道標を探して -4ページ目

道標を探して

 ただ、そこに進んでみたい道がある。
 仰いで見たい空がある。
 踏んでみたい土がある。
 嗅いで見たい風がある。
 会ってみたい、人がいる。

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大学への通学も、この五月まで続いている。相変わらず早朝に起きることは苦手で、なかなか気持ちのいい目覚めには恵まれない。
まあ、毎晩夜更かしをしている事がそれの原因なのだとはわかっているのだが。

この生活は、高校と比べるといくらか時間的拘束の期間は長くなったとは感じるものの、頭でっかちの癖に思考力の弱い、かつての高校教師のような生き物とは関係性が薄くなったこともあってか、随分と精神的には楽になった部分がある。
最も楽になったのは深夜の時間帯の自分だ。かつて自分を売った同輩(あの糞斎藤・・・これ以上は危ないか)、への憎悪や、心の死んだ高校教師連中への惨殺欲求、そもそもの元凶である高校自体への破欲破壊、そしてなによりも強かった自殺欲等が薄まり、よく眠れるようになった。

それらは忘れたわけではない。今の自分は単に小康状態を保っているだけにすぎないのかもしれない。
ただ、それでもちゃんと「それ以外の事」を怨みを忘れながら出来るというのは、かなり楽だ。

まだ新しい学生生活は始まったばかりで、ろくに友達も出来ないし、さっそく講義はどうやってサボろうかというしょうもない事に脳内の作戦会議室をフル動員させている。

・・・なんというか、この四年間はそこそこに楽しめそうな感じではある。だからといって安心して好きなことをするスイーツ(笑)のような頭ではないが。というか高校時代にあんな頭のおかしい連中にヘコヘコして生きてきたんだ。甘い「教育」なんてされなかったし、自分の周りの世界がそれを許してはくれなかった。

だから他の人間たちの楽しさには相当劣ることにはなるだろうが、まあ今までの個人遍歴から見れば十分な方だろう。まあ、当然まだ周囲への警戒レベルを落とす気にはなっていないが。






それでも、世界は変容した。人生の舞台を移し替えた。
それなら、いくらかは自分も身に付けている感情や価値観と言うようなものを考え直す必要があるのだろう。
入学して一ヶ月、ようやくそこまでの考えに至った。いつもどおりの、遅れたスタート感だ。とくに焦りもない。

変えるものが自分のどの部分なのかはまだわからないが、そう急がずとも世界が教えてくれるだろう、。

これちょっと風呂敷広げすぎちゃったな。畳み方わからないから丸めてポイしちゃお。






一言
友達いねぇよ、どうにかしろよドラえもん。

ドラ「はい、トモダチコレクション」
今日から食堂でぼっち飯してるやつに特攻かけ始めるわ。

レッツ変態探し!
普通の奴らってさ、面白くないし個性もない。
仲間探そうってわけじゃないけど、パステルカラーの大学生活よりもやっぱり極彩色でちょっとグロテスクな大学生活の方が人生楽しくなりそうだよね。

なんでかわからんけど、俺「ノーマル」とか「typical」って嫌いなんだわ。

だから普通の学生・スポーツマン・ヤンキー・チャラ男その他諸々、決まりきったスペースに収まろうとする奴は苦手。だって味気ないんだもん。
例えるならそいつらは調味料とか食材とか。みんな集まってひとつの料理。
そうじゃなくて、俺はアフリカ原住民の伝統料理と一緒にイタリアンが同じテーブルに乗るような食卓につきたいんだよ。

あ、風呂敷広げすぎて畳めなくなった。

どっかにいないかな、なんか強烈な生臭さを放つような個性を持った気持ちの悪い人間。
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随分と長い間、更新していなかったと思う。気がつけばもう五月も上旬は終わってしまう。

毎回そうなのだが、私は何かを始めたり、何かの分岐点を過ぎた直後の季節というのは、新しい環境に心が馴染めずにピリピリして過ごすことになる。
今回は、大学入学がそれにあたった。

新しい環境に心が馴染めず、ずっと見えない何かに対してピリピリしたまま、今年の四月は過ぎていった。恐らくは、この五月も似たような感覚にさいなまれることになるだろう。そして私は季節の変化を心で感じられずに春を過ごし、入梅の雨に打たれてやっと敏感になっていた心を落ちつかせられるようになるのだろう。

きっと今年の春の思い出はない。記憶には残っても、心には何も刻まれないまま、私は新しい季節を迎える。冬から、夏の訪れを知らせる六月の長雨まで、私の心は敏感になりすぎて何も感じられないままに過ごして行くのだろう。

敏感なのに感じられないというのは、矛盾ではない。
要するに、どうでもいいことまでもが心にぶつかってくるノイズだらけの生活では感じたい部分だけピックアップしようとしても無理なのだ。

しかしまあ、こうやって電車の中で揺られながら記事を書けるということは、いくらか私も元の精神状態に戻れつつある証拠なのだろう。
まあ、元に戻るということは、またあの面倒くさい躁鬱が呼び戻されるということにほかならないのだが、その悩みはまた襲来してきた時に考える事としよう。

正直、あまりこの精神異常は喜べない。あまりにも周りを注意しすぎるせいで自分に関することはまるでないもののように扱うことが増えてしまう。
先週、それが原因で教科書をサブバッグごと電車に置き忘れた。馬鹿な話だと思う。

とりあえず、今回は私の精神の近況報告を伝えると言った感じで記事かまとまってくれたようだ。

五月の風は「薫風(くんぷう)」と言って、若草の淡い青臭さが香ってくる。らしいが、私の地元ではあまりそういった香りを嗅ぐ事はない。

しかし、この薫風の季節は風が見える季節だとは思う。まだ発芽から時間のたっていない、薄い緑色をした柔らかな草や木々の若い芽が風に吹かれて揺れている、あの風景が割と好きだ。むしろこの見える風が薫風の正体なのではないか、と思いたくなるほどに。

まあ、今年の五月の風は、私の心に残ってくれるか、かなり微妙なところなのだが。



望んでもいないまま行くことになった国士舘大学への道中にて
草々








一言
知り合いはできるけど友達が一向につくれないっていう。
今日、帰りの電車で頭に拳ほどの肉腫をつけた眼鏡の老爺をみつけた。当然気になったし、なによりもそのじいさんから発する垢と砂ぼこりの臭いがそれ以外の行為を許してはくれなかった。

一面の白髪に、ほんの少し黒い毛の混じる彼の頭は、一応と言った感じに肩までの高さで切られていて、束ねるようなこともしていなかった。肉腫はそんな頭の上半分、右後ろのあたりにまるで似通った別の生き物が寄生するように、例えるなら大きな球状のサボテンから小さなサボテンが
ポツンと乗っているような奇妙な自然さと自然な奇妙さを同居させており、私が肉腫のこぶを見る時間と比例して、肉腫は私を強く惹き付けていった。


こぶはちょうどテニスボールほどの大きさだったが、どうしてここまで大きくさせてしまったのか? 垢の臭いから察するに、ホームレスのように極端に持ち金が少ないのかもしれない。もしくはそのこぶは何かの勲章のような意味があって、何かしらの記憶をいつまでも覚えておくために、わざと摘出しないのかもしれない。あるいは、その両方か。

いずれにせよ、彼はそのこぶによって異常なまでの個性を発揮させていて、彼の目には「俺はここにいるぞ」とでも言うような強い力が見てとれた。周りにいる意思の死んだような大人たちからは感じることのできない魅力的なエネルギーが、彼からは溢れだしていた。

彼を見たのは電車の中だけのことだが、そんな長い白髪と奇妙な頭の形をしている彼の姿には、なんとなく自分たちに「本当にその生き方でいいのか?」と無言のまま問い詰められているような気がした。


その老爺がどうかという話は別として、我々はちゃんと生きられているのだろうか?





一言
更新率低いなぁ

最近、思考停止に陥っていると感じる。

 毎朝大学へ行くまでの3時間、電車に揺られながら読書をしているわけだが、今までとは違った環境に慣れていないせいか、本の内容が頭に入ってこない。読書をしていないときも、なんとなくボーっとしているときが非常に多い。小説の構成作りも順調に進んではいない。

 なにが私をこのようにさせているのか分からないけれど、猛スピードでつまらない人間になっていってしまう気がして、ものすごく不安になる。
 普通にはなりたくない。安定した生活も望まない。世間・世俗に独自の感性を持たない人間になりたくない。そうなることはきっと自分の人生を他人に決められていってしまうようで、死んだときに完全な人間に慣れていないような気がするから嫌なのだ。

 それでも、いままでのように生活が出来ていないから、この加速度的な「普通の人間化」が止められない。

 それには何が必要なのかはわかっているつもりだ。
 それは、今の生活のいち早い自分なりのプランを作ってしまうことだ。

 今の私は本当にどうかしていると思う。特筆すべきだと思うのは、今日過ごした大学生活を思い返すと、そこに音と色が無いことに気付いてしまう。ということだ。

 電車の音が思い出せない。大学の構内を歩いているときの雑踏の音が思い出せない。見る景色は全てモノクロの世界で、換算としている。知っている人は分かると思うが、アニメの設定資料集の、あの黒い直線で描かれた世界。あれがい今の私が住んでいる世界なのだ。

 空が青く見えない。人の顔を見ることが出来ない。帰りの途中に知らない駅で降りて、熱にうかされたようにフラフラと歩く町並みも、全てが全て灰色に見える。見えてしまう。

 今日は日曜日で、自宅の周辺で一日を過ごした。久々に空が青く見えた。

 明日は月曜日、もしかしたらまた私は灰色の世界に自分を溶け込ませてしまうかもしれない。

 考えるに、私は見えないところで緊張しているのだと思う。一日中、気を張り巡らせて、世界中の人間が敵だと思いながら過ごす。だから周りのことに気を払えずにいるのだ。睡眠も、最近は今までの4時間以上短くしてしまっている。

 明日が恐い。眠るのが恐い。時間がたつのが恐い。世界とともに色あせていきそうな自分がとてつもなく恐い。

 私は、これからどうなってしまうのだろう。やりたいことが出来ない。やるべき事も、頭から抜け落ちることが増えた。これは人間的に死んできた証拠なのかもしれないなと思う。

 何度か言ってきたが、私の頭の中では3年ほど前から聞き覚えの無い男が低い声で「死ね死ね」と言い続けている。きっと私はその男の願望に近づきつつあるのかもしれない。
 もし、そんな人間的な死が私に降りかかってきたときは、私は喜んでその男に肉体的なそれも与えてやろうと思う。

 もうすでに私の精神は自分の生活に疲れきっている。誰か近縁者に一言「死ね」と言われたなら、やっと他人から自殺の許しがもらえたと、二度とこんな生活をしなくていいんだと思い、死ねと言ってくれた人に一言感謝の礼を言って、私を取り囲むたくさんの人々と無言の別れを告げるだろう。

 彩(いろど)りのある人生が欲しい。ほんのりと香る幸せを両手で抱え込めるような人生が。


 さもなくば、私に死を