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2013年68冊目に読んだ本「ホンダ神話(上)教祖のなき後で」

2013年、68冊目に読んだ本はこちらです。

ホンダ神話(上)教祖のなき後で/文藝春秋



この本自体が出版されたのは今から15年以上前ではありますが、1996年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しており、その内容の精緻さとリアリティは間違いありません

前篇、後篇に分かれており、前篇は主に創業者である本田と藤沢の歩んできた道を、僕らの知らない側面から描いています。後編は両創業者亡き後に、彼らの子供たちが迷走しながらも、どのように企業経営してきたかが描かれているそうで、今から楽しみです。


さて、この本では1つの真実が描かれています。それは従来のホンダのイメージを覆す、言わば本田宗一郎神話を否定する物語です。

この本では、ホンダという会社は、藤沢武夫CEO兼COOと本田宗一郎CTOという姿が描かれているのです。決して本田は経営には口を出さず、「得手に帆を上げて」に描かれているようなカリスマ経営者のような虚像は決してなく、ただただバイク作りに精を出してきた人として描かれています。

さらには、本田宗一郎というカリスマを引退させ、平凡な人間でも経営が勤まるよう、本田の持っているスキルやノウハウを相伝するために本田に本を書かせたのに、創業者としての自負なのか「何だか訳の解らないことを書いた本ができた」と藤沢が嘆いたシーンまで描かれているのですから、「自分の知ったつもりでいた本田宗一郎とは何だったのか?」とさえ思います。


本によれば、藤沢自身が経営者の器では無いと自覚しながらも、「経営」はしたいという思いから、異業態な二人羽織ができあがったと言われています。

言いたいことだけを言う本田宗一郎と、そのカリスマにあやかりながらも、陰に怯える藤沢とその後継者たち―まるで、ドラッカーが言うようなカリスマに依存した組織はカリスマ亡き後に崩壊するという指摘の通りであり、藤沢は何度も「どうすれば、ここまで大きくなった会社を経営する為に、本田宗一郎という人間を引退させられるか?」について考えます。

# その最たる例が水冷・空冷問題なのですが。



さて、今回はこの本を読んで得た気付きを1つ。

それは「置かれた場所で咲く」ということです。

藤沢は、その気になればいつだって社長業になることはできました。しかし、それはせず、社長というシンボルは本田宗一郎に任せました。

それは、自分は黒子でいいと徹したのではなく、自分はホンダを全身で支える本田のようにはなれないという「諦め」があったようです。


想像してみて下さい。

もしあなたが組織を引っ張る副リーダーだったとして、実質はあなたがリーダーだよねと言われるような存在であれば、「じゃあ僕がリーダーでもいいじゃん」という欲が出てくるはずです。

その欲はやがて肥大化し、傲慢に成長していくものです。


しかし藤沢は徹底して「自分は社長にはなれない」として、本田を支え続けました。

ホンダという会社は、いくら自分が経営しているとしても、本田宗一郎というシンボルがあってこそ成り立っている会社で在ることを理解していたからなのだろうな、と思うのです。

# その一方で、本田宗一郎というカリスマがいる限り、これ以上組織を大きくすると弊害が出るとして、抱き抱え心中をするのですが。



欲を抑える。自分を知る。置かれた立場を考える。

この本から、それを学びました。

小泉劇場から読み説く「会議」の運営方法



 今にして思えば、小泉純一郎という人間の存在は「異常」でした。

 首相の権力とは何かを考え抜いていた点で「異常」ですし、財政投融資という制度が無くなったのに郵政民営化に固執した点で「異常」でした。

 前者で言えば、首相でありながら解散権を封じられた総理大臣は多く、師匠である福田赳夫や海部俊樹が該当します。後者で言えば、竹中平蔵自身が財政投融資も無いのに郵政民営化する理屈が無くて頭を抱えたと何かの雑誌で読んだことがあります。

 それでも彼は2度の参議院選挙、2度の衆議院選挙、2度の総裁選を勝ち抜いた勝負師という事実があり、郵政民営化という成果を勝ち取りました。


 その秘密はどこにあるのか。それを描いたのが、今回紹介する2冊の本です。


官邸主導―小泉純一郎の革命/日本経済新聞社


経済財政戦記―官邸主導小泉から安倍へ/日本経済新聞出版社



この本を読めば、いかに小泉以前の総理が「意欲さえあれば何でもやれる」のに何もやらなかったのかが解りますし、小泉以降の総理が「意欲があるから何でもやろう」として見事に失敗の連続だったかが解ります。

 つまりは、怖ろしいほどまでに細やかな根回しと、用意周到な準備の積み重ねこそが、小泉自身が5年以上に渡って総理大臣の座で在り続けた源泉であることが解ります。

 今回は、そうした会議運営という点に焦点を絞って、過去を振り返りたいと思います。



■経済財政諮問会議―舞台装置としての意思決定

 小泉政権を内政から支えた「骨太の方針」としての経済財政諮問会議は、橋本行革によって2001年1月に誕生した会議体の1つです。

 実際は第2次森内閣発足の頃からあったのですが、実際にフル回転し続けたのは小泉内閣において、と言ってもいいでしょう。

 財務省主計局を中心とした予算編成権をこの諮問会議に移行して、党や官僚組織らを「抵抗勢力」と見立て、内部に仮想敵を作り、見事な立ち回りを見せ続けました。まさに小泉劇場の本舞台だと言っても過言ではないでしょう。


 しかし、その実は本当に簡単なものです。

 竹中平蔵率いるチーム竹中と、会議に出席する民間議員は予めお互いに議題を根回ししておき、当日に何を話すのか、どのような要求を投げつけるのか、はっきりさせていたのです。

 これだと、議事進行係が初めから肩入れしておいた側に有利な話が進んでいくのは当たり前です。

 さらに慎重にかつ大胆に攻め込んでいきたい場合は、官邸を訪ねて、事前に小泉首相の耳に議題について入れ込んでおきました。さらには、会議の出席者に対しては、直前までその内容を明かそうとはしないわけです。

 こうして諮問会議という名の竹中劇場が完成するわけです。

 いったん行司役に見える竹中平蔵が「抵抗するのではなく、対論を示せ」と抵抗勢力に言って聞かせるのですが、昨日の今日に明らかになった議題に対して何かしら有意義な切り返しができるわけでもなく、そうした背景を知らない人間からしたら「あの政治家は単に抵抗したいだけだ」と見えてしまいます。


 それだけでなく、対論を示すとなると、相手の土俵に立ったことをも意味します。

 メリ・デメ表を作成したが最後、「郵政民営化自体に反対ではないが、云々」という解り辛いロジックを使い、反論をしなければなくなります。

 ちなみにこの経済財政諮問会議という舞台装置の欠点を見破った政治家は2人しかいません。

 竹中さんの言う通りと全面賛成しながら1つ1つに注釈を付けていき、実質何事も運ばないような状態にして見せた二階経産相(当時)と、欠席戦術に出て、そもそも相手に何も言わせなかった川崎厚労相(当時)のみです。


 会議とは、皆が参加して、議論、或いは決定する場だと定義するならば、意思決定を貰う為に、事前にあらゆる根回しと準備をしておくのは、当たり前のことなのです。

 議論をすれば解決するだろう、というのは甘い考えで、既に結論が決まっていながらも、会議に参加させて、あたかも議論したかのように見せかけ、決まっていた結論に落とし込み、その意思決定の責任を相手にも求めるという高等戦術だって存在します。

 特に政治の世界はそれが顕著です。民主党が政権を取るまでは、それをマスコミはこぞって裏工作だとか、汚い政治だと決めつけましたが、裏工作の無い表玄関から正々堂々と入って来る、綺麗な政治を掲げた民主党の政治の結果はご覧の通りです。


 政治は汚いとか綺麗とかではなく、何をやったか、でしかないと思うのです。



■官邸主導の本質―意思決定権者はどこに座るのか?

 小泉純一郎は、権力の源泉を人事権と解散権に見出しました。

 つまり、俺に反対するなら衆議院を解散するぞ(≒お前らクビにするぞ)という脅しを常に有効に使い続けました。

 自民党総裁選に落選しても、総理で在り続けることは可能です。そして、実際に2003年の総裁選ではその可能性がありました。


 仕事でも何でもそうですが、組織には意思決定を下す人間がいます。

 その人の権力の源泉は、社長という役職にあるのではなく、何か物事を左右させる意思決定を下す点にあると僕は見ています。

 役職など所詮は飾りに過ぎません。事態を動かせる、そうした推進力と決断力を持った人間にこそ意思決定が迫られ、かつ、それができるからこそ権力が集中します。

 あの人にやって貰えれば間違いない、という周囲の期待があるからです。


 官邸主導の本質は、そこにあると思うのです。

 極めてアナログな、かつ代替の効かないヒューマンリソースという点こそ、官邸主導が成功した要因だと思うのです。

 確かにシステムの点もあるでしょうが、それでは後を受けた安倍政権が徹底的に失敗してしまった理由の説明がつきません。


 意思決定を下す人間は、議論に肩入れしません。

 なぜなら、それをすれば反対側の人間に反感を買ってしまうからです。

 竹中平蔵があれほどまでにバッシングを浴びたのは、経済財政諮問会議において徹底して民間議員側の人間に肩入れしたからです。

 意思決定を下す人間は、公平に見えなければいけないわけです。

 そして裁定を下したとしても、議論した側が「次に承認を貰うには、どうすればいいか?」という点において頭を悩ませなければいけないわけです。

 そうして常に自分を中心に議論が進み、まるで台風の目のように、自分だけが論戦から外れ、常に周囲を見守っている限りにおいて、権力は保たれたままになるでしょう。


 つまり、あなたが社会人になった時、真っ先にしなければいけないことは、どんな小さな議題であれ、提案する側ではなく、裁定する側にならなければいけない、ということです。

 そして、採択した選択肢が上手くいくよう支援しなければいけない、ということです。


 そうして、自分自身の権勢を少しずつ高めていくことが、自分自身のマネジメント神話を構成するキッカケになるでしょう。



 もっとも、小泉流が良いかと言えば、僕は全くそう思いません。

 小泉以降、全く物事が進まなくなったことからも解るように、真似できないマネジメントスタイルは、定着させてはいけないからです。後任者が悲惨な猫踊りを周囲に曝け出すことになるからです―例えば、安倍晋三のように。



儒教と道教~今の僕を支える生き方の話



■儒教―権力者のための努力としての拠り所

 伊與田覺さんの本を読んでから、古典に少しずつ興味を抱き始めています。

 その中でも、陽明学に対して親近感を抱くようになっているのは、伊與田さん自身が陽明学を研究した安岡正篤に師事したから、その影響が本から溢れ出ているのを僕自身も影響を受けているのかもしれません。


 僕が陽明学に惹かれるのは、その根底にある思想が人間らしいからです。

 物凄く簡単に言うと、日本には朱子学系と陽明学系、2つの時流があります。朱子学系は厳しい儒教の血筋を引いていて、とにかく勉強!まずは勉強!と知ることを強く求めます

 公務員試験もこの流れをひいていて、知らなければ何もすることはできないと定義しています。

 一方の陽明学系は同じ儒教の流れではありますが、勉強も大事だけど、体験も大事!と知ることの行うことの両方を強く求めます

 知るだけでは理解したことにはならず、体験して初めて理解したとするのが陽明学なのです。朱子学が頭でっかちな印象に対して、こちらは人間味があります。

 もっとも、江戸時代に禁止された学問であり、明治時代にあっても常に注目を集めていたのは朱子学系なだけに、この流れをひく国家体系としてのシステムは何も存在しません。


 ただ、どちらも「頑張れ!」「やればできる!」という松岡修造的暑苦しさが根底にあります。自分を律し、自分を制限し、自分を克服しようとするのが儒教だと僕は考えています。

 そもそも、権力者の覇権意欲を高める為に書かれたのが儒教であり、権力者では無い一般人にとっては、無理をすればするほど辛い学問ではないかとすら最近思うようになりました。

 つまり権力者が、あるいは権力を握ろうとする人が一生懸命にする努力の方向性をひたすらに正そうとするのが儒教だと僕は考えます。



 考えれば、陽明学の安岡正篤は昭和の黒幕だとされました。平成という記号を考えたのも、彼だと言われています。

 昭和を生きた権力者の心の支えとして君臨していたことを考えると、いかに陽明学―儒教というものの性質がいかなるものかが解ります。

 しかし、そんな安岡正篤が最期は細木和子のお酒戦略に載せられて、自分が今まで言ってきたこととは正反対の死に様を見せつけるとは悲劇であり、ある意味で喜劇です。


 それに対して、そんなことするなと言うのが道教であり、その代表例として荘子がいます。



■荘子―市井のための存在意義としての拠り所

 道教とは、もともと中国三大宗教として位置づけられ、中国共産党があの大陸を支配し宗教を禁止するまでは大地に根付いていました。

 僕自身、道教をまだ理解できていないので割愛しますが、中国で弾圧を受けている法輪功もまた道教と流れを共にしています。


 さて、その道教の大元をなしている荘子ですが、その根底にあるのは「為すがまま」ということです。

 禅にも行き着く部分はあるのでしょうが、自らはからず(図らず、諮らず、謀らず)、それを受け入れるというのが根底にあります。

 まるで水のようなものでしょうか。コップに入れれば水は丸く、箱にいれれば水は四角く、上から水を垂らせば当たり前のように下に零れ落ちる。大量になれば激流となり岩をも砕き、家をも破壊する力を持つこともあります。状況に合わせて、姿や形を変えるのが水です。


 儒教に対して、道教―荘子は、何かのために何かをすること自体が間違っていると言います。自然体では無いし、作為的であると批判します。

 例えば、「渾沌、七竅に死す」という内容では、こんな内容があります。僕の中で衝撃を受けた下りです。ちなみに現代訳としました。



 南海の帝を倏といい、北海の帝を忽といい、中央の帝を渾沌といった。倏と忽はときどき渾沌の地で会った。渾沌のもてなしはとても行き届いていた。倏と忽は渾沌にお礼をしようと思い、相談して言った。
「人間の顔には目耳鼻口に七つの穴があり、それで視聴飲食しているが、彼にだけは無い。ためしに穴をあけてあげよう」
一日にひとつずつ穴をあけていったところ、七日目に渾沌は死んだ。




 言っている意味が解りますか?

 相手のためによかれと思ってやったことですら、自然の道理に反しているならば、それは間違っているのです。

 自分にとっての当たり前を相手に押し付けること自体が既に間違っているのです。あるがまま、なすがままを受け入れなさい―そう言っているように感じました。


 つまり、権力者に対して、市井の人々の暮らしは慎ましく、ある意味でみすぼらしく、どうしても比較してしまいがちですが、他所は他所、羨ましがっても仕方が無い、まずはそれを受け入れなさいと言っています。

 他人と比較して自分には無いものを羨ましがったりする心が心そのものを滅ぼし、一生懸命にそれを手に入れようと努力する様が身体そのものを滅ぼすのです。



■荘子らしい思想をもって総理大臣になった男―広田弘毅と大平正芳

 こうした荘子の思想は、どう考えても儒教に負けます。

 なぜなら、あるがままなすがままであっては、隣国が攻めてきたときにどうするのだ?武器をとって闘うなとでも言うのか?という問いがあるからです。


 天下泰平の世にあってこそ、暇人が時間を潰す為に編み出された学問―そうしたレッテル張りが荘子にはされています。

 しかし、この荘子らしい生き方をして、総理大臣にまで上り詰めた人間がいます。広田弘毅と大平正芳です。どちらも激しい権力闘争の中に身を置いて、それでいて権力を奪おうとはしませんでした。広田にいたっては、東京裁判において争う姿勢すら見せませんでした。



 こういう生き様を見ていると、人生とは何かを考えさせられます。

 どのように生き、どのように死んでいくかを決めるのは、心の持ち様だと思うのです。

 儒教のように自らを皇帝になるために、ひたすら人望というのを積み重ねようと自らを律する様は、それはそれで良いのかもしれませんが、そうした帝王学を活かすこと自体が幸せなのかと問われると、幸せの定義とは自らが幸せだと感じることは何かによるのですが、それを幸せと感じる感情を育てることは並大抵のことではないと思うのです。


 人として生き、人として死ぬ。

 最期まで自分らしく生きる為に、そのような自分を律することが果たして正解と言えるのか。これが最近の僕の疑問です。

 安岡正篤が儒教的な生き方をしてきたのに、最期は道教的な死に様を見せたので、余計にそう感じます。


 自分らしく生きる。この、らしさというのが曲者ですが、私を垂れ流して生きるのではなく、かといって公に縛られて生きるのではなく、自分らしく居たいと思うのです。



心が鎮まる荘子の言葉/日本能率協会マネジメントセンター




[新訳]荘子/PHP研究所



今回、参考にした本です。