はるか昔にトゥアモトゥから流れてきた下層貴族が大タヒチのパレ(Pare)の首長に
取り立てられ、そのパレ首長の後継者となったことが後の世代のトゥ(ポマレ1世)
を生み出す源となったわけですが、トゥ或は父のテウ(Teu)の代になるまではこの家
系はタヒチの歴史に足跡を残すことはありませんでした。その意味で、テウやトゥが
タヒチの歴史上に現れるまでを「ポマレ以前」と、ここでは、呼ぶことにします。
[タヒチ社会] [1][2]
ポリネシアの中でも特にトンガ、タヒチ、ハワイは徹底した貴族社会でした。この社
会では家督は(男女を問わず)長子が相続し、家督を相続しなかった子達は分家を作り
ます。この場合、本家と分家との間には格の差があり、本家は常にその一族の頂点で
あり続け、分家は分家の分家等と共にピラミッド型の社会構造を作ります。この構造
は大きな戦乱などがない限りは、下方向へ、そして横方向へ伸びていく以外は変わり
ません。
この一族がある地域を支配していたとすれば、本家の長が大首長として全体を治め、
分家の中でも有力者がこの地域の各区域をその首長として支配し、更に小さな行政の
区域を更に格下の分家が支配します。大首長は実際には各区域の首長を統括し、それ
らの首長は更に下の区域の長を統括するわけです。
この社会構造は信仰と一体化されています。ただし、信仰の対象となる「神」がどな
であるかは重要ではありません。大首長は神に最も近い存在として神聖化され、その
地域の下層の人々からは近づけない神聖な存在とされます。例えば、大首長が触れた
ものは全て神のものとされ、大首長の所有物となります。そのため、大首長がある場
所を歩けば、その歩いた所は神のもの、つまり、大首長のものとされることになりま
す。しかし、これでは地域全体が住民が触れられないものとなる恐れもあり、社会活
動ができなくなります。そこで、大首長は自分の統治地域の中を移動する場合には屈
強な男性の背に背負われて行くと言うことになります。日本の神社信仰も、神社で祀
られる神様がどなたであるかはあまり問題とされなかったという点、式典では神事が
優先されたと言う点に似た側面がありますが、歴史時代に入ってからは社会構造と信
仰はかなりの程度分離されて来ました。
政治的権威と神聖性が同一化されているということは、逆に言えば、大首長の神聖性
は大首長の権力の及ぶ地域に限られることになります。例えば、パパラの大首長がマ
タヴァイ湾のあるハーパペに行ったとき、ハーパペの一般住民はこの大首長のことは
あまり気にしなくてもよいですが、この大首長と親族関係にあるハーパペの貴族たち
は彼の神聖性に一定以上は気を使わなければならなくなります。これは親族関係を良
好に維持するために必要なことです。とすれば、このパパラの大首長はハーパペを迂
闊に歩くとハーパペの親族に喧嘩を吹きかけたことになるので、注意深く行動しなけ
ればなりません。
一つの地域の大首長の社会的地位を表す指標として以下の4つがあげられます。
○アリイ( arii )もしくは アリイラヒ( ariirahi )と名乗れること。
○マロテア( maro-tea )もしくは マロウラ( maro-ura )を着る資格がある。
○マラエ( marae )に自席を持つこと。
○ラフイ( rahui )を課す権限を持つこと。
順に説明しましょう。1つ目は、その様に名乗った時に周辺の他の地域の(大)首長
達に認められることです。格の低い、もしくは小さな地域の首長が自分で アリイ とか
アリイラヒ と名乗っても認められません。2つ目の マロ( maro )とは帯のようなも
ので、黄色い鳥の羽で飾られているものをマロテア、赤い羽で飾られているものを マ
ロウラ と呼びます。マロウラについては
をご覧下さい。ただし、ポマレ以前では マロテア は パパラ の大首長のみに許され、
マロウラ はプナアウイア と ヴァイアリ の首長のみに着用が許されていました。3つ
目の マラエ とは宗教的行事を行う場所、つまり政治の中心となる場所です。神殿と言
うことになりますが、祭壇を備えて壁で周囲から囲われた場所を マラエ といいます。
マラエ は貴族の埋葬地にもなりますが、重要な事は一人の貴族がその地域で社会的に
認められているということはその地域の マラエ に座る席を持っていることで表される
ことです。つまり、ある地域で貴族として認められているものでも、別に地域に行っ
た時にそこの マラエ に座る席がなければ、その地域では貴族とは認められないという
ことです。マラエ に座る場所を持っているかどうかは、その人物に対する判断材料に
もなります。例えば、ジェームス クックの二回目の航海においてライアテア島から出
帆する際、当地の首長と以下のようなやり取りがあったと記録されています。[1]
「ライアテア から出帆の時、首長 オレオ が彼(クック)に彼の マラエ の名前を聞
いてきた。マラエ を持たない者は首長とは認められないが、クックは大変な大首長
と認められていたので当然 マラエ を持つと考えられたのである。しかし、彼に答え
られるのは ロンドン に住んでいる時の教区の名前である。『オレオの最後の願いは
もう一度戻ってきてくれということであったが、その約束はしてもらえそうもない
事が分かった時に、私の マラエ の名前を聞いてきた。これはとても奇妙な質問であ
ったが、私は逡巡することなしに私がロンドンにいる時の教区名 ステップニー
( Stepney )と答えた。彼らが発音できるまで何度か繰り返させられたところ、
”Stepney Marai no Tote" と言う声が百人ほどの口から一斉に発せられた。」
4つ目の ラフイ は分かりづらいです。アリイタイマイ[1] によれば、例えば大首長の
幼児のためのラフイ であれば一年かそれ以上の期間に渡り、その間にその支配地で生
産されたものは全てその幼子のものになり、その間、豚は殺してはいけないし、布
(タパ)は作ってはいけないし、鶏も殺してはいけない。ただし、その子のためのも
のに限ってこれらは許されます。ラフイ が終わる時には、その間の産物は全て幼子の
ものになります。ただし、具体的にどの様に実施されるのかは分かりません。これだ
けを聞くと酷い制度だと思いますが、石川 [2] によれば、幼子のものになったものは
実際にはあまり消費できないので、残ったものは住民に再配分されるのだそうです。
つまり、ラフイ は物資の再配分システムにほかならないのだそうです。ただし、ラフ
イ の間に規則を破るものが現れたり、外部から大首長と同等以上の格の貴族が訪れた
りすると、その時点で ラフイ は成立しないことになります。この場合、ラフイ を破
ったものに対しては厳しい罰則があり、外部のものに対しては宣戦布告されることが
あります。
[ヒヴァ( Hiva )] [1]
ある地区の首長が他の地区の首長に外交的な要請をする場合には首長の副官的な役割
の人が動きます。その様な人を ラトアイ( ratoai )と呼びます。ラトアイには紛争に
おいて戦士として働く貴族や地区の中の各地域の首長等から選ばれます。その数は地
区の大きさや格の大小によります。
例えば、ポマレ出現直前のタヒチでは パパラ の首長がテヴァ氏の長でしたが、彼には
彼だけに許された権限がありました。それはテヴァ氏が治める全ての地区の首長を呼
び集める権限です。この権限はテヴァ氏が力を合わせて敵と戦う際に発動され、これ
がある故に、テヴァ氏はタヒチにおいて優勢な地位にいることができたわけです。テ
ヴァ氏の長としての パパラ 地区の首長はテリイレレ と言う役職名を持ちます。テリイ
レレ が全 テヴァ 氏招集をかけるには決まったルーチンがあります。まず、内テヴァ
( Teva i uta )のテヴァ氏の地区に招集をかけるため、テリイレレは ラトアイ を ヴァ
イアリ の マヘアヌウ イ ファレプア( Maheanuu i Farepua )に派遣します。後者は
実は ヴァイアリ の首長 テリイヌイ オ タヒチ( Teriinui o Tahiti )の別名で、これを受
けて、マヘアヌウ イ ファレプア は パパラ を除く テヴァ 氏地区に彼の ラトアイ を派
遣します。外テヴァ( Teva i tai )のテヴァ 氏地区に招集をかけるには タイアラプ の
ヴェヒアトゥア にラトアイを派遣します。そうすると、ヴェヒアトゥア が外テヴァ
(つまり タイアラプ)の全テヴァ地区にラトアイを派遣するという流れになります。
ここで重要な働きをした ラトアイ は首長を守るばかりではなく、様々な役割を果たし
ます。彼ら一地区の ラトアイ 全体は ヒヴァ という組織を作ります。ヒヴァは首長が
攻撃されたり、侮辱されたりした時に相手側に反撃する母体となります。他に、大首
長が地区を治めるのに適任でないと判断する権利があり、仮にそう判断した場合には
大首長を追放する権限も持っています。当然、首長の子供の間で家督相続に関する争
いが生じた時には ヒヴァ に諮られることになります。
[終わりに]
つぎの項では、タヒチの中で大勢力を誇る テヴァ氏 について、その創氏の神話、ポマ
レの頃の情勢になるまでの事情を説明していく予定です。もっとも、長くなりそうな
場合には適時分割していきます。
[1] Marau Taaroa and Henry Adams, TAHITI: Memoirs of Arii Taimai e. Paris, 1901.
[2] 石川栄吉、「タヒチ首長国の構造」、国立民俗学博物館学術条法リポジトリ、2009年4月 (文献[3]よりの抜粋)
[3] 石川栄吉、「クック時代のポリネシア:民族学的研究」、国立民族学博物館調査報告 59巻、2006