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おだんご日和

Dango茶屋・いちのせの徒然記

 

 堀北真希さん主演の「麦子さんと」を鑑賞しました。
(※ネタバレあるので、未見の方はご注意ください)

 

 麦子(堀北真希さん)が、母の遺骨を、母の故郷にある墓まで運ぶ物語。母の過去に触れることで、自分自身の母への思いを整理する。
 オタクでも、ふてくされても、ダメな子でも、いやな子でも、堀北真希はかわいい。「かわいいは正義」の意味がよく分かった。
 見ている分には、何てことないストーリーのようだけれど、「何てことない」ということは、気になる欠点もないということです。ちゃんと人物像が描かれ、ちゃんと伏線が回収され、最後にはちゃんと主人公が成長して、ちゃんと「見て良かったな」と思わせる。
 これを書ける脚本家がトーキョーのプロフェッショナルなのだろうなぁ。地方のシロート(ワタシのことです)には書けない。


 このレベルの脚本を、ちゃんと書けるようになりたい。

 

 

 

 河瀬直美さん監督、ドリアン助川さん原作の映画「あん」を鑑賞しました。

 ネットでドリアン助川さんのインタビュー記事を読んで、興味を持ったからです。
(※ネタバレあるので、未見の方はご注意ください)

 

 永瀬正敏さんが演じる青年(中年?)のたい焼き屋に、知らないおばあちゃん(樹木希林さん)がやってきて、あんこの作り方を教えてくれる。あんこのおいしさで店は繁盛するけれど、街の人たちにおばあちゃんが元ハンセン病患者だと知られてしまい、偏見にさらされるという物語。

 普段は意識していないけれど、ふとした瞬間に顔を出し、暴力をふるい始める「偏見」と「差別」を映画いています。

 

 樹木希林さんのナチュラルなセリフ回しが面白い。セリフ回しというより、アドリブなのではなかろうか?
 特に、女子高生と樹木さんの会話は「若い娘と交流することで、おばあちゃんが元気になってきゃっきゃ言ってる感じ」が良くて、見ているだけで楽しくなる。
 ハンセン病を取り扱った中盤から後半は、バランスが難しかっただろうと思いました。若い観客のためには説明が必要だけれど、ドキュメンタリーではないし、重いテーマだけれど、お説教を聞かせるような映画になってはいけないし・・・。


 終盤、手紙でいろいろ説明してしまうのは夏目漱石の「こころ」以来の定番ですが、文学だと成立する表現も、映像だと、どうしても平板になってしまいます。

 「Shall we ダンス?」の手紙シーンは、インサート映像を豪華にすることで、その部分を乗り切っていたのかなぁ、と思い出しました。

 

 

 

 

 ドコモのdTVのおかげで、風呂に入りながら、ちょくちょく映画を観るようになりました。

 スマホの小さな画面で、2~3日に分けて観るのだから、「映画を観た」という気分は、あまりしないのだけれど、気になりつつ観ていなかった映画を観れるのは楽しい。

 前田敦子さん主演の「もらとりあむタマ子」を鑑賞した。


(※ネタバレあるので、未見の方はご注意ください)

 

 前田敦子さんのふてくされた感じが、役柄にぴったりとハマっていました。

 ストーリーは・・・

「両親が離婚したタマ子は、父に甘えてニートを続けることで家族を結び付けているつもりだったけれど、父も母もタマ子のために家庭らしきものを残してあげていただけで、実はそれぞれに新しい人生を歩み始めていた」

 ・・・という感じです。

 セリフで説明しているわけじゃないんだけれど、前半の一見だらだらした日常描写を見ているから、後半は人物の動きだけで事情がわかります。

 両親が(っていうか、父親が)自分に気遣ってくれているのだとに気づいた時、タマ子のモラトリアムが終わって新しい人生が始まり、映画は終わります。

 

 エンドロールを見ていると、CSの音楽チャンネル「MUSIC ON! TV(エムオン!)」が製作に関わっているようです。

 エムオン出資で、トップアイドルを主役に抜擢した映画というと、もっとキラキラ、チャラチャラした作品をイメージしてしまうけれど、実際は地味ながら面白い、良作でした。

 

 

 

 

 子どもの頃に、このタイトルを見た時は、「きっと、復活した魔女の軍団と、アスランとナルニアの軍団が大決戦をするんだろうなぁ」と勝手に妄想しながら読み始め、全然ちがう話に不満を感じた記憶があります。

 

 それぞれにテーマ性を持ちつつも、明るく楽しい冒険活劇であったこれまでの6作品から打って変わって、ナルニア世界の最期を悲劇的に描いています。

 長い平和な時代を経て、王やアスランといった権威に従うことに慣れきってしまい自分で考えることをやめてしまったかのような「ものをいうけもの」たちの愚衆ぶり。
 すっかり心を閉ざして行きあたりばったりの損得でしか動かなくなった小人たち。
 理想を持たず悪だくみで物事を進めることが「政治」だと思っているヨコシマやカロールメンの面々・・・描かれているものすべてが悲しい。

 

 ナルニアがこんな「動物農場」みたいな話で終わってしまうのはあまりに悲劇的です。
 また、物語がどうしようもない袋小路へ陥った時、粗末な馬小屋の中に希望の世界(イデアの世界?)が拡がっていたというのは、あまりにキリスト教的です。
 最後には物語であることを放棄し、筆者の宗教観を半ば抽象的に表現しているかのようです。『さいごの戦い』はシリーズ最終作でありながら異色作として、あまり語られることのない作品ではないかと思います。

 私自身も、子どもの頃に読んだ時は、ナルニアの結末がコレというのは納得が行かなかったわけですが、しかし今回の再読でナルニア国物語全体が描こうとしていたことを見渡してみると、なるべくしてなった結末だということも理解できました。

 

 ナルニア国物語では、「こうであったらいいな、こうあってほしいな」という「夢(理想主義)」と、「こうやればいい、こうである」という「現実(功利主義)」の戦いが、さまざまな面から描かれています。そして、その戦いは、いつも「夢」が勝利するようになっています(ナルニア国物語の世界においては)。


『ライオンと魔女』における、兄姉に衣装だんすの冒険を信じてもらえないルーシィ。
『銀のいす』の冒頭で、いじめられて泣いているジル。
『魔術師のおい』における、母の病気に絶望しているディゴリー。
 どれも一旦は「現実」の前に打ちひしがれますが、ナルニアを冒険して帰ってくると、現実は撤退して「夢」が現実化します。・・・しかし、それはやはり「物語の中」だけのハナシではないのか?

 ナルニア国物語は、結局「物語の中」だけの、一時の気休めでしかないのでは?

 

「いや、そうではない!」という主張が『さいごの戦い』です。
「物語の中」とはつまり「心の中」のことで、「心の中にあるものこそが、何よりも大切で、何よりもの現実なのだ」ということが描かれています。

 だから、カロールメンと戦って死ぬという現実も、列車事故で死ぬという現実も、実はかりそめの現実でしかなく、物語の中(心の中)で昇華され、馬小屋の中にあるイデアの世界(真の現実の世界?)ですべてが復活しました。
「心の中を大事にしなさい」という筆者のメッセージです。
(一読者としては悲しいけれど、読者に迎合せず、自身の感性に忠実に描いた筆者を偉大だとも思います。最期にこれを描かなければ、子どもたちへウソを語ることになってしまうという、筆者の良心のようなものを感じます)

 

 子どもの頃の私は、子どもなりにメッセージを読み取り、それなりに納得していたと思います。しかし、それより何より私が疑問を持ったのは、もっと単純で、もっと切実でした。
「それはわかったけど、なんで、真のナルニア(イデアの世界)にスーザンがいないの?」
 それまで、ほとんど登場したことのない父、母がイデアの世界にいるのに、スーザンは影も形もないのです。そんなことあるだろうか?
 確かに、スーザンはナルニアのことを忘れてしまったと書かれているけれど、一緒に冒険した仲間なのだから、ちょっと反省して、真のナルニアにやってきても良いのじゃないか?

 

 子どもの頃の疑問は、今回の再読で解消しました。
 スーザンは、イデアの世界(理想の世界)にいてはならない、「現実(功利主義)」の象徴なのです。その鱗片は『ライオンと魔女』の時点でありましたし、『カスピアン王子のつのぶえ』で、はっきりと書かれています。
 当ブログでも以前に触れたくだりですが、再度引用します。

 

『カスピアン王子のつのぶえ』より
「わたし、すごくおそろしい考えが、頭にうかんできちゃったのよ、スー。」
「なんなの?」
「もし、いつか、わたしたちのあの世界でよ、人間の心のなかがすさんでいって、あのクマのようになっても、うわべが人間のままでいたら、そしたら、ほんとの人間か、けものの人間か、区別がつかないでしょ?」
「このナルニアでは、今げんに、心配しなきゃならないことがいっぱいあるのよ。そんな想像のひつようないわよ。」と、じっさい的なスーザンがいいました。

 

 スーザンは実際的なのです。そして、もう一人、ナルニア国物語には実際的なキャラクターが登場します。これも再度引用しましょう。

 

『魔術師のおい』より
いま、魔女は、子どもたちとだけ残ったのに、どちらにも目もくれません。これもいかにも魔女らしいところです。チャーンでは、魔女は(さいごのさいごまで)ポリーを無視しました。というのも、魔女が利用したかったのはディゴリーだったからです。ところがいまはアンドルーおじがいますから、魔女はディゴリーには目もくれないのです。たいていの魔女はみんなこんなじゃないかと、わたしは思います。この連中は、じぶんたちの役に立たない物とか人には関心をもたないのです。おそろしく実際的な連中なのです。

 

 スーザンと魔女は、程度の違いこそあれ、実際的(もっと言えば、功利主義、現実主義)なのです。
 イデアの世界は、理想の世界なので「程度の違い」を許容することができません。それに、『魔術師のおい』では、魔女が足を踏み込んだせいで、ナルニアが理想の世界でなくなってしまう様が描かれています。スーザンがやってくれば、イデアの世界は再び崩壊してしまうでしょう。
 魔女とスーザンは、イデアの世界にとっては同じものなのです。

 

 ナルニア国物語における悪の象徴「魔女」は、現実(功利主義)の象徴でもあります。
 最終作『さいごの戦い』は、「夢と現実の最終決戦」であり、ある意味で「アスランと魔女の最終決戦」だとも言えます。その結末は、「スーザン(魔女)に触れない」ことで、物語の中から完全に排除し、「描かれないことによって、描かれている」のではないかと思うのです。

 

 魔女のかけらでも、「魔女」という言葉さえも排除することで、物語の世界から魔女を消滅させたのです。

 

 しかし、その勝利は、もしかしてスーザンの犠牲の上に成り立っているのではないか?
 今回の再読で、いくつかの疑問が解消しましたが、更なる疑問を抱え込むことにもなりました。いずれ再々読しなければならないと思っています。

 

 

 

 

 物語の序章をスピンオフさせた、シリーズの中では印象の薄い作品・・・というのが世間一般の評価らしいのですが、読み返してみるとめっぽう面白くて、一気読みしてしまいました。
 キャラクターも道具立ても、物語も脂がのっていて、面白いです。

 現実時間ではペベンシー四兄弟より50年以上過去、ナルニア時間では「世界の誕生期」にあたる時代を描いています。
 また「白い魔女」や「緑の貴婦人」として、ナルニアの支配をもくろんできた「ジェイディス」がどのようにナルニアにやってきたのかも描かれ、シリーズにちりばめられた謎のいくつかが明かされます。

 

 もう、アンドルーおじの子悪党ぶりが面白すぎる!
 そして現実のロンドンにやってきたジェイディスの極悪ぶりは、もはや一周して「カワイイ!」のレベルに達しています。筆者は明らかにジェイディスの天真爛漫な悪人ぶりを楽しんでいますね。

 

 ところで、小学生の頃に読んだ時から疑問だったことがあります。
 はたして、「魔術師のおい」における「ジェイディス」と、「白い魔女」「緑の貴婦人」は、本当に同一人物なのだろうか? なんか、ちがう人みたいな気がする。
 今回の再読でも、その疑問は解消されませんでした。それぞれの作品でキャラクターがずいぶん違うように感じられるし、一貫した記憶を保っているのかさえも怪しい感じがします。しかし、一つ気付いたことがありました。魔女はとにかく功利的というか、作品中の言葉でいうと「実際的」なのです。
 役に立つものだけに興味を持ち、役に立たなくなるとまったく興味を示さなくなります。いくつか引用してみます。

 

『魔術師のおい』より
いま、魔女は、子どもたちとだけ残ったのに、どちらにも目もくれません。これもいかにも魔女らしいところです。チャーンでは、魔女は(さいごのさいごまで)ポリーを無視しました。というのも、魔女が利用したかったのはディゴリーだったからです。ところがいまはアンドルーおじがいますから、魔女はディゴリーには目もくれないのです。たいていの魔女はみんなこんなじゃないかと、わたしは思います。この連中は、じぶんたちの役に立たない物とか人には関心をもたないのです。おそろしく実際的な連中なのです。

 

『ライオンと魔女』より
「何?アスランとな?」女王は叫びました。「アスラン!それはまことか?もしウソをつきおったら・・・」
「わたしはただ、きいた話をくりかえしているだけでございます。」とエドマンドが口ごもりました。
 けれども女王は、そんなエドマンドにもう注意をむけず、すぐ手をたたきました。するとただちに、まえに女王といっしょにいるのを見たあの小人があらわれました。
「そりの用意じゃ。鈴のついてない革具をつけよ。」

 

 『銀のいす』は上記二作のように直接的ではありませんが、次のような場面があります。
 緑の貴婦人は、魔法の力で主人公たちに『地下にある夜見の国だけが現実で、それ以外は役に立たない夢である』と信じさせようとしました。それは半ば成功したのですが、泥足にがえもんが次のように反論して魔法は解かれてしまいます。

 

『銀のいす』より
「つまり、木々や草や、太陽や月や星々や、アスランその方さえ、頭のなかにつくりだされたものにすぎないと、いたしましょう。たしかにそうかもしれませんよ。だとしても、その場合ただあたしにいえることは、心につくりだしたものこそ、じっさいにあるものよりも、はるかに大切なものに思えるということでさ。あなたの王国のこんなまっくらな穴が、この世でただ一つじっさいにある世界だ、というとになれば、やれやれ、あたしにはそれではまったくなさけない世界だと、やりきれなくてなりませんのさ。」

 

 とにかく魔女の判断基準は「役に立つ・立たない」なのですね。『銀のいす』の場合、その表現は少し込み入っていますが、判断基準は同じで、「夢なんて役に立たないから忘れてしまえ」ということです。
 表面的なキャラクターは違っていても、その本質は一緒なんですね。

 

 ナルニア世界の悪の象徴である魔女は、「魔術師のおい」で姿を現し、「ライオンと魔女」で支配し、「銀のいす」で討ち果たされたことになっています。しかし、本当に魔女は滅びてしまったのか?
 最終作「さいごの戦い」において、魔女の最後は「描かれないことによって、描かれている」のではないかと思うのです。