結婚、子作り。
種の保存は、生物として存在する本当の意味、義務だとしたら、
僕はその義務を果たしてはいないだろう。
周りにそういう人が増えてくると、そういう事を考えてしまう。
不肖宮島というカメラマンが以前”情熱大陸”で
”僕は子供はいないし、種の保存はしていないけれど写真を残す事が生きている証だ”
といった事を言っていた記憶がある。
残せるものとはなんだろう。
例えば人が絶滅したら?
現在のCDや、DVDといった最新の記憶媒体も
もし人類が滅亡して管理する人がいなくなったら200年くらいで劣化してなくなってしまうという。
事もテレビでやっていた。
一体どれだけの時間、何かを残したら義務を果たしたことになるのだろうか?
ソフィーの世界という本を読んだら
物質を構成する最小の単位と言われている原子というものは
レゴのブロックのようなものだみたいな事が書いてあった。
つまりは、僕の垢、髪の毛、雲古、死んだ後の死骸全てが
常に何かに形を変えて常に存在し続けるという事なのだとしたら
地球全体の存在を種として括ったならば、
存在するという事が種の保存という行為と同じなのではないかと思う。
石油も大昔の動物や植物の残骸が形を変えたものだということらしいし、
物質的な面でみれば僕も肥料や、それを栄養にした何かに形を変えて間接的に何かを残す事になるのだろう。
ただ、意思というものはどうなるのだろうか。
紙、音、石、何かにそれを刻んでそれを受け取った人がいて初めて何かを残せるものだと思うので、
受けて自体がいなくなってしまったら意思の連鎖はそこで途切れてしまうような気がする。
民謡、文化、伝統
昔の人の意思の塊
それを僕は望む望まざる、知る知らざるうちに受け継いでいたようだ。
不肖宮島さんが残したといっている写真というものは意思が形を変えたものなんだろう。
今の僕の意志、思考というものは昔の人の意思に影響を受けそれをベースにしたものであり、本当に自分オリジナルの意思というものは、、どこにあるのだろうか?
残す以前の話に、何を残したらいいのかさえ分からない。
夕食のおかずなら、たくさん残しているのだが、、