「タヒチの歴史」:このシリーズのあらましのまとめ

 

【はじめに】

 

キャプテン ウォリスの訪問 (1767) により タヒチの文化が ヨーロッパに紹介されると、フランスでは タヒチが ルソーの言う自然状態の理想郷として喧伝され、「タヒチの女王」プレアへの熱狂が マリー アントワネットが刑場の露となる原因となったというのが、アリイ タイマイの主張でした。ところが、フランスは フランス革命 (1789 - 1795) から、フランス革命戦争 (1792 - 1802)、そして ナポレオン戦争 (1803 - 1815) と激動の時代に入り、タヒチどころではなくなったのです。そして、前項 で紹介したように、代わって、ルソーの主張には感動しないイギリスが、現実主義的な タヒチ観を強め、当時の代表的な詩人であった クーパーが タヒチには何の興味もないと書くまでになったのでした。その様な中、1797年、ロンドン伝道会の宣教師船「ダフ」号がタヒチに到着したのでした。その時、タヒチでは深刻な人口減少が進みつつあり、ウォリスの訪問時には 20万人以上あった人口が 2万人以下になっており、この後の 1893年には 5千人程度までに人口が減少する定めにあったのです。その様に不安定化した タヒチ社会に、宣教師集団を中心としたヨーロッパからの訪問船がもたらした近代兵器により、ポマレと、息子の トゥが タヒチの中で覇権を強め、思うままに振る舞うようになり、タヒチの人々は疫病の猛威に加え、宣教師たちの後ろ盾を得た ポマレと トゥの横暴に苦しむことになったのでした。その様な中、宣教師たちは テマリイ アリイファアタイア亡き後の パパラについて記載することが無くなっていました。それは、トゥが持っていた パパラへの影響力が、テマリイの死と共に無くなっていたからのようなのです。

 

本項では、アリイ タイマイは テマリイ亡き後の パパラについて検討を進め、タティと オプハラという対象的な兄弟について述べ、パパラを率いていく オプハラに注目します。彼こそが、トゥ、つまり、ポマレ2世への対抗者となり、フェイピ (Fe'i Pi) の戦いに敗北することにより、ポマレ2世の覇権を確立させ、そして タヒチの キリスト教国化を確定させた最後の戦士であったのでした。この フェイピの戦いは様々な形で語られていますが、アリイ タイマイは、宣教師の記録および テヴァに伝わる伝承により戦いの様子を再現し、オプハラの最後を記述するのです。これは、付録に示すような、現在の完全にキリスト教化されきった タヒチに置いて語られる物語とは違います。以降、アリイ タイマイの述べる文体を意識して書きます。

 

 

 

 

 

【パパラの謎】

 

私、アリイ タイマイは、1798年 9月にアリイファアタイア (Ariifaataia) が亡くなるまでの、パパラ首長の履歴をある程度追跡することに成功し、アモ (Amo)、プレア (Purea)、そして、そのアリファアタイアも、私の中では、ある種の現実味を帯びてきました。しかし、1800年から 1815年迄の私達の歴史の暗黒時代に来ると、私たちの一族が、他のほとんど全ての首長一族が辿った命運を、如何にに危うく逃れたかを示す記録や伝承が不足していることに気づきます。パパラ (Papara) の首長としての アリイファアタイアの後継者は、アモ、プレア、あるいは アリイファアタイア自身の子孫ではあり得ません。彼らの家系は絶えました。後継者の家系は、アモの弟 マネア (Manea) にまで遡る必要がありました。彼は、マハイアテア (Mahaiatea) で プレアの血の確執を鎮め ました。私が彼について知っているのはそれだけです。彼は恐らく 1798年に亡くなっていましたが、生きていたとしても、当時は、70歳から80歳くらいの老人だったに違いありません。タヒチでは老人はあまり重んじられていませんでした。彼には、おそらく 1750年頃に生まれた、テウライテライ (Teuraiterai) という息子がいました。その彼はテタウ イ ラヴェア (Tetau i Ravea) と結婚して数人の子供をもうけました。長男のタウラ アトゥア イ パテア (Tauraatua i Patea)、後にタティとして知られ、1854年に亡くなり、当時 80歳だったと推定されます。彼は クック (Cook) を子供の頃に見たと覚えていました。クックの最後の航海が1777年でしたから、タウラ アトゥアが 1774年より後に生まれたとは考えにくいです。彼にはオプハラ (Opuhara) という弟がいました。おそらく彼の 1、2年後に生まれたと思われます。

        【 Amo 周辺の家系 】


アリイファアタイアが 1798年に亡くなったとき、タウラ アトゥア  (タティ) は24歳か25歳くらいだったに違いありません。当時、彼は未婚でした。私の知る限り、彼と トゥの関係は友好的で、ひっそりと首長の地位を継承したようです。しかし、彼の行動については何も分かりません。彼は常に賢明で平和主義者であり、武力ではなく外交によって目的を達成し、戦争よりも ポマレの一族との同盟を好みました。その後10年から15年の間、書籍や印刷された記録には、パパラの首長に関する記述はほとんど見られません。ポマレが引き起こした 1802年のオロ神をめぐる大戦争においても、パパラやその首長に関する言及はありません。テマーレ (Temarre) に関する言及は 1803年 12月に一度だけありますが、それ以上はありません。

注:テマーレとは テマリイ (Temarii), つまり アリイファアタイアのこと. 「ポマレ以

  前のタヒチ社会(13)」参照.  アリイ タイマイの書いた「Temarii」の筆記体を

  著者が「Temarre」と読み間違えたものと思われる。

 

 

 

 

【タヒチの恐怖の時代】

 

初代ポマレ、あるいは初代 トゥであるヴァイラトア (Vairatoa) は、1803年 9月 3日、60歳前後で急死しました。息子で2代目ポマレである トゥは、1804年半ばにエイメオ島、あるいはモーレア島へ渡り、1806年までそこに留まりました。その年の 1月に トゥは島に戻り、1807年6月、タヒチの人々、特にテヴァの一族全体を、ポマレの一族とそのすべての友人と信仰、そして宣教師、キリスト教、そしてイギリスの利益に対する、恐るべき和解不可能な敵とするような行為を犯しました。そして、それは 1815年の最終的な大惨事に至るまで続きました。はるか後、今日に至るまで、1807年の トゥの裏切りと残虐行為の記憶は、人々の間で、そしておそらくは首長たちの間でさらに強く生き続けています。

注:ヴァイラトア (Vairatoa) に関しては, 「ポマレ以前のタヒチ社会(12)」参照. 

 

          【タヒチの主要な地域】

 

 

 

【タイアラプ付近】



日々、宣教師たちは、見聞きしたことを、ほとんど説明も、自分たちが痛ましい出来事に何らかの形で加担しているという疑いも無しに、記録していました。

「 1807年 6月 11日(月曜日)・・・  霊感を受けたとされる男は、オロ神が怒っており、戦争は起こらなければならないと言い続けています。私たちの理解の限りでは、主な罪状は、アッタフル (アテフル) の人々が、前回のタエアラブ (Taearabu) の戦いで彼らに殺された首長マテハ (Mateha)の骨の一部を盗み、釣り針にしたことです。彼は ポマレの一族の親戚であったから、これは王への侮辱の行為です。王の不興を買ったことは他にもいくつかあります。タエアラブの人々は、おそらく、オロに与えられた土地を完全に放棄しなかったことでも、何らかの不興を買っているようです。その土地は、無住の地であるべきだと王が希望していたからです。王と周囲の人々は、マスケット銃の手入れや戦争の準備に忙しく、戦争が確実に起こることを大変喜んでいるようです。」

注:「タエアラブ (Taearabu)」がどこかは不明. 「タイアラプ」かと思われる.

 

注:マテハ (Mateha) が誰かは不明.


「 22日 金曜日 ・・・  アッタフル、あるいはパペ エレ (Pape Ere) からの使者が、たまたま我々の家にいた王に、タラ エハラ(贖罪)を届けた。それはバナナの一房、赤い羽根の束、そして子豚でした。アッタフル (アテフル) で重病を患っている パペエレのために送られたと言われている。王はそれを彼の母の元へ届けるよう命じました。アッタフルへの遠征が準備されており、特定の宗教儀式が行われる際に行われると考えられています。

 

注:「パペ エレ (Pape Ere)」の中で,「Ere」の「r」は「t」の読み間違いだと思われ

  る.「パペエテ (Papeete)」は パレの主要な街.


「 25日 月曜日 ・・・  アッタフルで殺害された遺体のうち3体が夜中に運び上げられた。これらと昨日の午後に運ばれてきた2体が、オロイ神が祀られているマラエに埋葬されるためにタエアラブに送られました。伝えられるところによると、合わせて8体が殺害されたとのことです・・・日中、アッタフルから何人かの人々がやって来て、ポマレとその一行が アッタフルに陣取っており、アッタフルの人々は皆、パレに逃げたと報告しました。家屋や農園はすべて ポマレの一行によって破壊され、多くの略奪品が持ち去られましたが、アッタフルの人々は持ち帰る時間がありませんでした。今日、パレとマタヴァエ (マタヴァイ) の地域に大量の布やその他の品々が送られました。」

注:「マタヴァエ (Matavae)」は「ポマレ以前のタヒチ社会(11)」参照.


「 7月 2日 火曜日 ・・・  ポマレから、アッタフル族が完全に制圧され、壊滅したこと、タタール (Tata-ru)、ポエノ (Poeno) などが殺害されたことを伝える手紙が届きました。また、弾薬用の紙とラム酒2本を送るよう要請されました。紙は少し送りましたが、ラム酒は拒否しました。また、無害な女性や子供を殺す行為をやめるよう求める手紙も送られました。いつもの時間に宣教祈祷会を開きました。午後、兄弟 エルダー (Elder) と兄弟 ウィルソン (Wilson) は、山岳地帯にいるとされる逃亡者を救うために何かできることはないかと、アッタフルに向かいました。兄弟 ノット (Nott) もまた、アッタフルの首長 テ トワ (トワ) をここへ連れて行くつもりでパレに向かいました。テ トワは最近の虐殺を山岳地帯に逃げて逃れ、現在はハウタナ (Hautana) 渓谷にいるとされています。ポマレは、パレ (Pare) の妻である彼の妹のことから、彼は助命されるだろうと約束した。同時に、ポマレは彼の死を喜ぶであろうとも推測される。」

注:「トワ (Towha)」は「ポマレ以前のタヒチ社会(11)」参照.

注:「ハウタナ渓谷」は不明だが, 「Fautaua 渓谷」はパペーテの山側にある. [3]

 

注:「パレ (Pare) の妻である彼の妹」にある「パレ」は不明. 文の流れからは「トワ」

  であろう.  「パレ」は地名. 

 


「 水曜日、3日 ・・・  夕方、兄弟たちは戻ってきた。兄弟 ノットは テ トワを見つけられなかった。彼は山のどこかに隠れている。兄弟 エルダーと兄弟 ウィルソンはポマレの野営地へ向かったが、到着すると、彼は彼に従う者たちのほとんどが既に向かっていたパパラへ船で向かおうとしていた。

ポマレは海岸の死体のそばに立ち、人々に命令を下し、殺害された者たちの死体すべてが カヌーに積み込まれ、タエアラブの大マラエへ送られるのを待っていた。兄弟たちが目にしたのはわずか 30体ほどで、残りは既に タエアラブへ送られていた。彼らが目にした死体は、恐ろしいほどに切り刻まれていた。殺害された者の数は容易には把握できないが、兄弟たちは100人を超えないだろうと推測している。アッタフル地区は、荒廃と破壊の恐ろしい光景を呈していた。ポマレは、彼は悪を行っているのは自覚していたが、兄弟たちと話し合うつもりはないように見えた。兄弟たちは彼に、女子供を殺さないよう、そして山地にいるアッタフルア人たちを助けて欲しいと懇願した。彼はそうすることを約束した。」


注:「ポマレ以前のタヒチ社会(9)」の付録の大マラエのリストから、タイアラプ

  にある大マラエは「Matahihae (Teahupoo)」,「Ravea (Tautira, Teahupoo) 」, 

  「Tapuanini (Teahupoo)」の三つである. ライアテアで「オロ神」を祀るマラエ

  のタプタプアテアが作られた後に, そのマラエの神官たちによって, タヒチ島を代

  表する オロ神のマラエが タイアラプに築かれた. 本文中の「大マラエ」はこの 

  オロ神を祀る マラエのことであろうか. 付録に挙げた文献 [4] からの抜粋では, 

  タウティラにあった様なので,「ラヴェア (Ravea)」が該当の大マラエと思われる.

  ただし, 同名のマラエは テアフポオにもあり, 歴史的にはこちらの方が タイアラプ

  の中心であったし, アテフルからも近いので, こちらかもしれない.



宣教師の日記はここで終わる。1808年 11月 12日付の次の手紙は、ポマレ自身と共に島を去ったことを伝えている。ポマレによる6月の虐殺によって引き起こされた前面的な暴動に追われて。その様なの虐殺は他にもあった。しかし、これは最も残虐なものであり、宣教師たち自身もその行為の残虐性の全容を把握していなかった。エリス (Ellis) の要約には、日記から得た事実以上のものは何も書かれていない。モーレンハウト (Moerenhaut) は宣教師たちが別れたところから物語を続けている。

「彼らは[アッタフルで]奇襲した者全員を虐殺し、家々を焼き払った後、パパラへと進軍した。そこではタティ (Tati)、今も [1837年] 存命、が首長を務めていた。しかし幸運にも、プナアウイア (Punaauia) の大虐殺から逃れた男がパパラの住民に警告を発しに来たため、住民たちには団結して防衛する時間はなかったが、逃げる時間はあった。それでも、その地獄のような夜と翌日、多くの人が、特に老人、女性、子供たちが亡くなった。犠牲者の中には、アモの息子アリパイア (アリイファアタイア)の未亡人と子供たちも含まれていた。彼らは翌日の夕方、タイアラプ近くで奇襲を受け、従者全員と共に容赦なく虐殺された。タティと彼の戦士の何人かは、マイレペヘ (Mairepehe) のパペハロロ (Papeharoro) と呼ばれる砦にたどり着いたが、そこを維持するには人数が少なすぎたため、高山の最も近づきがたい場所に避難せざるを得なかった。そこからこの酋長は、忠実な部下たちが命を危険にさらして手に入れ、岸辺に揚げて用意しておいたカヌーにたどり着くことに成功した。首長には弟と幼い息子、この疲労と危険に満ちた日々の間、酋長は彼らを腕に抱いていた、が一緒にいた。」

私たちの虐殺の伝承はいくぶん異なり、もっと絵に描いたようなものです。と言うのも、殺人事件を、プレアと ポマレの母 テトゥアヌイ レイアイテ (Tetuanui-reiaite) の古い確執、そして 1768年の マハイアテア (Mahaiatea) の浜辺で起きた出来事にまで遡らせるからです。イギリス人からイデア (Iddeah)、イディア (Idia) などと呼ばれていた テトゥアヌイが、1807年にまだ生きていたかどうかは私には分かりません。しかし、彼女は1803年に夫のポマレ ヴァイラトア (Vairatoa) が亡くなるまでは生きており、確執は彼女と共にありました。島の慣習では、首長の子供は両親ではなく乳母に育てられることになっていました。島の礼儀作法は王室の慣習以上でした。それは世襲的であり、神聖なものであり、そして、乳母には子供の世話をする宗教的権利がありました。1807年、子供たちは ヴァイアリで家族と共に暮らしていました。ポマレはタラホイから男たちを派遣し、プレア (Purea) の侮辱によって流されたテリイ ヴァエトゥア (Terii Vaetua)と テトゥアヌイ レイアイテ (Tetuanui reiaite) の血を償わせようと、彼らを殺害させた。復讐により、タティの姉妹2人と従兄弟3人が殺害されたが、タティは従兄弟のアリイパイア (Ariipaea)、通称ヴェヴェ (Veve) と共に山を越えて東海岸のマハエナ (Mahaena) へと逃れ、そこで殺人者たちに追われた。マハエナの族長は遠縁であり、タティに報いるべき古くからの親交があった。彼は2人の若者を保護し、ポマレに反抗した。血の確執は、マネア自身と彼の子孫に関する限り、既に拭い去られており、ポマレは、彼の従兄弟の死ほどには、タティの死を気に留めていなかった。しかし、目的を達成できないと見て取り、二人の安全を保証して パレへ招いた。二人はパレへ向かったが、裏切りを恐れてボラボラ (Borabora) 島へ逃亡し、その後数年間そこで過ごした。オプハラは召使いたちに救われ、ポマレの手が届かない場所である パパラへ連れて行かれた。

注:ここで単に「ポマレ」と言えば、「ポマレ 2世」のこと.

注:「テトゥアヌイ レア イ テライ (Tetuanui-rea-i-te-rai)」については「ポマレ以前 

  のタヒチ社会(11)」参照.

 

注:「ポマレ I 」の名前を「ポマレ ヴァイラトア (Pomare Vairatoa)」と書いている

  が, 正しくは「ポマレ ヴァイラアトア (Pōmare Vaira'atoa)」である.

注:「マハイアテア( Mahaiatea )」で流された テリイ ヴァエトゥア (Terii Vaetua)
  と テトゥアヌイ レイアイテ (Tetuanui reiaite) の血については「ポマレ以前のタ 

  ヒチ社会(6)」参照.


我々の言い伝えによれば、パパラのヒバ (Hiva) はタティを呼び戻そうとしなかった。1807年 6月の暴動は島民の最後の忍耐力を使い果たし、今度は島全体が立ち上がり、ポマレとその周辺を徹底的に始末しようと決意した。この目的のためには戦士が必要だった。そして、戦士としてオプハラ以上に優れた者はいなかった。こうしてオプハラはパパラの首長となり、その後まもなく島の首長にもなった。というのも、1808年、オプハラとその軍はパペノオ (Papenoo) に進軍し、12月22日のそれを攻撃した ポマレは完全に敗北したからである。ポマレとその家族、そして宣教師団は、さらなる知らせを待たずに島を放棄し、エイメオへと逃亡した。その後7年間、オプハラはタヒチの重要人物であった。

注:「ヒヴァ (Hiva)」に付いては「ポマレ以前のタヒチ社会(1)」参照.

 

 

 

 

【フェイピの戦い】

 

「ウプファラ (Upufara) は」、宣教師団の中の歴史家 エリス (Ellis) は述べて、「聡明で興味深い人物だった。」彼は異教の最後の英雄で、宣教師たちの最大の敵であったにもかかわらず、宣教師たちは常に彼を高く評価し、彼が彼らに個人的な危害を加えるつもりはないと信じていた。ポマレを、 逆に、 彼らは恐怖の念を抱いて語った。この件に関して彼らの言葉は既に十分に引用してきていて、王の礼儀作法も道徳観も、人がことさらに言いたくなるようなものではなかった。しかし、政治家として、ポマレは、私的な道徳において示したのと同じくらい、十分に悪い例を見せてくれた。彼は決して大勢の支持者を持ったことはなく、自分の パレ アルエ以外には支持者などいなかった。彼の戦争はますます外部からの悪党によって遂行されるようになった。パウモトゥ (Paumotou) 諸島からとか、ペーター ハガーシュタイン (Peter Haggerstein) とか。彼は、宣教師、商人、そして他のすべてのヨーロッパ人から、絞首刑になってないだけの徹底した悪党の一人とみなされていたスウェーデン人である。エイメオでは、彼の友人はパウモトゥ人、ボラボラ人、ライアテア人、宣教師、あるいは追放者たちだった。彼はヨーロッパの船や宣教師から物乞いできるもので暮らしていた。ライアテア人、ボラボラ人、そして宣教師たちでさえ、ついに彼を見捨てた。宣教師の日記に記録されているには、彼らが長らく自分たちの仕事は失敗だと考えていて、彼ら自身の命運を ポマレのそれと同一視してしまった後は、強い警告にもかかわらず、彼らに他の選択肢はなかったということだ。そこで宣教師たちは、ノット (Nott) 氏だけをエイメオに残し、ポート ジャクソン (Port Jackson)、あるいは現在の シドニー (Sydney) 市があるボタニー (Botany) 湾へと出帆しました。彼らには、タヒチの首長たちが申し出た保護を敢えて受け入れるつもりはありませんでした。なぜなら、彼ら共通の気持ちとして、自分たちをポマレとその利益から切り離すことができなかったからです。

注:「ウィリアム エリス (William Ellis)」については  Wikipedia [5] 参照. 

注:「ウプファラ (Upufara)」は「ウプハラ (Uphara)」のこと.


その後7年間の パパラと オプハラについて私たちが知っていることは何と少ないことでしょう。1808年12月から1815年11月までは主に モーレンハウト (Moerenhout) が書いているもので、彼は タティからその情報を得たに違いありません。ポマレについて私たちが知っていることは、主に宣教師の歴史から得たものです。行動を追跡するのが最も難しい人物は タティ自身です。彼が ボラボラ (Borabora) 島に行き、テヘア (Tehea) と結婚したことは分かっています。彼女は島の三つの首長一族の一つに属していました。また、ポマレがその後まもなく、ライアテア (Raiatea) 島の首長 タマトア (Tamatoa) の長女を2番目の妻として迎える契約を結んだことも分かっています。しかし、次女のテリト (Terito) はなんとか先にエイメオにたどり着き、姉との契約にもかかわらず、ポマレに王妃として迎えられました。姉は テリトが正式に王妃に就いた後にようやく到着しました。信仰への冒涜は甚だしいことには、ポマレは姉に女王の称号――ポマレ ヴァヒネ (Pomare vahine) ――を残し、彼女は政治的な力、勇気、そして統制力において生涯女王であり続けた。タマトアは娘と共に結婚式に出席した。ポマレがニューサウスウェールズ (New South Wales) の宣教師たちに自身の境遇を記した手紙を書いた時、つまり 1811年 11月 8日、には結婚式の準備は エイメオで行われていたようである。

注: Wikipedia [6] の図に依れば, ライアテアの タマトア 3世 (Tamatoa III) の娘 「テリ

  イトオイトオテライ テレモエモエ (Teriʻitoʻoterai Teremoemoe)」 が ポマレ2世

  と結婚した. 「テリイト」は最初の四文字.  彼らの娘が ポマレ 4世 ( Pōmare IV).


「タへイテ (Taheite) は平和だ」と彼は言っている。「あまり良い平和とは言えない。おそらくまた戦争が起こるまでは良い平和にはならないだろう。しかし、平和はあり、我々は静かに暮らしている。私は 7月 8日にここエイメオに カヌー用の木材を調達するために来て、そして、ここで暮らしている。タポア (Tapoa) 一行はエイメオにおり、ウリテア (Ulitea, ライアテアのこと) の首長たちもここにいる。タマトアと ポマレ ヴァヒネは フアヘイネ (Huaheine) にいる。首長のうち残っているのは彼らだけだ。彼らは キャプテン ウォーカー (Walker) の船で来る予定だが、多分、まだしばらくは来ないだろう。タポア一行はキャプテン キャンベル (Campbell) の船で来た。彼らは 9月 27日にエイメオに到着した。彼らはかなりの数の兵士を連れてきた。288人だ。」

注:「タへイテ (Taheite)」は「タヒチ」のこと.

 

注:「フアヒネ (Huahine)」を クックは「フアヘイネ (Huaheine)」と呼んだ. [7]


タティは タポアの部隊の一員で、9月27日に到着した。その数は約300人だった。リーワード (Leeward) から来た他の部隊はさらに461人だったため、ポマレはエイメオにおいて強力な軍隊を擁していた。

注:ソシエテ (Society) 諸島は, 貿易風の向きによって, モーレア島や タヒチ島から東

  側の ウィンドワード (Windward, 風上) 諸島, フアヒネから西側の リーワード

   (Leeward, 風下) 諸島に分けられる.


「彼らもまた戦争に参加するために来たのだ」と彼は続けた。「私は彼らを再び送り返す。戦争は起こらない。平和であって戦争ではない。」彼らを帰国させた理由については彼は明らかにしなかったが、まだ次の戦争に臨む準備はできていなかったことは確かだ。彼はまだ、全軍をキリスト教の布教に向かわせる計画を練る必要があった。彼の手紙が示すように、その計画は長年彼の頭の中にあったに違いない。タマトアが間もなく到着し、ポマレは彼と リーワードの島々の他の首長たちにキリスト教徒であると宣言するよう説得を試みた。彼は 1812年 7月 18日に宣教師たちに自身の決意を伝えるために来て、その後まもなく、彼の以前の地域 パレ アルエからの招きを受けてタヒチに戻った。そこでは、 信仰を表明したキリスト教徒として、かつての敵に邪魔されることなく、2年間滞在することを許されましたた。

 

注:ここの タマトアは首長になる前の タマトア 4世.


同時に、タティも帰郷し、再び パパラに迎え入れられた。ポマレは 1812年 8月 13日、キリスト教の首長としてパレ アルエに居を構え、エイメオの宣教師たちと文通を続け、そして、宣教師たちはその手紙を出版すべく故郷に送りました。到着から6週間後の1812年10月1日に書かれた手紙の一つには、当時彼がアリイタポエア (Ariitapoea) と呼んでいたと思われる オプハラへの言及が含まれていました。


「親愛なる友よ、パパラ地域で、多分、まもなく戦争が始まるでしょう。それが真実かどうかを見つけるために、私たちは報告を聞いています。もし戦争が起こらないとししたら、それは私たちへの恐怖によるものです。エノメトゥア (Enometua) は一方の陣営のリーダーであり、アリイタポエア (Ariitapoea) とその兄弟 タテ (Tate) はもう一方の陣営のリーダーです。エノメトゥアが パパラから追放されれば、タヘイテすべてが戦争に巻き込まれるでしょう。この場合、私はエノメトゥアの側に立ち、地峡からテパエルエ (Tepaerue) [パレ アルエか?] までの全ての地域を含むポリオヌス (Porionuce) は私に加わります。パパラとアッタハル (Attaharu) の一部はエノメトゥア追放に賛成ですが、タカラベイ (Tacarabei) [アフライ(Ahurai)?] とファア (Faa)、そしてアッタハルの一部は中立を望んでいます。私たちはこの戦争が私たちのために、そして私たちを巻き込むために仕組まれたものであることを知っています。おそらくあなたはエノメトゥアを知らないでしょうし、タポア (Tapoa) 一行と共にライアテア島から来た タテ (Tate) の兄弟である、アリイタポエアも知らないでしょう。」

注:「エノメトゥア (Enometua) 」は不明.

 

注:「ポリオヌス (Porionuce) 」は「ポリオヌウ (Porionuu)」と思われる.

 

注:「アッタハル (Attaharu)」は「アテフル (Atehuru)」のこと.

 

注:「ファア (Faa)」は「ファアア (Faaa)」のこと.

 

注:「エノメトゥア (Enometua) 」は「イノメトゥア (Inometua)」と思われる.


この突然の イノメトゥア (Inometua) 、そして古いアロマイテライ (Aromaiterai) の確執 [それがアリイファアタイア (Ariifaataia) のポマレに対する裏切りに帰結してからもから 20年以上経っている (下図)] の再登場にはいささか驚かされるが、私の知る限り、何の害もなかった。戦争は勃発しなかった。宣教師たちは島に戻り、自由に改宗活動を行った。1813年 2月 17日、ポマレはこう書いている。「マタヴァイ (Matavai) は私に引き渡された。この引き渡しの真意が完全に確認できたら、改めて手紙を書く、」宣教師たちは島内を巡回し、多くの改宗者が生まれた。エイメオでは、いくつかの偶像が公然と焼かれた。キリスト教徒が積極的な布教活動を展開し、その成功によってポマレが島全体における権威を取り戻すであろうことは疑いようがなかった。しかし オプハラも タティも干渉せず、平和は破られることはなかった。

 

【 Ariipaea と Ariifaataia 】

 


しかし、パレで2年間待ち、「政権の回復を無駄に期待し、世襲領地における権威の回復に努めた後、ポマレは 1814年の秋、キリスト教徒を自称する大勢の信者と扶養家族を伴って エイメオに戻った」。その後まもなく、ポマレ ヴァヒネが リーワード諸島から、同じくキリスト教徒を自称する大勢の信者を伴ってエイメオにやって来た。同時期、タヒチの キリスト教改宗者たちはブレ アトゥア (Bure Atua)として知られる組織を形成し、島における権威を力ずくで回復しようとする新たな試みを開始するために、ポマレが彼らと妻の資源を利用していることは誰の目にも明らかだった。

注:「プレ (pure)」祈り, 崇拝.  タヒチの「p」はよく「b」と認識される.



戦争は避けられず、ポマレとキリスト教改宗者たちは、いつ、そして、どこで戦争を起こすかを選ぶことができた。ポマレ自身は戦士ではなかったため、積極的な戦闘は妻たちに任せていた。古くからの敵意をかき立てる可能性が低いからである。1815年5月、テリテ (Terite) と ポマレ ヴァヒネは、大勢のキリスト教徒を率いて パレ アルエに渡り、首長たちを倒すための計画を推し進めた。首長たちは彼らを再び追い出すしかなく、7月 7日の夜を共同攻撃の日とした。オプハラが軍を率いた。そして、二人の女王に警告を与え、逃げる時間を与えたと考えられている。彼の遅さを理由に、他の首長たちの一部は彼を裏切り者と非難した。彼は二人の女性にもその民にも危害を加えるつもりはなく、敵は プリオヌウ (Purionuu) であると答えた。そして、パレ アルエに直接進軍し、再びこれを制圧した。

注:「プリオヌウ (Purionuu) 」は「ポリオヌウ ( Porionuu) 」地区.


ポマレと宣教師たちは力を増し、エリスが表現したように、「自分たちの信仰と信条が首長たちの権力と影響力よりも優位に立つ時がそう遠くないと確信する」ようになった一方で、首長たち自身は絶えず動揺していた。パパラ島では分裂が苦痛を伴った。ライアテア島との繋がりから二人の女王と親密な関係を築いていたタティは、戦争を防ぐためにあらゆる努力を払った。彼は、人々がキリスト教徒になるまでは平和がこの諸島に訪れることはあり得ないことを見ざるを得なかった。宣教師たちと ライアテアの助けがあれば、テヴァの首長たちは ポマレを抑えることができるので、その代償と引き換えに彼の野望が満足されるのであれば、この諸島の王という宣教師たちの称号を認めるという犠牲はそれほど大きなものではなかった。もしこれがタティの計画であったなら、それはパパラを分裂させる結果となっただろう。オプハラは、7月 7日から数週間以内にキリスト教徒が パレ アルエに戻ることを許可した。ポマレ自身も、信奉者全員を率いて戻ってきたが、明らかに武装し、戦争の準備を整えていた。「キリスト教の信仰を維持し、そして、現在の平和と安楽な生活を続けることは不可能だと彼らは予見していた。」改宗者たちは銃器の使用訓練を受け、宣教師たちは一時的に積極的に戦闘的になった。首長たちは、銃器もイギリスの同盟国も持たず、ポマレが再び彼らを服従させようとしていることを知っていて、それでも、彼が、征服以外の目的を持たない軍隊を率いて、パレ アルエに戻り、彼らの独立を覆すための準備をするのを許可した。

ポマレと宣教師たちは、宗教儀式を装って軍隊を武装させていた。「タヒチへ行く前に、我々は人々に、戦争が起こった場合、そのような(不意打ちのような)策略が実行される可能性があることを警告していた。その結果、彼らの多くは武装して礼拝に出席した。」この軍隊は「おそらく約800人」で、マスケット銃兵を乗せた戦闘カヌーに加え、「現地の人からジョー (Joe) と呼ばれているイギリス人(またはフランス人)が指揮する」、船尾に旋回砲を取り付けた 2台目の戦闘カヌーを擁し、11月 11日、パレから13.5キロ離れた プナアウイアの村、あるいはその付近に ポマレは陣取り、はるか前方の パエアとパパラの境界に哨兵を配置した。

 

 

【戦闘カヌー、ニューズレター [8] より】

 


これは プナアウイアから間近にいた オプハラにとって、無視できない挑戦だった。彼はポマレの戦闘方法を十分に理解しており、ポマレが 1807年の奇襲と虐殺を再び行うのを阻むものは何もなかった。オプハラは急いで部下を集め、侵略者を追い払うためにプナアウイアへと突撃したそして、Fei-Pi(フェイピ, 未熟なバナナ)と呼ばれる戦いが起きた。それは、宣教師の年代記では有名で、宣教師の歴史書にも詳しく記されている。これらの記録によると、ポマレ軍は、予想されていた オプハラの進軍を斥候から報告を受けると、海岸に横隊を整え、片方の側面を戦闘カヌーで、もう片方を丘においた縦隊で守った。ポマレは狙撃兵を乗せた戦闘カヌーに乗っていた。もう一隻のカヌー、ライアテア島出身のイギリス人ジョーが乗っていた、は「かなりの活躍」を見せ、側面に位置して、攻撃側に対して縦射の位置にいたに違いない。

注:「fei」山バナナ (mountain plantain), 「pi」未熟

オプハラの攻撃は激しく、前線を突破し、ポマレ ヴァヒネと戦士の長たちが立っていた地点まで到達した。そこで、地元の宣教師の一人がオプハラを射殺し、オプハラは倒れ、間もなく死亡した。彼の部下たちはその後、追撃されることなく撤退した。

 

 

【オプハラ、ニューズレター [8] より】

 


これが、エリスの「ポリネシア研究」と「宣教師の記録」で述べられていることです。エリスはこう付け加えています。

「パパラ最後の首長 ウプファラは、聡明で興味深い人物だった。彼の死は、近親者で、その地域の統治の後継者であったタティによって深く惜しまれた。彼の心は長い間揺れ動いており、戦いの朝まで、偶像崇拝を放棄すべきか、それとも崇拝を続けるべきか、決めかねていたのだ。」

私たちの伝承では、この物語は別の形で語られています。古老によると、ポマレが彼の軍と共に プナアウイアに現れたことは オプハラを驚かせました。彼は彼の軍勢を集めきっておらず、タイアラプの人々が到着するまで待とうとしていなかったのです。彼は兵の半分だけで進軍し、パエア (Paea) の首長 テマエフアタ (Temaehuata)がキリスト教徒に寝返ったことを知りませんでした。進軍の途中、オプハラは服従の交渉のために派遣されていた タティと出会いました。対面すると、オプハラは彼に何の用か尋ねました。

「弟よ、私はあなたと平和を望んでいる!」とタティは答えた。

 

オプハラは背を向けた。

 

「裏切り者め、行け!」彼は言った。「恥を知れ! 最年長の兄として知っていたお前を、私はもう知らない。そして今日、この槍、オウリヘレ (Ourihere)、を『タエアエネオレ (taeaeneore)、兄弟なき者!』と呼ぶ。用心しろ。もしこの槍が今後お前に会うなら、敵として会うことになる。私 オプハラは、テマイティ山に 首長として立ち、父祖の神々にだけに頭を下げた。私は最後までそこに立ち続ける。そして、ポマレにも、あの白面の男が押し付けた神々にも、決して頭を下げることはない。」

オプハラの信奉者たちの間では、たとえ少数の兵力しかなかったとしても、現地の宣教師たちが祈りを教えられたように射撃を教えられ、聖書と共に銃を与えられていなければ、オプハラは戦いに勝利しただろうと固く信じられていた。パパラの人々は オプハラの死を、雇われ武装した異邦人による暗殺とみなした。彼らは白人の、戦時中や平時の体制を理解することができず、タテの方がオプハラよりも安全な指導者だとは理解しつつも、完全にはタティを許すことはなかった。服従に関しては、もはや選択肢はなかった。オプハラが倒れたとき、彼らの最後の希望は絶たれた。彼の死に際の言葉がパパラの陥落を告げた。

「我が子らよ、最後まで戦え! ここが山場だ。そして、このオプハラ、テマイティ山の ティは粉々に砕けた!」

注:「ティ (ti)」センネンボク, 神聖なものと考えられている.


オプハラの槍「兄弟なきオウリヘレ」は、現在ルーヴル美術館に所蔵されていると聞きます。当時でさえ、彼の戦士たちの中で、この槍を扱えるのはたった二人だけでした。オプハラは、テヴァの間では今でも最も偉大な戦士であり英雄とされています。宣教師や教会が、住民がキリスト教の真理と祝福を正しく理解しているかどうかを疑ったことがあるとすれば、その理由の一つは、宣教師たちがポマレのために戦い、オプハラを殺したことをテヴァが覚えていたからかもしれません。

 

 

 

 

【おわりに】

 

如何でしたでしょうか。Wikipedia [9] によれば、

 

「島の北東部に位置するポリオヌウ地区の首長であったポマレ1世は、彼の領土であっ

 たマタバイ湾にやってきたヨーロッパ人との邂逅により、銃器などを入手したこと

 から戦闘を有利に進めるようになり、1791年にタヒチの統一を果たした。ポマレ1

 世の後を継いだ息子のポマレ2世は1812年、ロンドン伝道協会から洗礼を受け、 

 キリスト教へと転向する。この行動は伝統的な宗教を信仰する他の首長らの反発を

 受け、再び戦争状態となったが、ポマレ2世はこれを退け、1815年にタヒチ島全土

 を統一するに至った。」

 

とあるところが前項から本項にかけて、アリイ タイマイによって語られました。宣教師の記録や、エリス 文献 [5] の「ポリネシア研究」と「宣教師の記録」、そして テヴァに伝わる伝承から再現された物語には気持ちが吸い寄せられてしまいます。本項を書いていても、前半の悲惨な記述は仕事を続ける意欲をかなり失わせてしまうものでした。権力者の狂人のような振る舞いの下で逃げ惑う人々と、それを冷徹に見守る宣教師団の対比が鮮やかです。状況としては、日本の戦国時代から、織田信長、羽柴秀吉、徳川家康迄の歴史と対比できる部分がありますが、権力者と宣教師団との関係を見ると、日本には織田信長や羽柴秀吉が居て良かったと思わざるを得ません。日本の武将の力が弱ければ、そして、彼らの考える方向が異なっていれば、タヒチのようになっていてもおかしくはなかったと思います。もっとも、歴史をどう見るかは、人によって異なります。それにしても、フェイピーの戦いにおける オプハラの雄々しさは心に残り、最後に宣教師によって撃たれたところは、とても印象的な場面です。

 

しかし、タヒチに平和が訪れるには、まだ早いようです。

 

 

 

 

 


【付録:プナアウイア市役所のウェブサイト [2] よりの引用】

(Google translation from Français)

 

フランス領 ポリネシアの歴史における重要な出来事である フェイ ピの戦いは、プナルウ川(プナアウイア)と オロフェロ川(パエア)の間で起こったとされ、キリスト教の公認とヨーロッパ人のポリネシアへの定住の始まりを象徴する出来事でした。

戦い

1815年11月12日、ポマレ2世とエイモ(モーレア島)出身の約800人の部下は、アテフル県 プナアウイア村近郊の ナリイという場所で、公の礼拝のために集まった。これが ナリイの マラエであり、現在では石碑がわずかに残っているのみである。

礼拝中、部下たちは遠くに「神々の旗と偶像崇拝の象徴を先頭に掲げ、その上にも武装した大部隊」を目撃した。しかし、ポマレ2世は礼拝を平和的に終了するよう命じ、部隊を展開させた。しかし残念ながら、「王の友人たちが通常の防衛のために適切な訓練を受ける」前に、異教徒の軍隊が到着し、戦闘が始まった。[付A]

戦いは不利に見えた。オプハラ王率いるポリネシアの神々、 オロパアと テバの守護者たちを前に、ポマレ2世は多くの支援を受けていたからだ。しかし、POMARE II は銃器の支援と宣教師の援助を受けている。

 

「マラエの背後に隠れていた『白人』が発砲し、撃ち落とされた[付B]」そして、「マロ ウラ」を身に着けた タヒチ最後の「アリイ・ラヒ」であったオプハラは命を落とし、勝利は ポマレ2世に渡り、ポマレ2世は絶対君主となった。

 

 

[付A] 1815-2015: フェイ・ピの戦い200周年記念、ヒロア誌第98号
[付B] タヒチ最後の女王マラウ・タアロアの回想録:娘のタアロア王女による翻訳アリイマニヒニヒ・タカウ・ポマレ. パリ:海洋協会、1971年、291ページ。

 


 

 

【付録:タヒチの タプタプアテア ( 文献 [4] の章「信仰 」より)】

 

39 タヒチがライアテア島の魚であるという伝説は、歴史的事実(原住民の間で今も存在する信仰)と考えられているため、ライアテア島の司祭たちは、オポアのオロを設置した後、タヒチがこの神の拠点であると考えました。

 

注:伝説については「ポマレ以前のタヒチ社会:現在の状況」参照. 

 

注:「オポアのオロを設置」とは、ライアテアの オポアに大マラエ タプタプアテアを

  築き、オロ神をお祀りしたこと.


40 タマトア 1( Tamatoa I ) 世の治世中、トゥプア ムイ テ ファ アオヌーノ ( Tupua-mui-te-fa’aonoono, 永続的で大きな成長)という名前のオロの大祭司が、彼の 2 人の兄弟 テ トゥプ アミハ (Te-tupu-amiha, 順調な成長) 、テ ハルル (Te-haru-ru, 轟音)と彼の妹 トア テ マナヴァ (Toa-te-manava, 勇敢な魂) 、非常に教養のある人です、を伴ってタヒチに来ました。彼らはタヒチ に マラエ を設置するために タプタプ アテア から石を持ってきました。彼らの大型カヌー「パタラヴァ」(Patarava,  拡張された砦)は、タヒ・リ・ア・マヌ(Tahi-ri-a-manu, 鳥の扇形)と呼ばれる建築業者の マラエ でこの行事のために建造されました。カヌーは聖なる紐で装飾されており、そのため大きな影響力と魅力を与えられていました。

41 訪問者はまた、ポエ・マタ・ウィウイ(poe-mata-uiui, ビーズ)、アフアラ(ahuara, 上質で柔らかいマット)、オロオロ・フルフル・オタハ('oro'oro huruhuru'otaha, 羽毛で作られた花束)、ウラ('ura, オウムの羽?)と燃えるようなフリンジなど、タヒチの神々や首長への適切な供物も持参しました。

42 彼らがマラエの神々に贈り物をもたらす準備をしていたとき、トゥ神(鳥のメホ(ガラガラ)で表される)に捧げられたトゥマラマ(Tû-marama, 月の安定)は彼らが戻ってきたパペーテ( Pape'ete )パスの反対側にありました。テオロパ( Te-oropaa )の戦士たちは、カヌーが海岸近くに停泊しているのを見て、それを拿捕しようとしたが、司祭の妹が戦士たちから助かるためにオロの助けを大声で求めた。同時に、カヌーとその乗員は雲に持ち上げられ、強風によってオポアに運ばれました。らは到着するとすぐに王様のところに行き、この異常な出来事について話しました。その後、王は彼らと一緒に大マラエに行き、感謝のしるしとしてカヌーに積まれていた贈り物をオロに贈りました。

43 最後に、オロの崇拝者たちはタヒチに行き、テ アフ オ ルア タマ(Te-ahu-o-rua-tama, 金髪の子の泉の壁)と呼ばれるマラエの近くのタアタ・トゥア(Ta’ata-tua, 海の男)と呼ばれる地点でタイアラプに上陸した。そこで彼らは彼らの捧げ物と宗教的な敬意を表しました。

44 彼らは通常の儀式で好評を博し、トゥプ・イ・マタ・ロア(Tupu-i-mata-roa, 長い顔の成長)と呼ばれる石を置き、「東方のオロ」の本拠地を確立することが許可されました。タヒチとモオレアの住民は、これがタヒチ(魚)の歴史の自然な継続であると考え、団結してタプタプ・アテアと呼ばれる大きな国立マラエを建設しました。そこに奉納された神は、長さ約 2 メートルのトア( toa )またはアイト (aito, 戦士の意味もある) の木片で表され、恐ろしい神のすべての属性を与えるために赤、黄、黒の羽で覆われていました。儀式が行われている間、強い南西風が発生し、稲妻を振り回しながらオロを運びました。彼は自分のイメージに入り、それ以来、それはオロ・ラヒ・トオ・トア( Oro-rahi-to’o-toa, トアの像の偉大なオロ)と呼ばれるようになりました。こうして彼のタヒチ支配が始まった。

 

注:最後の「彼」とは「オロ神」のこと.

 

45 司祭の妹 トア・テ・マナヴァ はウポル(Uporu, Haapape or Mahina の旧名)で好評を博し、タヒチの貴族のために学校を設立し、彼女の出身国であるライアテア島の民間伝承を彼らに教えました。

46 こうして勇気づけられたオロの司祭たちは、建てたばかりのマラエから聖石を携えてタヒチヌイへ向かいました。彼らは、当時アタハタ( Atahata )またはアタフル( Ata-huru, 綿雲)と呼ばれていたパエアのウツアイマフラウ( Utu-ai-mahu-rau, 多くの霧を飲み込む岬)に上陸しました。地元住民は彼らに定住を許可し、ウトゥ・アイ・マフラウ( Utu-ai-mahu-rau )と呼ばれるマラエの建設を手伝った。オロ・フア・マヌ( Oro-hu'a manu, 鳥の羽の体を持つオロ)は、このマラエの神でした。彼の像はオポアと同じくらいの大きさで、タウティラと同じように赤、黄、黒の羽で覆われていました。

 

 

 

 

 

 

[1] Marau Taaroa and Henry Adams, TAHITI: Memoirs of Arii Taimai E. Paris,
  1901.

 

[2] La bataille de Fe'i Pi ,  Mairie Punaauia (プナアウイア市役所).

 

[3] Mapcarta ,  The Open Map.

 

[4] Henry Teuira, Bertrand Jaunez (Fr. transl.),  Tahiti aux temps anciens (古代のタヒ 

  チ). Société des Océanistes, 2004,

 

[5] William Ellis (British missionary) ,  Wikipedia.
 

[6] Template:Raiatea family tree , Wikipedia.
 

[7] James Cook, A Voyage Towards The South Pole, and Round The World, 

  Performed in His Majesty's Ships the Resolution and Adventure, in the 

  years 1772, 1773, 1774, and 1775. VOL. I, 1777.

 

[8] Maco Tevane. "Oia mau nei ? TE TAMA’I NO FE’I PI,"   Te muhu o pare nui, Tahiti,

  12 novembre 1987. (パペーテのニュースレター)

 

[9] ポマレ王朝 , Wikipedia.