今日の〝ちょっといい〟本
目次
I ウクライナの人びとに連帯する声明
II ウクライナ侵攻について(藤原辰史)
III 講義 歴史学者と学ぶウクライナのこと
IV 対談 歴史学者と学ぶウクライナのこと(小山哲・藤原辰史)
V 中学生から知りたいウクライナのこと
ウクライナとロシアの戦争のつながり
本書は、ロシアがウクライナに侵攻した歴史的な流れを知りたいと思って購入しました。
タイトルに「中学生から知りたい」とあるだけに、とてもわかり易い本でした。
また、本書が目的としている「大人の認識を鍛え直す」にもガッチリと当てはまってしまったように思います。
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▷「中学生から知りたい」というのは、私たち(※)の学んだ知識をカジュアルダウンしてわかりやすく伝える、とは少し異なった方向にあります。むしろ、私たち大人の認識を鍛え直す、といった意味も込められている(P.6)
※本書の著者である小山 哲氏、藤原 辰史のこと
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▷今、ウクライナ危機に関わる記事は、北大西洋条約機構(NATO)とロシアの勢力の対立というチェスのようなゲーム的分析の性格が強すぎて、ウクライナとそこで暮らす人々の生活と歴史へのまなざしが弱いように思う(P.27)
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▷テレビや新聞の記事、SNSから伝えられる情報を鵜呑みにせず、自分の頭で考え、誰かと共有していくためのきっかけとなることを祈って書かれました(P.6)
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▷一見遠回りかもしれませんが、歴史をさかのぼることで、現状分析だけでは理解できない深い背景を知ることができます。長期的な変動を見極めるよな視点も、もしかしたら、そのヒントくらいは得られるかもしれません(P.8)
まずは、少なくとも30年
本書は、ウクライナ戦争を考える時、最低でもNATOと欧米諸国の30年(冷戦締結後)を考えるべきだといいます。
ソ連が崩壊してロシアが仮想敵国ではなくなった後、NATOはその存在意義をロシアが納得できるように提示できなかった、ロシアとの間で良好な関係を築くことができなかったといいます。
加えて、この関係性のこじれは、ロシアの責任だけではないとも言及しています。
冷戦終結後に西側諸国が行ってきた「人道のための軍事介入」や「平和維持活動」としてのユーゴ空爆、イラクやコソヴォでの軍事的介入など、NATO側の論理をの鏡返ししたのがロシアによって行われている所業だからです。
地域としてのウクライナ①
この時代、キエフ(キーウ。現在のウクライナの首都)の周辺地域を統合したのが「ウラジーミル大公」という人で、この時、キリスト教の洗礼を受けました。
※この時のキリスト教は東西分裂前で、キエフ公国は後に東(東方正教会)の流れに乗っていくこととなる
地域としてのウクライナ②
ひとつはクリミアのタタールで、モンゴルの置き土産のような人たちで「クリミア・ハン国」をつくって、オスマン帝国の支配下に入りました。
もうひとつは、ウクライナ・コサックと呼ばれる人たちで、領主の抑圧を嫌って、黒海の北に広がる無人の荒野に逃げ、農業や漁業のかたわら、略奪などをしながら生活してきた人たちでした。
コサックの人たちは軍事的に力を持っていたため、ポーランド王権がその力を利用したいと考えます。
そこで、「コサック登録制度」を設け、税を免除するなどの特権を与え、その代わりに戦争が起こったときに軍事的に協力してもらうこととしました。
なお、このことが登録の有無による貧富の差を生み出し、コサック社会の中で亀裂を生み出すことに繋がりました。
16~17世紀には、ポーランドの貴族たちが現在のウクライナ領域に進出し、植民を行いました。
このとき、ポーランドのカトリック協会も進出することとなり、正教徒のコサックや現地農民との間で宗教的な対立も生まれます。
これらの不満が爆発し、17世紀なかばにコサックと農民の大反乱が起こりました。
この結果、現在のウクライナと呼ばれる地域にコサック中心の「ヘトマン国家」が生まれました。
ペレヤスラウ協定
コサックの勢力は、黒海に北岸に流れ込むドニプロ川に沿って広がっていきます。
それにしたがい、ロシア、ポーランド、オスマン帝国といった周辺国との関係によって、支配する地域が変動を続けます。
前述の「キエフ公国」が衰退したあと、北のモスクワを中心に「モスクワ大公国」が生まれていきました。
「モスクワ大公国」は、キエフ公国の系譜を受け継ぐ東方正教会でしたが、君主であるモスクワ大公が自身を第3のローマであると自らをとらえるなど「ロシア正教会」として自立していきます。
このモスクワ大公とウクライナのコサックは互いに正教徒であったため、ポーランドのカトリックとと対抗するために「ペレヤスラウ協定」を結びました。
この協定を結んだコサック側の目的は、西のポーランド支配から自立することでした。
協定では、ウクライナのコサックが自治を保ちながら、モスクワ大公に臣従することが決められました。
プーチンがウクライナが自国であると主張する根拠の1つがココですね。
しかし、この協定は10数年しか維持されませんでした。
1667年に、ポーランドとロシアの間でアンドルソヴォ休戦条約が結ばれて、ウクライナはヘトマン国家とポーランド王国領に分割され、ドニプロ川の東(キーウも含む)がヘトマン国家、西側がポーランド王国領になります。
さらに、南からオスマン帝国が侵攻してきたことで、一時的に今のウクライナ南部(ポリージャ)がオスマン帝国領となります。
この後、この地域はポーランドとオスマン帝国との間で取ったり取られたりを繰り返したあと、17世紀にポーランドに戻ります。
複雑でわかりにくい^^;
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▷中・近世の黒海の北岸ステップ地帯には、歴史地図に描かれているようなはっきりした線として国境が存在したわけではなかったのです(P.81)
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▷いずれにしても、多様な勢力がこの地域で交わりあいぶつかりあう、そういう状況が長くつづきました。18世紀前半には、ドニプロ川の流域が大北方戦争の舞台となりました(P.80)
大北方戦争の際、ヘトマン国家の首長がロシアの支配からの自立を目指してスウェーデンと同盟を組みますが、ロシア軍に敗れます。
このことで、ウクライナ・コサックにとって、ロシアへの従属が決定的に強まることとなりました。
また、18世紀後半にウクライナ・コサックのヘトマン制度(コサック登録制度)が廃止され、1782年にヘトマン国家は消滅、その領域はロシア帝国の直轄領となります。
ヘトマン国家が消滅したあと、18世紀後半に「クリミア・ハン国」がロシアに併合され、「ポーランド・リトアニア共和国」も、まわりの3国によって分割され、その中に現在のウクライナの一部も含まれていたため、ウクライナも2つの国に分かれることになりました(西はオーストリア・ハプスブルク帝国、東はロシア)。
19世紀を通じてオーストリア領だったウクライナの西の方は、第1次世界大戦後にポーランドが独立したことでポーランド領となりました。
東の方は「ソビエト社会主義共和国連邦」を構成する共和国のひとつとなります。
ポーランド領となった西ウクライナは、第2次世界大戦時にドイツに期待をかけました。
ポーランド人を追い出すとともに、ソ連とも戦う必要があったためです。
このときに、一時期、ナチス・ドイツと提携し、ドイツ軍と協力してソ連軍と戦い、ウクライナの独立を宣言します。
しかし、ドイツ軍がこれを認めず、ウクライナの指導者は逮捕されて、ドイツに占領されることになります。
プーチンが「ネオナチ」を引き合いに出してくるのはこのときの経緯からです。
今日のちょいよし
ウクライナへの軍事侵攻を、ロシアが歴史を乱用することで正当化したことをどう考えるべきか。この地域の「歴史戦争」を知っているか知らないかで、かなり見方が変わるはずです(P.120)
ウクライナ地域の歴史的紛争をすべて覚えておくのは無理そうですが、ココにまとめたので、今後思い出したいときはすぐに読み返しができるようになりました。
最近また、本をちょこちょこと読むようになりました。
久しぶりにブログにまとめたので、ものすごい時間が掛かりました