おだんご日和

おだんご日和

Dango茶屋・いちのせの徒然記

DANGO茶屋 (だんごぢゃや) http://www.dangodyaya.com

アニメーションクリエイター・一ノ瀬 輝とデザイナー・山高紀子のコンビによる映像製作集団です。
主に立体アニメーションの映画を製作しています。

他にグラフィックデザイン、実写ドラマ、演劇の脚本や演出などの活動も行っています。

活動拠点の佐賀では、自主制作の映像作家を集めた上映会なども企画・運営しています。


テーマ:

 

 

 女性お笑いトリオ「森三中」の大島美幸さんが主演した「福福荘の福ちゃん」を鑑賞しました。

(※ネタバレあるので、未見の方はご注意ください)

 

 カナダのファンタジア映画祭で、大島さんは主演女優賞を受賞しています。芸人さんが主演の軽い作品だと思っていたら、意外な良作でした。

 大島さんは男性役を演じており、違和感があるのではないかと思っていたけれど、芸人的な荒っぽさや鷹揚さと、女性的な繊細さ、やわらかさが絶妙に混ざり合っていました。

 この作品、この配役でなければありえない唯一無二のキャラクターになっていた。イロモノ的な雰囲気は、ほとんどありません。

 大きな事件は起こらないけれど、どうにもならない悲しさや苦しさも描かれ、最後はみんなが少しずつ成長して終わる。独自の気持ち良さがありました。(最初の方に登場する有名カメラマンは、ちょっとイロモノというか、ディフォルメされた感じもするけれど、嫌悪感ギリギリのところでかわしたと思います)

 

 ここ最近、dTVのおかげで「もらとりあむタマ子」「麦子さんと」「あん」「福福荘の福ちゃん」と、立て続けに地味目の日本映画を見た。どれも『一大エンターテインメント!』とは言えないけれど、面白かったです。

 「福福荘の福ちゃん」は、主演女優賞を獲ったことで話題になったけれど、それがなければ、私が見ることはなかった作品だったと思う。

 勿体ないなぁと思うけれど、予備知識なしに映画館に見に行くかと言われると、たぶん見に行かない。

 

 映画って何だろうなぁと、ちょっと思う。

 

 


テーマ:

 

 堀北真希さん主演の「麦子さんと」を鑑賞しました。
(※ネタバレあるので、未見の方はご注意ください)

 

 麦子(堀北真希さん)が、母の遺骨を、母の故郷にある墓まで運ぶ物語。母の過去に触れることで、自分自身の母への思いを整理する。
 オタクでも、ふてくされても、ダメな子でも、いやな子でも、堀北真希はかわいい。「かわいいは正義」の意味がよく分かった。
 見ている分には、何てことないストーリーのようだけれど、「何てことない」ということは、気になる欠点もないということです。ちゃんと人物像が描かれ、ちゃんと伏線が回収され、最後にはちゃんと主人公が成長して、ちゃんと「見て良かったな」と思わせる。
 これを書ける脚本家がトーキョーのプロフェッショナルなのだろうなぁ。地方のシロート(ワタシのことです)には書けない。


 このレベルの脚本を、ちゃんと書けるようになりたい。

 

 


テーマ:

 

 河瀬直美さん監督、ドリアン助川さん原作の映画「あん」を鑑賞しました。

 ネットでドリアン助川さんのインタビュー記事を読んで、興味を持ったからです。
(※ネタバレあるので、未見の方はご注意ください)

 

 永瀬正敏さんが演じる青年(中年?)のたい焼き屋に、知らないおばあちゃん(樹木希林さん)がやってきて、あんこの作り方を教えてくれる。あんこのおいしさで店は繁盛するけれど、街の人たちにおばあちゃんが元ハンセン病患者だと知られてしまい、偏見にさらされるという物語。

 普段は意識していないけれど、ふとした瞬間に顔を出し、暴力をふるい始める「偏見」と「差別」を映画いています。

 

 樹木希林さんのナチュラルなセリフ回しが面白い。セリフ回しというより、アドリブなのではなかろうか?
 特に、女子高生と樹木さんの会話は「若い娘と交流することで、おばあちゃんが元気になってきゃっきゃ言ってる感じ」が良くて、見ているだけで楽しくなる。
 ハンセン病を取り扱った中盤から後半は、バランスが難しかっただろうと思いました。若い観客のためには説明が必要だけれど、ドキュメンタリーではないし、重いテーマだけれど、お説教を聞かせるような映画になってはいけないし・・・。


 終盤、手紙でいろいろ説明してしまうのは夏目漱石の「こころ」以来の定番ですが、文学だと成立する表現も、映像だと、どうしても平板になってしまいます。

 「Shall we ダンス?」の手紙シーンは、インサート映像を豪華にすることで、その部分を乗り切っていたのかなぁ、と思い出しました。

 

 


テーマ:

 

 

 ドコモのdTVのおかげで、風呂に入りながら、ちょくちょく映画を観るようになりました。

 スマホの小さな画面で、2~3日に分けて観るのだから、「映画を観た」という気分は、あまりしないのだけれど、気になりつつ観ていなかった映画を観れるのは楽しい。

 前田敦子さん主演の「もらとりあむタマ子」を鑑賞した。


(※ネタバレあるので、未見の方はご注意ください)

 

 前田敦子さんのふてくされた感じが、役柄にぴったりとハマっていました。

 ストーリーは・・・

「両親が離婚したタマ子は、父に甘えてニートを続けることで家族を結び付けているつもりだったけれど、父も母もタマ子のために家庭らしきものを残してあげていただけで、実はそれぞれに新しい人生を歩み始めていた」

 ・・・という感じです。

 セリフで説明しているわけじゃないんだけれど、前半の一見だらだらした日常描写を見ているから、後半は人物の動きだけで事情がわかります。

 両親が(っていうか、父親が)自分に気遣ってくれているのだとに気づいた時、タマ子のモラトリアムが終わって新しい人生が始まり、映画は終わります。

 

 エンドロールを見ていると、CSの音楽チャンネル「MUSIC ON! TV(エムオン!)」が製作に関わっているようです。

 エムオン出資で、トップアイドルを主役に抜擢した映画というと、もっとキラキラ、チャラチャラした作品をイメージしてしまうけれど、実際は地味ながら面白い、良作でした。

 

 


テーマ:

 

 

 子どもの頃に、このタイトルを見た時は、「きっと、復活した魔女の軍団と、アスランとナルニアの軍団が大決戦をするんだろうなぁ」と勝手に妄想しながら読み始め、全然ちがう話に不満を感じた記憶があります。

 

 それぞれにテーマ性を持ちつつも、明るく楽しい冒険活劇であったこれまでの6作品から打って変わって、ナルニア世界の最期を悲劇的に描いています。

 長い平和な時代を経て、王やアスランといった権威に従うことに慣れきってしまい自分で考えることをやめてしまったかのような「ものをいうけもの」たちの愚衆ぶり。
 すっかり心を閉ざして行きあたりばったりの損得でしか動かなくなった小人たち。
 理想を持たず悪だくみで物事を進めることが「政治」だと思っているヨコシマやカロールメンの面々・・・描かれているものすべてが悲しい。

 

 ナルニアがこんな「動物農場」みたいな話で終わってしまうのはあまりに悲劇的です。
 また、物語がどうしようもない袋小路へ陥った時、粗末な馬小屋の中に希望の世界(イデアの世界?)が拡がっていたというのは、あまりにキリスト教的です。
 最後には物語であることを放棄し、筆者の宗教観を半ば抽象的に表現しているかのようです。『さいごの戦い』はシリーズ最終作でありながら異色作として、あまり語られることのない作品ではないかと思います。

 私自身も、子どもの頃に読んだ時は、ナルニアの結末がコレというのは納得が行かなかったわけですが、しかし今回の再読でナルニア国物語全体が描こうとしていたことを見渡してみると、なるべくしてなった結末だということも理解できました。

 

 ナルニア国物語では、「こうであったらいいな、こうあってほしいな」という「夢(理想主義)」と、「こうやればいい、こうである」という「現実(功利主義)」の戦いが、さまざまな面から描かれています。そして、その戦いは、いつも「夢」が勝利するようになっています(ナルニア国物語の世界においては)。


『ライオンと魔女』における、兄姉に衣装だんすの冒険を信じてもらえないルーシィ。
『銀のいす』の冒頭で、いじめられて泣いているジル。
『魔術師のおい』における、母の病気に絶望しているディゴリー。
 どれも一旦は「現実」の前に打ちひしがれますが、ナルニアを冒険して帰ってくると、現実は撤退して「夢」が現実化します。・・・しかし、それはやはり「物語の中」だけのハナシではないのか?

 ナルニア国物語は、結局「物語の中」だけの、一時の気休めでしかないのでは?

 

「いや、そうではない!」という主張が『さいごの戦い』です。
「物語の中」とはつまり「心の中」のことで、「心の中にあるものこそが、何よりも大切で、何よりもの現実なのだ」ということが描かれています。

 だから、カロールメンと戦って死ぬという現実も、列車事故で死ぬという現実も、実はかりそめの現実でしかなく、物語の中(心の中)で昇華され、馬小屋の中にあるイデアの世界(真の現実の世界?)ですべてが復活しました。
「心の中を大事にしなさい」という筆者のメッセージです。
(一読者としては悲しいけれど、読者に迎合せず、自身の感性に忠実に描いた筆者を偉大だとも思います。最期にこれを描かなければ、子どもたちへウソを語ることになってしまうという、筆者の良心のようなものを感じます)

 

 子どもの頃の私は、子どもなりにメッセージを読み取り、それなりに納得していたと思います。しかし、それより何より私が疑問を持ったのは、もっと単純で、もっと切実でした。
「それはわかったけど、なんで、真のナルニア(イデアの世界)にスーザンがいないの?」
 それまで、ほとんど登場したことのない父、母がイデアの世界にいるのに、スーザンは影も形もないのです。そんなことあるだろうか?
 確かに、スーザンはナルニアのことを忘れてしまったと書かれているけれど、一緒に冒険した仲間なのだから、ちょっと反省して、真のナルニアにやってきても良いのじゃないか?

 

 子どもの頃の疑問は、今回の再読で解消しました。
 スーザンは、イデアの世界(理想の世界)にいてはならない、「現実(功利主義)」の象徴なのです。その鱗片は『ライオンと魔女』の時点でありましたし、『カスピアン王子のつのぶえ』で、はっきりと書かれています。
 当ブログでも以前に触れたくだりですが、再度引用します。

 

『カスピアン王子のつのぶえ』より
「わたし、すごくおそろしい考えが、頭にうかんできちゃったのよ、スー。」
「なんなの?」
「もし、いつか、わたしたちのあの世界でよ、人間の心のなかがすさんでいって、あのクマのようになっても、うわべが人間のままでいたら、そしたら、ほんとの人間か、けものの人間か、区別がつかないでしょ?」
「このナルニアでは、今げんに、心配しなきゃならないことがいっぱいあるのよ。そんな想像のひつようないわよ。」と、じっさい的なスーザンがいいました。

 

 スーザンは実際的なのです。そして、もう一人、ナルニア国物語には実際的なキャラクターが登場します。これも再度引用しましょう。

 

『魔術師のおい』より
いま、魔女は、子どもたちとだけ残ったのに、どちらにも目もくれません。これもいかにも魔女らしいところです。チャーンでは、魔女は(さいごのさいごまで)ポリーを無視しました。というのも、魔女が利用したかったのはディゴリーだったからです。ところがいまはアンドルーおじがいますから、魔女はディゴリーには目もくれないのです。たいていの魔女はみんなこんなじゃないかと、わたしは思います。この連中は、じぶんたちの役に立たない物とか人には関心をもたないのです。おそろしく実際的な連中なのです。

 

 スーザンと魔女は、程度の違いこそあれ、実際的(もっと言えば、功利主義、現実主義)なのです。
 イデアの世界は、理想の世界なので「程度の違い」を許容することができません。それに、『魔術師のおい』では、魔女が足を踏み込んだせいで、ナルニアが理想の世界でなくなってしまう様が描かれています。スーザンがやってくれば、イデアの世界は再び崩壊してしまうでしょう。
 魔女とスーザンは、イデアの世界にとっては同じものなのです。

 

 ナルニア国物語における悪の象徴「魔女」は、現実(功利主義)の象徴でもあります。
 最終作『さいごの戦い』は、「夢と現実の最終決戦」であり、ある意味で「アスランと魔女の最終決戦」だとも言えます。その結末は、「スーザン(魔女)に触れない」ことで、物語の中から完全に排除し、「描かれないことによって、描かれている」のではないかと思うのです。

 

 魔女のかけらでも、「魔女」という言葉さえも排除することで、物語の世界から魔女を消滅させたのです。

 

 しかし、その勝利は、もしかしてスーザンの犠牲の上に成り立っているのではないか?
 今回の再読で、いくつかの疑問が解消しましたが、更なる疑問を抱え込むことにもなりました。いずれ再々読しなければならないと思っています。

 

 

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス