2013年80冊目に読んだ本「気骨 経営者 土光敏夫の闘い」
2013年、80冊目に読んだ本はこちらです。
気骨: 経営者 土光敏夫の闘い/平凡社

数年前から静かなる土光敏夫ブームが到来していましたが、あえなく海賊と呼ばれた男・出光の登場により、やや霞んでしまった感を受ける夏の昼下がり。
おそらくは、その土光ブームにあやかって出版されたであろうこの本は、ものすごく良書ではあるのですが、いかんせんブームが過ぎたように感じるのです。
しかし、氏の功績を単なるブームにしてはいかんと思い、ちょっとこの場で土光氏について振り返ろうと思います。
# 土光氏の略歴はwikipediaでも見て下さい。単純に略せば、戦後の日本経済界を引っ張ってきた、すっごいおっさんの一人です。
僕が思うに、土光氏の最大の功績は、経営者かくあるべしという「清貧さ」を生涯貫き通したことにあると思っています。
「めざしの土光さん」と呼ばれるようになったのも、晩ご飯がたっためざし二匹とみそ汁、漬け物と質素な生活を過ごしていることが解ったから。
NHKの特集でその姿が放映されて以来、彼の姿勢が国民の共感を得て、「彼の行政改革案を潰すな!」という大合唱が巻き起こります。もっとも、土光氏の食べていためざしは最高級、一匹400円もする希少価値のある魚だったのですが。
グリード、イズ、グッド。
米国で巻き起こり、そして最終的には国破れて山河あり状態となった強欲資本主義。経営者は短期利益にしか目がなく、5年後、10年後の履歴には目もくれずに、彼ら強欲経営者はたった半年で5年分もの利益を収奪するかのように資本主義で侵略の限りをつくしたように僕は思います。
彼らからすれば、土光氏のような、貧相で清楚な生活はどのように目に映っているでしょう。
東芝の再建を任されたとき、土光氏は「役員は10倍働け、俺はもっと働く」と言い、実際、10時出社が基本だった役員を差し置き、彼は7時半には出社して猛烈に仕事に取り組んだそうです。
経営者たる者、意思決定が重要だとして、判断を下すことのみが仕事だと勘違いしている人もいるようですが、その一方で、仕事をする姿勢、仕方を教えようとする経営者もいるということです。
何のために働くのか?
それが強欲資本主義と、我々のような日本資本主義とは根本的に違うのではないかと最近、思うようになりました。
僕らは豊かになるために働き、しかし、足るを知っていたはずです。でなきゃ、戦国時代はもっと殺戮の嵐でしたでしょうし、徳川の治世が何百年も続きません。
歴史学者はそれを「諦め」と表現しますが、だったら明治維新は起きなかったでしょうし、このたびの東日本大震災でも立ち上がることはなかったでしょう。
自然に囲まれ、自然に育ち、自然に助けられ、自然の怖さを知る。それを八百万の神と表現し、この世の中は自分ではどうしようもない神様の力で溢れている、だから自分のできる範囲のことはやっておこうと考えるのが日本でしょう。
しかし欧米は、少なくともキリスト教やヒンズー教は一神教で他の宗教を認めず、さらには殺生も神によって認められるとして何とも思っていませんもの。
日本のほうが優れていると言いたいのではなく、日本の精神感が21世紀には合っているのではないのか、そのシンボルマークの1つとして土光敏夫という経営者が存在し、かつ活躍していたことを忘れてはいかんのではないかと思う次第です。
さて、今回はこの本を読んで得た気付きを1つ。
それは「仕事とは自らの意志の積み重ね」ということです。思うに、土光氏は自らの仕事がまさか後世にこのような形で本になり、ちょっとしたブームになるとは思わなかったでしょう。
自分のしてきたことは、自分の考えていえることの積み重ね。考えていることが、行動に繋がるのです。したがって、どれだけ高邁なことを言っていたとしても、人間は「何を残したか」がすべてなのです。
皆さんは今まで生きてきて、何を残しましたか?
気骨: 経営者 土光敏夫の闘い/平凡社

数年前から静かなる土光敏夫ブームが到来していましたが、あえなく海賊と呼ばれた男・出光の登場により、やや霞んでしまった感を受ける夏の昼下がり。
おそらくは、その土光ブームにあやかって出版されたであろうこの本は、ものすごく良書ではあるのですが、いかんせんブームが過ぎたように感じるのです。
しかし、氏の功績を単なるブームにしてはいかんと思い、ちょっとこの場で土光氏について振り返ろうと思います。
# 土光氏の略歴はwikipediaでも見て下さい。単純に略せば、戦後の日本経済界を引っ張ってきた、すっごいおっさんの一人です。
僕が思うに、土光氏の最大の功績は、経営者かくあるべしという「清貧さ」を生涯貫き通したことにあると思っています。
「めざしの土光さん」と呼ばれるようになったのも、晩ご飯がたっためざし二匹とみそ汁、漬け物と質素な生活を過ごしていることが解ったから。
NHKの特集でその姿が放映されて以来、彼の姿勢が国民の共感を得て、「彼の行政改革案を潰すな!」という大合唱が巻き起こります。もっとも、土光氏の食べていためざしは最高級、一匹400円もする希少価値のある魚だったのですが。
グリード、イズ、グッド。
米国で巻き起こり、そして最終的には国破れて山河あり状態となった強欲資本主義。経営者は短期利益にしか目がなく、5年後、10年後の履歴には目もくれずに、彼ら強欲経営者はたった半年で5年分もの利益を収奪するかのように資本主義で侵略の限りをつくしたように僕は思います。
彼らからすれば、土光氏のような、貧相で清楚な生活はどのように目に映っているでしょう。
東芝の再建を任されたとき、土光氏は「役員は10倍働け、俺はもっと働く」と言い、実際、10時出社が基本だった役員を差し置き、彼は7時半には出社して猛烈に仕事に取り組んだそうです。
経営者たる者、意思決定が重要だとして、判断を下すことのみが仕事だと勘違いしている人もいるようですが、その一方で、仕事をする姿勢、仕方を教えようとする経営者もいるということです。
何のために働くのか?
それが強欲資本主義と、我々のような日本資本主義とは根本的に違うのではないかと最近、思うようになりました。
僕らは豊かになるために働き、しかし、足るを知っていたはずです。でなきゃ、戦国時代はもっと殺戮の嵐でしたでしょうし、徳川の治世が何百年も続きません。
歴史学者はそれを「諦め」と表現しますが、だったら明治維新は起きなかったでしょうし、このたびの東日本大震災でも立ち上がることはなかったでしょう。
自然に囲まれ、自然に育ち、自然に助けられ、自然の怖さを知る。それを八百万の神と表現し、この世の中は自分ではどうしようもない神様の力で溢れている、だから自分のできる範囲のことはやっておこうと考えるのが日本でしょう。
しかし欧米は、少なくともキリスト教やヒンズー教は一神教で他の宗教を認めず、さらには殺生も神によって認められるとして何とも思っていませんもの。
日本のほうが優れていると言いたいのではなく、日本の精神感が21世紀には合っているのではないのか、そのシンボルマークの1つとして土光敏夫という経営者が存在し、かつ活躍していたことを忘れてはいかんのではないかと思う次第です。
さて、今回はこの本を読んで得た気付きを1つ。
それは「仕事とは自らの意志の積み重ね」ということです。思うに、土光氏は自らの仕事がまさか後世にこのような形で本になり、ちょっとしたブームになるとは思わなかったでしょう。
自分のしてきたことは、自分の考えていえることの積み重ね。考えていることが、行動に繋がるのです。したがって、どれだけ高邁なことを言っていたとしても、人間は「何を残したか」がすべてなのです。
皆さんは今まで生きてきて、何を残しましたか?
2013年79冊目に読んだ本「血の政治―青嵐会という物語―」
2013年、79冊目に読んだ本はこちらです。
血の政治―青嵐会という物語―(新潮新書)/新潮社

参議院選は自民党の圧勝に終わり、次の衆議院選、参議院選まで3年もあるので、暫くは与党安泰だと言われております。
ですが、衆議院選は「一票の格差」問題で、裁判所からは「違憲」と言われているような状態ですから、間違いなく2年以内に選挙制度が改正され、総選挙が行われるでしょう。
なぜなら「違憲」である国会が、憲法を改正するなど言語道断だからです。
さて、今となっては憲法改正など誰もが言っている、ある種の「既視観」のある後継ですが、これを30年以上も前から訴えていた団体があります。
派閥連合組織である自民党にあって、派閥の締め付けから外れ、右翼と言われても立ち向かっていった勉強会。
それが「青嵐会」です。
自民党は、簡単に言ってしまえば吉田茂系からなる穏健保守派と、鳩山一郎・岸信介系からなる強硬保守派の2つに分かれます。
穏健系と強硬系、この2つが繰り返し政権を交代するからこそ、国民は「擬似的な政権交代」を体験し、自民党は40年もの長期政権の座に在りつけました。
青嵐会は、強硬保守派の中でも最右翼に位置する団体でした。メンバーは、鈴木宗男が秘書時代に仕えていた中川一郎、みんなの党の党首のお父さん・渡辺美智雄、他にはあのハマコーこと浜田幸一、維新の会のW代表である石原慎太郎などです。
彼らは、反田中・打倒田中内閣をシンボルに、何と血判までして青嵐会を立ち上げました。時代錯誤も甚だしい―と思うなかれ。
この血判という「マーケティング」が功を奏して、当時まだ当選2~3回だった若手政治家は、当選4~5回の政治家をすっ飛ばして注目を浴びたのです。
さらには人民日報にて軍国主義者と名指しで批判されるほどで、血判という時代錯誤感の演出は失う以上に得るものがあったと言えます。
ちょうど三島由紀夫が自決した時期でもあり、右翼の中でも三島のような民族主義者の居場所が自然と青嵐会に向いてしまったことは、もしかしたら予想外だったかもしれませんが。
ちなみに、この青嵐会は中川一郎の派閥となることで渡辺美智雄との対立が悪化、さらには中川一郎が謎の自殺を遂げることで、結果的に雲散霧消してしまいます。
その活動期間、約10年。
いつの間にか、中川も渡辺も閣僚を経験する中堅になっており、両雄並び立たずということなのでしょう。
現在、政界では「緩やかなオママゴト」がまかり通っており、元総理大臣に辞めろ・辞めないと言ったり、党首と幹事長が大喧嘩したり、市長のくせに国政に口を出すなと言ったり、まぁ器の小さな話ばかりが飛び交っている中で、この本で描かれる若手国会議員の暴れっぷりときたら尋常じゃ無いです。
先輩に盾付くのは当たり前。
自分の政策が通らなければ脅す。
他人の行動を批判して政策を止める。
しかし、はたと気付けば、明治維新とは血で血を購う政策論争だったわけです。本来、政治とは青嵐会のような過激派のほうが「正常」なのかもしれません。
今、国会にいる軟弱な政治家が、果たして国際政治の舞台で活躍できるか。小泉4世の内容の無い会話は、プーチンに感銘を与えることができるか。それを思えば、過激なぐらいがちょうどいいんじゃね?なんて思ったりします。
さて、今回はこの本を読んで得た気付きを1つ。
それは「目立ちたければ新しい領域の先駆者となる」ということです。
当時の2~3回生が、マスコミの注目など浴びることは無かったわけで、その理由は「上が詰まっている」から。世代交代論もあるにはあったのですが、実現するまで15年掛かっています。
青嵐会のやったことは、世代交代ではなく、新競技につき世代無し従って誰でもどうぞ―つまり先輩のいない新しい領域をつくるということです。
反田中、右翼、血判。どれも既存の派閥にはできない、かなり尖がった行動でした。しかし、極めてイノベーティブで、先進性のある行動だったとも思うのです。
目立ちたいなら、とことん新しいことをやれ。
そんなことを僕は考えました。
血の政治―青嵐会という物語―(新潮新書)/新潮社

参議院選は自民党の圧勝に終わり、次の衆議院選、参議院選まで3年もあるので、暫くは与党安泰だと言われております。
ですが、衆議院選は「一票の格差」問題で、裁判所からは「違憲」と言われているような状態ですから、間違いなく2年以内に選挙制度が改正され、総選挙が行われるでしょう。
なぜなら「違憲」である国会が、憲法を改正するなど言語道断だからです。
さて、今となっては憲法改正など誰もが言っている、ある種の「既視観」のある後継ですが、これを30年以上も前から訴えていた団体があります。
派閥連合組織である自民党にあって、派閥の締め付けから外れ、右翼と言われても立ち向かっていった勉強会。
それが「青嵐会」です。
自民党は、簡単に言ってしまえば吉田茂系からなる穏健保守派と、鳩山一郎・岸信介系からなる強硬保守派の2つに分かれます。
穏健系と強硬系、この2つが繰り返し政権を交代するからこそ、国民は「擬似的な政権交代」を体験し、自民党は40年もの長期政権の座に在りつけました。
青嵐会は、強硬保守派の中でも最右翼に位置する団体でした。メンバーは、鈴木宗男が秘書時代に仕えていた中川一郎、みんなの党の党首のお父さん・渡辺美智雄、他にはあのハマコーこと浜田幸一、維新の会のW代表である石原慎太郎などです。
彼らは、反田中・打倒田中内閣をシンボルに、何と血判までして青嵐会を立ち上げました。時代錯誤も甚だしい―と思うなかれ。
この血判という「マーケティング」が功を奏して、当時まだ当選2~3回だった若手政治家は、当選4~5回の政治家をすっ飛ばして注目を浴びたのです。
さらには人民日報にて軍国主義者と名指しで批判されるほどで、血判という時代錯誤感の演出は失う以上に得るものがあったと言えます。
ちょうど三島由紀夫が自決した時期でもあり、右翼の中でも三島のような民族主義者の居場所が自然と青嵐会に向いてしまったことは、もしかしたら予想外だったかもしれませんが。
ちなみに、この青嵐会は中川一郎の派閥となることで渡辺美智雄との対立が悪化、さらには中川一郎が謎の自殺を遂げることで、結果的に雲散霧消してしまいます。
その活動期間、約10年。
いつの間にか、中川も渡辺も閣僚を経験する中堅になっており、両雄並び立たずということなのでしょう。
現在、政界では「緩やかなオママゴト」がまかり通っており、元総理大臣に辞めろ・辞めないと言ったり、党首と幹事長が大喧嘩したり、市長のくせに国政に口を出すなと言ったり、まぁ器の小さな話ばかりが飛び交っている中で、この本で描かれる若手国会議員の暴れっぷりときたら尋常じゃ無いです。
先輩に盾付くのは当たり前。
自分の政策が通らなければ脅す。
他人の行動を批判して政策を止める。
しかし、はたと気付けば、明治維新とは血で血を購う政策論争だったわけです。本来、政治とは青嵐会のような過激派のほうが「正常」なのかもしれません。
今、国会にいる軟弱な政治家が、果たして国際政治の舞台で活躍できるか。小泉4世の内容の無い会話は、プーチンに感銘を与えることができるか。それを思えば、過激なぐらいがちょうどいいんじゃね?なんて思ったりします。
さて、今回はこの本を読んで得た気付きを1つ。
それは「目立ちたければ新しい領域の先駆者となる」ということです。
当時の2~3回生が、マスコミの注目など浴びることは無かったわけで、その理由は「上が詰まっている」から。世代交代論もあるにはあったのですが、実現するまで15年掛かっています。
青嵐会のやったことは、世代交代ではなく、新競技につき世代無し従って誰でもどうぞ―つまり先輩のいない新しい領域をつくるということです。
反田中、右翼、血判。どれも既存の派閥にはできない、かなり尖がった行動でした。しかし、極めてイノベーティブで、先進性のある行動だったとも思うのです。
目立ちたいなら、とことん新しいことをやれ。
そんなことを僕は考えました。
2013年78冊目に読んだ本「震度0」
2013年、78冊目に読んだ本はこちらです。
震度0/朝日新聞出版

横山秀夫作品の中で、トップ3をあげろと言われれば、僕は「クライマーズ・ハイ」「64」そして、この「震度0」になると思う。
# 半落ちは、なぜか感情移入できなかった。泣かせようとする筆が嫌いなのかもしれない。
# 臓器移植問題は理解しているつもりだけど。
事件のあらすじはこうです。
阪神大震災が起きた当日、ある県警の刑務課長が謎の失踪を遂げてしまった。生きているのか死んでいるのかも解らないまま、時間だけがジリジリと過ぎていく―。
単純に訳すと、県警幹部が謎の失踪を遂げてしまったというだけで、西村京太郎のように時刻表トリックが出てくるわけでもないし、内田康夫のように旅情感溢れるわけでもない。
それでも、こんなに人気なのは、組織の中にいて、自分のいる部署だけを優先しよう、相手を打ち負かそうとする「大企業病」をありありと描き切っているからだと思う。
ドラマ「半沢直樹」のような、胸がすく想いがするシーンなど、何1つも出てこない。再就職先のために情報を明かさない幹部がいれば、自らの保身のために情報を明かす幹部がいる。
キャリアという理由で目の敵にする幹部がいれば、こいつは本省に戻っても出世しないだろうと高を括りあけすけに無視をする幹部がいる。
組織全体のことを考えて、と言う人がいる。組織論にもそんなことが書かれている。しかし、組織全体のことを考えようにも、自分の知っている組織の範囲は、自分が今所属している部署の範囲内に自然と限られる。
何より、今いる部署が守りたいものと、組織全体が行わなければいけないもの、それが相反して矛盾することもあるが、どちらに付く?と頭を悩ませてしまう。
# つまり全体最適に走れば被害を蒙るけど、部分最適に走れば被害に遭わない。
# 全体のことを考えて痛手を負うか?という問題。
保身ばかり考えやがって、と思うかもしれません。しかし、組織なんてそんなもんです。誰だって自分が可愛い。今まで築かれてきた組織のブランドを壊してまで、何かを新しく始めようとするベンチャー精神に溢れる人間なんて、そうはいません。
殆どの人が、現在に渡るまで築かれてきた組織の前に、萎縮しているものです。壊してまで、組織全体に従おうとする人間なんて、そうはいません。
ただ、残り全体の10%というところで、各部署が情報を交換し始めて、物語は一気に進み始めます。セクショナリズムに陥っている限り、殆ど前には進まない良い例を出してきたな、と感じました。
さて、今回はこの本を読んで得た気付きを1つ。
それは「セクショナリズムとは不理解の積み重ね」ということです。
誰もが自分さえよければ良いと思う一方で、それを行動になかなか移せないのは、背徳感や、良心の呵責というやつだと思うのです。
しかしその対象が、見ず知らずの、自分には馴染みの無い人間だったらどうでしょう。良心はそこまで痛まないのではないでしょうか?
セクショナリズム、いわゆる官僚主義というのは、相手に対する理解が根本的に掛けているが故の横暴だと僕は感じました。
同じ人間だと思わない限り良心が痛むなら、同じ人間だと思わなければいい。相手にも家庭があると気付かなければいいし、守るべきものがあると配慮しなければいい。
これこそ、範囲が広くなれば、戦争のキッカケにもなると思うのです。アメリカが良い例ではないでしょうか。
震度0/朝日新聞出版

横山秀夫作品の中で、トップ3をあげろと言われれば、僕は「クライマーズ・ハイ」「64」そして、この「震度0」になると思う。
# 半落ちは、なぜか感情移入できなかった。泣かせようとする筆が嫌いなのかもしれない。
# 臓器移植問題は理解しているつもりだけど。
事件のあらすじはこうです。
阪神大震災が起きた当日、ある県警の刑務課長が謎の失踪を遂げてしまった。生きているのか死んでいるのかも解らないまま、時間だけがジリジリと過ぎていく―。
単純に訳すと、県警幹部が謎の失踪を遂げてしまったというだけで、西村京太郎のように時刻表トリックが出てくるわけでもないし、内田康夫のように旅情感溢れるわけでもない。
それでも、こんなに人気なのは、組織の中にいて、自分のいる部署だけを優先しよう、相手を打ち負かそうとする「大企業病」をありありと描き切っているからだと思う。
ドラマ「半沢直樹」のような、胸がすく想いがするシーンなど、何1つも出てこない。再就職先のために情報を明かさない幹部がいれば、自らの保身のために情報を明かす幹部がいる。
キャリアという理由で目の敵にする幹部がいれば、こいつは本省に戻っても出世しないだろうと高を括りあけすけに無視をする幹部がいる。
組織全体のことを考えて、と言う人がいる。組織論にもそんなことが書かれている。しかし、組織全体のことを考えようにも、自分の知っている組織の範囲は、自分が今所属している部署の範囲内に自然と限られる。
何より、今いる部署が守りたいものと、組織全体が行わなければいけないもの、それが相反して矛盾することもあるが、どちらに付く?と頭を悩ませてしまう。
# つまり全体最適に走れば被害を蒙るけど、部分最適に走れば被害に遭わない。
# 全体のことを考えて痛手を負うか?という問題。
保身ばかり考えやがって、と思うかもしれません。しかし、組織なんてそんなもんです。誰だって自分が可愛い。今まで築かれてきた組織のブランドを壊してまで、何かを新しく始めようとするベンチャー精神に溢れる人間なんて、そうはいません。
殆どの人が、現在に渡るまで築かれてきた組織の前に、萎縮しているものです。壊してまで、組織全体に従おうとする人間なんて、そうはいません。
ただ、残り全体の10%というところで、各部署が情報を交換し始めて、物語は一気に進み始めます。セクショナリズムに陥っている限り、殆ど前には進まない良い例を出してきたな、と感じました。
さて、今回はこの本を読んで得た気付きを1つ。
それは「セクショナリズムとは不理解の積み重ね」ということです。
誰もが自分さえよければ良いと思う一方で、それを行動になかなか移せないのは、背徳感や、良心の呵責というやつだと思うのです。
しかしその対象が、見ず知らずの、自分には馴染みの無い人間だったらどうでしょう。良心はそこまで痛まないのではないでしょうか?
セクショナリズム、いわゆる官僚主義というのは、相手に対する理解が根本的に掛けているが故の横暴だと僕は感じました。
同じ人間だと思わない限り良心が痛むなら、同じ人間だと思わなければいい。相手にも家庭があると気付かなければいいし、守るべきものがあると配慮しなければいい。
これこそ、範囲が広くなれば、戦争のキッカケにもなると思うのです。アメリカが良い例ではないでしょうか。