細い糸の上を歩いているような、

トレーナーを裏返しに着ているような、


そんな不安な感覚に見舞われた事はありませんか?


それは、多分今まで信じていたものが

信じられなくなってしまう。

そんなときの事。


どうして?

なぜ?


知らなくていい事という事が世の中にはたくさんある事を知らずに

知識欲を満たすためにそのタブーを犯すと

ガラス細工のような人の心に直接アイスピックを打ち込むようなことになってしまう。


よく道で気が触れたかのような人を見かけるとき

タブーを犯してしまったんではないかと思ってしまうことがある。


普通に、奉公人として働き、結婚、子供、家族を持っていた男。

現状、良くも悪くもなく、与えられた範囲の中で考え、動いていた男。

人が人としていられる範囲。

今が一番満たされている時。

それにもかかわらず、ふと何かをきっかけに、禁忌を犯してしまう。

それ以上のものを得ようとしてしまう。

しかし、何かを得るという事は何かを失ってしまうという事。

その何かというのは、人によって違う。


その男は、まず仕事を失った。

仕事を失った次に、妻、子供を失った。

今の彼に残されているものは、彼にとっての真実。

それはとても残酷なものではあるが、他の誰のものでもない彼だけのもの。

どんなに口で上手く説明したところで、他の人には彼の真実を100%理解することはできない。

その真実の重みに彼の心は耐えられなかった。


「ああ、どうしてあのときあれに触れてしまったのだろうか?」













結婚、子作り。


種の保存は、生物として存在する本当の意味、義務だとしたら、

僕はその義務を果たしてはいないだろう。


周りにそういう人が増えてくると、そういう事を考えてしまう。


不肖宮島というカメラマンが以前”情熱大陸”で

”僕は子供はいないし、種の保存はしていないけれど写真を残す事が生きている証だ”

といった事を言っていた記憶がある。


残せるものとはなんだろう。


例えば人が絶滅したら?


現在のCDや、DVDといった最新の記憶媒体も

もし人類が滅亡して管理する人がいなくなったら200年くらいで劣化してなくなってしまうという。

事もテレビでやっていた。


一体どれだけの時間、何かを残したら義務を果たしたことになるのだろうか?


ソフィーの世界という本を読んだら

物質を構成する最小の単位と言われている原子というものは

レゴのブロックのようなものだみたいな事が書いてあった。


つまりは、僕の垢、髪の毛、雲古、死んだ後の死骸全てが

常に何かに形を変えて常に存在し続けるという事なのだとしたら

地球全体の存在を種として括ったならば、

存在するという事が種の保存という行為と同じなのではないかと思う。


石油も大昔の動物や植物の残骸が形を変えたものだということらしいし、

物質的な面でみれば僕も肥料や、それを栄養にした何かに形を変えて間接的に何かを残す事になるのだろう。


ただ、意思というものはどうなるのだろうか。

紙、音、石、何かにそれを刻んでそれを受け取った人がいて初めて何かを残せるものだと思うので、

受けて自体がいなくなってしまったら意思の連鎖はそこで途切れてしまうような気がする。


民謡、文化、伝統

昔の人の意思の塊

それを僕は望む望まざる、知る知らざるうちに受け継いでいたようだ。


不肖宮島さんが残したといっている写真というものは意思が形を変えたものなんだろう。


今の僕の意志、思考というものは昔の人の意思に影響を受けそれをベースにしたものであり、本当に自分オリジナルの意思というものは、、どこにあるのだろうか?


残す以前の話に、何を残したらいいのかさえ分からない。


夕食のおかずなら、たくさん残しているのだが、、
























もしも、あの時、ああしていたら。。


そう思う事は常々であるが、

最近強くそう思ったことがある。


大学生だった頃、入学まもない僕は右も左も分からないままキャンパスを歩いていた。

次の授業に行く途中であった。


そんな僕が、近くにいた初日に知り合ったやつと音楽の話をしていると

「ああ、知ってる君も音楽好きなん?」


そう言って近寄ってきた。

彼が僕のその時から今までに大きな影響を与えた事は否めないだろう。


今の僕はダメ人間である。

しかし、そいつと会わなかったとしたら僕はもっとダメ人間になっていたか、、

いや、多分ましになったんだとは思う。


何故そいつが僕の人生を少しましにしてくれたか?

それは彼が自己中であるから。

正反対の僕に自己中に生きることとは何かを示してくれたような気がする。


でも、それが僕にとっていいか悪いかはわからない。

多分、一生分からない気がする。


もし、あのときやつの声を無視していたら。。

少し頭が痛い。


パソコンから垂れ流している音楽がいつも以上に広がって、細かい部分まで聞こえる。


ベッドの横の窓から見える風景がいつもよりも、きれいに見えて鳥が飛んでいる事に気がつく。


鬱々とした気分の時は、そうでないときに比べて人生が豊という矛盾。


テレビから流れるCMは音楽と、光の動きが早すぎて人生が豊になった自分には少し苦痛。


体を動かさなかった自分が、ストレッチをすると今まで自分の体はこんな固かったのかと驚かされる。


驚きというのは、生きる事で一番重要な事なのだと思う。


そんな僕が、また普通の日常に戻るのはとても辛い。


普通とは、まともとは一体なんなのだろうか?


考えても考えても分からない。


考えても考えても意味が無いのかもしれない。

トイレで大をするとき

いつも手持ち無沙汰になる。


とりあえず手で遊ぶ。


自分の生命線を眺めているとあることに気が付いた。

「あれ?昔よりも線が短くなっているのでは。。」


そういえば、最近息切れはするし。

頭は痛いし。

腹は下すし。


もしかしたら、死が目の前に迫ってきているのだろうか?

別に、もうめんどくさいし終わってもいいかなとも思った。


ある日、道で歩いていたら

頭の中で何かが切れる音がして、体の平衡感覚を失い、視界がぼやけた。

自分の中で何かがバクバク激しく音を立てて、

頭の中では「あれ?死ぬの?こんな道の真ん中で?嫌だ。まだやり残した事がたくさんあるのに。。」

今まで経験した事のない眩暈。

でも、まだ生きている。


今なら分かる。

やり残した事。

それは多分途中まで読み残していたジョジョの奇妙な冒険の事だったのだと。



さびれた食堂で一人食事をすましている男がいた。

その店の向かいは、高級焼肉店で男が座っている位置から中の様子が見えた。


もさもさと口に米を運んでいる男が向かいの店の中を見ると

自分の姿が見えた。


男はしばらく状況が飲み込めず、鏡に映った自分の姿だろうと口に食べ物を入れ続けた。

しかし、目を凝らしてよーくみるとやはりそれは自分そっくりの人物が一人で焼肉を山ほど焼いて食べていた。


確認のため男は店長を呼び、向かいの店にいる男は自分ではないか?と問いかけた。

しかし、店長は「誰も見えませんが。。」と怪訝な顔つきでそう答え厨房へ戻っていった。


そうは言われたものの自分の目に映る自分そっくりの男はもくもくと焼肉を一人で焼いて食べていた。

気になって仕方のない男は勘定を済ませ向かいの焼肉店へと足を運んだ。

自分そっくりの男が座っていた位置を確認したが、男の姿は確認できなかった。

店員に自分そっくりな男の存在を確認したが、店員は「いえ、あそこの席は本日ずっと空席でしたが。。」と


多分、疲れているんだろうな。得体の知れない気味悪さを自分に感じた男は家に帰って寝ることにした。






一人の青年がいました。

一人でいる事が好きな青年。

彼は、その理由に気が付いていたのですが

その理由に気が付かないように今まで過ごしていました。


とある小さな中小企業で働いている彼の職場に隠者のような同僚がいます。

その、世捨て人なかれを”ファウスト博士”と青年は密かにあだ名をつけていました。

いつも一人で鬱々としているファウスト博士に、青年はどこか自分と近いものを感じていました。


ある日、仕事が終わった後青年は暇だったのでファウスト博士に話かけてみました。

「暇だったら飲みにいかない?」と

すると、ファウスト博士は言いました。

「いいよ。」


近所のチェーン店の居酒屋で二人は話しこみました。

鬱々としたファウスト博士は少し酒が入っているのかいつもより饒舌になっていてこんな事を言い始めました。

「知ってるかい?個人に人格があるようにね、集団にも人格があるんだよ」と


さらに続けて、

「まあ、なんていうのかな。。例えば、テレビのバラエティ番組でさタレントとか芸人が集まってるじゃない?あれで一つの集団として考えてさ、あの集団には目的があるわけだよ。なんだろうねえ、場を盛り上げるって事かな?恐らくさ。それで、その目的の為にあの中の構成員は一つの部品になるんだよね。その場を盛り上げるという目的のために役を演じるわけだよ。裸で踊りまくって踊る芸人とかさあ、仕事以外では根暗な青年で政治の話とかにも的確な意見を述べちゃったりするかもしれないしねえ」


さらに酒を進めながら続ける

「まあ、なんだ。関係あるかは知らないけど、人は集まりたがる生き物なんだよね。僕が思うに。例えば、アメリカに移住したばっかのアジア人とかさ、何故か知らないけど集まるわけですよ。中国人とか、ベトナム人とか、カンボジア人とか国籍関係なく。それで、料理が得意なやつはレストランを、手先が器用なやつは貴金属の店をやったり、それで商工会議所とか自前で作って、一つのコミュニティを作る訳さ。ネットでもミクシイだっけ?人が集まっているでしょ、意味も無く。」


ファウスト博士の周りには中ジョッキが4つ程並んでいる。

「まあ、あれだぁ。不安なんだろう、寂しいんだろう。一人でいる事で生きていけない事を本能的に知っている訳で、生身だろうとバーチャルなせ界だろうと自分を確認するためにどこかのコミュニティに入ろうとする。まあ、そこまではいいと思う。でもさ、ある時期からいやもしかしたら最初から自分がどうしてそのコミュニティにいるのか分からなくなってしまうのではないかな?人が集まりだすとそのコミュニティの秩序を守るためにルールのようなものができて、コミュニティから追い出されないために寂しくならないようにそのルールをがむしゃらに守る毎日になってしまうのではないのかな?目立つことはしない。みんなと同じように行動する。愛想よく振舞う。そういう意味ではそういう事はとても自然な行為だと思う。」


いつの間にか、日本酒の2合瓶が机に並んでいる。

「それでさ、いつの間にか自分が消えてしまうんだよ、個人としてのさ。集団の人格に沿うような形の自分ができあがってくるんだよ。ルールから逸脱しないね。企業だって、宗教だって、国だって、村だって、部活だって、学校だって、基本は同じなんだろうねえ。中にいる一人一人のエネルギーをさ、集団は吸い取ってどんどん大きくなって広がって行こうとするんだよ。集団の中にいる個人は良い事をしている。世のため人のために最高の事をしていると思っていても、集団という単位で見たら被害を拡大させているかもしれないとも思う。環境汚染とか、宗教の勧誘とか、国が起こす戦争とかさあ極端な話。」


日本酒がいつの間にか空になっている。

「なんだ、結論として僕が出した答えはさ。”人は集まるとろくな事しない”

これに尽きると思うよ。それぞれ個人で自分の世界の中で生きていくのが平和やね。

僕が何か宗教始めるならそれを教義にするし。多分、信者は集まらんだろうけど」


この日は、ファウスト博士の独演を聞いて終わった。

ただ、最後に一言彼は僕に対して

「まあ、教えて欲しかったんだろう?自分の中の違和感をさ。

多分、誰でも良かったんだろう?」


次の日またいつものように一日が始まった。














昔々ある日のこと、3歳くらいの子供が両親にたずねました。

「はずかしいとはどういう事か?」と。


両親は答えました。

「ちんこを人前で出すこと。それは人としてやってはいけない事でとても恥ずかしい事」なのだと

そのとき両親はよくそれを出して歩いていた子供を戒めるつもりでそういったのでしょう。



それから、数十年経ちました。

子供は大きくなり社会の第一線で活躍するような立派な青年になっていました。

歓送迎会になると青年は大変な人気者です。


酔いがまわると、服を脱いでその大きくなったイチモツを大車輪させる男になっていたからです。


「恥ずかしいという事は、恥ずかしくないと思えば全く恥ずかしくなくそれを通り越すと快感に変わるのだ」


そんな大人になっていました。







一人の青年は、ゲームとお酒を愛しています。

そのアパートの隣にすんでいる女性は寝る事とお茶を飲む事が好きです。

その女性が見ているテレビに映っている男性小説家は寂しくて死にそうです。

その小説家が出している本を海外で読んだ中年女性は、宗教活動にどっぷりはまっています。

その活動に参加したメキシコ人の少年は生活の貧しさに苦しんで、クスリにどっぷりはまっています。

その少年にクスリを売った売人は、日本へ旅行へ行った際にゲームを買ってお金を大学生の店員に支払いました。

そのお金を受け取った店員はゲームを買いに来た、冴えない男にゲームの代金のおつりを手渡しました。

その冴えない青年はゲームとお金を愛しています。


全てがめんどくさいと思うときに

一体何が自分を支えているのだろうと不思議に思う。


別に、いなくなってしまえば手軽なのに

それでも自分がまだこの世の中にいるのは


恐怖と希望、この相反する二つの事だけだと思う。


まだ、この世の中に希望を感じていられる私はまだ幸せ者なのだと思う。