「タヒチの歴史」:このシリーズのあらましのまとめ

 

【はじめに】

 

以前、「ソサイエティ諸島の伝統と文化を論じた一つの著書の紹介」において、クロード  ロビネオウ (Claude Robineau) の博士論文 [1] と、それから派生した著書 [2] 「ソシエテ諸島における伝統と近代性」を紹介させていただきました。今回は、その中から次の項目を読んでみたく思います。

 

 1. 資材とその利用 .......................................................................................... 36
  資料と研究 ................................................................................................. 36
   伝承 ......................................................................................................... 36
   二次資料 ................................................................................................. 39
  基準期間の定義に関する問題点 ................................................................. 40
   考古学的参照:マラエ ........................................................................... 40

 

この部分で議論されているのは、タヒチ社会の伝統と文化を論じるにあたって、利用できる資料の整理と特徴付けです。特に、文献を「伝承」と、「伝承」に分類される旅行記や航海記録の編集者の記述、歴史家や民族史家の著作物等の「二次資料」に分け、それぞれについて資料としての正確性などの面から論じていきます。それらの資料からタヒチ社会を議論するに当たり、年代的な基準点の存在、つまり、何時頃に何があったのかという、時間的な関係が必要です。それを類推する材料となるのは、考古学的な材料としての「マラエ」の存在と、各種伝承等から抽出される家系図や系図に代表される「系譜 (genealogy)」です。「系譜」には幾つかの伝承や個別の証言から得られる幾つかのものがあります。年代的な概念の存在しなかった タヒチ社会では、それらの系譜の時間的な広がりが確かではなく、互いに矛盾する場合もあります。この記述は複雑とならざるを得ないので、次回以降に延ばします。以下の著述では著者が語るがままに書いていきます。

 

 

 

 

【資料と研究】

 

ここでは、歴史家が古くから用いてきた分類を用います。一部の人々からは異論もありますが、この分類は本著作の目的にとって明らかな利点があります。ガンソン (Neil Gunson) は、その論文の中で、「二次資料」と対比して「一次資料」と呼べる資料を3種類に分類しています。「目撃証言」と、「伝承」、そして「比較社会学」です。目撃者とは、クック (James Cook) のような旅行者、マシモ  ロドリゲス (Maximo Rodriguez)、ジェームズ モリソン (James Morrison)、そして後にはアメリカ合衆国領事 モーレンハウト (Jacques-Antoine Moerenhout) ら、最初の宣教師であるジョン デイヴィス (John Davies) 、そして宣教師であり歴史家であったエリス (William Ellis) です。しかし、エリスと モーレンハウトは、自分たちが見たり聞いたりしたことだけでなく、伝えられた伝承も報告しており、解釈や個人的な感情の表現にかなりの検討の余地を残しています。

 

訳注:ここでは煩雑さを避けるために, 我々にとって重要であるもの以外の参考文献等

  は示さない. 

 

訳注:ガンソンの著書の幾つかを付録 A に示す.

 

訳注:スペイン政府の派遣した アキラ (Aquila) 号は, 1772年の航海でカトリックの信

  仰を教えるために数名のタヒチ人を本土に連れ, 1774年の航海で彼らをタヒチに連

  れ戻した. 海兵隊員であったロドリゲス (Maximo Rodriguez) は第二航海で通訳を

  務め一年ほどタヒチに滞在した. 彼の記録は「ヨーロッパ人がタヒチに初めて長期

  間滞在した際の唯一の記録」と言われている.
 

訳注:「ポマレ以前のタヒチ社会(13)」にある モリソン (James Morrison) への

  注意書き参照.

 

訳注:ジャック-アントワーヌ モーレンハウト(Jacques-Antoine Moerenhout), 1796-

  1879年, は 1836年に交代するまで パペーテで アメリカ合衆国領事を努め、 その

  後、ポリネシアの領土に対するフランスの主権の確立に重要な役割を果たした.

  (11/11)

 

訳注:デイヴィス (John Davies) は辞書 [3] の著者でもある.

 

 

 

「伝承」

モーレンハウト は、記述の中で自身が引用している伝承については言及しているものの、その起源や詳細な内容については明らかにしていない。例えばこの様です。

 彼の後、彼の子孫の一人であり、アモ (Amo) の親族でもあるトゥア (Toua) が、二つ

 の島を統治し、パパラで記憶に残る戦いを繰り広げた。この戦いは、歌や伝承 の中

 で ( 強調筆者 ) Ouré popoï oha(原文ママ)という名で語られている。

 

訳注:「筆者」は, この著作の筆者のこと.

モーレンハウトは、記述の歴史的部分を、あたかも彼が「歌と伝統」と呼ぶ「集大成」があるかのように書き、そこから数々の物語を引用しています。例えば、「(te) tamai rahi ia hirahouraïa、ヒラホウライアの大戦争」と、そのようなものから引用したように書きます。アメリカの歴史家ヘンリー アダムズ (Henry Adams) によれば、モーレンハウトにこの著者が記述する伝承の核心部分を与えたのは、まず ポマレ2世であり、そして宣教師王国に加わった パパラ (Papara) の偉大な首長タティ (Tati ) です。彼は、ポマレ4世の即位後、この王国の主要指導者の一人となり、ある意味ではフランス側のリーダーでもありました。タヒチの王子とヨーロッパの貿易商との間に存在した親密な関係は、この主張を非常に説得力のあるものにしています。しかし、これは我々が論じていた集大成の存在を示唆するものではなく、タティという名の伝統的な情報提供者、あるいはタティを中心に集まり、モーレンハウトが利用できた少数の情報提供者の存在を示唆するに過ぎません。しかしながら、モーレンハウトの後継者たちは、彼からインスピレーションを得て、伝統への言及を額面通りに受け止めたのです。

 

訳注:タティの位置づけについては「フェイピ (Fe'i Pi) の戦い」参照. 

 

訳注:「タヒチの王子」とは ポマレ 2世のことと思われる. 

 

 

ヴァンサンドン=デュムラン (Vincendon-Dumoulin) と デグラー (C. Desgraz) は、「オウレ ポポイ オハ (Oure-popoï-oha) 」の戦いを語る「歌」と「タイティ (Taïti) 年代記」について述べている。次に、カイヨ (Eugène Caillot) は、「ルア戦争 ( Te Tamai-ia Rua) 」と、「ヒラフライア ( Hirahuraia ) 戦争」、あるいは「ティレ (Tire) 戦争」、に言及している。レイ=レスキュール (Rey-Lescure) 牧師も同じ表現を用いている。「タヒチ年代記」、「ルア戦争」、「ティレ戦争」は、実際には全てが、タティがモーレンハウトに語ったことにかかっているようで、モーレンハウトは、タティが伝えた伝承、旅行者からのもの、宣教師からのものなどを無差別に混ぜて時系列順に並べた歴史的談話を提示しているため、タティのタヒチの伝承を理解する上での貢献を評価するのは困難です。

 

したがって、一般的には、アリイ  タイマイ (Arii Taimai )王女から伝わる伝承 [4] と マラウ (Marau) 王妃から伝わる伝承 [5]、そして オーズモンド (M. Orsmond) 牧師が収集し、孫娘のテウイラ ヘンリー (Teuira Henry) が「古代タヒチ」というタイトルで出版した伝承 [6] を、伝承集として捉えます。

 

歴史家 アダムズ (Henry Adams) は、19世紀末に、画家 ラ ファージュ (J. La Farge) とともにタヒチを訪れ、アリイ タイマイ から タヒチと モーレア島に関する数多くの歴史的伝承を集めました。後述するように、アリイ タイマイは タティの孫娘であり、パパラの テヴァ (Teva) と モーレア島の マラマ (Marama) の末裔でもあります。タヒチを拠点とする英国人貿易商  サルモン (Alexandre Salmon) と結婚した彼女は、純粋にタヒチの教育を受け、ソシエテ (Society) 諸島を離れることはありませんでした。フランス タヒチ戦争の終結時には和解の役割を果たしたほか、ポマレ4世王妃とも親交があった彼女は、アダムズと ラ ファージュがタヒチに到着した時には既に高齢でした。彼女の回顧録の口述筆記を手伝ったのは、ポマレ4世王妃の息子であるポマレ5世と結婚した娘のマラウでした。

 

マラウは、母や曽祖父と同じく、自身を テヴァの一族の一人だと考えていました。シドニーで英国の教育を受け、政治的な便宜上、20歳年上のポマレと結婚しました。これは、タヒチの最高位の称号を授かった彼女の一族と支配一族の同盟を結ぶことで、タヒチの王位を強化するためです 。タヒチがフランスに「寄進」された際、 タカウ ポマレ (Takau Pomare) 王女は、母マラウが夫ポマレ5世に対し、この放棄は品位を欠いた行為だと激しく非難したと回想しています。マラウは、ポマレの一族がタヒチ人ではないことを仄めかしながら、その非難を繰り広げたと伝えられています。夫婦間の不和、彼ポマレに対する軽蔑、そして タヒチ人らしくない生い立ちを祖先のルーツの崇高さで相殺したいという マラウの心理的欲求が、ポマレをして、彼女自身をテヴァの頂点に押し上げさせた可能性があります。当時の テヴァは簒奪者とみなされたポマレによってタヒチの称号を剥奪されていました。

 

訳注:上記段落の最後の三行では, 誰がどの行為をしたのかが分かりづらく, 段落の最

  初のところで マラウの教育の話題が出ているので, 「心理的欲求」の主を マラウ

  とし, その故に彼女が ポマレに彼女自身を テヴァの頂点とさせたと解釈した. 

 

以上のような背景から、ガンソン は、ポマレと テヴァの間の思想的対立を反映した アリイ タイマイの回想録の資料を扱う際に注意が必要であることを指摘しています。また、オーロラ  ナトゥア (Aurora Natua) も、アダムズが マラウのような人物から情報を収集する際に遭遇したであろう困難を強調しています。若く美しいマラウは、王宮や総督官邸での歓迎会、船の到着、海軍のデモンストレーション、そしてその地域のお祭り騒ぎなど、タヒチ貴族の間で広がる祝祭的な雰囲気に巻き込まれていました。そして、アダムズと ラ ファージュもまた、その雰囲気に引き込まれていたという証言があります。しかし、それだけではなく、1947年に『アリイ  タイマイの回想録』と題された本は、1893年の私家版の複製として出版され、 1964年にフランス語に翻訳されました。これは、著者  アダムスが非常に好奇心旺盛な歴史家であったという印象を与えます。アリイ タイマイの想定された声を通して語るのはアダムズであり、それは アリイ タイマイを情報提供者とした ヨーロッパ人が抱いていた タヒチ史のビジョンと言えます。ダニエルソン (Bengt Danielson) はフランス語版の序文で、その書における著述が著者と情報提供者(たち)のどちらに属するかをおおまかに区分しており、後者によって伝えられた伝承に関するものは半分に過ぎないとしています。この難しさを指摘するガンソンも、ラ ファージが友人アダムズについて書いたメモに言及し、アダムズを テヴァより テヴァとして描いています。

 

【The Salmon Family: Marau second on left; Arii Taimai at far righ, 「アリイ タイマイ回想録」より】

 

もう一つの伝承資料も、次元は異なるものの、その使用には同様に困難が伴います。「古代タヒチ」は、1817年にモーレア島に到着し、アファレアイトゥ (Afareaitu) 教会の責任者であったロンドン宣教協会の牧師、オーズモンド (Orsmond) 師が19世紀前半に収集した伝承集として紹介されています。オーズモンドは古代タヒチに関する伝承に関心を持っていました。ママイア (Mamaia) の幻視異端に関しては、同僚と異なり弾圧を拒否しました。さらに、プリチャード (Pritchard) が煽ったフランス人への敵意に従わなかった数少ない牧師の一人であり、フランス保護領の設立に伴い宣教師たちがソシエテ諸島を去った際にも、オーズモンドはソシエテ諸島を去ることを拒否しました。オーズモンドが収集したものに加えて、モーレア島の大祭司マレ (Mare)、他の大祭司、ポマレ2世などによって提供された資料もあります。1848年に作成された原本は失われており、オーズモンドの孫娘である テウイラ ヘンリー (Teuira Henry)が「祖父の個人的なメモや写本を用い、時折自身の研究を補足し ながら…復元に着手した。」(強調は筆者)「彼女はほぼ全生涯をこの写本に捧げ、1915年1月に亡くなった。」英語版が出版されたのは1928年であったため、最終的な版下の作成は ホノルルの ビショップ (Bishop) 博物館が担当しました。テウイラの写本が作成・出版された状況に関するその他の情報は、非常に不穏 (気にかかる) なものです。おそらくこれが、本書に パーシー スミス (Percy Smith) によるポリネシア大航海に関する考察が含まれている理由を説明しているのでしょう。ダグラス オリバー (Douglas Oliver) は、この考察はポリネシアのロマンチックな概念の一部であると記しています。しかしながら、本書には、それぞれのテキストが著者によって識別されているため、利用者が疑わしい箇所を容易に見つけられます。

 

伝承の領域を離れる前に、保護領設立の際にブルアット (Armand Joseph Bruat) 総督のために編纂された、比較的小規模ながらも非常に貴重なコレクションについて触れておきます。これらのコレクションは、一つは古代タヒチ社会の組織に関するもの(de Bovis,  1855年)、もう一つは19世紀半ばのタヒチとモーレアの首長国の状態に関するもので、昔の首長やアリイ (ari’i) についても言及されています (Ribourt, 1850年)。

 

訳注:「昔の首長やアリイ」とある中で, アリイを首長としてきたので, ここの首長が

  何のことであるかは不明.  これら二つの資料は直ぐには入手できそうにない. 

 

比較社会学は、ガンソンが「一次」資料に基づいてタヒチの歴史を構築するために検討したものです。私たちのアプローチでは、これが古代タヒチ経済の「再構築」または「構築」の出発点となりました。つまり、入手可能なタヒチの資料を用いて検証可能な古代ポリネシア経済の図表を作成することです。
 

訳注:比較社会学は, 時間や空間的に異なる社会の間で, 社会的過程や社会的関係を比

  較する分析の総称とされる.

 

 

 

「二次資料」

ガンソンによれば、二次資料には、歴史家自身の著作に加えて、カイヨが例に挙げているように、旅行者の記録の「編集者」と民族史家が含まれます。民族史家の先駆者にはハンディ (E. S. C. Handy) がおり、現在では ニューベリー (Colin Newbury) と ガンソン自身がその代表例です。ホークスワース (Hawkesworth) のような初期の航海記録の編集者についてはここでは触れません。彼らは航海日誌に基づいてウォリス (Wallis) や クックなどの航海を文字通り書き記し、その中で啓蒙時代から受け継がれた「高貴な野蛮人」という概念を広めました。しかし、ガンソンの見解に従うと、クックの航海の大型版に添えられた ベーグルホール (J. B. Baeglehole) の注釈は、「非常に未解明のまま残しておかなければならない問題に対する歴史家の独断的な態度の典型的な例を示しているようだ。」


訳注:ニューベリーの著書の幾つかを付録 B に示す.

 

訳注:ホークスワース については「ポマレ以前のタヒチ社会(9)」参照.

 

 

民族学者 ハンディ の「ソシエテ諸島の歴史と文化」(1930 年) は、アリイ タイマイが提供した資料に基づいて行われた歴史研究の曖昧さを反映しており、ガンソンは、その資料が文献から個人の理論を証明するために操作されていると書いています。ハンディは、アダムズが収集し、特権的な情報提供者としてのマラウ女王との交流によって復活した回想録に基づき、マナフネ (manahune) の人口分布と重なるように移住した貴族の文化層である フイ アリイ (Hui Ari'i) の理論を支持しました。マラウの敵対的なテヴァ/ポマレのイデオロギーは、ハンディによって構築された対立によって勢いを増し、正当化されました。つまり、フイ  アリイ = テヴァ ≠ マナフネ = ポマレの関係が物語る様に、フイ  アリイの テヴァは征服によって マナフネの人口分布に重なり、ポマレの王子たちは フイ  アリイではなかったので マナフネから出現したに違いないと主張するのです。

 

 

 

 

【基準期間の定義に関する問題点】

 

古代タヒチの社会制度を説明する上での大きな困難の一つは、その発展を裏付ける証拠が時間的に分散していることにあります。私たちは、タヒチの進化の起点となった静的な社会の存在を信じていません。むしろ、初期のヨーロッパ人が遭遇したタヒチの社会形成は、まだ知られていない社会的な力学の結果であったと考えています。17世紀半ば、あるいは一部の人が言うように1650年は、時間における基準点となり、よりよく知られている時代を定義し、社会制度を説明する基盤となるでしょう。

 

タヒチの歴史家たちは、最初のヨーロッパ人が到着する(1767年)以前、発見の前の世紀、つまり1650年以降について研究を行っていました。この時代が何に相当し、17世紀半ばが特別な意味を持つかどうかを知ることは、文献記録の外で年代を定めるという問題、つまり考古学と系図という二つの重要な資料を参照する、いわゆる先史時代の問題を提起することになります。

 

 

 

 

「考古学的参考文献:マラエ」


ガランジェ (José Garanger) は、エモリー (Kenneth Emory) に提出した論文集の中で、考古学的発見に基づき タヒチの古代史を3つの時期: 1) マウピティ (Maupiti) 以前、2) マウピティ時代、3) マラエ時代 に区分することを提唱した。

 

訳注:ガランジェの著書の幾つかを付録 B に示す.

 

 

訳注:マウピティ島は ソサイエティ諸島の西側部の リーワード諸島で ボラボラの西

 

【ソサイエティ諸島, 北西が リーワード諸島、南東が ウィンドワード諸島

 

 

ボラボラ島の西にある小さなリーワード (Leeward) 諸島の一つにちなんで名付けられたマウピティは、ソシエテ諸島で現在までに知られている最古の人類遺跡を指し、モア(ディノルニス)を狩ったニュージーランドのポリネシア人の文化に似た、タヒチ人がハワイ諸島に移住する前の文化を示しています。

 

さまざまな考古学調査 ミッション中に調査された遺跡の年代測定は、1つを除いて、すべて 13世紀以降であることが判明しました。これには、ミッション中に年代測定されたすべての マラエが含まれます。

 

したがって、マラエの時代をカバーする 14 世紀から 18 世紀までの 5 世紀は、「これらの構造物の極端な増加と建築的繁栄」によって特徴付けられます

 

これらの宗教施設は、前の時代(マウピティ時代)と異なり、後世に見られるような建築形式ではなく、それほど精巧でなく、数も少なかった。ニュージーランドの既存の建造物と類似したものを持つことを、同じ著者は示唆している。

 

マウピティ以前の時代が存在するという点については、西暦1000年よりかなり前にソシエテ諸島に人類が存在していたこと、またそれに関連して文化的な違いが見られたという発見から生じる歴史的深みの発展の可能性として示唆されているに過ぎません。

 

ヨーロッパ人が到来した当時、マラエは宗教的な性質を持つ石造建築物でした。多くの場合、舗装された空間で、ソサイエティ諸島の東側のウィンドワード (Windward) 諸島などでは、時には囲いが設けられていました 。囲いの壁は、モルタルを使わずに石を積み重ねるドライストーン(乾式石積み)で造られ、高さ1メートル、幅1メートルに達することも珍しくありませんでした。海岸沿いに見られる大型のマラエでは、壁は人力で成形された長方形の石を規則的に積み重ねて造られていました。したがって、エモリーはウィンドワード諸島に内陸マラエと沿岸マラエという区別を導入しました。内陸マラエの例として、アファレアイト (Afareaito) が挙げられます。これは、モオレア島のオプノフ (Opunohu) 盆地の斜面に、ハアピティ (Haapiti) のアリイ(王子)であるマラマ (Marama) が、その地域での地位とアメヒティ (Amehiti) 地区の創設(または領有)を聖別するために建てたマラエです。沿岸マラエの例としては、タヒチ島パエア地域の アティヴァヴァウ (Ativavau) にあるマラエタアタ (Maraeta’ata) があり、ガランジェが研究しています。また、マラエは、舗装された大きな高台の形態をとることもあり、その擁壁は、成形された長方形の石を規則的に積み重ねて作られました。例としては、オプノフ (Opunohu) の アフ オ マヒネ (Ahu o Mahine) マラエや、同じくモオレア島にある、アファレアイトゥ(Afareaitu) の大渓谷にあるアテテウラ (Ateteura) 地方でジェラール (B. GÉRARD) が研究した宗教施設の MAAS 2.4 と呼ばれる構造物があります。この中庭または基壇空間の一端には、高くなった構造物 (基壇) が設けられることもあれば、単に一連の立石が設けられることもあります。これは、エモリーから ガランジェに至るまで、アフ (ahu) と呼ばれ 、ソシエテ諸島の マラエの特徴的な構成物と考えられてきました。この種を分類しようとする際には、必要な留保事項をすべて付記するが (これらの種から派生した複合種が多数存在するため)、以下の3つのタイプが区別されています。

 

訳注:「アメヒティ」については「ポマレ以前のタヒチ社会(17)」参照.

 

 

1) ウィンドワード諸島、特にタヒチとモオレア島の海岸沿いのマラエ

 

長方形の石を積み上げて作られたピラミッド型のアフを備えています。これは、モオレア島マアテア (Maatea) の ヌウプレ (Nuupure) マラエや、モーレア島西海岸 バラリ (Varari) の名高い マラエ ヌウルア (Nuurua) がそうです。これは、プレア (Purea) が息子 テリイレレ (Teriirere) の威信のために建てた大マラマ マハイアテア (Mahaiatea)  の形式を持ち、タヒチで テヴァ イ ウタ (Teva-i-uta) の覇権に対する反対を具体化したものと思われます。再建された アラフラフ (Arahurahu) のマラエは、このタイプの良いイメージを提供しています。

 

【アラフラフ マラエ】

 

2) 同じウィンドワード諸島の内陸マラエ

 

不定形の石で造られ、低い台座からなる アフがあります。モオレア島 オプノフの ティティロア (Titiroa) マラエや、タヒチでクックが人身御供を目撃した マラエなどです。

 

訳注:「ポマレ以前のタヒチ社会(15)」の「モライ (morai)」の訳注参照.

 

 

3) リーワード諸島のマラエ

 

囲いの壁がなく、アフは立った石でできています。これは ライアテア島における、 オポア (Opoa) の タプタプアテア (Taputapuatea) マラエと テヴァイトア (Tevaitoa) のタイヌウ (Tainuu) の場合です。それから、フアヒネ (Huahine) 島マエバ (Maeva) のマラエ マタイレア (Matairea) や、ボラボラ (Bora-Bora) 島の マラエ マロテティニ (Marotetini) 、別名 マラエ ファレルア (Farerua)などです 。

 

 

次の節では、マラエの社会学的な重要性に焦点を当てます。「祖先と神々を呼び起こす」ことを目的としたこの「タヒチ人の礼拝所」は「家族組織の象徴」であり、「(所有者の)社会的地位の重要性」を示すものであったと簡単に述べておきます。

 

これらは社会的に非常に重要な記念碑でした。モオレア島の高僧 タメラ (Tamera) と パティイ (Patii) によって伝えられ、テウイラ ヘンリー (Teuira Hennry)によって出版された「マラエの歌」には、次のように記されています。

 

 マラエは、この土地の神聖さと栄光の象徴でした。
 マラエはこの島々の人々の誇りでした。
 この土地の装飾品はマラエでした。
 マラエは神々に捧げられた宮殿でした。

 

訳注:文献 [6] の章「信仰 (Religion)」にある. 

 

 

だからこそ、ライアテア島オポア に巨大な「国際」マラエ、タプタプアテアが建設されたと考えられる17世紀初頭が極めて重要なのです。このマラエは、ポリネシア人の最高神タアロア (Taaroa) の息子である オロ (Oro) 神への信仰の発展と結びついています。この信仰は、オポアの司祭たちによってタプタプアテアから、特にウィンドワード諸島へと広まり、タヒチ島では タウティラ (Tautira) とアタフル (Atahuru) 、モオレア島では ファアトアイ (Faatoai) 、別名 パペトアイ (Papetoai) の 3つのマラエが最初に建設されたと考えられています。ジェラールは、タプタプアテアが様々な伝統において果たした様々な役割を強調しています。簡単に言うと、ヘンリーにとって、このマラエは王家の系図の基礎となります。ジェラールは、このマラエについて、「ポマレ家の下で施行されていた公式のイデオロギーを伝えるもの」と述べている。これには別のイデオロギー(ポマレ族のライバルであるテヴァ族のイデオロギー)による異論があり、そのため、それ以前に オポアに存在した マラエである ヴァエアライ (Vaearai) の存在を強調することで、タプタプアテアの役割を軽視、あるいは消滅させ、彼らが勝利を望む先祖の系譜をそこから分離させようとする流れがあります。

 

訳注:歌「フェヌアモア」の説明が掲載された項「フェヌア モア (Fenua Mo'a)」に於

  いて,  ポマレと タプタプアテアの関係について述べた. そこでは タプタプアテア

  は パレ アルエに作られたことになっている, それが, 上記の アタフル、或いは 

  アテフル  (Atehuru) に存在するとされる マラエと同一であるかは不明.

 

訳注:フランス語文章に対する グーグル翻訳は不安定で, 最後の段落は解釈が難しい. 

  ポマレ 1世の母は ライアテアの王家の血筋であるので、彼は タプタプアテアから

  石を貰い受けて新たな タプタプアテアを勧請することができた. タプタプアテア

  の威光により, タヒチ島の有力な血筋の者たちはこの新たな タプタプアテアに席

  を確保しなければならなくなる. これは, これらの有力一族たちが ポマレの下に集

  まることになる. これが, タヒチ島における ポマレの権威を高めることになる.  こ

  れが, ポマレが権力はないが権威はあると, しばしば, みなされてきた理由. 

 

【Close-up of an anthropomorphic statue on the ancient marae of Taputapuatea, This file is licensed under the Creative Commons Attribution 2.0 Generic license

 

 

 

 

【おわりに】

 

本項では「ソシエテ諸島における伝統と近代性」から、タヒチの歴史を学ぶ上で欠かせない幾つかの著作についての批判的解説を紹介しました。それらの著作には、「アリイ タイマイの回想録」と「マラウ タアロアの回想録」、そして「古代のタヒチ」が含まれます。此等はいずれも タヒチの歴史を学ぶ上で欠かせないものですが、学術的な観点からは様々な注が必要であることが分かり、興味深いものがあります。もとより、著作は著者の主張を述べるものですから、当然であり、本項で紹介している著作にしても、キリスト教的な主張が背後にあります。著者が英国人であったなら、違った主張のもとに書かれたことだと思います。しかし、フランス人であればこそ、ポリネシアに対する情熱を感ずるものになっているということも言えると思います。「あらまし」にも述べましたように、次は有力一族、とくに、モオレアの マラマ一族の系譜についてご紹介します。

 

 

 

 

【付録 A : ガンソン (Neil Gunson) の著作】

 

Herda Phyllis, Jennifer Terrell, and Neil Gunson (eds), 

Tongan Culture and History: Papers from the 1st Tongan Historical Conference Held in Canberra 14-17 January 1987 (トンガの文化と歴史:1987年1月14日から17日にキャンベラで開催された第 1回トンガ歴史会議の論文)

1990.

 

Neil Gunson (ed), 

The Changing Pacific: Essays in honour of H. E. Maude (変わりゆく太平洋:H.E.モード氏に敬意を表したエッセイ集)

1978.

 

Neil Gunson, 
Messengers of Grace: Evangelical Missionaries in the South Seas, 1797-1860 (恵みの使者:南洋の福音宣教師たち、1797-1860)
1978.

 

 

 


【付録 B : ニューベリー (Colin Newbury) の著作】

 

Colin Newbury, 

The British Imperial Pyramid of Power: Manning an Empire in the Long Nineteenth Century, 1800-1914  (イギリス帝国の権力ピラミッド:19世紀における帝国の統治、1800-1914年)
2015.
 

Colin Newbury, 
Patronage and Politics in the Victorian Empire: The Personal Governance of Sir Arthur Hamilton Gordon (Lord Stanmore) (ヴィクトリア朝帝国におけるパトロネージと政治:サー・アーサー・ハミルトン・ゴードン(スタンモア卿)の個人的な統治)
2010.
 

Colin Newbury, 
Patrons, Clients, and Empire: Chieftaincy and Over-rule in Asia, Africa, and the Pacific  (パトロン、クライアント、そして帝国:アジア、アフリカ、太平洋における首長制と統治)
2003.

 

 

 

 

【付録 C : ガランジェ (José GARANGER) の著作】

 

José Garanger, Patrick O'Reilly, et al., 

Tahitiens d'autrefois (Dossier) (昔のタヒチ人(記録))
2008.
 

José Garanger, Claude Robineau, et al.,
Bora Bora (ボラボラ島)           
2008.

 

 

 

 

 

 

[1] Claude Robineau, Tradition et Modernite aux Iles de La Societe : 

  Une interprétation anthropologique (ソシエテ諸島における伝統と近代性:

  人類学的解釈). These Pour Le Doctorat D'etat Es':"Lettres et Sciences 

  Humaines," Uniiversite Paris V, Rene Descartes, Sciences humaines - 

  Sorbonne (国家博士号論文 :「文学と人文科学」, パリ第5大学, ルネ デカルト,

  人文科学  ソルボンヌ), 1981. 

 

[2] Claude Robineau, Tradition et Modernité aux Iles de La Société, Livre II Les 

  Racines (ソシエテ諸島における伝統と近代性, 第2巻 ルーツ). Éditions de l’Office 

  de la Recherche Scientifique et Technique Outre-Mer Collection MOMOIRES

   (海外科学技術調査局発行, モモワール・コレクション) No 100, PARIS, 1985.

 

[3] H. J. Davies, A Tahitian and English Dictionary: With Introductory Remarks on 

  the Polynesian Language, and a Short Grammar of the Tahitian Dialect, 

  London Missionary Society's Press, 1851.  (Classic Reprint).

 

[4] Marau Taaroa and Henry Adams, TAHITI: Memoirs of Arii Taimai E. Paris, 1901.

 

[5] Marau Taaroa, Mémoires de Marau Taaroa (マラウ タアロアの回想録). 1971.

 

[6] Henry Teuira (translated by de Bertrand Jaunez), Tahiti Aux Temps Anciens 

  (古代のタヒチ). Publications de la SdO, Paris, 2004.