[はじめに]

 

この項では英国軍人 キャプテン  ウォリス の タヒチ 訪問の顛末が彼の航海日誌から

の引用と アリイ  タイマイの筆を通して語られ、ついで ウォリスの「女王」プレア

がフランス革命に与えた影響が アリイ  タイマイ によって論じられます。この後半部

は タヒチ の大首長の教養の深さを余す所なく見せ、理解の難しい所であると同時に

非常に興味深いところでもあります。いままで、タヒチ は一方的にフランスによって

収奪された様に理解してきましたが、大首長によれば、そこには フランス が来て、

イギリス が来なかった歴史的な、そして思想的な経緯があると言うことになります。

後の歴史ではポマレ IV世が イギリス の援助を無駄に待ったことが語られますが、

大首長の筆によって、歴史の一つの必然性が語られていて興味深いです。

 

長いですから、ゆっくりとお読みください。実のところ、この Dancingflowers も

完全には理解できていないところがありますが、いつまでも下書き段階でおいておく

のも気が塞がることですから、取り敢えず公開して、順次修正していく予定です。

 

 注:節の見出しに文献番号 [1] がついている場合には、アリイ  タイマイ が語る

   体裁で書かれています。

 

 

[キャプテン  ウォリス のタヒチ訪問][1]

 

1767年の 6月18日、Dolphin号で世界一周発見の航海にあったキャプテン サミュエル 

ウォリス( Captain Samuel Wallis )はタヒチ島、或は彼の呼び方に従えば「オタヘ

イテ( Otaheite )」を初めて見ました。この話はホークスワースの航海記録集に載せ

られて、飽きられることもなく、世界中で幾度も幾度も読まれてきました。しかし、

生涯をタヒチで過ごし、話を身近に知っている私としては、私と私の家族に関わるこ

と以外は繰り返しませんが、まさにその部分がヨーロッパを大変に喜ばせた部分でも

あります。私は最初に、私達の正確な日付は ワリス が彼の船を島の北端にある ハア

パペ地区の マタヴァイ湾に引き入れた 1767年の 6月 24日から始まることを述べて置

かなければなりません。ところで、その場所は二年後にキャプテン クック が金星の太

陽面通過の観測所に選んだところで、彼はその陸地から突き出た砂州にビーナス ポイ

ント と言う名前を与えました。さて、ウォリス の到着したその日にあの有名な戦いが

【The Native of Otaheite Attacking Captain Wallis the First Discover of That Island】

 

起き、 それは6月 24日にも再発したものの、原住民側が敗北し、彼らをヨーロッパか

らの彼らの新しいお客として友好を結ぶことで唐突に終わりました。関係が部分的に

始まった後、ウォリス は丸二週間 マタヴァイ湾に留まりましたが、一人の首長も近づ

かず、一般人は、まとまった数で船やボートに近づくことは許されませんでした。

それは  7月 11日の土曜日にとうとう一人の婦人がボートでやってくるまでです。その

婦人の様相が ウォリス の物語に、彼自身の言葉以外では表せない、古風で魅惑的な

ロマンスの雰囲気を醸し出します。

 

 注:前項では "Wallis" を「ワリス」としましたが「ウォリス」が正しいようです.

 注:船を「引き入れた」と書いた部分、最初は何を意味しているのか分かりません

   でしたが、出帆の記述から、大型帆船は最終停泊の前には自力航行せずにボー

   ト で曳航するようです。それで、(ボートで)引き入れたとなるのでしょう。

 注:「John Hawkesworth LLD(ジョン  ホークスワース、法学博士)」編集者

 注:「ボート」は Dolphin 号に積載された小型船. タヒチ側の小型船は「カヌー」

 

「 11日の土曜日の午後、砲手が背の高い婦人を伴って乗船してきた。婦人は 45歳頃

で優しい顔立ちで威厳ある立ち居振る舞いだった。彼が私に言うのには、彼女はこの

国のこの地方に到着したばかりで、原住民から彼女に多大な敬意が払われているのを

見て、彼女に幾つかのプレゼントをした所、そのお返しとして、彼女は彼を谷を 2マ

イルほど上がったところにある自分の家に招待し、何頭かの豚をくれ、その後で船に

乗船したい旨を述べたので、色々考えた上で彼女を満足させようと考えたとのことだ

った。」

 

「最初に船に来た時、彼女は気後れや恐れの様子を見せることもなく、そして船上に

いた間ずっと、意識の上で優位にあり日常的に命令しなれたものに特徴的な気楽な気

ままさを示していた。私は彼女に肩から足に届く大きなブルーのマントを進呈し、彼

女にかけてリボンで結んだ。私はそれから彼女に姿見や、いくつかの種類のビーズ、

その他多くのものを進呈したところ、彼女は大変に喜び、素晴らしい優雅さで受け取

った。彼女は私が病気であることに気づき、岸辺を指差した。私は彼女が私が回復す

るためにそこへ行くべきだと言おうとしていることが分かり、明日の朝にそこへ行く

と身振りで示した。彼女が戻りたい様子を見せた時、砲手に命じて彼女について行か

せ、彼は彼女を海辺におろしてから彼女の住居までついて行った。彼が言うには、そ

の住居はしっかりと建てられた大変に大きなものであった。その住居には多くの衛兵

と使用人がいて、少し離れたところに格子の塀で囲まれたもう一軒の家がある、と彼

は言っていた。」

 

ウォリスが即座に気がついたように、この訪問が英国人に初めて島を開いたのです。

しかし、彼はあまりにも現地の上流社会に入り込むことに熱心になりすぎて政治を忘

れてしまったのです。この瞬間からこの島から出向する 7月 27日まで、彼の物語はほ

とんど全てが「私の王女、或は女王」の話題になりました。その物語は感情の爆発で

終わりましたが、それは私の知り得た限りでは、公式文書の中で唯一、英国海軍大佐

が彼の冷静な筆致の一部として涙を記録しているケースとして際立っています。

 

「次の朝( 7月12日土曜日)、」とウォリスは続けます。「私は初めて海辺に降り立

ち、そして私の王女、いやむしろ女王は、それは彼女がみせる権威がそう呼ばせるの

だが、多くの従者に伴われてすぐにやって来た。体調不良が私を非常に弱らせている

ことを知り、彼女は従者たちに私を、川を越えるばかりではなく彼女の家までの全て

の道のりを、彼らの手で運ぶように命令した。そして、私と一所に居た中の数人、特

に先任中尉とパーサーもやはり病気であることを見て取り、彼女は従者たちに彼らを

同じ様に運ぶように命じ、その後をこの様な機会に命じる護衛が続いた。その途中で

ひじょうに多くの住民が私達の周りに群がったが、彼女が何も言わず手を振ると、彼

らは下がり、我々に道を開けた。 我々が彼女の家に近づくと、ひじょうに多くの男女

が彼女を出迎えた。彼女は身振りで彼らが親戚であることを示し、私の手を取ると彼

らにキスをさせた。」

 

【Captain Samuel Wallis of HMS Dolphin being received by the Queen of Otaheite, July 1767】

 

ウォリス の物語の中でもこのシーンは全てがタヒチ的で素敵な絵の中で馬鹿げたイギ

リス軍の制服と挙動が対比されている大きな彫刻画に描かれています。ほとんど全て

の細部は正しくそして注意深く仕上げられているようです。横長で 木の 葉で屋根を葺

いた住民の家は今でも島では普通に見られます。件の「女王」、たいへん若く繊細に

見えます、はタパの長いドレスをつけ、腰まではだけた女達と歓迎の姿勢を示す男た

ちを従えています。

 

 注:「 engraved drawing 」は銅板などに線刻を入れ、そこにインクを詰めて紙に

   転写して作られる絵. 版画の一種. ここでは「彫刻画」とした.

 注:大首長などは聖なるものとされ、その前では上半身を裸にする習慣があった.

 注:文献[2] の章「 The rural districts 」に伝統的な庶民の家ではパンダナスの葉で

   屋根を葺くとある.

 注:文献[3,p.298] にある引用によれば、上の絵にあるような端が丸い家は首長階級

   が使うものである.

 

「我々はその家に入った。それは長さが 327フィート、幅が 42フィートの広さがあ

り、両側でそれぞれ 37本の柱、そして中央で 40本の柱に支えられた、ヤシの葉で葺い

た屋根がのっていた。屋根の棟は内側で 30フィートの高さがあり、両側では 12フィー

トの高さで、屋根の下は開放されていた。」

 

この家は明らかに ハアパペ地区の ファレハウ( Fare-hau )、つまり議事堂です。

ウォリスが言うところの「女王」はハアパペ ではなく、島の別の地域に属していたの

で、彼女自身が客人であって、彼女がそこにいたのはハアパペ の首長との親戚関係が

あったためでした。

 

「我々がその家に入ると、彼女は我々を座らせ、若い四人の女を呼び、彼女らを助け

て私の靴を脱がせ、靴下を下げ、そして私のコートを脱がせた。それから、彼女らに

足の皮膚を撫で付け、掌で柔らかくこするように指示した。それを 30分ほど続けた

後、彼女らは私達に服を再び着せた。しかし、容易に想像できるように、彼女らの着

せ付けは大変下手であった。しかし、この足もみは大変に良かった。中尉とパーサー

も同様であった。暫くしてから、我々の寛大な恩人は何束かのインド布持ってくるよ

う命じ、私と私に従ってきた全員に彼らの流儀に従って着せた。最初はこの好意を受

けるのは気が進まなかったが、我々を喜ばせようとしたことに喜ばない様子を見せた

くなかったので、私は黙っていた。我々が帰る時、彼女は子持ちで大きな雌豚をボー

トに降ろすように命じ、彼女自身がそこまでついて行った。彼女は使用人たちに来た

ときと同様に私を運ぶように命令を下したが、私は歩くことにした。彼女は私の腕を

取り、水たまりや泥道に差し掛かる度に、私が元気だったら容易に子供を持ち上げら

れるのと同じ容易さで私を持ち上げた。」

 

 注:「インド」と言う言葉が出てくるが、これは、後で「女王」の取り巻きをイン

   ド人 と言っていることからも、ウォリス が ポリネシア人を インド人と曲解し

   たためだと思われる.  従って、「インド布」とは「タパ」であろう.

 

この時から、ウォリス と船員たちはタヒチ島、そして特にタヒチの女達の虜になりま

した。彼女らは、ホークスワース が記した ウォリス の評価によれば、「皆が容姿に

優れ、彼女らの幾人かは非常に美しい」のでした。「女王」は、パンの実、バナナ、

ココナッツ、その他の果物を大量に添えて、何十頭もの豚や家禽を彼に送り、幾日か

毎に彼女自身が彼に挨拶するために船にやって来たのでした。

 

「 21日に女王が再び船にやって来て、幾頭かの大きな豚を贈ってくれ、そしていつも

どおりに返礼を受け取らなかった。船を去ろうという時になって、彼女と一緒に上陸

してほしいと希望したので、私は同意して数人の士官を同行させた。彼女の家に着く

と彼女は我々全員を座らせ、私の帽子を取って、陸では彼女しかつけているのを見た

ことがないような、一束もしくは一房の様々な色の羽を結びつけたが、それは悪くな

かった。また、彼女は私の帽子と私と一緒に居た者たちの帽子に髪の毛を編んで造っ

たリースを巻き付け、自分の髪の毛を自分で編んだものだと説明した。彼女はまた、

我々に非常に興味深い細工の施されたマットを贈ってくれた。夕方には、彼女は我々

に付き添って浜辺に戻り、我々がボートに乗り込む時に、一頭の子持ちの立派で大き

な雌豚と沢山の果物をボートに載せた。別れ際に、私は島を 7日のうちに離れなけれ

ばならないこと身振りで示した。彼女はすぐに私の意図を理解し、私が 20日滞在す

べきであることを伝えてきた。つまり、2日の旅で彼女の国へ行き、数日滞在し、

沢山の豚や家禽をしめて、その後で島を離れるのである。私は再び 7日で行かなけれ

ばならないことを伝えた。すると彼女は泣き出し、なだめるのに大変な苦労が必要だ

った。」

 

「女王」正しくは首長、は間違いなく ウォリス を自分の地区に招待したのです、そし

てそれには、ウォリス が予見しなかった、政治的な理由があったのかも知れません。

というのも、彼女が落胆をそれほど強く示したからです。ウォリスの拒否は私達の歴

史に取り返しのつかない損失をもたらしました。彼女は 7月 25日にも乗船して、夕方

まで滞在しました。

 

「舷側を通過しながら彼女は、手振りで、決めた時間に島から離れるという決意をま

だ持っているのか聞いてきた。もっと長く滞在することは不可能であることを彼女に

理解させた時、彼女は涙の洪水で彼女の無念さを表し、しばし言葉を失った。興奮が

静まると、彼女は次の日も船に来るといい、そこで私達は別れた。」

 

別れの日はすぐに訪れ、 7月 27日の夜明けに Dolphin は出向準備が整っていました。

砂浜全体が人で覆われ、その中に「女王」もいて、水樽と彼女の贈り物を運び出すと

ころだったボートに乗りたがりました。しかし、担当の士官はボートで現地の人間を

運んで来てはならないという命令を受けておりましたので、「女王」は ダブル カヌー 

を出し、自分の使用人を使って船まで行きました。

 

「女王は船までやって来たが、話すことが出来ず、座り込んで、そして泣いて激情を

発散した。彼女が乗船してから一時間後、風が吹いてきたので、我々は錨を揚げ、帆

を張った。もうダブルカヌーに戻らなければならないと分かって、彼女は沢山の涙を

流しながら、我々全員を優しく抱きしめた。彼女の付添たちも皆、我々の出発に深い

悲しみを表した。じきに静かになり、私は船を曳航するためにボートを前に送った。

その時、全てのカヌーが船に戻ってきて、女王の乗ったものは砲門の所までやって来

た。これを彼女の使用人は素早く行った。数分後、彼女はカヌーの船首に来て、そこ

に座って救いようのない悲しみの中で泣いていました。私は彼女にとって役立ちそう

なものを沢山送り、そしていくつかの装飾品も送った。彼女は全てを黙って受け取っ

たが、どれもほとんど見なかった。10時頃に我々は環礁の外に出た。新たに風が吹い

てきて、我々のインド人の友人、そして特に女王が再び別れを告げた時、愛と悲しみ

が私の心と眼をいっぱいにした。」

 

 注:「インド人」については上の注参照.

 

 

[「女王」プレア 、ルソーの「自然状態」の花 ][1]

 

ウォリス は彼の「女王」の名前、彼女の実際の階級、島のどこから来たのかも知りま

せんでした。それは ブーゲンヴィル も同様で、彼はわずか 8ヶ月後、1768年 4月に タ

ヒチ の東側の ヒティアア( Hitiaa )に来ましたが、その場所や人々を十分に見ません

でした。しかし、この二人の探検家のどちらも ヨーロッパ に タヒチ についての素晴

らしい報告をもたらしたので強い関心が沸き起こりました。この当時、ヨーロッパ、

特にフランスでは、自然な環境に置いては人間はどのようであったか、もしくはどの

様になるかについての何らかの素晴らしい例示を求めているところでした。そして、

哲学者達は タヒチ を、人間から束縛を取り除くだけで幸せになれるという命題を証明

するところだと考えました。これは私達一族の話であって、タヒチ島の歴史ではあり

ません。そして、ブーゲンヴィル が彼が ニュー シセリア( New Cytherea )島と呼ぶ

ところにおいて述べた自然の状態をフランス に当てはめるために フランス革命を起こ

した哲学者の名前すらよく知りません。しかし、ディドロ が「ブーゲンヴィルの旅行

に対する補足(Supplement to Bougainville's Travels)」において船の牧師と オロウ

という名前の タヒチ人の対話を通して パリ に対する タヒチ の優位性を述べているの

は知っています。

 

 注:フランス革命は 1789年 5月 5日から 1799年 11月 9日まで.

 注:ブーゲンヴィル( Louis-Antoine de Bougainville )はフランスの探検家.  1771
   年に出版した本「世界一周航海( A Voyage Around the World )」において 
   アルゼンチンと、パタゴニア、インドネシア、そして タヒチ について記述し、
   特に タヒチ をユートピア の様に書いている.
 注:「 Cytherea 」は「 Cythera 」ギリシャ語の「キティラ」から来ている. キティ
   ラ島はギリシャ の ペロポネソス半島の南にある島。ギリシア神話におけるアフ
   ロディーテゆかりの地.
 注:ドゥニ・ディドロ( Denis Diderot )は上記の文章を 1772年に書いたが、出版
   されたのは彼の死後の 1796年.
 

私の友人の一人が 1779年出版の一冊のフランス本「オタヒチ島についての エッセイ」

を紹介してくれました。この本には モンテスキューや、ルソー、ホークワース の面白

いごちゃまぜがあります。つまり、「慈善は全ての人にとって自然なことで、不信感

や憎しみという突飛な考えは道徳の堕落に過ぎないと考えるのは楽しいことだが、そ

もそも道徳を持たない民族の中にはその様な考えは存在し得ない」ということです。

 

ブーゲンヴィル に同行した博物学者の コメルソン が フランスの タヒチ に対して抱い

た美しい幻想の源でした。1769年 11月の「フランスの水星( Mercure de France )」

にある彼の手紙は ルソー の精神とスタイルで書かれた ロマンス でした。全てを引用

するにはあまりにも長いのですが、いくつかの文章は文学と科学の驚異です。彼は、

彼の上司である ブーゲンヴィル が ニュー シセレア と呼んでいたのを知らずに、まず

この島を ユートピア と呼びます。

 

 注:フィリベール コメルソン( Philibert Commerson )はブーゲンビルの世界一周
   航海( 1766-1769 )に同行したフランスの博物学者
 

 注:コメルソン の文章は元がフランス語なので基本的にグーグル翻訳のままです。

 

「言えることは、人々が悪徳も偏見も必要性も意見の相違もなく生きている地球上の

唯一の場所であるということです。最も美しい空の下に生まれ、耕作のない肥沃な土

地の果実によって養われ、王ではなく家族の父親によって統治されている彼らは、愛

以外の神を知りません。一日中が彼に捧げられ、島全体が彼の神殿であり、すべての

女性がそこにおり、祭壇があり、男性はすべて司祭です。そして、どの女性が尋ねま
すか?ジョージアの女たちの美のライバルたちと、全裸の優雅な姉妹たち。」

 

"Je puis vous dire que c'est le seul coin de la terre où habitent des hommes sans 

vices, sans préjugés, sans besoins, sans dissensions. Nés sous le plus beau ciel, 

nourris des fruits d'une terre féconde sans culture, régis par des pères de famille 

plutôt que par des rois, ils ne connaissent d'autre dieu que l'Amour. Tous les jours

 lui sont consacrés, toute l'isle est son temple, toutes les femmes en sont, les 

autels, tous les hommes les sacrificateurs. Et quelles femmes, me demanderez

-vous? les rivales des Géorgiennes en beauté et les sśurs des grâces toutes nues."

 

 注:「 Georgiennes(仏語読み:  ジョルジャンヌ)」は「 ジョージアの女達

   ( Georgian women )」という意味.  「レ  ジョルジャンヌ(Les 

   Géorgiennes)」という 1864 年の 3 幕構成の「オペラ道化師」がある.

 

この話題に関する彼の記述、「 (タヒチでは) 同胞を創造する行為は宗教行為である」

という眼もくらむほどの主張になるのですが、は止めて、次の コメルソン の科学的な

観察「彼らに関するすべては最も完璧な知性によって特徴付けられています」に行き

ましょう。「彼らの知性より更に立派なのは彼らの思想である」と言うのです。

 

「彼らの道徳の単純さ、特に女性に対する誠実さ、彼らの間で未開人のように征服さ

れることは決してないこと、彼ら全員の中でのフィラデルフィア、人間の血を流すこ

とに対する恐怖、偶像崇拝的な敬意については、彼らが眠っている人々としかみなし

ていない彼らの死者に対する、そして最終的には外国人に対する彼らのもてなし、我

々は賞賛と感謝の要求に応じて、これらの記事のそれぞれを拡大するメリットを新聞
に与えなければならない。」

 

"Pour ce qui regarde la simplicité de leurs mśurs, l'honnęteté de leurs procédés, 

surtout envers leurs femmes, qui ne sont nullement subjuguées chez eux comme 

chez les sauvages, leur philadelphie entre eux tous, leur horreur pour l'effusion du 

sang humain, leur respect idolâtre pour leurs morts, qu'ils ne' regardent que 

comme des gens endormis, leur hospitalité enfin pour les étrangers, il faut laisser

 aux journaux le mérite de s'étendre sur chacun de ces articles, comme notre 

admiration et notre reconnaissance le requerrent."

 

 注:1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催され、主権在民の共和制、

   三権分立、連邦制を基本とするアメリカ合衆国憲法が制定された. この事が

   フランス革命に影響を与えた。

 

更に素晴らしいのは「ワインやリキュールに対する彼らの嫌悪感は無敵で、人々は何

事においても賢明でした!」でしょうか。また、タヒチ人たち、彼らがヨーロッパの

財産の問題に無知であったのは彼らの罪ではなく、美徳でした。

 

「親愛なるタヒチ人たち、私は彼らを泥棒と呼んで彼らが受けた侮辱を清めずに放っ

ておくつもりはありません。彼らが私たちから多くのものを奪ったのは事実であり、

パリで最も熟練したトリックスターに敬意を表するような器用さでさえも奪ったので

す。しかし、彼らはこれで泥棒の名に値するでしょうか? 盗難とは何か見てみません

か?  それは他人が所有する物を撤去することであるため、この人は盗まれたこと、

所有権が剥奪される効果があらかじめ確立されていた事を正確に訴える必要がある。

しかし、この性質は本質的に正しいのでしょうか? いいえ、それは純粋な慣例です。

ただし、それが知られていないことや受け入れられていないことを要求する慣例はあ

りません。さて、自分のものは何も持たず、望むものはすべて惜しみなく差し出し、

与えてくれるタヒチ人は、この独占権を今まで知らなかったのです!  したがって、

彼の好奇心を刺激するものをあなたから取り除くという行為は、彼によれば、自然な

公平さの行為にすぎません ... そこには逃亡の影は見えません。」
 

"Je ne les quitterai pas, ces chers Taďtiens, sans les avoir lavés d'une injure qu'on

 leur a faite en les traitant de voleurs. Il est vrai qu'ils nous ont enlevé beaucoup de

 choses, et cela męme avec une dextérité qui ferait honneur au plus habile filou de

 Paris;  mais méritent-ils pour cela le nom de voleurs?  Voyons ce que c'est que le 

vol?   c'est l'enlèvement d'une chose qui est en propriété à un autre, il faut donc 

que ce quelqu'un se plaigne justement d'avoir été volé, qu'il lui ai été enlevé un

 effet sur lequel son droit de propriété était préétabli; mais ce droit de propriété 

est-il dans la nature? non: il est de pure convention; or, aucune convention n'oblige

qu'elle ne soit connue et acceptée. Or, le Taďtien qui n'a rien à lui, qui offre et

 donne généreusement tout ce qu'il voit désirer,  ne l'a jamais connu ce droit

 exclusif! donc l'acte d'enlèvement qu'il vous a fait d'une chose qui excite sa

 curiosité, n'est, selon lui, qu'un acte d'équité naturelle... Je ne vois pas l'ombre

 d'un vol là-dedans."

 

人間の心の自然な善良さと自然な状態でのモラルの素晴らしさが ルソー の追従者の主

題であり、当時は全ヨーロッパ が ルソーに従っていました。ウォリス と コメルソン

が描いた様に、タヒチ の発見は ルソー が正しかった事に対する得られる限りで最も

強固な証明であったのです。ヨーロッパの社会が理屈や経験において実際の裏付けを

持たないので、自然な権利と人間の生来の美徳と対比すれば、その不条理な慣習と共

に、廃止すべきであることをタヒチの社会は示していました。フランスの哲学者達は

この目的のために タヒチ を利用し、しかも、皆が知っているように、効果を得たので

す。ウォリス の女王は、タヒチへの興味と共感を巻き起こし、このヨーロッパ におけ

る芝居の主役を演じたのです。というのも、 1770年の前後の年は感傷的で、ディドロ 

の オロウ と ゲーテのウェルテル の間の真ん中に ホークスワース の航海記の感傷的な

王女が居たからです。私の一族の記憶によれば「女王」は私達の曾曾大叔母の プレア

でしたので、または、むしろ、私達の曾曾大叔父の妻でしたので、そして私は タヒチ

女についていくらか知っていますので、そして特にこの方については言い伝えに依っ

て知っていますので、多分、ホークスワース博士は ウォリス が語らなければならな

かった話に幾分かの バラ の色を加えたのだと思います。しかし、そのことは タヒチ 

が実際に ヨーロッパに影響を与えたという奇妙な出来事とは無関係です。そして、私

達の曾曾大叔母、「女王」は、彼女自身の知識や同意なしに、フランス革命を引き起

こし、そして マリー  アントワネット( Marie Antoinette )の首を奪う事に直接的に

関わったのです。

 

ディドロ と コメルソン が示しているように、タヒチ における自然の状態に対してフ

ランスで感じられている興味は主に結婚に関する永遠の争いと、男と女の関係に関す

る タヒチ の モラル の想定されている緩さによって引き起こされたものです。私は

「想定されている」と言います、なぜならどれほどの緩みがフランス人や英国人自身

によるものか誰も知らないからです。彼らの登場は、確かに、かつては島の社会に存

在していたモラル規範の突然でショッキングな喪失を引き起こしました。「想定され

ている」という言い方は、島の社会全体が考慮された時、結婚それ自体は現実であっ

て基準はむしろパリよりも高かったということを言っているからです。ある場合では

ゆるく、それ以外では通常のイギリス紳士でさえ、もし理解していたなら、驚愕する

くらいに厳格で過酷でした。実際のタヒチ社会の規則は、ギロチンがやったように、

自然状態の理論を徹底的に転覆していたでしょう。しかし、責任感を少しも持たず、

全ての基準を捨て去ることに悲しみも持たないフランスやイギリスの水夫たちの眼か

ら見た時、タヒチ は規則が不要であることを証明しているように見え、それが島を哲

学者にとって興味深いものにし、パリのモラルの下でも決して安心できないフランス

の人々にとって魅力的なものにしたのです。ですから、私達の曾曾大叔母 プレア、

ウォリスの女王、が再びドラマの一部を演じたのです。といいますのも、モラルの概

念のない一つの島においては、彼女が人間性、情感、振る舞いのモデルーー自然の状

態の花ーーだったからです。

 

勿論、ホークスワース の情感と ブーゲンヴィル と コメルソン の アフロディーテ的な

味わいが全ての人を喜ばせたわけではありません。特に、英国、そこではフランス哲

学と女羊飼いはめったに歓迎されません、ではそうです。一人の友人が ホレス  ウォル

ポール が 1773年に文通相手の一人に送った手紙からの引用を教えてくれました。「あ

なたが新しい航海に心から挑発されていることを願っています。そうすれば良い一等

航海士にはなれるかもしれませんが、何も言わないでください。ホークスワース博士

はさらに挑発的だ。 40歳の老黒人女紳士が衰弱して歩けなくなった ウォリス 船長を

担いで川を渡ります。博士は、彼らをディドとアネアスの新版として表現していま

す。」フランス人を喜ばせるものはほぼ間違いなくイギリス人を不快にします。です

から、最初から、タヒチ は フランス色に染まり、それが自身の運命を決めました。

そして、そこで、再び私達の曾曾大叔母 プレア が無意識のうちに、70年後にフランス

艦隊を私達の海岸にもたらすことになる感傷的な愛着を起こす主要な要因になったの

かも知れません。

 

 注:ホレス  ウォルポール( Horace Walpole )は英国の政治家、貴族、小説家.

 注:「ディド と アネアス( Dido and Aeneas )」は ヘンリー  パーセル( Henry

   Purcell )のオペラ.  それは カルタゴ( Carthage )の女王 ディド( Dido )

   と トロイ の勇者 アネアス( Aeneas )の愛と別れの物語.  アネアス は ローマ 

   の創設者でもある.

 

 

[おわりに]

 

この項では、タヒチの歴史で最もよく知られた女傑 プレア について キャプテン  ウォ

リス の物語と、彼女がヨーロッパ、特にフランス に与えた影響が大首長 アリイ  タイ

マイ によって語られました。タヒチ の「女王」が フランス の王妃の刑場の露となる

要因となったという大首長の解説は タヒチ の歴史では滅多に語られることのない驚き

でした。

 

次の項では、「女王」プレア の没落が語られます。

 

 

[1] Marau Taaroa and Henry Adams, TAHITI: Memoirs of Arii Taimai e. Paris, 1901.

[2] Nicholas Senn, Tahiti The Island Paradise. W.B.Conkey Company, 1906.

[3] Paul Wallin, "Chiefs, Fashion and Zeitgeist: Exclusion as an Expension Stragety

  in Kinship Based Groups in the Society Islands, Studies in Global Archaeology, "

  no. 20, Dec. 2014.

 

 注:どの文献も インターネット で検索することが出来ます。