D菩薩の仕事いろいろ趣味いろいろ

D菩薩の仕事いろいろ趣味いろいろ

仕事 海外生活 登山 スキー ゴルフ 鉄道 飛行機 模型 映画 etc. 時空を超えてビジネスと趣味の軌跡を写真でたどる半世紀

歳とともに歴史への興味が高まる傾向は、多くの人に共通するものかもと自分の回りを見て思います。

 

その楽しみ方はいろいろだけど、平安でも鎌倉でも戦国でも「その時代の人」が作ったり使ったりした同じ「物(ブツ)」を時空を超えて現代の自分が見たり、触れたりできるのってすごいことです。私の場合、その対象は寺社仏閣と現存天守。仏像は少し興味があるけれど、骨董的な美術品には基本あまり魅かれません。

 

今まで訪れた寺社で私の1位は奈良の長谷寺。

枕草子、源氏物語、更級日記に登場する国宝寺院です。

 

 

現存天守だと松本城がいちばん。

あのタイミングでなぜ家康から秀吉に寝返ったのか謎の多い武将・石川数正が建てた色黒ほそマッチョで端正な国宝城郭です。

 

 

そんな私が歳の差で感じる興味の差。

 

家族旅行で暇な時間に「どこ行きたい?」とガキどもに訊くと「どこでもいいけど、お寺と神社だけは勘弁して」と3人そろって即返されます。笑

 

そんな私のこのごろの趣味のジレンマ。

 

中学時代から50年追いかけた国鉄型特急も先月を最後に引退したし、最近の撮り鉄のマナーの悪さには辟易するし、体力的にもそろそろ引退の潮時かもという迷いです。でも写真(というよりカメラ)はまだ好きだし…。

 

そしてとりあえずたどり着いたフォーミュラが、

(寺社仏閣+現存天守)X フィルム写真=私の新しい被写体と流儀

 

あくまで、とりあえず、この春ごろからボチボチ始めてみました。

 

 

かつては暗さに強く使い勝手の良い ISO400が好きだったけど、スライド用だと今はもう ISO100しか売っていないようです。

 

 

今でも信頼して使えるフィルムカメラは、キヤノンNew F-1、ニコンF3、オリンパスOM-4

しばらくこの3機種のローテで使い回すことにしました。

 

最初に撮った寺院は、桜の勝沼ぶどう郷と旧線跡を撮りに行ったときに現地で偶然知った大善寺。

1286年建立の本堂は、関東周辺で最古の木造建築で国宝だそうです。

 

 

この日のカメラは、ニコン F3。

 

今年は4月にずれた山桜?が満開の大善寺の山門が迎えてくれます。桜のフィルム発色がきれいでした(以下"デジカメ"記載のない写真は全てフィルムです)。

 

 

1868年3月、甲州勝沼戦でこの大善寺の前で板垣退助軍と戦う甲陽鎮撫隊の近藤勇。背景に山門が見えます。(デジカメ)

たった2時間の戦闘で敗走した近藤勇を当時の浮世絵師が「甲州勝沼駅於近藤勇驍勇之図」という仰々しい題名で描き、後世に残しました。

 

確かこの時期、江戸無血開城の交渉が行われ、過激な新選組の残党が江戸で暴発しないように勝海舟が近藤勇をおだてて負け戦のわかっていた「甲陽鎮撫隊」の隊長として江戸の外へ追いやったと、司馬遼太郎の小説で読んだ記憶があります。

 

 

さらにその300年前には、武田勝頼が天目山で死ぬ8日前にここに泊ったそうです。なんでも勝頼の乳母がたまたまここの尼さんになっていたんだとか。へぇ~。(デジカメ)

すごい歴史の詰まった国宝寺院ですね。

 

 

山門をくぐって参道の階段を上っていくと、頭上に清水寺を思わせる立派な懸造りの建造物が現れます。

 

 

1677年に建てられた「楽屋堂」です。

 

 

楽屋堂の中は畳敷きの休憩所になっています。涼しくて眺め良し。(デジカメ)

 

 

フィルムで撮ると、こんな感じ。

 

 

楽屋堂の向かいには、国宝の本堂。

 

 

ここはソメイヨシノが散り初めでした。

天気の具合いか、本堂は妙にレトロな色調に。

 

 

花の色とフィルムの発色は相性が良いみたいです。

 

 

境内はずれの慎ましい庭園。

 

 

これはデジカメにはできない発色!

 

こんな大善寺との出会いは、勝沼の旧線跡のトンネル遊歩道を抜け、来た道を戻るのは芸がないとブドウ畑の農道を地図アプリを頼りにあてもなく徘徊中の全くの偶然でした。この寺は今まで登山のとき車で何度も通ったフルーツラインの勝沼側の入り口からすぐです。

 

まさに掘り出し物を見つけてラッキーな気分だったけど、さて次はどこへ行こうかとネットで国宝寺院を探してみると実は東日本にはものすごく少ないことを改めて発見。その数、全国152寺院中、関東・甲信越・東北でたったの12(北海道はゼロ)。一方、西日本、特に京都府には29、奈良県は何と59!

 

どうも国宝狙いというのは完全に西日本の趣味のようです。ならば国宝縛りでない寺巡りでも良しとするか? いや自分の興味は仏教でなく、歴史なのだから、やはり国宝にこだわった方が面白いエピソードに出会えそうです。

 

では国宝寺院巡りは粛々と続けるとして、東日本、または東京だからこその歴史探訪の被写体って他に何があるだろうと考えてみると、そうだ、江戸屋敷の大名庭園なんておもしろいかもしれない!と思い立ちます。

 

で、大善寺の数日後、むかし夜桜のライトアップを見に行ったことのある都内の六義園に足を向けました。都内の桜の花もまだ元気な春の日。

 

 

この日は、オリンパス OM-4を使用。ちょうど40年前、社会人になって最初のボーナスでローンを組んで買った思い出の機です。

 

 

駒込にある六義園は、柳沢吉保が 1695年に造成を開始。

 

 

柳沢吉保といえば、元禄ど真ん中の幕閣。江戸時代でいちばん華やかだった元禄年間は、戦国時代の戦争と外交を通して劇的に発達した商工業や芸術が様々な形で平和変換して一気に花開いた特別な時期だったと読んだことがあります。

そしてその贅沢のツケが後の時代に回ってきて、幕府と多くの藩が慢性的な財政難に襲われます。ちなみに庭園の造成バブルがはじけたあとに造園師たちが生き残りをかけて業態変化して生まれたのが「盆栽」だったそうです。

 

 

江戸時代の大名屋敷には、同じ藩でも上屋敷、中屋敷、下屋敷などランクがあり、それぞれに個性的な庭園が造られたようです。

 

 

大名庭園は、幕府や他の藩との外交・社交の場であると同時に、(参勤交代で旅ができる藩主と違って)人質として一生江戸から出られない妻子たちが、旅行の疑似体験をするテーマパークでもあったという時代背景がとても興味深いです。

それが、庭園内の池、小川、樹木、枯山水などで表現された日本三景や琵琶湖だったりしたとか。

 

きっかけは唐突だったけど、興味を持って日本庭園をにわかかじりするだけで今まで知らなかった新しい世界にどんどん出会えました。これはおもろい!

 

 

この日は風がつよく、散り初めの桜からは盛大な花吹雪。(写真にするのはむずかしい)

 

 

園内を散策中に立ち寄った東屋。明暗の差が激しいこの構図はフィルムでは多分無理だけど、スマホだと無造作にバッチリ撮れます。(デジカメ)

 

 

これもスマホの標準モードで明暗の差をカバー。(デジカメ)

 

 

ちなみにフィルムだと同じアングルでも、こうです。

フィルム、特にスライド用は、露出感度の許容誤差が極端に小さいため、こうなります。

 

 

スキャンデータをアプリで画像処理しても、これが限界。

全体を明るく写せるスマホ(デジカメ)が良いか、このようなフィルムのアナログな味付けが良いかは、好みの違い。個人的にはフィルムの方が人の肉眼に近いように感じます。

 

 

これもデジタル(スマホ)とフィルムの比較です。これはデジタル。

構図全体をくまなく明るくクッキリとらえているように感じます。

 

 

これは同じカットのフィルム写真です。画像処理はほぼなし。

デジタルより低い解像度。露光の許容誤差が少ないためデジタルより黒つぶれする暗部。結果として得られるちょっとボヤッとした感じの温もりと見た目に近い発色 (?)。いずれも好みが分かれるフィルムの特徴です。

 

 

かつてデジタル化以前は、撮り終えたフィルムをヨドバシなど店頭へ持って行くと、現像されたスライドが3~4日後に1カットずつプラスチックの枠に事前にマウントされて戻ってきました。

 

 

それが今は、スライドが6カットずつの帯のまま現像所から戻ってきて、マウントに入れたい人は、追加料金でプラスチックの枠を購入して自分でDIYしてね…、となります。

なのに現像代は昔のマウント込みの料金より2倍以上になっていると感じます。ま、フィルムが20年越しでここまで衰退して絶雌危惧種になれば、コストアップもしかたないのでしょう。

 

そして、このスライドを枠にマウントするDIY作業って、けっこう面倒くさいのです。

 

 

まずスライドの帯から1カットずつ慎重にペーパーカッターで切り離し…

 

 

プラスチック枠に正確な位置決めを行い…

 

 

枠の折り目に合わせて、スライドを挟み込んで凹凸のスナップにプチッとはめ込みます。

 

写真には、1カットずつしっかり記録したいシャッターや絞りのデータがあります。デジタル写真の場合、そのデータは撮影と同時にJPGやPNGなどのファイルに自動で記録され、いつでもアプリで呼び出せますが、フィルムだと、撮影する度に1カットずつ手書きでメモしなければなりません。

 

これがまた面倒くさい。

 

 

現場でメモッたこのデータは、さらにDIYで作った各スライドのマウントに間違えないよう照合しながら手書きで書き込まなければなりません。

 

 

4月に撮りに行った大善寺と六義園の記事を今ごろブログアップする一因がここにあります。ちょっと気を抜くと整理前のスライドがすぐに溜まってしまい、そのうち手書きした撮影記録を紛失したりしたら最悪!

 

そんな面倒な手間をかけて、スライド・マウントを作る理由。

 

それは、スライド・プロジェクターを使った大画面での投射です。

これは入社してすぐのころ、自社の(医療)業務用を自分宛てに伝票切って、経理部に現金を持って行って購入した40年物のプロジェクターです。

 

 

PCをモニターにつないで、デジタル写真を鑑賞することもありますが、生暖かいファンの風を受けながら、スライドを1枚ずつ差し込んで自分の作品の思い出に浸るアナログな一時はまた格別なものです。

 

 

そして気に入ったフィルム写真は、ブログ用やPC保存用にデジカメで取り込んでいます。

 

以前使っていたスキャナーが壊れてからは、ニコンのマクロレンズによる「スライド直撮り」が早くて楽で良いです。

 

頭と手先を使ったこういう趣味をチマチマやり続けると、リタイヤしても、ボ~ッとする暇もなく、ボケなくて良いんだろうなと思います。(おわり)

同じアウトドアでも、登山とキャンプは別物です。その違いは楽しみ方によって人それぞれですが、一言でいうと、登山は日の出前から日没までの日中の時間を楽しむもの、キャンプは夕方から夜を中心に楽しむものだと思います。

 

そこでは食事にも大きな違いがあって、登山における食事は「最短の時間と最小の手間で腹を満たす」という作業です。

 

 

一方、キャンプの食事では「料理の時間と手間もいっしょに楽しむ」という全体のプロセスが大事。

 

 

いつの頃からか、たぶん全国の3000m峰を制覇して自身の登山ライフにひとつの区切りがついた頃、それまでの作業かプロセスかの単純な二択ではない「山頂でちょこっと料理する登山」に挑戦してみたくなりました。

 

 

そう思い立って、一度やってみた「山でちょこっと料理」。レトルト・ハンバーグと総菜マカロニサラダに自作のガーリックバターライスです。

普段ほとんど料理しないので、バターライス作りの要領が悪く、おかずは出来合いのレトルトとコンビニ総菜だったこともあって、何かあまり達成感のない山ごはんでした。

 

 

ところでキャンプではない山の料理っていったいどんなものでしょうか? その道の雑誌やYouTubeなどを見てみると、概ね以下のような条件というか一種の制約の中で楽しむもののようです。

 

1.眺めの良い山頂で料理するので、水はできるだけ使わない(使えない)

2.日帰り登山が前提であまりゆっくりする時間がないので、料理は手早く最短で

3.その分、出発前に家でしっかり仕込みをしておく

4.レトルトやインスタント物はできるだけ使わない(その方が達成感がある)

 

そうか、家で仕込みをしておけば、少し込み入った料理にも挑戦できるし、山での手間が省けるのか。…なるほど!

 

これは家でちゃんと練習した方が良さそうです。

 

で、今月に入って、一気に3品に挑戦しました。家族にしてみると、今まで料理なんかしなかったお父さんの突然の変貌に戸惑うばかり…

 

 

練習1: プルコギ

 

事前に仕込む材料は、牛肉、コチュジャン、にんにく、しょうが、ごま油、砂糖、しょうゆ

 

 

これらをひとつの Ziplocに入れて密封します。

 

 

山へはこの Ziplocとカット済み野菜ひと袋を持って出発(する想定…)

 

山に着いたら、料理を開始(する想定)。

 

まずカット済み野菜を炒めます。

 

野菜は水分をたくさん含んでいるので、油は引かなくて良いんだ…。こういうのも新発見です。

 

 

野菜が柔らかくなったら、フライパンの真ん中を空けて事前に仕込んでおいた牛肉を投入。

 

 

 

真ん中で肉をよく焼いて…

 

 

最後に全体を混ぜ合わせます。

 

火を付けてから、完成までたったの10分でした。これ、山でやったら感動的!

 

 

サンチュがなかったので、サニーレタスで代用。

 

 

うんま!

 

家族に試食させたところ、「お客さんに出せる!」ってさ。

良き良き。(レシピに完全忠実に作ったんだから、当たり前といえば当たり前)

 

 

練習2: アヒージョ

 

材料は、パプリカ、塩、コショウ、にんにく、オリーブオイル、冷凍アサリ、マシュルーム、シーフードミックス

 

 

山へ行く前の仕込みは、パプリカとにんにくとマシュルームの細切り

 

 

山に着いたら、料理を開始(する想定)。

 

まず オリーブオイルをふつふつするまで弱火で熱します。

 

 

最初に入れる具材は アサリ。ジャーッて油が湧き上がるのが、とっても料理してる実感です ♫

 

 

続けてシーフードミックス投入

 

 

海の幸に火が通ったら、にんにくとマシュルームを入れます、

 

 

レシピによると、パプリカは食感を残すため最後に投入

 

 

塩、コショウで味を整えて完成!

 

これもオリーブオイルの温めを入れて、調理時間は15分。

 

 

アヒージョには、焼きバゲットとワインを添えます。(ほんとは白が欲しかった)

 

家族に試食させたところ、「お客さんに出せる!」ってさ。

良き良き。(レシピに完全忠実に作ったんだから、当たり前といえば当たり前)

 

 

練習3: スパゲティ

 

材料は、バター、ツナ缶、しょうゆ、塩こんぶ、きざみ海苔、スパゲティ(1.4mm)、小ネギ

 

 

山へ出発前の仕込みとしては、スパゲティを半分に折って水に浸して Ziplocに入れるそうです。

こうすると、料理を始める頃にはスパゲティが Ziplocの中で水を吸って柔らかくなっていて、山での茹で時間の短縮効果が絶大だとか。へぇ~、すごい!

 

 

山に持って行くのは、水に浸して Ziplocに入れたスパゲティ、バター、ツナ缶、しょうゆ。これに小分けした塩こんぶ、きざみ小ネギ、きざみ海苔

きざみ小ネギは、山へ行くときは乾燥小ネギを使います。

 

 

(食べる直前に上からまぶす)きざみ小ネギときざみ海苔以外を鍋に入れて軽く炒めます。

 

 

今回参照した山レシピでは、スパゲティに沿えるスープも作ります。

 

材料は、塩こんぶ、乾燥わかめ、鶏がらスープの素、かにかま、いりごま、きざみ小ネギ

 

 

これを全部カップに入れて、スパゲティの茹で汁の残りをかけてスープにします。

名付けて、水も燃料も節約する「エコスープ」だって。笑

 

 

スープを添え、きざみ小ネギときざみ海苔をまぶして完成!

 

家族に試食させたところ、「お店で出せる!」ってさ。

 

レシピに完全忠実に作ったんだから、旨いのは当たり前だけど、お金まで取れるってか?! ヤバ!

 

これで「山でちょこっと料理」の自信はついてきたけれど、このまま家でもいろんな料理に挑戦したくなりました。でもそこで忘れてはいけない自分の持ち味は、山レシピによる省エネ料理。

 

ぶっちゃけ、掃除も洗濯も家族でいちばん上手い自信があるので、これに料理が加われば、これからリタイヤ生活へとゆるゆる移行していく中で、何でもチャチャッと自分でできる理想のじいさんを目指していこうかなとか思います。(おわり)

医療ビジネスの世界に身を置いて、今年でちょうど40年。

 

 

"彼"に初めて会ったのは 34年前の1990年4月。28歳で駐在したドイツ・ハンブルグでした。

 

 

当時の"彼"はハンブルグ大学附属エッペンドルフ病院の外科医。

 

 

医療機器のマーケティング担当として、月に一度は足を運んでいた外科医局。写真向かって私の右がS主任教授、その隣りの青年が"彼"、KB医師。ファーストネームでKenと呼んでいました。

 

 

Kenは、お母さんが日本人、お父さんがドイツ人、本人はアメリカのシカゴ育ちというなかなかの国際派で、私のハンブルグ赴任と同時期にアメリカ・オレゴン大学から転籍してきました。

 

お互い 年齢が近く、ともにハンブルグは初めて。どちらも日本に所縁があって、私も幼少期をアメリカで過ごしたという共通点の多さもあり、Kenとはすぐに意気投合しドイツ駐在中のヨーロッパ各地の学会やワークショップでいっしょに仕事をするアラサー時代を過ごしました。

 

Kenは見た目はちょっとジョン・レノンが入っていると勝手に思っていて、ルックスも性格もメチャ爽やかなナイスガイ。付き合えば付き合うほど好きになり、いつしか私にもし男の子が生まれたら「Ken」の名前にもらおうと決めていました。こうして国際センスと爽やかさに思いを込めた「KEN」に日本男児らしさの「TARO」を付けた第一子 KENTAROは、1993年10月にエッペンドルフ病院で生まれました。

 

 

Kenが所属する医局とは家族ぐるみの付合いで、私が日本へ帰国する際にはS教授の自宅で送別会を開いてくれました。

 

 

そのときKenの膝に乗ったKENTARO。

写真タイトル「Ken on Ken」は、今でも二人の思い出の1枚です。

 

 

それから8年経った2001年、私はニューヨークへ2度目の海外勤務、Kenはハンブルグからアメリカのサンディエゴへ移っていました。

 

 

サンディエゴは、温暖な南カリフォルニアの楽園のような都市。アメリカの大都市では屈指の治安の良さです。

この街のタクシー運転手は白人ばっかりだった印象が今でも鮮明。

 

 

Kenは、ここ カリフォルニア大学サンディエゴ校 (UCSD) で准教になっていました。

 

 

豚の臓器を使ったトレーニングモデルで Post-graduate(卒後)セミナーを数多く主催し、ドイツ仕込みの外科治療技術を積極的に普及しました。

 

 

2005年の全米学会は、Kenが育った街 シカゴで開催。

 

 

学会の正規プログラムの合間に自社メーカーの展示ブースでレクチャーをしてくれました。

 

 

さらに実技ハンズオンもブースで披露。

 

 

ともに40代も半ば。お互い 貫禄がついてきました。笑

 

 

Kenは、2010年を迎えるころにはサンフランシスコの大手メディカルセンターの教授になりました。

 

 

初めて会ってから20年。片や教授、片や部長。互いにもうすっかりオッサンです。でも Kenの長髪は昔と変わらない。

 

 

その後、私はメーカーを辞め、外資系コンサルに転進。

 

 

2014年3月、カリフォルニアの UC Davisに留学した長男KENTAROのもとへ家族で旅行しました。

 

 

ついでに近くのサンフランシスコも観光。

 

 

このとき、家族みんなで Kenと食事しました。

KENTAROはKenと実質初対面。Kenはかつて生まれたてを膝に乗せたKENTAROが、身長185cmの茶髪に成長した姿にびっくり!

 

それからさらに10年。

 

今月初めに東京で開催の学会に来日するから会おうと、Kenから連絡がありました。

 

 

去年10年ぶりに参加した学会に今年は行かないつもりでしたが、Kenが来るなら絶対行きます。

 

 

来日中、多忙を極めたKenとは、お茶しかできなかったけど、コーヒー3杯、たっぷり2時間、旧交を深めました。

Kenは、今もシカゴで療養生活を送る90代の日本人のお母さんについて今回初めて話してくれました。どうも相当に厳格な良家(華族)の出で、1950年代に留学したいと単身 シカゴに飛び、そこで Kenのドイツ人のお父さんと巡り合ったそうです。日本には親が決めた結婚相手がいたそうですが、お母さんはそのままシカゴでドイツ人と結婚。以来、両親と絶縁し、Kenは母方の日本の親族には会ったことも聞いたこともないんだとか。

 

でも Kenの言うお母さんの旧姓「東京の〇〇〇家」というとても珍しい姓をググってみると、その華族の家系が英語のサイトでも出てきました。今さら親族を探したりなどする気はないが、この家系図がオレの確かな日本のルーツなんだ、と…。

 

知り合ったときは 20代だった我々もなんとお互い 60代になってしまいました。思えば、メーカー社員と医師は、業者と取引先の関係。つまり Kenは私にとって「お客さま」です。それが30年以上経っても、仕事を離れ、あらゆる利害を離れて、交友が続いている不思議。

 

Kenほど長くはないけれど、5年前の出張で再会したアメリカのRH教授もやはり完全に仕事を超えた友人です。

 

 

 

ビジネスマンをやって40年。選んで決めたわけではないけれど、結果的に身を置いた医療業界はある種、究極の B2Bです。不特定多数の顔の見えない消費者を相手にするB2Cビジネスとは対照的に、顧客の名前も属性もあるときはその出自まで互いに共有し合うのがB2B。

 

ゆえに、顧客たる医師のキャリアのステップアップと同時並行で、自身のビジネスキャリアもアップグレードしていく面白さみたいなものをこの歳になって振り返ると実感します。

 

だからというわけではないと思うけど、KENTAROを含む我が子3人が、ITインフラというB2B業界に入ったことに何となく共感とちょっとおかしな安堵みたいなものを感じている今日このごろです。(おわり)

昨日 6月15日、またひとつ、昭和の鉄道車両が引退しました。1982年のデビューから42年間、特急「やくも」として岡山~出雲市を走り続けた381系です。

(2023年1月8日 伯備線・方谷)

 

この引退で、国鉄特急車両の歴史にも終止符が打たれました。これをもって、日本を走る特急列車は全て1987年のJR発足後に生まれた車両に置き換わることになります。

 

 

この日はテレビのニュースでも話題になりました。

 

 

昭和世代には馴染みの深いこの車体の色はクリーム4号と赤2号と呼ばれ、1958年にデビューした「こだま」以来、全国の特急に使われました。この66年も続いた伝統的な色分けも今回の381系を最後に姿を消します。

 

 

私が中1で撮り鉄を始めたころ、国鉄特急といえばこの色でした。

(1974年5月 大阪駅)

 

 

1975年3月9日、新幹線の博多開業で大量に廃止になる九州特急の最終日。大阪駅のホームは別れを惜しむ撮り鉄たちで溢れかえりました。

 

 

京都や大阪から九州各地へ特急がほぼ1日かけて走っていた時代。飛行機がまだ贅沢品だったのかなぁ?

 

 

同じころ、上信越・東北方面へ大量の特急列車が上野から発車していました。

(1976年1月3日 上野駅)

 

 

「踊り子」の前身・特急「あまぎ」も、クリームと赤の塗分け。

(1976年1月2日 東京駅)

 

 

北海道から九州まで全国を駆け巡ったディーゼル特急も。

(1977年5月3日 播但線・長谷-生野)

 

 

1960年に「はつかり」で上野~青森でデビューした初のディーゼル特急は、東北本線の電化後、関西へ配転。

(1978年5月28日 紀勢本線・伊勢柏崎)

 

 

高3の夏、八ヶ岳の合宿に向かうとき乗った普通列車を追い越す特急「あさま」。

(1979年7月26日 信越本線・上田)

 

 

1958年に「こだま」でデビューした元祖クリームと赤の181系が上野~新潟の「とき」で引退する直前の姿です。

(1980年3月27日 上野駅)

 

 

最近の車両はステンレスむき出しの無機質なデザインが主流だけど、伝統的な昭和の国鉄特急色は暖かい気品で写真にも良く"映え"ました。

(1981年11月3日 山陰本線・餘部橋梁)

 

昔は「あずさ」もこうだった。現行形式より3世代も先輩になります。

(1986年5月10日 新宿駅)

 

 

昭和の末期、名古屋駅に並ぶ「しなの」と「ひだ」。

(1988年5月14日)

 

 

平成になっても、伝統の特急色は各地で残っていました。

(2005年12月5日 総武本線・飯岡-倉橋)

 

 

新幹線がまだ長野止まりだったころ、北陸本線の主力だった特急「雷鳥」。

(2011年1月2日 北陸本線・今庄-南今庄)

 

写真の2ヶ月後にこの「雷鳥」から撤退したあと、唯一残った国鉄型特急が、伯備線の「やくも」でした。

 

その「やくも」が 2024年に新型車両に置き換えられて、この世から国鉄型特急が消滅すると発表されたのが 2022年の春。

 

それから足かけ2年の間に伯備線を計5回訪問して、最後の姿を追ってきました。ときにはレンタカーの機動力で撮れ高を稼いだり、あるときは青春18でコスパと旅気分を味わったり、60を過ぎた自身の撮り鉄ライフの集大成のような気持ちも多分にあったようです。

 

 

60過ぎて、こんな一眼レフ機材を担いで歩き回るのはもうそろそろ無理です。笑

このとき向かって右の超望遠の縦位置カメラで撮ったのが…

 

 

…この写真です。

(2022年7月31日 伯備線・根雨-黒板)

 

 

山岳路線の伯備線はほとんど単線です。夜を徹して東京からやってきた寝台特急「サンライズ出雲」(左) と行き違い。

(2022年7月31日 江尾)

 

 

(2024年1月3日 生山)

 

 

秋は高梁川の渓谷美。

(2022年11月26日 方谷-備中川面)

 

 

冬は雪を冠した大山とコラボ。

(2024年1月2日 伯耆大山-岸本)

 

 

引退まで1ヶ月を切った381系「やくも」が爽やかな新緑を疾走。

(2024年5月25日 井倉-方谷)

 

 

この日は未明の天空の備中松山城が雲海に浮かぶ姿を撮影のあと、まだ霧がかすかに残る早朝を行く「やくも」をゲット。

(2022年11月27日 方谷-備中川面)

 

 

2時間後に岡山から折り返してきた出雲市行きを別アングルで。

(2022年11月27日 方谷-備中川面)

 

 

この2年で、ここ方谷駅へはよく足を運びました。

 

 

 

伯備線の中央部は渓谷美が人気ですが、終点の鳥取県米子に近い平野部には名峰・大山がそびえます。

 

 

ここも撮り鉄の定番スポットです。

(2024年1月2日 伯耆大山-岸本)

 

 

「山と鉄道」をテーマにする私にまたひとつ”名作”が生まれました。(← 自分で言うか!)

(2024年1月2日 伯耆大山-岸本)

 

 

私にとって最後の「やくも」を追った今回は、同じ場所で許可を得てドローンを飛ばしました。

(2024年5月24日 伯耆大山-岸本)

 

 

岡山から折返しの出雲市行きは、かつてSL三重連で人気が過熱した布原信号場でドローン撮影。

(2024年5月24日 布原)

 

 

新緑の山里は模型ジオラマのようです。

(2024年5月24日 布原)

 

 

せっかくの絶滅危惧種も毎回あんまりたくさん撮り過ぎると、お腹いっぱい気味になり、ちょっと遊んでみたくなります。

 

 

この地域に特徴的な石州瓦をバックに貴重な「やくも」をスローシャッターで流してみたり…

(2022年7月31日 上石見-生山)

 

 

一部分をどアップで迫ってみたり…

(2022年7月31日 上石見-生山)

 

 

今回引退する381系は、かつて名古屋発着の特急「しなの」で長野方面に運行し、高校、大学時代の山の行き帰りによく使ったものです。それが「やくも」としてあと21日で運転終了するのを前に最後にもう一度乗っておきたくなりました。

 

そこで旅行最終日の5月25日、レンタカーを新見駅前のパーキングに預け、隣りの備中高梁まで国鉄色の「やくも8号」に一駅、27分乗車します。

 

 

ちょっとレトロな車内では、乗車から下車までの30分間、GoPro録画を回しっ放し。

とても貴重な記録になりました。

 

 

6月15日以降、特急「やくも」を全面切り替えする新型車両は273系。4月6日から一部の「やくも」で先行導入されました。

 

 

岡山から出雲まで、沿線は「新型やくも」で賑わいの様子。

 

 

これは新見駅の特設コーナー。

 

 

ホームのゴミ箱まで「新型やくも」仕様。笑

なかなか良き良き。

 

 

「新型やくも」のデザインは、金属むき出しでない落着きとちょっと和風で良い感じ。スサノヲ、オホクニヌシ、ヤマタノオロチ、etc. 日本有数のパワースポットに相応しい雰囲気だと思います。

(2024年5月25日 布原-備中神代)

 

 

一方、残りわずかの381系の引退告知も沿線のそこここに。

 

 

米子駅のコンコースには、引退ビラと残り日数のカウントダウン告知。

 

 

新見駅には、15往復中5往復の「国鉄型やくも」の時刻表ポスター。

 

 

ちなみに今回引退する381系には、JR化後のオリジナル色のデザインもあります。これは「ゆったりやくも」。

(2024年5月24日 方谷-備中川面)

 

 

こっちは「緑やくも」。う~ん、個人的に微妙なデザイン。

(2024年5月24日 方谷-備中川面)

 

 

やっぱりやっぱ、381系「やくも」といえば、国鉄伝統のこれでしょ!

(2024年5月24日 井倉-方谷)

 

 

昭和のオールドタイマーにとって、昨日引退した381系に代わる魅力的な被写体はもうないし、一眼レフにレンズに三脚にPCに、GoProにドローンに各種バッテリーにと、とてもじゃないが、じじいが一人で担いで歩ける撮影機材ではなくなってきてるし、線路立入りや私有地荒らしなど最近メディアで批判される異常なほど非常識な撮り鉄たちといっしょにされたくはないし…。

 

これを機会に本格的な卒業モードを模索しようと思えるほど、ある意味やり切った感を持てるラスト2年間の国鉄型やくもの追跡だったようです。

 

いつまでも続けられない趣味の棚卸しも重要な年頃になったのだと思います。(おわり)

夕方の伯耆大山をバックに行く車歴40年超の特急やくも。

正月以来、約5ヶ月ぶりの山陰の旅は、あと2週間で引退する最後の国鉄特急車両の撮影です。

 

JALのマイルで岡山へ飛び、レンタカーで北上。幸運にも晴れてくれた大山をバックに夕方の順光で撮影し、初日のホテルのある米子に着きました。ホテルにチェックインして、まだ5時半。晩メシまでにどっか行くとこないかなぁ…?

 

 

そうだ、前から行ってみたかった水木しげる所縁の境港へ妖怪列車に乗って行こう!(これはむかし米子駅ホームで撮った写真)

 

 

午後6時でこんなに明るい5月の米子駅。

 

 

境港行きの妖怪列車は、駅のはずれの「0番線」から出発します。ここ米子は「ねずみ男駅」?

 

 

お、鬼太郎列車だ!

 

 

車内トイレの壁にも鬼太郎の肖像画。

 

 

昔ながらの懐かしいボックスシートにも鬼太郎の図柄が溢れます。

 

 

天井にも鬼太郎。よく見ると、いったんもめん、目玉おやじとの絡みの図です。

 

 

"鬼太郎"を通り抜けて隣りの車両へ移ります。

 

 

なんと、こっちはねずみ男列車。

 

 

ロングシートにも…

 

 

ボックスシートにも…

 

 

天井にも、ねずみ男。

 

 

ちなみにこれが外観です。

 

 

米子から境港まで15駅。車内のアナウンスは鬼太郎と目玉おやじの声で案内。鬼太郎の暗~い声で駅名を、そのあと目玉おやじの元気な声で各駅に付けられた妖怪の愛称が流れます。

 

 

「こなきじじい」が愛称の余子(あまりこ)駅だと、こんな感じです ↓

 

 

 

これ、ほとんど遊園地のアトラクションのノリです。観光客には良いけれど、毎日これを聞かされる通勤客にはどうなんだろ?

 

 

米子から50分。ワンマン列車は、もうすぐ終点です。

 

 

境港は小さな末端駅。愛称は「鬼太郎」駅です。

 

 

駅前ロータリーの街灯は1個1個が目玉おやじ! ほぉ、考えたもんですね。

 

 

駅から街へ、妖怪たちの盛大な歓迎を受けます。

 

 

駅ビルは、みなとさかい交流館といい、観光案内所のほか、隠岐汽船の乗り場や入浴施設、回転すしなどがあるようです。(この日は既に閉館済み)

この巨大壁画はすごい。タオルに欲しいかも(Tシャツには要りません、笑)。

 

 

駅前には執筆中の水木しげる先生のオブジェ。実物大のねずみ男もいます(意外と小柄、笑)

 

 

境港駅に着いた鬼太郎・ねずみ男列車の車内から水木先生像までをノーカットの動画で ↓

 

 

交流館(=駅)のすぐ前が港です。

 

 

ちょうど夕陽が良い感じ。

 

 

夕暮れの静かな時間に人の気配は無いですが、漁港として商港として境港は日本海の重要港湾だそうです。

 

 

お、あれはもしかして、海保の巡視船?

 

 

…そのようです。その名は「おき」。ここが母港でしょうか?

中国船の領海侵犯のニュースとかで見るけれど、本物は初めてです。

 

 

この町は、交番にも鬼太郎。

 

 

駅前に戻ってきました。ロータリーの一角から約800mの水木しげるロードが始まります。私がいちばん好きな水木キャラクターの悪魔くんとファウスト博士。子どもの頃は難解すぎたけど、大人になって楽しめた。

 

今回は時間がないので「ロード」はパスして、20分ほどの滞在で米子へ戻ります。

 

 

妖怪列車には、鬼太郎、ねずみ男、目玉おやじ、ねこ娘、こなきじじい、砂かけ婆と、なんと6種類もある(あった?)ようです。

6両、全部見たかったなぁ…。

 

 

子どものころから大好きだったキャラクターたちを、ここまで振り切ってフィーチャーしてくれたら大満足。

何ごとも中途半端はいけません。恥ずかしがらずに振り切らないと。

 

 

米子への帰りは、ねずみ男車両に乗車。途中から遅い部活帰りの高校生たちで満席になりますが、私のいるボックスには最後まで誰も座りに来ません。

田舎の高校生にとって、白昼に新宿で職質を受けるような風貌のオッサンはやはり怖いのでしょうか?

 

 

20:03、米子に帰着。往復2時間ぴったりのトンボ返りは、思い出に残る充実の暇つぶしでした。

 

 

鬼太郎では、この2人がいちばん好きなキャラです。

 

 

でもやっぱ、コイツの完全脱力 & おとぼけ抜け感も捨てがたい…。

 

特にこの歳になってみると、妙に魅かれる世界観です。笑

 

 

境線の鬼太郎列車は、車両も駅も空気までもが妖怪ざんまい。

昭和も昭和、一気に40年代までワープしそうなスイッチがどこかで入ってしまったような気がします。笑

(おわり)