皐月 | 道標を探して

道標を探して

 ただ、そこに進んでみたい道がある。
 仰いで見たい空がある。
 踏んでみたい土がある。
 嗅いで見たい風がある。
 会ってみたい、人がいる。

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随分と長い間、更新していなかったと思う。気がつけばもう五月も上旬は終わってしまう。

毎回そうなのだが、私は何かを始めたり、何かの分岐点を過ぎた直後の季節というのは、新しい環境に心が馴染めずにピリピリして過ごすことになる。
今回は、大学入学がそれにあたった。

新しい環境に心が馴染めず、ずっと見えない何かに対してピリピリしたまま、今年の四月は過ぎていった。恐らくは、この五月も似たような感覚にさいなまれることになるだろう。そして私は季節の変化を心で感じられずに春を過ごし、入梅の雨に打たれてやっと敏感になっていた心を落ちつかせられるようになるのだろう。

きっと今年の春の思い出はない。記憶には残っても、心には何も刻まれないまま、私は新しい季節を迎える。冬から、夏の訪れを知らせる六月の長雨まで、私の心は敏感になりすぎて何も感じられないままに過ごして行くのだろう。

敏感なのに感じられないというのは、矛盾ではない。
要するに、どうでもいいことまでもが心にぶつかってくるノイズだらけの生活では感じたい部分だけピックアップしようとしても無理なのだ。

しかしまあ、こうやって電車の中で揺られながら記事を書けるということは、いくらか私も元の精神状態に戻れつつある証拠なのだろう。
まあ、元に戻るということは、またあの面倒くさい躁鬱が呼び戻されるということにほかならないのだが、その悩みはまた襲来してきた時に考える事としよう。

正直、あまりこの精神異常は喜べない。あまりにも周りを注意しすぎるせいで自分に関することはまるでないもののように扱うことが増えてしまう。
先週、それが原因で教科書をサブバッグごと電車に置き忘れた。馬鹿な話だと思う。

とりあえず、今回は私の精神の近況報告を伝えると言った感じで記事かまとまってくれたようだ。

五月の風は「薫風(くんぷう)」と言って、若草の淡い青臭さが香ってくる。らしいが、私の地元ではあまりそういった香りを嗅ぐ事はない。

しかし、この薫風の季節は風が見える季節だとは思う。まだ発芽から時間のたっていない、薄い緑色をした柔らかな草や木々の若い芽が風に吹かれて揺れている、あの風景が割と好きだ。むしろこの見える風が薫風の正体なのではないか、と思いたくなるほどに。

まあ、今年の五月の風は、私の心に残ってくれるか、かなり微妙なところなのだが。



望んでもいないまま行くことになった国士舘大学への道中にて
草々








一言
知り合いはできるけど友達が一向につくれないっていう。