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おだんご日和

Dango茶屋・いちのせの徒然記

 


 こちらの世界からの訪問者は登場せず(一応登場するけれど、活躍せず)、ナルニア世界のみで繰り広げられる物語。筋の面白さや、道具立ての面白さなど、作者がのりのりで書いているのが伝わってきます。
 主人公シャスタのひがみっぷりとか、旅における成長とか、人間臭くて面白い。

 

 子どもの頃に読んで感動した一節に、今回も感動してしまいました。
 シャスタという少年が、アーケン国のリューン王に危機を伝えようと旅をして、なんとか国境の仙人の館までたどりつきます。館にいたるまでも大変な苦労の連続だったのに、そこで仙人に次のように言われ、不満を感じるというシーンです。
 好きなシーンなので引用します。
 

『馬と少年』より
「いや、わしは、南の国境の仙人じゃ。だが、わが子よ、わしにものをたずねたりして、時間をむだにするでない。わしのいうとおりにせよ。このむすめごはけがをしておいでじゃ。馬たちもつかれきっている。ラバダシは、いま、まがり矢川のむこうで浅瀬を探しておるところじゃ。もしそなたが、いますぐ休まずかけていけば、リューン王に知らせるのにまにあうのじゃ。」
 このことばをきくと、シャスタは気が遠くなりそうになりました。もうとてもその力はないと思ったからなのでした。そして、内心、ずいぶん思いやりのない、不公平なことをいうものだと、不満でした。シャスタは、もしなにか一ついいことをすれば、そのむくいとして、さらに一つ、もっと困難でもっといいことをするようになっているものだということを、まだ教わったことがなかったのです。しかし、口に出しては、シャスタは仙人にこういいました。
「王はどこにいらっしゃるんですか?」

 

 以上、引用でした。シャスタの性格と育ち、そして旅を通した成長が描かれていて、やっぱりいいなぁと思う。

 

 あと、カロールメンの描かれ方が、異国への偏見というか、もっと言えば「国や権力、大人の負の部分をあえて、カロールメンに託して描いている」という感じで、ナルニアと対比する上で仕方ないのかもしれないけれど、なかなかヒドい。
 同時代人のジョージ・オーウェルの象を打ち殺す短編小説を読んだ時にも感じた違和感があった。これが当時のイギリス人の異国感なのかな。


 このカロールメンの描き方への疑問は、『さいごの戦い』における「若いカロールメン人 エーメス」として回答されることになります。

 

 

 


 シリーズ第4作の「銀のいす」は、シリーズ中、屈指の出来だと思います。子どもの頃も大好きだったけれど、今回も読み始めると止まらなくなって、結局一晩で読破してしまいました。

 

 これまでとの大きな違いは、いわゆる「よいこ」が出てこないところ。主役3人は、それぞれ適度に身勝手というか、各々のキャラクターに忠実に考え、行動するので気持ちが入りやすい。
 そして、行方知れずの王子を探して巨人の跋扈する北方を旅し、やがて夜見の国と呼ばれる地下王国にたどり着くという、割と込み入った物語なのに、すごくコンパクトにまとまっていて、物語の筋が頭に入りやすい。カスピアン王2部作は作者のイメージが先行していて、若干の盛り込み過ぎだったがあったのではないか、と感じてしまうほどです。

 

 それと、ナルニア国物語全般に言えることなのですが、「寒さの描写」が素晴らしい。風の冷たさとか、雪が服に染み込んでくる感じとか、短い表現で切々と迫ってきます。(でも、そこから暖かい部屋に入った時のほっとする感じが、また良い)
 筆者の生まれ育ったイギリスの風土とも関わっているのかもしれません。
 ちょっとだけ引用してみます。

 巨人の古い都(つまり遺跡)を探して旅をしている一行が、そうと気付かずに都のあった石畳の丘を歩いて行くというシーンです。

 

『銀のいす』より

のぼりつくまでは、坂道のおかげで風や雪もいくらかふせげました。ところが頂上では、まともに吹きまくる風にさらされてしまうのです。というのもずいぶんおかしなことに、遠くからながめた時とまったく同じく、丘のてっぺんがまっ平らだったからです。ひろい水平の大地ですから、嵐はさえぎるものなしにふきあれるのです。台地の上はほとんど雪がつもっていません。なにしろ風が雪を地面から吹きあげて、いくえもの幕か雲かのようにして三人の顔になぐりつけるからです。そして三人の足もとには、よく氷の上で見かけるように、雪のうず巻きがおこります。いやまったくのところ、表面はたいていのところが氷をはったようにつるつるでした。けれどもことがらをもっと悪くしたのは、奇妙な土手かみぞのようなしきりが台地の上をたて横十文字にいくつも走っていて、ところどころで台地の表面を四角や長四角にしわけているのです。

 

 引用が短くて、わかりにくいかもしれませんが、寒くてうんざりする感じがよく出ていると思います。

 

 シリーズ全作を時間順に並べると、「銀のいす」は最終作の一つ手前ということになります。大蛇を殺したことで白い魔女との因縁に一応の区切りが付き、ユースチスがカスピアンの末期を目撃するという場面が描かれるので、物語的にも「さいごの戦い」に向けて、広げた風呂敷が徐々に畳まれているところと言えるでしょう。

 

 ラストにある現実世界でのドタバタは蛇足感もあるけれど「いじめられたって気にするな。神様は見ている」という、子どもたちへのメッセージを込めた、筆者なりのサービスなのでしょう。しかし、ここで現実を無視してサービスしてしまったことが、「さいごの戦い」で現実の悲しさを描ききる伏線になっていたのかもしれない・・・というのは、深読みが過ぎるでしょうか。

 

 

 


 再読の印象は、「ユースチスとリーピチープのための作品」。

 子どもの頃に読んだ時は、ユースチスが嫌いだったけれど、今読むと物語をひっぱる道化役として輝いています。

 前半は楽しく読んでいたけれど、中盤でユースチスが改心すると、急に読ませどころが減ってしまった。リーピチープは安定のかっこよさだったけれど。

 

 あと、今の感覚だと「それでいいの?」みたいに感じる部分も結構ありました。
 奴隷市場を力づくで解放していたけれど、このあと総督の反撃があったんじゃないか、とか、(この時点でカロールメン国が登場しているのも興味深い)
「こぶたが増えたそうです」の一文とか、
 ラマンドゥの島に一人取り残してしまう「ぐずのあまたろう」とか、ちょっとかわいそうな気がしてしまう。
 特に、ラマンドゥの島に取り残された男は、ほんとにかわいそうで、何かフォローしてあげられなかったのかと思ってしまいました。なんだか、ちょっとした面白エピソードくらいの書かれ方だったけれど、高貴なことができない人間に対する厳しさ、もっと言ってしまえば「あざけり」みらいなものが感じられて、卑しい人間である私はどこか居心地の悪いエピソードだった。(作者は別のことでストレスがたまっていたんじゃなかろうか)

 

 基本的に、東へどんどん進んで行き、何があったかという航海記なので、エピソードがぶつぎりになり、どうしても展開が平板になってしまいます。だから、自分の価値観に忠実はユースチスやリーピチープは、その行動に一本筋が通り、良い味を出しているように感じるのでしょう。

 最後に、二人のエピソードをどこか引用しようと思ったのですが、面白さを伝えるには長くなるし、一つに決めきれなかったので、やめておきます。

 

 

 

 

 あれ?こんなだったっけ?・・・というくらい、思い出補正していた。

 

 謎解きの要素や、歴史ドラマ的な面白さはあるけれど、あまりスムーズに物語が進行せず、ごつごつとひっかかりながら進んで行く印象が残りました。主役の子どもたちも前作ほど主体的に動いていないような気がします。
 物語の展開も、ちょっとぎこちないような・・・それでも結局、最後まで楽しく読んでしまったけれど。

 

 あと、バッカス神が登場した場面での女の子二人の発言が意味深で良かったです。引用します。

 

『カスピアン王子のつのぶえ』より

「アスランといっしょでなかったら、バッカスやそのおとめたちと出会って、わたしたち、なんともなかったかしら?」
「きっと、たいへんなことになったわね。」とルーシィがいいました。

 

 たいへんなことって、どういうことだろう?バッカスは酒の神だから酔っぱらったのだろうか?それとも・・・さらっと書かれているけれど、何となく不穏なセリフです。

 

 そして、第2作の時点で、最終作『さいごの戦い』につながるセリフがあり、感心しました。
 ナルニアの動物には、知性のある「ものをいうけもの」と、いわゆる野生の「ふつうのけもの」がいます。森の中で熊に出会い、それが「ものをいうけもの」なのか、「ふつうのけもの」なのか、迷ってしまい、弓が引けなかった、というエピソードの後にある、ズーザンとルーシィの会話です。以下に引用します。

 

『カスピアン王子のつのぶえ』より

「わたし、すごくおそろしい考えが、頭にうかんできちゃったのよ、スー。」
「なんなの?」
「もし、いつか、わたしたちのあの世界でよ、人間の心のなかがすさんでいって、あのクマのようになっても、うわべが人間のままでいたら、そしたら、ほんとの人間か、けものの人間か、区別がつかないでしょ?」
「このナルニアでは、今げんに、心配しなきゃならないことがいっぱいあるのよ。そんな想像のひつようないわよ。」と、じっさい的なスーザンがいいました。

 

 このルーシィの問いかけと、スーザンの答えは、この時点では二人のキャラクターを対比させる、ちょっとしたコミカルなやりとりでしかないのですが、やがてシリーズ全体のテーマの一つになって行きます。

 

 

 

 

 思いのほか「女神転生」でした。まさにカオスです。友人だったトールキンが激怒したのもわかります。

 

 キリスト教の価値観が前面に出ているけれど、異教や異文化への知識、見識、もっと言えば「あこがれ」のようなものが感じられました。

 結果、キリスト教の価値観が絶対的でありながら、異教的・土着宗教的な雰囲気やキーワード、キャラクターが全体にあふれていて、ごった煮になっています。この「ごった煮」の感じが、まさにゲーム「女神転生」でした。(そして、このごった煮感をトールキンは嫌ったのでしょう)

 

 設定もなかなかマニアックで、面白かったです。

 まさに女神転生って感じのところをちょっとだけ引用します。ナルニア世界の住人である「ものをいうけもの」のビーバーが、悪役「白い魔女」の出自を説明する場面でのセリフです。(訳文は瀬田貞二さんによる名訳で文章自体は読みやすいのですが、子ども向けに訳されていて、ひらがなが多く一瞬考えないと意味が取りにくいところもあります)

 

『ライオンと魔女』より

「あの女は、人間だと思われたがっています。じぶんで女王を名のる理由も、人間だからだといいふらしています。でもあれは、イブのむすめではありません。あの女は、あなたがたの血すじのアダムの、いちばんはじめのおくさんで、リーリスという女の、血すじをうけているんです。そしてこの女は、ジンとよばれる天魔のたぐいでした。そしてもういっぽうに、人間以前の巨人時代の巨人たちの血がまじりました。どうしてどうして、あの魔女には、ひとたらしの人間の血もあるものですか。」

 

 リリス、ジン、天魔、巨人・・・キーワードも設定もメガテンです。

 

 ちなみに、白い魔女の名前は「ジェイディス」と言います。私の記憶では第6作「魔術師のおい」まで明記されていなかったのですが、第1作の時点でさりげなく書かれていました。
 ジェイディスはリリム(リリスの娘)だったんだなぁ・・・それともリリス自身だったのだろうか?