「タヒチの歴史」:このシリーズのあらましのまとめ

 

【はじめに】

 

前項「ポマレ以前のタヒチ社会(14)」は、タヒチの歴史の上では、ポマレ I 世が タヒチ統一の基礎を築き、ポマレ II 世、あるいは若き トゥがその上にタヒチ王朝を築いたことになっていますが、ポマレ II 世は大変に問題のある人物らしく、これから、キリスト教国家として ポマレ王朝が形成されていくにあたって、紆余曲折が予感されますと、締めくくられました。実際、これから、タヒチの暗い時代が続き、それが宣教師たちによって赤裸々に綴られていくことになる、アリイ タイマイの回想録 [13] の 14章が始まります。いつものように、アリイ タイマイの述べる文体を意識して書きます。

 

話は、ヨーロッパにおけるタヒチの位置づけから始まります。時代は、フランス革命戦争と、それに続く、ナポレオン戦争の時代に入っていきます。その中で、当然、一時の、タヒチが地上の楽園と言ったフランス人の見方は続く余裕がなくなり、イギリス人の冷徹なポリネシア観に交代します。そして、タヒチでは、ヨーロッパ人のもたらした疫病の影響が癒やされる間もなく、イギリス人のもたらした近代武器による殺戮の時代になっていきます。なお、タイトルが「ポマレ以前」となったままですが、ポマレ王朝の宣言まで、続けていこうと思います。

 

 

 

 

【ヨーロッパのタヒチ】

 

ヨーロッパは タヒチに対する当初の強い関心を完全に失っていました。昔の流行のように、南洋は宣教師や捕鯨船の船長のような野暮ったい人々の手に落ち、魅力は消え、手垢のついた興奮さえも薄れていきました。クックは、2度目の航海 (1772-1775) から戻ったときに、ライアテア(Raiatea)島出身の オマイ (Omai) という名の若い男を連れてきました。クックは、彼は生まれも容姿も島民の典型ではないと、やや申し訳なさそうに説明したのでした。しかし、この「中流階級の人々」の典型が ロンドンで社交界で成功していることに、クックは驚いたようでした。

「到着後すぐに、海軍大臣のサンドウィッチ (Sandwich) 伯爵がキュー (Kew) で彼 (オマイ)を陛下に紹介した。そこで彼は非常に丁重な歓迎を受け、この偉大で愛想のよい王子に対する義務と感謝の気持ちを強く心に刻み、私は彼がその気持ちを生涯忘れないであろうと確信している。」

注:キュー (Kew) はロンドンの南西,  リッチモンド アポン テムズ (Richmond upon 

 Thames) ロンドン特別区に属する地区.  王室の キュー宮殿やキュー王立植物園

  (Royal Botanic Gardens, Kew) がある.

 

注:1775年当時は、国王は ジョージ三世で,  王子は, 後の ジョージ四世である 

 ジョージ オーガスタス フレデリック (George Augustus Frederick).

 


オマイは1775年から1776年にかけて2年間イギリスに滞在し、「多くの主要な貴族に可愛がられ」、ジョンソン (Johnson) 博士からも絶大な支持を得たとボズウェル (Boswell) は以下のように記録しています。ボズウェルのユーモアのセンスは、イギリスやその他の地域での礼儀作法に関するジョンソンの独特の発言にまったく刺激されなかったようでした。

注:サミュエル ジョンソン (Samuel Johnson, 1709–1784) はジョンソン博士 (Doctor 

 Johnson) と呼ばれたイギリスの作家, 詩人, 劇作家, 随筆家, 道徳家, 文芸評論家, 説教

 家, 伝記作家, 編集者, 辞書編纂者.  オックスフォード英国人名辞典  (Oxford Dictio-

 nary of National Biography) は「イギリス史において最も著名な文人」とする. 

 1763年頃, ジョンソンはジェームズ ボズウェル (James Boswell) と親交を深め, 共に

 スコットランドを旅した. 後に, 「スコットランド西部諸島への旅 (A Journey to the 

 Western Islands of Scotland) 」の中でその様子を描写している.  Wikipedia [1]

注:ジェームズ ボズウェル (James Boswell, 1740-1795) は スコットランドの伝記作

 家, 日記作家, 弁護士. 彼の「サミュエル ジョンソンの生涯』は英語で書かれた伝記

 の中でも最も優れたものとされる. Wikipedia [2]

 


「彼 (ジョンソン博士) は、南洋諸島出身のオマイがこの国に滞在した時に、彼と親交を持った。彼は、オマイの優雅な振る舞いに感銘を受け、次のように説明した。『閣下、彼はイギリス滞在中、最高の仲間とだけ過ごしていたので、彼が身につけた我が国の礼儀作法はすべて上品なものでした。』」

オマイの、ジョンソンについての印象を知りたいと思う人もいるでしょうが、オマイにはボズウェルがいませんでしたし、回想録も残していません。ただし、ボズウェルと同じくらい良いものは残しています。

 

【Portrait of Omai, This work is in the public domain】

 

ジョシュア レイノルズ卿が描いた肖像画は、間違いなく、故郷の島に戻った時の オマイよりも高く評価されています。1777年にクックがオマイを連れ帰った時、山ほどの贈り物を携えていたのですが。もっとも、それらの贈り物はすぐに彼の首長や隣人に横取りされたでしょう。数年後の1785年、オマイが完全に記憶から消え去る前に、詩人クーパー (Cowper) は、六分冊からなる詩集「タスク (The Task) 」の中の、「ソファ (The Sofa) 」という奇妙な題名の第一分冊の 1、2ページを彼に捧げました。カウパーの憂鬱が物事をあるがままに見る原因となったのでしょうか、あるいは何年もの間にヨーロッパの思想に急速に浸透する幻滅がすでにもたらされていたのでしょうか。ともかく、「ソファ」の中の詩句は、南洋についてそれまで語られていたどんな詩よりも、より真実味を帯びていたことは確かです。

注:ウィリアム クーパー (William Cowper, 1731-1800) は イギリスの詩人, 英国国教

 会の賛美歌作者.  クーパーは, 日常生活やイギリスの田園風景を題材にすることで 

 18世紀の自然詩の方向性を変えた, ロマン派詩の先駆者の一人.  Wikipedia [3]

注:詩集「タスク (The Task) 」は ウィリアム クーパーが1785年に出版した六分冊か

 らなる白韻(blank verse)詩で、彼の最高傑作.  「ソファ」,「時計」,「庭」,

 「冬の夕べ」,「冬の朝の散歩」,「正午の冬の散歩」からなる. ソファの起源に関す

 るミルトン風の詩の一節から始まり, 自然の恵み, 隠遁生活, そして信仰について, 奴

 隷制, 流血スポーツ, 流行の軽薄さ, 生ぬるい聖職者, フランスの専制政治などを批判

 しながら, 散文的な瞑想へと展開する.   Wikipedia [4]

 


(クーパーによる「ソファ」の中の詩句. 原文は「付録 A 」)

 

 汝、優しい野蛮人よ、
 汝、もしくは、汝の持つものへの愛ではなく、
 好奇心、多分、もしくは、空虚な栄光が、
 我々をして、汝を熱帯の隠れ家から引き出したのだ、
 無駄に圧倒する技 (わざ) を持ってして、汝に神の恵みを見せ、
 そして人生を浪費するために。
   ・・・ いつも、毎朝、
 汝は山頂に登る、期待に満ちた目で以て、
 水の荒野を遠く、そして広く探る
 英国からの船影 (ふなかげ) を求め。
 ときに、おぼろげなる水平線上のしみが
 汝を青ざめさす
 相克する期待と恐れの葛藤で。
 しかし、ついに、どんよりと薄暗い夕べが訪れ、
 汝を汝の小屋に送り返し、
 汝は、昼が否定したことを、夜に夢見る。
 ああ! だが期待するな!
 我々は、導かるるに足る誘惑を、汝の国に、見出さなかった。
 良きことをする、公平な善、それは我々の仕事ではない。
 我々は遠く旅する、その通りだ、しかし無目的に、ではない;
 再び世界を囲い込むに足る利に導かれねばならない、
 新しい期待と、更に豊かな果実によってだ。


しかし、クーパーは祖国を誤解していました。ロンドン宣教協会 (London Missionary Society) が、無欲の善を行うことだけを目的として 1795 年に結成され、最初の活動地として南洋を選びました。その宣教師船「ダフ (Duff) 」号は 1796年 8月にイギリスを出航し、1797年 3月にタヒチに到着しました。

注:ロンドン伝道会 (London Missionary Society)は 1795年にウェールズ出身の会衆

 派教会牧師エドワード ウィリアムズの提唱によりイギリスで設立された 超教派の

 福音主義宣教団体. 主に改革派の立場をとり, オセアニア, アフリカ, アメリカ大陸で

 会衆派教会の宣教活動を行なうが, 長老派教会, メソジスト教会, バプテスト教会, そ

 の他プロテスタント教会も参加. 現在, 世界宣教評議会の一部. Wikipedia [5]
 

 

 

 

【ポリネシアそして タヒチの悲劇】

 

キャプテン ウォリス (Wallis) が、1767年 6月に、ドルフィン (Dolphin) 号に乗って到着してから、宣教師たちがダフ号で来るまで、30年が経過していました。この時には、発見者たちを魅了したものは、もう、ほとんど残っていませんでした。この30年間に、ヨーロッパも幾世紀分もの経験を経て、ルソーの夢や自然の理想は、すでに天の王国のように遠く離れていました。そして、1797年に、哲学者たちは死んだのです。ギロチンは人間の生来の美徳を捨て去り、戦争は古いヨーロッパの面影のほとんどを、その古い住民の多くとともに一掃しました。しかし、ヨーロッパで起こった社会の破滅を、南洋の我々の世界で起きた破滅と比べることは出来ません。

注:1792年から1802年にかけ、フランス革命を巡っての、フランスとヨーロッパ諸国

 との間での複数の戦争がフランス革命戦争 (French Revolutionary Wars) . その中, 

 第一次, 第二次の対仏大同盟が結成され, 1797年は, 1793年以来の第一次対仏大同盟

 がフランスに敗北した年. Wikipedia [6]

注:日本では寛政 (1789-1801) 年間. 1794年に東洲斎写楽が活動. Wikipedia [7]

 


イギリスとフランスが文明の利点を我々に見せ始めた当時、種族として言うならば、ポリネシアの我々は既に偉大な民族でした。ハワイ、タヒチ、マルケサス諸島、トンガ、サモア、ニュージーランドは、地球上で立派な地位を占めていましたし、他のどの社会よりも、その居住条件に適合した、不足のない人口を有していました。そして、タヒチは、外国人と最初に密接に接触したことにより、最初に被害を受けました。人口は、1767年の クックの記録に依れば 20万人を数えていましたのが、1797年の宣教師の報告に依れば 2万人以下になり、そして、1893年には僅か 5千人程度になりました。この恐ろしい死亡率は、ヨーロッパ人が自分たちの行ったことの恐ろしさを認めることを自然に躊躇したので、しばしば疑問視されてきましたが、住民に属する人は誰もそれを疑いません。タヒチだけが悲惨な状況にあったわけではありません。そこで起きたことは、どこででも起きました。高度に社会化された島からなる大きなグループ、例えば、人口 30 万から 40 万人の ハワイのようなところから、数十人しか住めない小さな珊瑚礁の環礁でもです。我々の海域の島々に最も詳しい旅行者であるモーレンハウト (Moerenhout) も、全てにおいて同じ話をしました。

 

    【スパ リゾート ハワイアンズ、フラ ミュージアムの掲示物より】

 

彼は 1834 年にオーストラル (Austral) 諸島にいました。ライヴァヴァエ (Raivavae) では、90 人から 100 人の住民が急速に死んでいくのを目撃しました。わずか 12 年前か 14 年前には 1,200 人もの人が住んでいたのに。トゥブアイ (Tubuai) には、家屋、寺院、墓の廃墟の中に居たのは、200 人にも満たない人々でした。ルルツ (Rurutu) とリマタラ (Rimatara) では、それぞれに 1,000 人から 1,200 人の人々が住んでいたのが、200 人も残っておらず、リマタラでは、ほぼ全ての男性が死亡してしまい、ルルツでは、ほぼ全ての女性が拭い去られてしまっていました。

 

【オーストラル諸島】

 

イースター (Easter) 島民の物語は有名です。マルケサス (Marquesas) 諸島のそれも、タヒチやハワイと同じくらい哀れです。あらゆる所でポリネシア人は亡くなりました。そして、ポリネシア人にとって、新しい病気で死んだのか、マスケット銃のような新しい武器で死んだのか、外国の介入による失政で死んだのかは、ほとんど問題ではありません。

注:モーレンハウトに関しては、「ポマレ以前のタヒチ社会(13)」参照. 


疑いなく、新しい病気が最も致命的でした。彼らのほとんどが何らかの熱を伴い、比較的無害な麻疹のような伝染病も、土地の人々が熱を下げるために冷たい水に浸かろうとすると、恐ろしいほど致命的になりました。赤痢や普通の風邪が疫病の大半を占めましたが、人々は看護するためには、あまりにも、無知で怠惰でした。40世代にわたって、人々はあたかも現代の療養所にいるかのようにこの海に隔離され、新しい病気との接触から守られ、野菜と魚で生きてきたのです。アジアとヨーロッパの闘争する大衆の間で発達した悪性の病気は、南洋に持ち込まれたときに、絶好の破壊の地を得ました。ランタナ、ミモザ、グアバなどの外来植物が多くの島々を席巻したのと同様に、病気が人々に蔓延しました。

 

注:発熱は抗体反応. 強制的に解熱すると, ウィルス増殖を抑えられない.


この点に関して、おそらく、外国人達が全面的に責任を負っているわけではありません。彼らの文明には確かにあるにしてもです。しかし、政治的な悲惨さについては外国人に全面的に責任があり、社会的あるいは道徳的な堕落については外国人が直接の原因でした。タヒチの古代社会には多くの悪徳があり、悪の洗練さにおいては一種のパリであったことは疑いありません。しかし、それらは、島民が、今までそうであったように、幸福に生活を送ることを妨げませんでした。彼らは道徳と無思慮さにおいて子供のようでしたが、繁栄し、人口も増えていきました。ヨーロッパ人がやって来て、島民たちの道徳観念だけでなく、政治体制全体をもひっくり返したのです。昔は、一人の首長が我慢できないほど傲慢になったり、他の首長を滅ぼすと脅したりすると、他の首長は団結して彼を倒しました。島の伝統に残る戦争はすべて、偉大な首長や地域の傲慢な自尊心、暴力、野心によって引き起こされ、均衡を回復することで終わりました。イギリス人がやって来たのは、まさにこれらの大騒動の 1つが起こったときでした。島全体が団結して、大首長の間の国際法とも言える礼儀をひどく無視したパパラの女首長を罰しました。彼らはプレア (Purea) を罰し、彼女が息子に与えた主権の象徴を取り上げ、保管のためにパエア (Paea) の首長 トゥタハ に渡しました。彼らはパレ アルエ (Pare Arue) の首長 (トゥ) にその マロウラ (Maro-ura) を着用する権利があることを認めましたが、プレアは彼の妻を侮辱して彼の権利を拒否しました。その後、パエアの首長は プレアを真似て最高権力を主張しようとしましたが、今度は彼の番で、敗北して殺されました。イギリス人が トゥ (Tu) を島全体の王として扱うことに執着していなかったら、おそらく、 トゥは トゥタハや プレアの真似をしようとはしなかったでしょう。彼は最も弱い首長の一人であり、軍事力に関してほとんど考慮されていませんでした。イギリス人が絶えず彼を支援し、彼が打倒されたときに力を回復させていなかったら、他の首長たちは彼を簡単にその低い地位に留めていたでしょう。イギリスの干渉こそが彼の野心を長引かせ、人々に損失から立ち直る機会を与えないような、絶え間ない戦争を引き起こしたのでした。

トゥ、つまり、ポマレには、古い首長階級全員を一人ひとりと滅ぼす以外に目的を達成する方法はありませんでした。彼らのうちの一人でも生き残れば、一人の支配者の圧政を嫌悪し、そのような圧政が自分たちにとって何を意味するかを知っている島民大多数の擁護者になることは確実でしたから。島民たちの伝説は、何よりもまず、彼らが、イギリス人やフランス人が幾世紀をかけて学んだよりも、圧政についてより詳しく知っていて、そして、それを恐れる理由もより多く持っていた事を示しています。そして、ヨーロッパが想像もできないような専制政治に対して、首長達を含んだ彼らの部族制度が唯一の防御手段でした。彼らはそれに固執するので、ポマレには、屈服するか、それを滅ぼすかしか選択肢がありませんでした。彼は完成された政治家でした。なぜなら、政治の技術は首長階級の命であったのですから。そして、全ての首長は本能と密接な個人的接触によって、島の他のすべての首長の性格と思想を知っていたからです。ポマレは、自分がやろうとしていることは全面的な破壊によってのみ達成できること、そしてそれを実行するためにはよそ者に頼らなければならないことを知っていました。白人やライアテア人、あるいはパウモトゥの野蛮人といった者たちです。宣教師たちもそれを知っていました。ポマレはそれを隠しませんでしたから。そして、それを、宣教師たちはまるで自分たちには関係ないかのように記録していました。

「ポメレ (ポマレ) と一人の兄弟が会話した際 [1800 年 10 月に]、首長は、島で戦争が起こる可能性があることを理解する様にと伝えた。ただし、直接に言った訳ではない。彼は誰が彼の友人で誰が彼の敵であるかを知らなかったようだったが、人々の一般的な望みは君主制の政府を廃止し、各地区で独立を回復することであることを認めた。彼に、若きオトゥー (Otoo) の独断的な行動が、多分に、現在の不満の原因であると伝えられた。彼 (ポマレ) はそれを否定しなかった。ポメレは軍艦の到着を強く望んでいた。そして、それが、彼に有利な干渉になり、平穏を取り戻し、彼と彼の息子の権威を確固たるものにするだろうと考えていた。あるいは、もし我々のようなイギリス人が更に何人か加わり、我々がしてきたように彼らの間で居住を続けるなら、戦争は起こらないだろうと彼は言った。」


宣教師たちの日誌には、クック、ブライ、バンクーバーの日誌と同様に、そうした証拠が満載でした。すべてが、イギリスの専制政治を作り出し援助する政策に対して、不幸な人々がいかに必死に戦ったかを物語っています。トゥの残忍さと暴力は、パレの同胞とテバ地区の両方から等しく憎まれました。宣教師たちが何を見て、何をしたかを示すために、そのような抜粋をいくつか紹介します。

 

注:以下の「トゥ」と「オトゥー」は全て ポマレの息子の「若きトゥ」を表す.

「1799年 10月 16日 ・・・ この数日中、5人の人身御供が エイメオ (Eimeo) からこの島に運ばれてきたと聞いた。また、オパレ (Opare) の住民(の中でも最も貧しい人々)の多くは、人身御供として捕らえられるのを避けるために山に逃げた。オトゥーとポメレは、その目的にふさわしいと思われるものを探している。・・・ これらは計画された戦争の準備であり、ポメレは、他の盲目の異教徒が以前にやったことと同じことをしているようだ。つまり、偶像の神に賄賂を渡して、自分に幸運をもたらし、アタフールー (Attahooroo) 地区を見捨てるように働きかけているのだ。」

注:「Opare」=「O Pare」であり、「パレ (Pare) 」のこと.

 

注:「盲目の異教徒が」という言葉は, 中世のヨーロッパでは「異教徒はしばしば『魂

 において盲目』と考えられていた」ことによると思われる. 文献 [12]

 

注:「アタフールー (Attahooroo) 」とは「アテフル (Atehuru)」地区のこと.

           【タヒチの主要な地区】

「10月 17日 ・・・ アタフールーとの現在の戦争の原因は、その地域の住民が、権力の支配下にある人々に対して高圧的に権力を行使する首長たちの横暴で抑圧的な行為に憤慨していることだと言われています。」

「1800年 1月 1日 ・・・ 午後1時、オトゥー、ポメレ、エデアは兄弟エアのアパートの前に集まった。兄弟たちはそれぞれにマスケット銃1丁と4ポンド弾1包を贈呈した。」

訳注:「エデア」はポマレの妻. 「ポマレ以前のタヒチ社会(14)」参照.


「 1800年 1月 14日、ジョン ラブ (John Love) 牧師 [宣教協会理事] 宛ての手紙 ・・・ この島は現在平穏な状態ですが、オトゥー、ポメレ、その他と、この島で最も強力な地区の1つであるアタフールー地区との間に大きな不和が続いているため、間もなく戦争に巻き込まれるのではないかと懸念しています。エリザ (Eliza) 号からは、ポメレの依頼で(私たちの仲介なしに)、18ポンドのカロネード砲1門、旋回砲2門、マスケット銃数丁、大量の弾薬が陸揚げされました。」

「5月21日 ・・・ ポメレに対する下層民の反乱が起きていると聞く。主な原因は、彼らのわずかな財産を頻繁に略奪するという彼の横暴な行為だと言われている。」

「5月23日 ・・・ 戦争の噂は依然続いている。伝えられるところによると、民衆は主要な首長たちに非常に憤慨しており、彼らを根絶し、島に古い政治形態を復活させたいと考えている。つまり、それぞれの地区は、更に上位のものに配慮すること無しに、その地区の首長にのみ従うというものである。現在の状況は非常に危険に見える。しかし、主は洪水の上に座しておられ、我々の命運は主の御手にある。オトゥーの手下が民衆に対して行っている略奪行為と不道徳は、政権の変化を望む理由の一つであると言われている」

注:「主は洪水の上に座しておられ」は詩篇29 10節「主は洪水の上に座し、主はみく

 らに座して、とこしえに王であらせられる。」から来ている.

「1801年 1月 21日 ・・・ 私たちの周りでは今でも戦争が話題になっています。一般の人々はポメレとその家族全員に対して破壊的な考えを抱いています。」

「1月31日 ・・・ 私たちがこの島に来て以来 (1797年3月)、病気がどれだけ大混乱を引き起こしたかは驚くべきことです。住民の話によると、マタバイはかつてに比べるとほとんど人がいなくなっています。そして、この地域だけでなく、島全体がそうなのです。」

「2月2日 ・・・ 今日、この地方を巡って住民を訪ねていた兄弟達 エアとヘンリーが、憂鬱な状況について報告してきた。この地方は人がほとんどおらず、長い草や下生えに覆われた低地は沼地になり、空気の循環を妨げ、住民の健康を害する傾向が強い。さらに、下層階級の間ではポメレとオトゥーに対する不満が広がっている。」

「3月6日 ・・・ 4年前の今日、私たちはオタヘイトに到着し、これまでとても親切で寛大な扱いを受けてきました。今のところ、オタヘイト (タヒチ) 人の間で私たちが暮らすことで良いことは何もありません。」

「6月26日 ・・・ 船が見えてきました。その船はポートジャクソン[シドニー]から来たスコット中尉指揮下の陛下の武装船ポーパス (Porpoise) 号であることが判明しました。指揮官はキング総督からの公用の手紙とポメレ宛の手紙を私たちに届けてきました。」

「6月30日 ・・・ [注記] 我々が受け取った情報によると、ポーパス号の到着はまさに神の摂理による介入であるようだ。この国の情勢は、数日、いや数時間でオトゥーの権威が奪われるか、あるいは権力が確立するかという瀬戸際に来ていた。これは大量の流血なしにはできなかっただろう。我々はその流血が今や止まり、オトゥーとその家族が平穏に尊厳を保てるようになることを願っている。神はすべてを巧妙に行われる。」

「7月13日 ・・・ ポメレは再び、我々が彼のために戦争に加わることについて話した。彼は、島民は彼に対して非常に不満を抱いていると言った。そして、彼の親戚、ボラボラ (Bolabola) の首長が、戦争に巻き込まれて自身も負傷するといった危険な状況にあり、もしその首長が負けるようなことになれば、オタハイトの民衆も彼と我々に襲い掛かり、我々全員を殺すだろうと言った。我々は再び、戦争には一切関与しないと彼に伝えた。キャプテン ウィルソンは彼にマスケット銃3、4丁を約束し、更に、ボラボラを訪れて、その首長のためにマスケット銃を1、2丁与えると約束した。これにポメレは満足したようだった。」

 

注:「オタハイト」, 「オタヘイト」は「タヒチ (島) 」のこと.

 

【ソサイエティ諸島】


これらのメモ、実に 18ヶ月以上に及ぶ、 には、宣教師たちの経験がすべて記されています。彼らは率直で純粋であり、オトゥーに対する自分たちの状況を隠そうとはせず、それは、1799年 2月 1日にマタバイ湾に入港したスペインの捕獲船の船長に宛てた手紙にはっきりと記されています。

「我々の状況はこれらの人々の間で非常に危機的であり、どちらかに不快感を与えないように行動することは困難です。オトゥー、王様は貴船からマスケット銃を1丁、我々の手を通して、得ることを切望しています。私達は、平和を維持するために、貴方に是非とも一丁のマスケット銃を、もし予備があるのであれば、オトゥーに融通してくださるようお願いする必要があります。そして、我々が行うことのできる返礼、またはイギリスの同胞への、その価値に見合うものでの払い出し手形の発行など、喜んで行います。」

平和を保つために、宣教師たちは、彼らがほのめかしているように、住民たちが互いに戦うのを見て喜ぶという、非常に奇妙なことをしました。

「 1800年 8月 20日 ・・・ 大規模な準備が進められていて、戦争になるか平和になるかは、異教徒の占いによって直に決定されると聞いています。戦争になる場合、血を求める者たちは、自分たちを満足させる決意をしているようです。万軍の主が異教徒の神であると同時に、イスラエル軍の指揮官でもあることを、私たちは喜んでいます。そして、地の破片が互いにぶつかり合って粉々に砕け散る中、それらは主の明確な計画と予知を成就しているに過ぎません。」

この、異教徒に対するカルヴァン主義的、あるいは宿命論的な見方は、あらゆる問題のあらゆる側面におけるあらゆる可能な行動を正当化、あるいは許すものでした。しかし、宣教師の記録では、相反する考えの大変近くは、しばしば、さらに奇妙であることがありました。

 

注:上記の「相反する考えの大変近く」は原文「the close neighborhood of contrary 

 ideas」から考えたものだが, 原文の意味が不明であった. 


「 1801年 6月 23日 ・・・ 明日は断食日として神に聖別され、この時期に島の住民のために特別な方法で主に祈願することに同意しました。主が彼らの間の平和を保ち、彼らの間で福音を宣べ伝え成功させる道を開き、私たちに慈悲を与え、私たちが神の恵みの言葉の有能な牧師と良き執事となるよう助けてくださることを願います。」

「6月25日 ・・・ ブルームホール (Broomhall) 氏、ウィリアム スミス (William Smith, エリザ号の元樽職人)、および 2人の住民が オパレからやって来て、ポメレからの命令で倉庫から鉄棒をいくつか取り出した。これはポメレが持参した旋回銃とカロネード砲の散弾またはキャニスター弾として、細かく切断して使用する予定だった。彼らはこの目的のために4本の釘棒を取り出した。」

宣教師たちは平和を祈ったり、ポマレとトゥの戦争を助けたりしながら、無邪気に住民の破滅を速め、そして、私には説明できないほどの暴政の確立を促しましたのです。ポマレは残忍で残酷、首長の古い道徳規範を超えて裏切り者で暴力的でしたが、息子のトゥに比べれば天使だったのです。宣教師にとっても住民にとっても悪名高かった彼の個人的な悪癖については、ここでは触れません。しかし、彼が成長するにつれて――1800年には18歳か20歳だった――権力を握るにつれて、住民が自分のものとは認めず、彼の野蛮なパウモトゥの祖先に帰するような性格を身につけていきました。宣教師たちは、パレ アルエとマタバイ (Matavai) の、彼の地区の庶民に対する彼の扱いが引き起こした激しい憎悪について絶えず語っていました。しかし、ポマレを怒らせることを恐れて他の首長たちから距離を置いていた宣教師たちが、自分たちの状況の本当の性質を調べる手間を惜しまなかったなら、彼らはトゥに対する憎悪が、庶民や人身御供に供された哀れな人々に限られていないことに気づいたでしょう。トゥは、絶え間ない戦争で人身御供を捧げ、庶民を今までに経験したことのないほど恐怖に陥れたことは疑いありません。今では、庶民の数は大幅に減少し、一世代前なら50人や100人だったのが、犠牲にされたのは 3人でした。しかし、人々の心にはこのような恐怖があり、トゥが彼らの財産を絶えず強奪していたにもかかわらず、一般の人々の トゥへの憎しみや恐れ以上に、彼らの指導者や地方の首長からの憎しみのほうが大きかったのです。

ポマレはすでにタイアラプ (Taiarapu) のベヒアトゥア (Vehiatua) の一族を滅ぼし、息子のためにその重要な地域を奪取することに成功していました。彼は同様にアフライ (Ahurai) の一族も排除していました。彼は、島の北部を治め、エイメオ (Eimeo) で自らの権力を確立していました。古いテヴァ (Teva) の地区と ヒティアア (Hitiaa) だけが独立の姿勢を保っていて、テマリイ アリイファアタイア (Temarii Ariifaataia) は死に絶えたものの、ファアア (Faaa) から地峡までの海岸の全住民が関与して、アッタフル (Attahuru)、もしくは パエア (Paea) の人々は抵抗を示し、それを ポマレと トゥは イギリスの後ろ盾てで辛うじて耐えていました。他方で、トゥは社会の古い礼儀作法を一切無視し、貧しい人々を怖がらせたのと同じくらい首長たちをも怖がらせました。彼らが人間の犠牲者を取られることが多い追放された階級であったとしても、首長たちがこれほど無礼に扱われることはほとんどなかったでしょう。

トゥが首長たちの間に引き起こす恐怖を示す、1, 2 の事例を、宣教師たちも目にしました。そのうちの 1 件は、トゥ自身の家族に関するものでした。

「 1799年 3月 5日 ・・・ 国王と王妃は私たちの住居によく来ます。オトゥーは、とても子供っぽくて粗暴で、従者たちは彼の真似をします。」

「3月 6日 ・・・ 私たちの周りには大勢の住民が集まっていて、食べたり飲んだり、レスリングをしたり、太鼓をたたいたり、歌ったり、大声で叫んだり、狂ったように手足を振り回したり、そのようなお祭り騒ぎをしながら時間を過ごしています。この集まりは、マテ アという名の、 オライアテア (Oryatea) [ライアテア (Raiatea)] の首長と、マヘイ アヌー (Mahei-annoo) という名の、この地区の亡くなった首長の娘との結婚式が間もなく行われるためなのです。彼女とマテ アはどちらもポメレ一族の分家で、生まれながらの首長です。」

訳注:マヘイ アヌー (Mahei-annoo) と書かれている人物は, 後の段落にあるように, 
 パペアリ (Papeari) 地区の首長である マヘアヌウ (Maheanuu) である.

 


「 3月 12日 ・・・ オトゥーが家族に腹を立て、彼らのうちの何人かを略奪し殺害すると脅したと聞いて、マテ アと マヘイ アヌーらは、彼らの 4人の兄弟の住居に、自分達の財産の大部分を携えて行き、兄弟たちにその財産を預かるよう頼んだ。マテ ア達は非常に動揺し、精神的に苦しんでいるように見えた。兄弟たちが彼らの財産を預かった後、彼らは全員一緒に死ぬと宣言して住居に戻った。彼らの言葉と表情は非常に感動的だった。オトゥーが家族に対して怒ったのは、マテ アと マヘイ アヌーが結婚したとき、彼らが王のモライに入ったからだと言われている。それは彼以外には許されていない。しかし、彼らの家族はこれは嘘である、彼らは自分たちのモライに入ったのであって。王のモライには入らなかったと主張した。オトゥーの暴君的な気質と住民の野蛮な状態を思い起こすと、彼らの中にいる我々の平和な状況は、我々の目には本当に驚くべきものだ。」

注:原文には「モライ (morai)」とあるが,「ポマレ以前のタヒチ社会(9)」で説明

 したように,「マラエ (marae)」のことだと思われる. 旅行者の残した記録には

 「モライ」と書かれているものがある. Morai [8],  Morai [9] , Morai [10] 人身御供が

 描かれている絵画 Morai [10] は明らかに「マラエ」. しかし, アリイ タイマイが特に

 「モライ」と書いているところは, 私的な埋葬地を意味しているのかもしれない.

 


この事件でも、被害者が備えるだけの警告を受けた他のほとんどの事件と同様、オトゥーは報告を否定し、脅迫された首長たちは生き延びることを許されました。しかし、この事件の真相は、宣教師たちの日誌の後半に記されている。

「 1800年 10月 21日 ・・・ マテ アの妻マヘイ アヌーの死を耳にした。彼女の病気は首の病気で、喉の通り道が破壊され、食べ物が食べられなくなった。彼女が亡くなる 3日ほど前に、彼女は死んだ子供を出産した。彼女は島の南側にあるプッペ ハアレという地区にいたが、先月末にそこに連れて行かれた… 彼女は、教養があり、良識のある若い女性で、この島の住民の特徴である軽薄さからは程遠い存在だった。」

オトゥーがこのように恐怖に陥れた人物は、パペアリ(Papeari)の美しいマヘアヌー (Maheanuu) に他なりません。マヘアヌーは島社会の最上級者であり、トゥが、イギリスの兵器によるものであるにせよ、マタヴァイ (Matavai) 地区の支配者であるのと同じ意味で、トゥに対する社会的上位者でした。島の住民、特にテヴァの一族にとって、トゥが彼女と彼女の夫を殺すと脅したことは、島の道徳と礼儀作法で知られているあらゆる残虐行為に照らして有罪であったことになります。トゥの マヘアヌーとその夫に対する裏切りがタヒチに与えた衝撃は、ナポレオンが アンギャン公爵 (duc d'Enghien)を殺したことでヨーロッパに与えた衝撃より大きかったと言えます。

注:マヘアヌー (Maheanuu)は パペアリの最古の マラエである ファレプア マラエを統

 括する首長, つまり パペアリの大首長の官職名である. 正式名は マヘアヌー イ ファ

 レプア(Maheanuu i Farepua) である. 「ポマレ以前のタヒチ社会(1)」参照.

注:パペアリ (Papeari), あるいは ヴァイアリ (Vaiari) の首長が島社会の最上級者であ

 るのは, 古い マラエである ファレプア (Farepua)を持ち, テヴァの一族が半神を父と

 して パペアリに始まったから. 「ポマレ以前のタヒチ社会(2)」参照.

注:アンギャン公爵, 英語では ルイ アントワーヌ アンギャン公爵 (Louis Antoine, 

 Duke of Enghien, 1772年-1804年) は, フランス ブルボン家の一員であった. 生前より

 もその死の方が有名で ナポレオン ボナパルト (Napolen Bonaparte)の命令により処

 刑された。Wikipedia [11]


偉大な首長たちに トゥが与えた恐怖の次の例は、ヒティアア (Hitiaa) の首長テオフ (Teohu) の場合です。彼は 1801年の 3月に、彼の全ての ダブル カヌーを率い、首長の正装で、2人の犠牲を伴って、ポマレと トゥと条約を結ぶために マタバイにやって来ました。儀式が終わり、ポマレがパレに戻った後、宣教師たちは次のように記録しました。

「 4月 15日 ・・・ 夜、オパレから水路で女性がやって来て、ポメレが彼を殺そうとしているという知らせをテオフとその一行に伝えた。この知らせに彼らは動揺し、戦士たちは即座に武装し、老首長の周囲に衛兵として配置された。この情報を持ってきた女性はテオフの一行の一人であり、ポメレの仲間と交わって情報を得たようだ。ポメレが、できるなら、彼を殺すであろうことは、あるかもしれないと言う話だが、それを疑う理由はほとんどない。テオフ自身もそれを不安に思い、非常に恐れているが、ポメレはテオフに対して非常に親切に振る舞い、マスケット銃をプレゼントするほどである。」

パペアリの女首長と ヒティアアの首長は威厳のある人物でしたが、パパラの首長は ポマレや トゥを含む彼ら全員よりも実権を握っていました。トゥは自分の優位な権力を確立するために、パパラの一族を滅ぼし、パレ アルエの一族の一人をパパラの首長に据えざるを得ませんでした。従って、テマリイ アリイファアタイア (Temarii Ariifaataia)の死後、マタバイにはパパラの首長は現れませんでした。他の首長については言及していた宣教師たちは、彼の名前には一度も言及せず、テマリイに後継者がいることも知らなかったようでした。宣教師たちは、パパラと パエアが トゥに対して慢性的に反乱を起こしていることは知っていましたが、誰が反乱を率いたかは気にしていませんでした。彼らは、トゥに マスケット銃と火薬を与えて パパラを征服させ、彼らが犠牲者を知らないまま、トゥが首長たちを滅ぼすことに満足していました。

 

 

 

【おわりに】

 

このように、ポマレと彼の息子 トゥの下で多くの悲劇が繰り返されていましたが、パパラについては記録がほとんどありません。アリイ タイマイの関心は、次には、自らの ルーツであるこの地区の首長がどのように繋がれていったのかに移って行きます。

 

 

 

【付録 A:クーパーによる「ソファ」の中の詩句原文】

 

Thee, gentle savage, whom no love of thee
Or thine, but curiosity, perhaps,
Or else vain glory, prompted us to draw
Forth from thy native bowers, to show thee here
With what superior skill we can abuse
The gifts of Providence, and squander life.
........... Duly every morn
Thou climbst the mountain top, with eager eye
Exploring far and wide the watery waste
For sight of ship from England. Every speck
Seen in the dim horizon turns thee pale
With conflict of contending hopes and fears.
But comes at last the dull and dusky eve,
And sends thee to thy cabin, well prepared
To dream all night of what the day denied.
Alas! expect it not! We found no bait
To tempt us in thy country. Doing good,
Disinterested good, is not our trade.
We travel far, 'tis true, but not for nought;
And must be bribed to compass earth again
By other hopes and richer fruits than yours.

 

 

 

参考文献リスト

 

[1] Samuel Johnson ,  in Wikipedia.

 

[2] James Boswell ,  in Wikipedia.

 

[3] William Cowper ,  in Wikipedia.

 

[4] The Task (poem) ,  in Wikipedia.

 

[5] London Missionary Society ,  in Wikipedia.

 

[6] French Revolutionary Wars ,  in Wikipedia.

 

[7] 寛政 ,  in Wikipedia.

 

[8] View of Marae Morai and Punakau ,  National Museum of Natural History, 

  Smithsonian.

[9] A Morai, in Atooi ,  Auckland Art Gallery Toi o tamaki

[10] Human sacrifice in a sacred marae (Morai) or cemetery, Tahiti. ,  Meisterdrucke.

 

[11] Louis Antoine, Duke of Enghien ,  in WikepediA.

 

[12] 趙泰昊, 「中英語ロマンスにおける異教徒の改宗と信仰の証明」, 信州大学人文科

  学論集第9号-2, pp. 163-182, 2022.

 

[13] Marau Taaroa and Henry Adams, TAHITI: Memoirs of Arii Taimai E. Paris,
  1901.