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2013年74冊目に読んだ本「銀行王 安田善次郎」

2013年、74冊目に読んだ本はこちらです。

銀行王 安田善次郎: 陰徳を積む (新潮文庫)/新潮社



現在の芙蓉グループの礎を築いた人間である安田氏を、白州次郎でお馴染みの北康利氏が描くんですから、面白くないわけがない!

陰徳―人に知られないようにひそかにする善行を奨励し、目に見える偽善をトコトン嫌ったがために最後は右翼に暗殺されるという悲劇に見舞われた男・安田善次郎。その生涯が丹念に描かれております。


僕自身が「なるほどなぁ」と思ったのは、安田自身がいつまで経っても最前線に立っていたがために後継者育成に悩んだという点。

そして、人に何を批判されようと自分は構わないと振る舞い、マスコミからの批判を無視し続けたがために、そのマスコミ報道を鵜呑みにした右翼青年に暗殺されてしまったという点。

これこそが安田氏の「負」のように周囲では言われているようですが、前半は言い換えれば「生涯現役で事業を邁進した日本を代表する企業家」ですし、後半は言い換えれば「批判を恐れず、批判に屈せず、男子の本懐を遂げた」となります。

人がどのように見るかに応じて、人の評価なんて変わるんですから、今回は安田氏の一生を前向きに捉えてみたいと思います。



金融王として、安田銀行(戦後は富士銀行、現在のみずほFG)の地位を確立した安田氏の信条は「信頼」でした。金融の本質が「紙幣の信頼」だったこそ、絶対に「信」の無いことをしてはならないとしていました。

# 今のバンカーは、どう思いますかね。
# 貸し剥がしとか。

信頼とは積み重ねることでしか嵩は高くならないし、全てを失うには1回で十分だと僕は思います。その意味で、安田氏はまさに信頼を積み重ねていきました―陰徳です。

何歳になっても目上の人物を敬い、誰からの面会も余程のことが無い限り断らない(だから暗殺されてしまったのですが)、慈善事業は名前を絶対に出さない―思いっきり儒教の影響を受けているのだと思います。

徳は何のために積むのか。みなさんは答えられますか?儒教の「大学」という本では、徳は人生をより輝かせる為だと書いてあります。

情けは人のためならず、巡り巡って自分のため。とはよく言ったものですが、なぜ自分に巡り巡って来るかと言えば、そうした陰徳が「良い1日を過ごした」という自信を自分に与えるからなのです。

言い換えれば、振り返ってみて後ろめたいことがあるならば、良い1日だったとは言えないわけですよね。もっとも「知らないが利口」で、良いことをしたと思っても、自分だけがそう捉えている場合だってありますが……。


ただ、不憫だと思うのは、そうした陰徳が周囲から必ずしも賛同を得られていないという点です。金のためだとののしられ、嵌めたと言われ、裏で操っていると大者扱いを受ける。

そうした批判を「解ってくれる人だけが分かってくれればいい」として受け流していた安田氏ですが、結局は自分を信じずマスコミを信じた大バカ者のテロルに遭うのです。

言われ無き批判はきちんと対応した方が良いだろうと思う反面、それを言えば「大人げない」と言い返されるのかもしれないし、それを知ってて安田氏は何もしなかったのかもしれません。

だとすると、何をやっても、あの瞬間に誰かに暗殺されていたかもしれない。そんな運命に乗せられた安田氏を、ただただ不憫にしか思えないのです。



さて、今回はこの本を読んで得た気付きを1つ。

それは「陰徳と信頼」です。「良いこと」なんて所詮は自己満足なんですから、目の前で堂々とやるべきじゃないんです。こっそりやるべきなんです。

島田紳助が「やならい善より、やる偽善」だと言っていましたが、本当は「見せびらかす偽善、見せない善」だと思うのです。


善なんて、大手を振ってどうどうとしている人間ほど、信用ならないです。アメリカも、民主主義を守るという名目でイラクを、その昔は日本を攻め立てましたもの。

暗殺される運命にあったとしても、自分の信じる「陰徳」をコツコツと積み立てる。自分の評判は後世の人間が評価したらいい。

そこまで割り切って、生きられる人間になりたいのですが、やっぱり人からどう思われるかって気になるんですよねぇ……。

2013年73冊目に読んだ本「どうやって社員が会社を変えたのか」

2013年、73冊目に読んだ本はこちらです。

どうやって社員が会社を変えたのか/日本経済新聞出版社


10年以上前に「なぜ会社は変われないのか」という実話を基にした企業変革フィクションが発刊されたのですが、その「実話」の内容が細やかに描かれたのが本書です。

舞台は自動車メーカー・いすゞ。コンサルタント、人事担当、役員(後の社長)が登場し、大企業病に感染した組織を、いかに変革していくか―というのが話の大筋です。


想像してみて下さい。

あなたの所属する組織にいる人間が、いきなり「自分の組織は大企業病に感染している」と言い出したら、あなたはどう思いますか。そういうお前は何かしてんのか―そう思いませんか。言うだけは簡単です。実行に移すのが難しいのです。

大企業病という言葉を初めて使ったのは、ドラッカーとも親交の深かったオムロン創業者の立石一真氏だそうです。その頃、氏は既に社長業を引退し、後継に席を譲っていたそうですが、その後継からしてみればたまったものではなかったでしょう。

しかし、そうやって「異」とする意見を取り入れ、常に組織自体を時代に合わせて変化させていかない限り、外は変わったのに中だけは変わらないタコ壺史観になってしまいます。そうして会社が傾いたのが、パナソニックであり、ソニーであり、シャープだったはずです。


もっと言えば、組織全体が変わると言えば聞こえは良いですが、要は中にいる人間が変わらなきゃいけないんです。しかも集団心理に影響を与える「かなり多数」の人間が。

しかし、「負け癖」が身に付いた組織が、そんな直ぐに変わるわけがありません

人が集まっては「あいつが悪い」「制度が悪い」「製品が悪い」の他己批判オンパレード。一般職は上司の悪口を言い、管理職は動きの鈍い部下を批判し戦略の描けない役員をバカにする。役員は役員で「うちの会社なんてそんなもの」と社員を信用しない。


そんな事業を組織が勝てると思いますか?


著者である柴田氏は「企業はストラテジー(戦略)とカルチャー(企業文化)からなっているととらえており、企業文化がよくなければ、いくらよい戦略を立てても実行できない」と言います。

事業は人なり、と言います。つまり、何をやるかと同じぐらい、誰とやるかが大事なんです。その意味で、負け癖の付いた社員たちが変わる為に、他己批判も出尽くした後に自己批判をし始める下りは非常に興味深いと思います。

# ただし、これは一種の洗脳のようなもので、これと同じことをソ連がシベリヤで旧日本軍に対して行い、「赤い軍人」がシベリヤから大量に帰ってきたことを併せて憶えておくべきです。



さて、今回はこの本を読んで得た気付きを1つ。

それは「問題発見力」です。他己批判を繰り返していた人は、目に見えた問題ばかりに目を向けていました。因果関係もはっきりしていますし、批判し易いものです。

しかし、自己批判をしていた人は、悪いことを1つ1つ根絶やしていこうとする改善意欲を持っているものです。つまり、目に見えない問題に対しても感受性鋭く「それはこういう問題を起こしやすいのでは?」と言うことができます。

何が問題か解らなければ、解決をすることすらできません。つまり、「目には見えないこと」を「目に見えるようにする」ことで、改善は大きく進歩していきます


物凄く当たり前のことではあるのですが、その感受性の違い、問題意識の差が20代、30代で身に付くかが、40代、50代のキャリアを大きく左右するのだろうなと思いました。

この本に出てくる中堅・ベテランのように悩まなくて済むのですから。


あなたは、常に変わり続け、負け癖の付かない生き方を歩んでいますか?

2013年72冊目に読んだ本「外資系戦略コンサルタントサバイバル奮闘記」

2013年、72冊目に読んだ本はこちらです。

外資系戦略コンサルタント・サバイバル奮闘記 - プロフェッショナル・キャリアを歩む -/作者不明


遠藤功さんという、「現場力」という本で有名なコンサルタントの、自説「私の履歴書」のような本です。たんたんと書かれているからこそ、余計にその凄さを感じられます。

ある日突然飛べと言われ、飛んだら飛んだで崖を登れと言われ、登れば登れたで無事に着地しろと言われる。コンサルティング独特な無茶な要求に対して、歯を喰いしばりながら必死にやってこられた遠藤さんだからこそ、その発言に深みも重みもあります。

遠藤さんは、次のように言います。物凄く良いことを言っておられます。


自分ではコントロールできないものの力を認め、だからこそ自分でコントロールできるものを精一杯やり切る。偶然という必然に感謝することがその人の人生を豊かにすると私は信じています。

目の前のことを腰を入れて一生懸命やる。それが「出会い」や「ご縁」という偶然をもたらす。



内定も出て社会人になるまでに何か勉強したいと言っている人間ほど、自宅には鉛筆もノートも無いものです。ダイエットをしたいと言っている人間ほど、自分の体重すら把握していないものです。

つまり、自分の「やりたいこと」を実現する為の努力を放棄し、自分以外の人間が現れて自分を成功へと導いてくれるような幻想を抱いているようでは、絶対に人生を豊かにすることなどできないと私は思うのです。

それよりも、最終的に成功するか失敗するかは神に委ねて、とりあえず成功する為の努力を惜しまない、そしてそれは、今日何をするかに落とし込まれている。そうした心構えをしている人間のほうが、よっぽど人生を楽しく生きていると私は思うのです。


今日1日を一生懸命に過ごせない人間に、神様は微笑まない。そんな胡散臭いことを言うつもりはありません。チャンスの神様も、成功の神様も、いつだってみんなに―それこそ、あなたにも微笑んでいると思います。

ただ、毎日一生懸命に積み重ねている人間は、その積み重ねてきた分だけ、神様に近付いているのだと僕は考えています。



さて、今回はこの本を読んで得た気付きを1つ。

それは仏教用語で言う「他力本願」です。これは他人の力を当てにするという意味では無く、簡単に言えば「仏様の力によって生かされている」と僕は捉えています。


出会いやご縁というのは、偶然では無く、常に必然だと僕は思っています。そして、それは仏様が「おぉ、お前最近よう頑張ってるやん。ここまで頑張ったら次はこれに挑戦してみいひん?」と言いたいがために、誰か新しい人と出会わせてくれたり、新しい機会を設けてくれたりしているのだと思うのです。

だから、後から振り返って考えてみれば「あの人との出会いは偶然やけど、良い出会いやった」というものは、偶然に見えて、実力を付けたあなたにとって、必然だったのです。

それに、あなたが努力しなかったら、出会っていたとしても、相手はあなたを面白くないやつだと評価していたでしょう。出会わせても無駄な人を、神様は出会わせようとはしないでしょう。

つまり、今与えられている環境で、努力できない人間が、「僕はこんな環境じゃ活躍できない」と言っても、きっとどの環境に移されても活躍できないわけで。


その意味で、遠藤さんのような実力者が、自分の実力は今いる環境で精いっぱい努力してきたから身に付いた、運命は自ら切り開いたのではなく努力した結果いつの間にか開けていたと断言したことは大いに意味があるな、と思う次第です。