タヒチの中で大勢力を誇る テヴァ氏 について、その創名の神話、そして古い由緒ある
ヴァイアリ の首長一族の没落の話を説明していきます。
[テヴァ( Teva )の由来神話]
「テヴァと言う名称の由来と意味さえ分からなくなっています。この名称は大なり小
なり、異なる場所、異なる言語にもあります。例えば、フィジーの小さな部族など。
しかし、これらはポリネシアとは全く関係ないと言われています。私達 テヴァ は、伝
統的に、鮫神の子孫であるとしているのです。」[1]
神話の舞台は ヴァイアリ です。「ヴァイ」とは「水」ですから、この地区は パペアリ
ともよばれます。現在は西隣の マタイエア と共に テヴァ イ ウタ という自治体を構成
しているようです。どれほどに清浄な水に恵まれた地区であるかはこの自治体のホー
ムページでご覧下さい。(9/25 追加 ”Découverte” の ”Sites touristiques” を選択し
て下さい。)(9/26 追加 冒頭の風景写真で、Teva I Uta /Terre des Sources の文字
がある写真は Teva i uta から タイアラプ、或は 小タヒチ を眺めたものです。因みに、
「Terre des Sources」 とはフランス語で「泉の国」の意味です。)
以降、神話の部分はカッコ「 」で括り、アリイタイマイ による説明と区別します。
「多くの世代を遡る昔の話、プナアウイア の首長 テ マヌトゥヌウ( Te manutunuu)
と ヴァイアリ の女首長 ホトトゥ( Hototu )が結婚して息子の テリイ テ モアナラウ
( Terii te moanarau )を授かりました。テ マヌトゥヌウ は息子の為に プナアウイア
に マラエ を新たに造り、更にその マラエ で息子が着る マロウア を作るため、トゥア
モトゥ諸島に赤い羽根を採りに行きました。」
ここまでで、ヴァイアリ が古い起源を持ち、プナアウイア が ヴァイアリ を手本とし
てこの頃にマラエを造ったことが分かります。また、この Dancingflowersの気がつい
た点ですが、まだ オカメ インコ(リマタラ インコ と言ったほうが分かりやすい)が
トゥアモトゥ諸島に生息していた頃の話ですね。
「テ マヌトゥヌウ の数ヶ月に渡る トゥアモトゥ諸島への長い航海中の不在の間に、
ヴァイアリ に訪問客があり、当然のことながら、ホトトゥ による歓待を受けました。
この訪問客は、我々の先祖ですが、ヨーロッパで言えば半神、つまり、半分は人間で
半分は魚、もしくは鮫神であって、海を泳いできて、サンゴ礁を抜け、ヴァイヒリア
川から上陸し、ヴァリ マタアウホエ(Vari mataauhoe)と名乗りました。ホトトゥ
は東洋の神話に共通するもてなしの気持ちで彼を受け入れ、ヴァリ マタアウホエ は
ホトトゥ と居を共にしました。しかし、彼らの親密な生活がある間続いてきたある日
のこと、二人が一緒に居た時に ホトトゥ の犬が家の中に入ってきて、ホトトゥ の顔
を舐め回して親愛の情を表したのです。」
今の言い方で言えば彼女にキスを、当時の言葉でなんと言ったか分かりませんが、し
てしまったのです。と言うのも、ポリネシアではキスはせず、新愛の挨拶では鼻をタ
ッチさせるだけだからです。
「この時、この鮫/人間は考え込み、そして心中でこのことを繰り返し考えた後、こ
の咎は重大であって、洗練された人間として、彼は ホトトゥ を捨てる必要があると
結論したのです。彼は言ったのです。『貴方は私のことで夫に不誠実であった。犬の
ことでは私に不誠実なのかもしれない。』」
殿方は飽きた時に女を捨てる理由を考え出すには常に天才的でした。しかし、この口
実は伝説として残っているくらいですから、この南洋においても、そして、この昔の
日においても、少なくとも普通ではないとは考えられたに違いありません。
「非常識であろうとなかろうと、鮫/人間にとっては十分であり、歩いて川に入り、再
び魚になり、海へ泳ぎだしました。彼は泳いでいる途中かどこかで、トゥアモトゥか
ら帰って来る途中の彼女の夫、テ マヌトゥヌウ、のカヌーと出会い、彼と会話をしま
した。テ マヌトゥヌウは、彼のような類まれな客を受け入れる楽しみを失ったことを
後悔し、島のマナーを特徴づける幾分過大な寛大さに従って、ヴァリ マタアウホエ に
戻るよう招待しましたが、その鮫/人間は慇懃に断り、ホトトゥが犬好きすぎるという
言い訳をしたと言うことです。」
多分、この神話はインドと同じくらい古く、世界の神話の共通の範疇に入るものなの
でしょう。しかし、その起源が何であれ、その話の形は島の住民が ヴァイアリ を貴族
社会の源とみなしたことを示しているように見えます。プナアウイア の マラエ と
マロウラ が ヴァイアリ の継承であることばかりでなく、パパラ も直に従ったことも
主張しています。というのも、以下のようだからです。
「 ヴァリ マタアウホエ が ホトトゥ のもとを去る時に以下のように言いいました。
『貴方は私に子供を授けてくれます。もし女の子なら、彼女は貴方のもので貴方の名
を持つでしょう。しかし、もし男の子なら、貴方は彼を テヴァ と呼びなさい。雨と風
が彼の誕生に伴うでしょう、そして、彼が訪れるどんなところでも、雨と風が彼の到
来を告げるでしょう。彼は大首長の血脈であり、貴方はマタオア(タヒチの目) と呼
ばれるマラエ を彼のために造りなさい。そして、彼は マロテア を着て、アフレイ
(Ahurei : タイアラプ から吹く風)の子として知られることになります。』」
テヴァ の父と母に関する事実を離れて、彼については何も知れていません。しかし、
彼は大変に優れた人だったに違いありません。というのも、ヴァイアリ の人々を信じ
るなら、彼らは未だに彼が子供時代を送った場所、彼が最初に水浴びした場所、そし
て彼が パパラへの途中で魚をとったそれぞれの場所を特定し、テヴァ が ヴァイアリ
の人であったことを否定すると感情を害するからです。私達の氏族では、テヴァ が
ヴァイアリの家系からの枝分かれであるだけではなく、パパラへ下って直に マロテア
を着用し、ヴァイアリ の最古の マラエ の ファレプア から彼の席である石を移して来
て彼の マラエ を マタオア に造ったことを認めています。
ここで、回顧録をよく理解するためとして アリイタイマイ が述べていることに触れて
おきます。まず、マロテア や マロウラ は今までに述べて来た特定の首長しか着ること
ができません。また、人身御供を命じることができるのは大首長のみです。しかし、
首長と名のつく者は、大首長であれ、弱小の首長であれ、4つのものを持たなければ
ならないのだそうです。山、岬、集合場所、そして マラエ です。マラエ 以外の3つ
がどの様な役割を持つのかは分かりませんが、マラエ と名の付くものは タヒチ には
1マイル毎にあるそうです。そして、それら全ての マラエ はわずか1ダース位の由緒
ある マラエ から枝分かれしたものなのだそうです。回顧録ではそれらの マラエ を挙
げていますが、ここでは省略します。興味のある方は回顧録 [1] の第二章をお読み下さ
い。
Dancingflowers は ヴァイアリ の ヴァイヒリア川の写真を探したのですが、見つけら
れませんでした。多分、海に近いところでは何の変哲もない大河なのでしょう。水源
はヴァイヒリア湖です。この湖はリゾート地として有名なところらしいですが、昔か
ら風光明媚な湖として知られていたらしく、1788年に キャプテン ブライ( Captain
Bligh )がバウンティ号で訪れた際にはヴァイヒリア川を遡って ヴァイヒリア湖を訪
れたようです。上流はこんなところです。( 9/26 追加 ヴァイヒリア湖の写真は先
の テヴァ イウタ 自治体のサイトで見ることができます。)
【National Geographic 1962年7月号の写真】
この National Geograpic の 1962年の7月号にはタヒチの面白い写真が沢山ありま
す。著作権は不明なので出典を明らかにして載せていきたいと思います。
[終わりに]
アリイタイマイも述べているのですが、上の話で出てきた「テヴァ」は厳密に言えば
「名前]であって氏族名ではありません。同氏は、歴史上のいずれかの時点で、ヴァ
イアリ もしくは パパラ の大首長が自分たち氏族の名称を テヴァ と定めたのであろう
と推測しています。
次は、どうして由緒正しいヴァイアリ が ポマレ 出現の頃には名前も出ないようになっ
たのかを説明する物語を紹介します。もっとも、その物語を語る アリイタイマイ 自身
もできすぎている話だから裏があるのだろうと疑っている話です。
[1] Marau Taaroa and Henry Adams, TAHITI: Memoirs of Arii Taimai e. Paris, 1901.