「恐竜大紀行」を読んでいると、無声映画を思い出す。
そして、「漫画はセリフと結びついた文学」なのだなぁと、しみじみ思う。
リアルに描きこまれた恐竜たちが濃いキャラクターでしゃべるのは、どことなくシュールで「ネタ感」が漂ってしまうけれど、セリフがなかったら、こんなに面白い漫画にはならなかっただろう。
私が持っている本は、ジャンプと同じサイズの大判のもので、連載の時にはなかったエピローグが追加されている。
エピローグにセリフがないのは残念で、漫画ではなくイラストの連続になっている。
それはそれで、面白いのだけれど、もし映画だったらセリフがなくても成立していただろう(私はエピローグを読みながら、脳内で動画にしていた)。
「マンガはセリフと結びついた文学」ならば、「脚本はセリフと結びついた文学」だ。
そして、文学と映画は、実は相性が悪い。
映画監督が脚本を無視して、脚本家とけんかになることがあるのは、ある意味で宿命なのだ。
無声映画の「映像+字幕」という表現方法は、古き良き「文学と映画のハネムーン時代」なのだろう。
映画はやがて、音を手に入れ、色を手に入れ、文学とは別の表現世界に踏み込んで行く。
文学は文字であり、文字はロゴスであり、ロゴスは論理と客観。
映画は映像であり、映像は心象であり、心象は非論理と主観だ。
ハリウッドの脚本が、なるほど設計図だと思わざるを得ない論理性を持っているのに対して、日本のアニメーションの絵コンテが設計図でありつつも、どこか詩的なのは、示唆的だと思う。