佐賀では、約一年間にわたって、「さが幕末維新博覧会」が開催されていた。
そして、1月14日をもって終わった。来場者の目標が100万人で、最終的に約220万人がやってきたそうだから、大成功だったのだと思う。
私も子どもと一緒に見に行って、楽しんだ。
少しプロジェクションマッピングに頼りすぎている感じもしたけれど、とても面白かった。
そして、幕末に活躍した佐賀の偉人たちの中には、維新後に政府の中枢を去った者が多かったのだけれど、その理由も何となくわかった気がした。
佐賀藩は殿様が賢すぎて、偉人たちも結局は「言われてやる人」の域を越えていなかったのだろう。
薩摩や長州の偉人たちは、殿様がイマイチだったので自分で考え、判断するしかなかった。おかげで、自由に考え、行動することができた(そうする以外なかった)のだろう。
佐賀の偉人たちも自由に考え、行動しているように見えるけれど、それは殿様に「自由に考え、行動しろ」と命令されていたからで、「自由に考えたい、行動したい」という願望の結果ではなかったのではないかと思う。
自由は、その出発点に「自由への願望」がなければ、なかなか本物の自由にたどり着けないものなのかもしれない。
私の幕末・明治時代の知識は、学校教育と大河ドラマくらいしかないのだけれど、幕末の下級武士の台頭は、横暴な殿様に対するカウンターという意味があったのだと理解している。
台頭した下級武士は、やがて横暴な明治政府となり、カウンターとして大正デモクラシーが起こった。
大正デモクラシーで起こった政党政治が腐敗し、カウンターとして清廉に見えるファシズムが台頭した。
ファシズムは太平洋戦争に敗北し、カウンターとして戦後民主主義を受け入れた。
なんだか、同じことを繰り返していないか?
江戸幕府の中にも、明治政府の中にも、政党の中にも、軍隊の中にも、きっと「これじゃ、まずい」と思う人がいたはずなのに、結局、自分自身を律したり、正したりすることができなかった。
自分自身を律することができない、その姿は、私たち自身の姿でもある。
ちょっと絶望的な気分になりながら、さが幕末維新博を楽しみました。