン王子のつのぶえ』で、はっきりと書かれています。
当ブログでも以前に触れたくだりですが、再度引用します。
『カスピアン王子のつのぶえ』より
「わたし、すごくおそろしい考えが、頭にうかんできちゃったのよ、スー。」
「なんなの?」
「もし、いつか、わたしたちのあの世界でよ、人間の心のなかがすさんでいって、あのクマのようになっても、うわべが人間のままでいたら、そしたら、ほんとの人間か、けものの人間か、区別がつかないでしょ?」
「このナルニアでは、今げんに、心配しなきゃならないことがいっぱいあるのよ。そんな想像のひつようないわよ。」と、じっさい的なスーザンがいいました。
スーザンは実際的なのです。そして、もう一人、ナルニア国物語には実際的なキャラクターが登場します。これも再度引用しましょう。
『魔術師のおい』より
いま、魔女は、子どもたちとだけ残ったのに、どちらにも目もくれません。これもいかにも魔女らしいところです。チャーンでは、魔女は(さいごのさいごまで)ポリーを無視しました。というのも、魔女が利用したかったのはディゴリーだったからです。ところがいまはアンドルーおじがいますから、魔女はディゴリーには目もくれないのです。たいていの魔女はみんなこんなじゃないかと、わたしは思います。この連中は、じぶんたちの役に立たない物とか人には関心をもたないのです。おそろしく実際的な連中なのです。
スーザンと魔女は、程度の違いこそあれ、実際的(もっと言えば、功利主義、現実主義)なのです。
イデアの世界は、理想の世界なので「程度の違い」を許容することができません。それに、『魔術師のおい』では、魔女が足を踏み込んだせいで、ナルニアが理想の世界でなくなってしまう様が描かれています。スーザンがやってくれば、イデアの世界は再び崩壊してしまうでしょう。
魔女とスーザンは、イデアの世界にとっては同じものなのです。
ナルニア国物語における悪の象徴「魔女」は、現実(功利主義)の象徴でもあります。
最終作『さいごの戦い』は、「夢と現実の最終決戦」であり、ある意味で「アスランと魔女の最終決戦」だとも言えます。その結末は、「スーザン(魔女)に触れない」ことで、物語の中から完全に排除し、「描かれないことによって、描かれている」のではないかと思うのです。
魔女のかけらでも、「魔女」という言葉さえも排除することで、物語の世界から魔女を消滅させたのです。
しかし、その勝利は、もしかしてスーザンの犠牲の上に成り立っているのではないか?
今回の再読で、いくつかの疑問が解消しましたが、更なる疑問を抱え込むことにもなりました。いずれ再々読しなければならないと思っています。