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おだんご日和

Dango茶屋・いちのせの徒然記

 

 

 

「恐竜大紀行」を読んでいると、無声映画を思い出す。

 そして、「漫画はセリフと結びついた文学」なのだなぁと、しみじみ思う。

 リアルに描きこまれた恐竜たちが濃いキャラクターでしゃべるのは、どことなくシュールで「ネタ感」が漂ってしまうけれど、セリフがなかったら、こんなに面白い漫画にはならなかっただろう。

 

 私が持っている本は、ジャンプと同じサイズの大判のもので、連載の時にはなかったエピローグが追加されている。

 エピローグにセリフがないのは残念で、漫画ではなくイラストの連続になっている。

 それはそれで、面白いのだけれど、もし映画だったらセリフがなくても成立していただろう(私はエピローグを読みながら、脳内で動画にしていた)。


 「マンガはセリフと結びついた文学」ならば、「脚本はセリフと結びついた文学」だ。

 そして、文学と映画は、実は相性が悪い。
 映画監督が脚本を無視して、脚本家とけんかになることがあるのは、ある意味で宿命なのだ。

 

 無声映画の「映像+字幕」という表現方法は、古き良き「文学と映画のハネムーン時代」なのだろう。

 映画はやがて、音を手に入れ、色を手に入れ、文学とは別の表現世界に踏み込んで行く。


 文学は文字であり、文字はロゴスであり、ロゴスは論理と客観。
 映画は映像であり、映像は心象であり、心象は非論理と主観だ。

 

 ハリウッドの脚本が、なるほど設計図だと思わざるを得ない論理性を持っているのに対して、日本のアニメーションの絵コンテが設計図でありつつも、どこか詩的なのは、示唆的だと思う。

 

 

 

 

 

 

 精細に描き込まれた切り絵アニメーションで表現されていて、独特の作品世界が展開されて行きます。
 なんだかヘンテコリンなことが、淡々と起こって、淡々と進行し、淡々と終了して行く。グロテスクで、淡白で、ワケがわからない。
 ストーリーは「巨大な体を持ったドラーク族に支配された惑星で、虫けらのように扱われている人類が自分たちの世界を確立するまでの闘い」を描いている・・・と言って良いのかなぁ?

 

 とにかく絵も物語も異様で目が離せない。まるで、知らない昆虫とか深海生物の生態を淡々と写したドキュメンタリーを見ているような感覚になる。
 オリジナリティのある作品に「豊かな想像力」と気軽に言ったりするけれど、ホントに想像力が豊かだと、こういう作品になってしまうんだなぁ。
 どういう経緯で作られたのか知らないけれど、芸術家の想像力をコントロールするプロデューサーがいなかったのか?それともあえて暴走を許して、唯一無二の作品を目指したのか?

 

「スゲーモノを見てしまった感」がすごい。

 たぶん、「千と千尋の神隠し」以降の宮崎駿作品の世界での受け取られ方って、こんな感じなんだろうと思った。
 ラストは、想像力の暴走を物語に落とし込むことができなくなり、なんだか、淡々と物語が処理されて終わる。これもドキュメンタリーっぽい。

 

 

 

 

 

『夜は短し歩けよ乙女』を見た。
 面白い。マインドゲームの時は疾走感を越えて暴走してしまった感があったけれど(それはそれで良かったけれど)、今回は疾走したままゴールに飛び込んだ快作。
 原作本の表紙をもとにしたであろうキャラクターデザインも、映像のクドさを緩和して、食べやすくしていた。良かった。

 

 

『パラノーマン』
 ネタは良い。映像は良い。ストーリーもちゃんとしている。なのにこの「ノって行けない感じ」は何なのか?

 ライカの単独作品の悪いところが出た感じ。

「ファンタスティックMr.フォックス」や「コープスブライド」のように、監督がコントロールしないと、散漫な印象になってしまうのか。


『アフロ田中』
 原作が良いのだけれど、テンポが良くて、松田さんとこの次男も良くて、笑った。

 主役が顔芸をした時に、松田優作そっくりになるところに感動した。やっぱり親子なんだなぁ。

 最後は彼女が出来てほしかったけれど、それじゃあアフロ田中じゃなくなっちゃうから仕方ない。

 続編も見たいくらいだけど、実現は難しいのだろうか。女性ウケは良くなさそうだが。

 

 

 

 

『イナズマイレブン アレスの天秤』を鑑賞
 コロコロ的世界観を再現したサッカーゲームのアニメ化。ジャンプ的ではなく、あくまで「コロコロ的」世界観です。
 子どもと一緒に風呂に入りながら、1話ずつ見た。意外と面白かった。
 動画を節約しながら、魅せるところはしっかりみせようという感じで作られていて、発見もあった。

 

 

『パシフィックリム アップライジング』
 前作のフラストレーションを改善したら、フツーの作品になっちゃった。
 前作監督の「イライラする感じ」が、実は快感だったのだと再認識した。

 

 

『クボ 二本の弦の秘密』

 ストップモーションアニメファンの間では、名作とされているけれど、私はストップモーションアニメの袋小路を感じた。
 ディズニー・ピクサーが「アナと雪の女王」「ズートピア」をやっている時代にこのストーリーは、ちょっと時代錯誤だと思う。
 ライカスタジオは、有名監督を招聘した時は良いのだけれど、単独制作の作品はストーリーと演出が一段下がってしまう印象がある。ただ、アニメーションの技術は超一級。たぶん世界一。

 

 

 

 

 

 人生とはどのようなものか?

 

 ある一面では、「個人の幸せ」と「社会の幸せ」の併走が人生と言える。

 個人と社会が近接して併走していられる幸せな人生や、幸せな時代もある。

 

 しかし、注意しなければならないのは、併走しているだけで、決して交わったり、接したりしている訳ではない、ということ。

 個人と社会の併走が、離れて行く時がある。

 

 その時、個人が社会に近づいて行くべきなのか、社会が個人に近づいて行くべきなのか。
 (あえて、どんどん離れて行く人もいるかもしれないが、ここでは触れない)

 

 ただ、歴史を見る限り、社会に個人が合わせて行くことが、行きすぎると、不幸が起こるようだ。

 なぜそうなるのかというと、「社会と個人」という考え方(捉え方)自体が、実は間違っているのであり、社会は個人の集合体でしかない。

 

 だとすれば、社会と個人の併走ではなく、その実は、たくさんの個人が並走しているに過ぎないということになる。

 つまり、個人の幸せがないまま、社会の幸せが成立することはないのだ。

 理論的には、個人の幸せを制限し、社会の幸せを追求し続けることで、最終的には、個人の幸せがないのに社会の幸せがある状態を作ることも可能である。

 

 社会は幸せそのものであるのに、その中に含まれる個人には誰一人幸せなものがいない。

 それは、地獄のことだ。