物語の序章をスピンオフさせた、シリーズの中では印象の薄い作品・・・というのが世間一般の評価らしいのですが、読み返してみるとめっぽう面白くて、一気読みしてしまいました。
キャラクターも道具立ても、物語も脂がのっていて、面白いです。
現実時間ではペベンシー四兄弟より50年以上過去、ナルニア時間では「世界の誕生期」にあたる時代を描いています。
また「白い魔女」や「緑の貴婦人」として、ナルニアの支配をもくろんできた「ジェイディス」がどのようにナルニアにやってきたのかも描かれ、シリーズにちりばめられた謎のいくつかが明かされます。
もう、アンドルーおじの子悪党ぶりが面白すぎる!
そして現実のロンドンにやってきたジェイディスの極悪ぶりは、もはや一周して「カワイイ!」のレベルに達しています。筆者は明らかにジェイディスの天真爛漫な悪人ぶりを楽しんでいますね。
ところで、小学生の頃に読んだ時から疑問だったことがあります。
はたして、「魔術師のおい」における「ジェイディス」と、「白い魔女」「緑の貴婦人」は、本当に同一人物なのだろうか? なんか、ちがう人みたいな気がする。
今回の再読でも、その疑問は解消されませんでした。それぞれの作品でキャラクターがずいぶん違うように感じられるし、一貫した記憶を保っているのかさえも怪しい感じがします。しかし、一つ気付いたことがありました。魔女はとにかく功利的というか、作品中の言葉でいうと「実際的」なのです。
役に立つものだけに興味を持ち、役に立たなくなるとまったく興味を示さなくなります。いくつか引用してみます。
『魔術師のおい』より
いま、魔女は、子どもたちとだけ残ったのに、どちらにも目もくれません。これもいかにも魔女らしいところです。チャーンでは、魔女は(さいごのさいごまで)ポリーを無視しました。というのも、魔女が利用したかったのはディゴリーだったからです。ところがいまはアンドルーおじがいますから、魔女はディゴリーには目もくれないのです。たいていの魔女はみんなこんなじゃないかと、わたしは思います。この連中は、じぶんたちの役に立たない物とか人には関心をもたないのです。おそろしく実際的な連中なのです。
『ライオンと魔女』より
「何?アスランとな?」女王は叫びました。「アスラン!それはまことか?もしウソをつきおったら・・・」
「わたしはただ、きいた話をくりかえしているだけでございます。」とエドマンドが口ごもりました。
けれども女王は、そんなエドマンドにもう注意をむけず、すぐ手をたたきました。するとただちに、まえに女王といっしょにいるのを見たあの小人があらわれました。
「そりの用意じゃ。鈴のついてない革具をつけよ。」
『銀のいす』は上記二作のように直接的ではありませんが、次のような場面があります。
緑の貴婦人は、魔法の力で主人公たちに『地下にある夜見の国だけが現実で、それ以外は役に立たない夢である』と信じさせようとしました。それは半ば成功したのですが、泥足にがえもんが次のように反論して魔法は解かれてしまいます。
『銀のいす』より
「つまり、木々や草や、太陽や月や星々や、アスランその方さえ、頭のなかにつくりだされたものにすぎないと、いたしましょう。たしかにそうかもしれませんよ。だとしても、その場合ただあたしにいえることは、心につくりだしたものこそ、じっさいにあるものよりも、はるかに大切なものに思えるということでさ。あなたの王国のこんなまっくらな穴が、この世でただ一つじっさいにある世界だ、というとになれば、やれやれ、あたしにはそれではまったくなさけない世界だと、やりきれなくてなりませんのさ。」
とにかく魔女の判断基準は「役に立つ・立たない」なのですね。『銀のいす』の場合、その表現は少し込み入っていますが、判断基準は同じで、「夢なんて役に立たないから忘れてしまえ」ということです。
表面的なキャラクターは違っていても、その本質は一緒なんですね。
ナルニア世界の悪の象徴である魔女は、「魔術師のおい」で姿を現し、「ライオンと魔女」で支配し、「銀のいす」で討ち果たされたことになっています。しかし、本当に魔女は滅びてしまったのか?
最終作「さいごの戦い」において、魔女の最後は「描かれないことによって、描かれている」のではないかと思うのです。