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道標を探して

 ただ、そこに進んでみたい道がある。
 仰いで見たい空がある。
 踏んでみたい土がある。
 嗅いで見たい風がある。
 会ってみたい、人がいる。

 私の家の周りにはメジロという小鳥がいる。時折、窓から見える位置にある枝にキウイやらミカンやらを刺しておくと、どこからか飛んできて、その果物をついばみにくるのだ。
 最近は全くそういったことをせずにしていたのだが、今日、そんなご無沙汰しているメジロから一つの小さなたよりが届いた。
 私は嫌でも来てしまうであろう4月1日の国士舘大学の入学式へ向けて、スーツの仕立てと新しく始まるキャンパスライフの準備をするために両親と様々な店を飛び回っていた。

 それは正味4時間ほどのことだったのだが、受験休みからほとんど外出をしていなかった私の体と精神はそれなりに貧弱になっていたらしく、帰ったあとの昼食も大して食べる気がなかった。
 疲れ果てた、と言っては大げさかもしれないが、とにもかくにも動く気力が完璧にうせていた私は部屋の窓を開け放ってタバコを一本吸い、沢木耕太郎の旅行記「深夜特急」を読みながら、迫り来る新しい時間的束縛から逃れるためと、これから自分が見る今までとは違った世界のための空想を続けていた。

 するとそんな地に足の着かない、現実的な神経をしていない私の読んでいた本にひとひらの小さな羽根が、読んでいた本の上に降りてきた。先端が濃い緑色をした、メジロの小さな羽だった。


 窓の外を見ると、私が果物を指す枝の近くにメジロが留まり、こちらを向いている。

 私は鳥の言いたい事がわかるような力は持っていないが、ふとそのメジロに「頑張れ、お前にもちゃんと翼はついているぞ」と言われたような気がした。

 私は将来に向けて不安はあれど、決して期待などはしていなかった。期待が出来るような能力を持っていないのは自明であるし、この2月初頭から続いていた引きこもり生活でひねくれてきていたのか、先の見えない未来のことなど不安以外になにがあるのか、といった固定観念も生まれ始めていた。


しかし、彼あるいは彼女の送ってくれたであろう応援のたよりに、私は少し心を動かされた。自分がどんなくだらないろくでなしの人種であっても、メジロはその行く末を黙って見ていてくれているのだ。ならば、できるだけの力を出してみて、それなりに面白い人生を探してみるのも悪くは無いのかもしれない。


 いくらか、そう思えた。


 明日は、あの枝にミカンの半分を切って刺してやろうと思う。




一言
 やはり自分は情緒不安定らしい


 今年の1月17日から、大学受験のための準備や様々な高校から大学への移行のためとして延々と家の中でダラダラとした日々を送っている。長い期間の、さしてやるべきこともない毎日。

 これほど人を試す時間はないと、最近わかり始めた。能動的に動かなければ、どんどん怠惰な自分を主観的にも客観的にも感じるようになり、嫌気がさしてくる。それにつけて私は三年間の高校生活からひきもこりの一歩手前のような人間になってしまい、動けない・動かない自分をけなし、さらにまた動けなくなるという無限のネガティブの連鎖を作成することに成功してしまった。

この長期休暇に入ってからというもの、いつでも私の脳内では「仕事も何もせず、飯だけ食らう穀潰しめ、何もできないなら死んでしまえ、死ね、死ね」という文句がリピートされ続けている。私も、その言葉には最初から賛成している。

しかし、動こうともしている。なにも偉そうに大学の予備準備のために勉強を始めているというわけではない。自分の唯一将来にやりたいと願う仕事である作家業になんとか手を届かせられるよう、小説を書き始めた。それだけだ。

どうにかして、うすぼんやりと過ごすこの毎日と別れを告げなければならないと思い、短期バイトの申し込みもしたが、どちらものろのろと進めているだけなので、いまだに中途半端な段階である。

歩き出さなければならない。二本の足で歩かなければならない。
そうは思っていても、のんべんだらりと三年間過ごしてきたのだ、そうそう脚力は自分の思いについてきてはくれない。

だから私は一つ、これを克服するために周りの人間をよく見ることにした。

名前は出さないが、ある時居場所を探すために相談を持ちかけてきた人がいた。その人は今や、居場所は見つからなくとも居場所を探すために走り回る力をつけてしまった。自分は歩くことさえままならないのに、その人は走り回っている。


自分が恥ずかしい。彼が羨ましい。彼のような力が欲しい。

いきなり結論に飛んでしまうが、私はどうやら負けず嫌いか、見栄を張りたがる性格なようだ。明日から私は、少し自分に負荷をかけることにした。
時間があるときには本を読む、朝は早く起きてい小説やがられても家族の手伝いをする、夜は眠くなるまで新書など雑学を詰め込む。

出だしが悪かったのなら私は速度を上げて、追いつけ追い越せでやっていくしかない。

今日まで、家族には散々叱られ、文句を言われた。ならば明日からは文句など聞こえないくらいに何もかもこなしていくようにしてやろうじゃないか。

ひきこもりはやめだ。他人の批評はどうでもいい。ただ、自分からの攻撃くらいはかわせるようになる。生まれ変わりはしないが、変形するくらいなら落ちこぼれのろくでなしでもできるようになるだろうし、そうなれるようになりたい。



そう思うからこそ、今は思考を停止させて、体をとにかく動かす。








一言
結局、これが全てに共通する近道なんだろう。人が憧れる姿というものは、いつだって全力疾走する姿なのだから。
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著者青木新門が、納棺師として働く中で感じた死生観をまとめた一冊。


この本を読んだ理由は、二年経って3月11日の震災が人々の意識から薄れ始めているような気がしてきたからだ。

災害に遭った人たちはこの震災を忘れない。というか、忘れることができない。かけがえのない様々な宝を様々な形で失った。

被災地はインフラ、記憶などの整理を今になってやっと何とかすることができるようになってきたと、テレビを通して見る俺は感じる。

二年経って、やっと目に見える禍々しいものの大半が片付いた。おそらく、今年の3月11日を境にして、被災地では本当の復興がゆっくりと始まっていくだろう。

そこではおそらく、被災地の人々は精神面で死の覚悟を経て、生の未来を見ていく覚悟を強いられる。

ならば、そんな過酷な環境でひとつながりの終わりと始まりを体験するだろう被災者との視点の差をどうすれば埋められるだろうかと考え、結局いつも通り読書に頼ることになってしまった。


本書は著者によって自身の日記を加筆訂正したもので、延々と人の死や自分の携わる仕事の中で起こる出来事を端的にまとめている。



読んだあとの感想としては

人の死を新しい視点で見つめることに役立ち、元から思っていた「死は決して汚いもの、穢れたものではない」という考えを補強するものとなった。

読む前から先入観を与えるのは嫌なので多くは語らないが、死の概念から遠く離れた現代の人には一度呼んで欲しい。






一言
風呂上がり、パンツ一丁の俺「……寒いな」
 もう学校は、二度しか行きません。
 卒業式と、事前練習の二度だけです。

 今日、僕の住んでる地域ではうっすら雪が降りました。雨よりも太い線が空中で踊り、服に触れてもすぐに消えることは無く、わずかな余韻を作って氷は水へと変わっていきました。

 そんな体験が何故卒業へと想起させられたのかは不明ですが、後から考えるに、あれは今の余韻を感じろという何らかの提唱だったのかもしれません。僕は今、高校から大学受験の勉強、また試験のための長期休暇をもらっています。
 高校に残り、何もかもが凍り付いていたあの時間から、自由に流れることを赦され、また強要されるまでの余韻、それがこの休暇期間なのではないか。そう思わせられます。

 氷や雪のとける音は大好きです。木の枝葉についた雪が溶け出すときには雨のようなザァザァとした音が聞こえますが、空を見上げても雪の名残としての灰色の雲が漂っているだけで、決して僕を濡らすわけではありません。
 ただ、雪が溶けているだけなのです。

 氷の音は非常に小さい。コップに氷を入れて、水を入れるとキューキューという音がする。小学校の頃、暇をもてあますとやっていた遊びです。氷が溶けていくのを、ぼんやりと眺めているだけの、退屈な暇つぶしです。
 キューキュー。
 そんな音を立てながら、氷は小さくなっていく。そしてある瞬間から音も何も聞こえなくなる。音が出なくなれば、自然とそんな退屈な暇つぶしにも飽きて、どこかへフラフラと出かけていってしまう。そして帰ってきた頃には凍りは全部とけ、遊びつかれた喉を心地よく冷やす冷水になっている。
 疲れて帰ってきた僕は、その冷たい水を一息に飲み干す。

 何か、人が少しずつ、次のステップを踏んでいくときの感覚と似ているような感じがする。そう思いました。

 そんなことを雪に気付かされるなんて、僕はまだ修行が足りませんね。
 けれど、僕はこの余韻をどうやって過ごせばいいのか、わかりません。今まで自分がいた状態から開放され、追放されるとき、僕は一体どうやって僕であること・あったことの証を作ればいいのでしょうか?

 まだ、結論は出ません。卒業式まで二十日を切りました。せかされる思い出はありますが、急いで悩むことなど、できません。





一言
何を探せばいいのかも分からないのに、いきなり「探せ」と言われても、僕はただ棒立ちになるしかありません。
 今日はサイクリングに行ってきた。
 
 どこも風が強くて、なんか春が「もう俺の季節だぜー!」って言ってるみたいでにやける顔が止まらなかった。人の通りが少ない道を走るときなんか結構ノリノリで「春一番」歌ってたしね。

 もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか?

 受験が終わった開放感もあったからだと思う。あまり鬱気味の考えはなかったなぁ。大筋にはバイパスを走って、ブックオフ寄って、店内を一巡したら6冊も持ってた。どれも手放したくないから全部買ったけれども。

それがこいつら

 所ジョージのアタマなんちゃらっていうのはちょっと気になっただけの、衝動買い。

 小泉のは世間から色々言われてるけど、何も知らなかったから欠片でもいいから知っておこうと買った一冊。

 谷崎潤一郎の春琴抄は受験勉強で名前を覚えたから、是非とも読みたかった。

 江国香織のウエハースの椅子も衝動買い。
 
 大崎善生のアジアンタムブルーとパイロットフィッシュはやる夫系まとめスレでSSを読んだから、読んでみたくなって買った。

 まあ感想は書くかどうかわからないけど


 んでそのあと缶コーヒーを買って、近くの山を登って休憩して、帰ってきた。

 ついでに前記事でも載せたけど、梅の花の写真

 これが今日のサイクリングの一番の収穫だった。強風でも落ちない花の強さに何か力をもらったような気がして。


 でまあ、古風と言うか、趣味としてはもう絶滅危惧種なのかもしれないけど、何か感動すると俳句とか短歌を詠みたくなるんだよね。




 で、二句思いついたから、一応載せておく。


 短歌
 梅咲きて さやかになりぬ 春のふみ 風の音にも おどろかれぬる

 俳句
 梅の花 彩花ならねど 目にさやか
 
 う~ん、下の句付けたいな・・・・・・
 
 
 よし
 作れん
 
 
 そんないちにちですた。







 一言
法律的に悪いからそれをやらないようにするって言うのは間違ってると思うんだよね。それよりも、それは人としてやってはいけないことなのか、時勢がそれを禁止しているのかを見極めることが大事だと思う。そして、後者は場合に対する判断力と周囲に対する警戒心を忘れなければやってもいい事だとも思う。