アウシュビッツ訪問(2)
およそ2時間ほどでアウシュビッツの見学を終え、3kmほど離れたアウシュビッツ第2収容所「ビルケナウ」へ移動。ちなみにアウシュビッツは第3収容所までありましたが、第3収容所「モノビッツ」は現在は記念碑しか残っていません。
「ビルケナウ」はドイツ語ですので、ポーランド語ではブジェンジンカと言います。もともとブジェンジンカには村があったのですが、村人を強制的に移住させて、ナチスはここに140haの面積を持つ巨大な収容所を造りました。
(ビルケナウの監視塔)
まずビルケナウにつくと目に飛び込んでくるのがシンドラーのリストなどで有名になった監視塔です。ここには鉄道でそのまま囚人を収容所内に入れることができるように引き込み線まで作られました。
(当時の様子を伝えるパネル)
少しわかりにくいかもしれませんが、写真の左側に囚人服を着て立っているのが誘導係です。
彼らはナチスに協力する代わりに、ほんの少し、他の人より長く生きることができました。
到着したばかりの人々は当然、まだ囚人服を着ていません。彼らは誘導係に「本当の事を教えてほしい」「これから自分たちはどうなるのか」と聞きますが、誰も答えませんでした。
それは間もなくほとんどの人が殺されるという「本当の事」を教えても、精神的苦痛が増すだけだと考えたからです。
(現在の様子。遠くに監視塔が見える)
貨車にすし詰めにされ、ヨーロッパ各地から移送されてきた囚人はここで降ろされ、第1収容所と同様、荷物を取り上げられ、「選別」を受けました。
(選別が行われた場所)
(当時の様子。上の写真の門とその右側の茶色い建物が写っている)
ここが運命の分かれ目になった場所です。右に行けばガス室がありました。現地に展示されている写真を見ると「右」に行かされている人々がほとんどなのがわかります。
ビルケナウは戦局が悪化してきた時代に造られたので、湿地帯の上に基礎なしで建てられたバラックが多く、アンネ・フランクがここに2ヶ月間収容されていたこともあって我々日本人の持つ強制収容所のイメージはここの物の方が一般的です。
(レンガ造りの収容棟。内部から)
(木造の収容棟)
木造の収容棟のほとんどは戦後、自分の土地に戻ってきた村人達が住宅の再建や燃料にするため解体してしまったので、現存しているものは貴重です。
極寒の地でさぞかし寒かったのではないかと思いますが、建物全体が冷えてしまうレンガ造りの収容棟より、木造のものの方がまだマシだったそうです。
(木造の収容棟の内部。中央は暖房装置。奥に煙突が見える)
木製の3段ベットでは腐った藁やマットレスの上に1段あたり数人が詰め込まれました。不衛生極まりない収容所内ではチフスなどの伝染病が蔓延し、多くの人が罹患し亡くなりました。
(トイレ)
トイレは自由に行くことができず、日に数回、時間が決められていて、一斉に並ばされて数十秒間で排泄を終えるように命令されました。
また、ビルケナウには大規模なガス室が造られ、一日に1500人とも2500人とも言われる人々が殺されました。ナチスが撤退する際に爆破したため、現在は残骸が残っているのみです。
(ガス室があったところ。爆破された後のガレキがそのまま残っている)
この日は偶然、イスラエル軍が見学に来ていました。
イスラエルは徴兵制があり、男女問わず兵役があって、その中の研修の一環で来ているのではないかとの事でした。
ところで、彼ら彼女らは軍人ではありますがポーランドでは当然武器は携行できません。しかしイスラエル人は世界中どこにいっても常にテロの標的になる恐れがありますので護衛が必要です。赤い丸で印をつけてみましたが、この傘をさしている人がイスラエル兵を護るSPです。
興味深いことに軍服の集団に随行しているSPは全員私服で、ぱっと見一般の見学者にしか見えませんでした。
(イスラエル軍の一行とSP)
さて、およそ3時間あまりの時間をかけて「アウシュビッツ=ビルケナウ」を見て回ったのですが、一言で感想を言い表すことは到底不可能だと感じました。
その代わりと言うわけではありませんが、印象に残った話を幾つかシェアしたいと思います。
見学中、ガイドさんに対し、
「この博物館があることで、イスラエルやポーランドが現在もドイツに対し謝罪を求めたり、ドイツに自虐史観を強いるようなことはないのですか?」
というツアー客からの質問がありました。
ちなみにドイツには「自虐史観」と呼ばれるような考え方はありません。
ドレスデンにある連邦軍事博物館にも行きましたが、したこともされたことも、事実だけを非常に淡々と、客観的に示している印象を受けました。
実際、教科書の記述がそれこそ「客観的」で、反省の態度が見えない、と他国から修正を求められたこともあったそうですが「内政干渉である」として突っぱねたそうです。
ガイドさんが質問者に答えたところによると、冷戦も終わり、欧州連合がここまで発展した現在ではEU全体がこの場所を共通の痛みとして認識しているそうです。
と、いうのもナチスを台頭させたのは第一次世界大戦後、戦勝国がドイツから徹底的に搾取しようとしたことが原因だったからです。
またドイツによる占領下で少なくない人々がポーランドで、オランダで、フランスで、その他の国々で、ユダヤ人を迫害し、ナチスに協力したことも、このような認識に繋がっているそうです。
「様々な痛みを乗り越えてEUはようやくここまで来た。日本もいつかそういう時代を迎えることができるように、ぜひ若い人にもアウシュビッツを見てほしい」とガイドさんはお話しされていました。
(日本人の訪問者は韓国の方に比べると圧倒的に少なく、ほとんどの方が中年~高齢者だそうです)
そして、もう1つ。ガイドさんが何度も話していたことがありました。
それは「ヒトラーは一人で勝手に独裁者になったわけじゃない」ということです。
「ヒトラーは選挙で選ばれて、何度も失敗しながらも最終的には連立政権をつくってようやく首相になりました。その後、議会で承認された時限立法(これが有名な全権委任法です)によって憲法を死文化し、自由に法律を作っていきました。そしてその法律に従ってたくさんの人たちが強制収容所に送られていったのです。」
「例えれば、今日本に潜伏しているテロリストを一カ所に集めて監視しておく、みたいな法律がつくられ、それを多くの国民が支持したということです。」
当時のドイツ議会は国民からの信用を失っていました。
しょっちゅう総選挙が行われ、政治家は何も決めれられず、国民の生活は苦しいままでした。そんな中で現れた、勇ましい事を言い、誰が悪いか/誰を憎めばいいかを名指しで教えてくれるヒトラーとナチスが国民からの大きな支持を得ることになっていったわけです。
このような、ナチスが権力を握って行った一連の過程をドイツでは「Machtergreifung」と呼び、同じ過ちが繰り返されないように若者は歴史や政治の授業でこれを勉強させられるそうです。
ガイドさんは「今、日本では近隣の国との摩擦や憲法のことが話題になっているがヨーロッパでもこのことは注目されている。政治家も若者もこの過程(Machtergreifung)を学んで良く考えて結論を出して欲しい」とコメントをしていました。
私は自分の職業を彼に伝えていませんでしたので、おそらくここを訪れたツアー客みんなに語っている事なのでしょうが、たまたま(いちおう)若者でもあり政治家のはしくれでもある私にとっては非常に考えさせられるお話しでした。
ドイツでは自国の経験から日本の改憲論議の行方に注目している人も多いそうです。特に96条を先行して改正することがMachtergreifungと重なるのかもしれません。
日本では7月に参院選がありますが、期せずして良いタイミングでアウシュビッツを訪れることができたと、今では思っています。
アウシュビッツでたくさんの人々の命を奪っていったナチスの看守たちは戦後、口をそろえて「それがドイツと私たちの未来のために正しいことだと思ったし、命令に忠実に従っただけだ」と語ったといいます。
私たちも、何が正しくて、自分はどう行動するべきなのか。今こそ、このことを歴史から改めて学ぶべき時なのかもしれません。
(終)