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いっしょに生きよう、明るいみらい。

~町田れいじ Official Blog~
「いっしょに生きよう、明るいみらい。」をスローガンに、大和市
に新しい風を送るため、日々チャレンジを続けている市議会議員
「町田れいじ」の公式ブログです。

『保護者は「質」、候補者は「量」…保育所ニーズに溝 東京都議選』


東京都議選が始まったようですが・・・


最近、横浜が待機児童ゼロになったということで全国的に注目される一方、東京の一部ではものすごい数の待機児童が社会問題化していますね。


ただ、これらの「成功」といわれる事例にしても、「問題」とされている現状にしても、実はこどもたちを名前のない「数」としてカウントし、「待機児童」という名前のない一群として扱っていることには注意しなければいけないでしょう。


たしかにまずは「量」の拡充が必要。


でも、みんなが保育園に入れるようになってから、「じゃあこどもを保育するってどんなのが相応しいのかな?」って感じでやっていたんじゃ、ただでさえこどもの数が減り、これから大きな負担を担っていかなければいけない世代の彼ら彼女らが、どんな大人になっていくのか・・・


「保育の質」について行政はなかなか理解してくれません。


保育の質が「数字」で計れないからです。


この記事からは、候補者もまた、行政と同じように「数字」で計れないものを避けたがっている様子が見て取れます。


まずは「量」、次に「質」ではなく、同時並行でどうしてやれないのか?といつも疑問に思いますが、


「こどもはすぐに大きくなってしまう。同時並行でもできるし、同時並行でやらなきゃならないんだ」


そんな当たり前のこと(だと少なくとも私は思っていること)を、まずは行政や議員に理解してもらうために、今私はこの仕事を与えられているのかも、と思っています。

昨日、市役所の正門付近にできたベンチカマドやらマンホールトイレやらの使い方が想像つかないので訓練が必要だ、という記事を書いたら、意外と賛意を示して下さる方が多かったので、早速市役所の危機管理課と管財課に行って、とりあえず使用方法を聞いてみました!


すると・・・意外なことが!!


いっしょに生きよう、明るいみらい。


このトイレはどう使うのか?と思っていましたが、6角レンチ4カ所のネジ留めを外して、ふたを開けてみると・・・


いっしょに生きよう、明るいみらい。


・・・!!


なんと座りにくそうな便座!!


・・・ではなくて、これもカマドベンチ(1人掛け)でした!!!すみません。


ではトイレはどこに!?


いっしょに生きよう、明るいみらい。


これでした。


本当にマンホールが4つ並んでいるだけです。


近くの倉庫にテントと便座がしまってありました。


いっしょに生きよう、明るいみらい。


左側に見えるキャンプ用のイスみたいのが便座です。


ついでにカマドベンチ(2人掛け)も設置方法を教えていただきました。


いっしょに生きよう、明るいみらい。


南京錠を外し、ボルト止め3カ所を外すと・・・


いっしょに生きよう、明るいみらい。


ベンチとカマド(薪置き、網、風除けのセット)に分かれました。


いっしょに生きよう、明るいみらい。


炊き出し等は災害発生と同時に始めるわけではないので、ワンタッチでできる必要はないのですが、特殊な工具が必要だったり、カギが必要だったりするので、やはりいざ使用するときのための流れを示しておく必要があると思いました。


これが近隣住民のためであれば住民にむけて、緊急時に参集した職員のためであればその旨、周知が必要です。

これまで大和市役所には「正門」という位置づけのものが無く、どこが正面なのかわからないという声がありましたが、先日、災害対策と合わせた「正門」が完成しました。


まあ先日といっても実はだいぶ前の出来事だったのですが、せっかくなので空いた時間に探索してみました。


いっしょに生きよう、明るいみらい。
(通りから見るとこんな感じ)


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(足利氏の領地だったことがあったみたいです。ちなみに栃木県足利市と大和市は災害時相互応援協定を結んでいます)


ところで、今回見ておきたかったのは、災害時の備え。


まずはカマドベンチ。


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(取っ手の付いたベンチ部分を外すとカマドになります)


続いてマンホールトイレ


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(実際の使用時はどんな形なのか、気になるところです)


このような設備が3.11以降、全国に設置されています。


しかし、当たり前のことですが実際に使用できなきゃ意味がありません。


災害時に、誰がカギを外し、どのタイミングで使用が可能になるのか。


トイレはどのくらいの使用に耐え得るのか。


カマドはどのくらいの規模で炊き出しができるのか。燃料は?調理器具は?


いざという時にスムーズに使用できるように、市役所の職員さんはもちろん、市民の皆さまや私たち議員も交えて使用訓練を行う必要があります。できるだけ早くやりましょう、と担当課に提案してみるつもりです。

アウシュビッツ訪問(2)


およそ2時間ほどでアウシュビッツの見学を終え、3kmほど離れたアウシュビッツ第2収容所「ビルケナウ」へ移動。ちなみにアウシュビッツは第3収容所までありましたが、第3収容所「モノビッツ」は現在は記念碑しか残っていません。


「ビルケナウ」はドイツ語ですので、ポーランド語ではブジェンジンカと言います。もともとブジェンジンカには村があったのですが、村人を強制的に移住させて、ナチスはここに140haの面積を持つ巨大な収容所を造りました。



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(ビルケナウの監視塔)

まずビルケナウにつくと目に飛び込んでくるのがシンドラーのリストなどで有名になった監視塔です。ここには鉄道でそのまま囚人を収容所内に入れることができるように引き込み線まで作られました。





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(当時の様子を伝えるパネル)


少しわかりにくいかもしれませんが、写真の左側に囚人服を着て立っているのが誘導係です。

彼らはナチスに協力する代わりに、ほんの少し、他の人より長く生きることができました。


到着したばかりの人々は当然、まだ囚人服を着ていません。彼らは誘導係に「本当の事を教えてほしい」「これから自分たちはどうなるのか」と聞きますが、誰も答えませんでした。

それは間もなくほとんどの人が殺されるという「本当の事」を教えても、精神的苦痛が増すだけだと考えたからです。



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(現在の様子。遠くに監視塔が見える)


貨車にすし詰めにされ、ヨーロッパ各地から移送されてきた囚人はここで降ろされ、第1収容所と同様、荷物を取り上げられ、「選別」を受けました。



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(選別が行われた場所)




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(当時の様子。上の写真の門とその右側の茶色い建物が写っている)


ここが運命の分かれ目になった場所です。右に行けばガス室がありました。現地に展示されている写真を見ると「右」に行かされている人々がほとんどなのがわかります。



ビルケナウは戦局が悪化してきた時代に造られたので、湿地帯の上に基礎なしで建てられたバラックが多く、アンネ・フランクがここに2ヶ月間収容されていたこともあって我々日本人の持つ強制収容所のイメージはここの物の方が一般的です。



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(レンガ造りの収容棟。内部から)



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(木造の収容棟)


木造の収容棟のほとんどは戦後、自分の土地に戻ってきた村人達が住宅の再建や燃料にするため解体してしまったので、現存しているものは貴重です。

極寒の地でさぞかし寒かったのではないかと思いますが、建物全体が冷えてしまうレンガ造りの収容棟より、木造のものの方がまだマシだったそうです。



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(木造の収容棟の内部。中央は暖房装置。奥に煙突が見える)


木製の3段ベットでは腐った藁やマットレスの上に1段あたり数人が詰め込まれました。不衛生極まりない収容所内ではチフスなどの伝染病が蔓延し、多くの人が罹患し亡くなりました。



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(トイレ)


トイレは自由に行くことができず、日に数回、時間が決められていて、一斉に並ばされて数十秒間で排泄を終えるように命令されました。


また、ビルケナウには大規模なガス室が造られ、一日に1500人とも2500人とも言われる人々が殺されました。ナチスが撤退する際に爆破したため、現在は残骸が残っているのみです。



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(ガス室があったところ。爆破された後のガレキがそのまま残っている)



この日は偶然、イスラエル軍が見学に来ていました。

イスラエルは徴兵制があり、男女問わず兵役があって、その中の研修の一環で来ているのではないかとの事でした。


ところで、彼ら彼女らは軍人ではありますがポーランドでは当然武器は携行できません。しかしイスラエル人は世界中どこにいっても常にテロの標的になる恐れがありますので護衛が必要です。赤い丸で印をつけてみましたが、この傘をさしている人がイスラエル兵を護るSPです。

興味深いことに軍服の集団に随行しているSPは全員私服で、ぱっと見一般の見学者にしか見えませんでした。



いっしょに生きよう、明るいみらい。
(イスラエル軍の一行とSP)



さて、およそ3時間あまりの時間をかけて「アウシュビッツ=ビルケナウ」を見て回ったのですが、一言で感想を言い表すことは到底不可能だと感じました。


その代わりと言うわけではありませんが、印象に残った話を幾つかシェアしたいと思います。



見学中、ガイドさんに対し、

「この博物館があることで、イスラエルやポーランドが現在もドイツに対し謝罪を求めたり、ドイツに自虐史観を強いるようなことはないのですか?」

というツアー客からの質問がありました。


ちなみにドイツには「自虐史観」と呼ばれるような考え方はありません。

ドレスデンにある連邦軍事博物館にも行きましたが、したこともされたことも、事実だけを非常に淡々と、客観的に示している印象を受けました。
実際、教科書の記述がそれこそ「客観的」で、反省の態度が見えない、と他国から修正を求められたこともあったそうですが「内政干渉である」として突っぱねたそうです。


ガイドさんが質問者に答えたところによると、冷戦も終わり、欧州連合がここまで発展した現在ではEU全体がこの場所を共通の痛みとして認識しているそうです。

と、いうのもナチスを台頭させたのは第一次世界大戦後、戦勝国がドイツから徹底的に搾取しようとしたことが原因だったからです。

またドイツによる占領下で少なくない人々がポーランドで、オランダで、フランスで、その他の国々で、ユダヤ人を迫害し、ナチスに協力したことも、このような認識に繋がっているそうです。

「様々な痛みを乗り越えてEUはようやくここまで来た。日本もいつかそういう時代を迎えることができるように、ぜひ若い人にもアウシュビッツを見てほしい」とガイドさんはお話しされていました。

(日本人の訪問者は韓国の方に比べると圧倒的に少なく、ほとんどの方が中年~高齢者だそうです)




そして、もう1つ。ガイドさんが何度も話していたことがありました。
それは「ヒトラーは一人で勝手に独裁者になったわけじゃない」ということです。



「ヒトラーは選挙で選ばれて、何度も失敗しながらも最終的には連立政権をつくってようやく首相になりました。その後、議会で承認された時限立法(これが有名な全権委任法です)によって憲法を死文化し、自由に法律を作っていきました。そしてその法律に従ってたくさんの人たちが強制収容所に送られていったのです。」


「例えれば、今日本に潜伏しているテロリストを一カ所に集めて監視しておく、みたいな法律がつくられ、それを多くの国民が支持したということです。」



当時のドイツ議会は国民からの信用を失っていました。

しょっちゅう総選挙が行われ、政治家は何も決めれられず、国民の生活は苦しいままでした。そんな中で現れた、勇ましい事を言い、誰が悪いか/誰を憎めばいいかを名指しで教えてくれるヒトラーとナチスが国民からの大きな支持を得ることになっていったわけです。

このような、ナチスが権力を握って行った一連の過程をドイツでは「Machtergreifung」と呼び、同じ過ちが繰り返されないように若者は歴史や政治の授業でこれを勉強させられるそうです。


ガイドさんは「今、日本では近隣の国との摩擦や憲法のことが話題になっているがヨーロッパでもこのことは注目されている。政治家も若者もこの過程(Machtergreifung)を学んで良く考えて結論を出して欲しい」とコメントをしていました。


私は自分の職業を彼に伝えていませんでしたので、おそらくここを訪れたツアー客みんなに語っている事なのでしょうが、たまたま(いちおう)若者でもあり政治家のはしくれでもある私にとっては非常に考えさせられるお話しでした。


ドイツでは自国の経験から日本の改憲論議の行方に注目している人も多いそうです。特に96条を先行して改正することがMachtergreifungと重なるのかもしれません。

日本では7月に参院選がありますが、期せずして良いタイミングでアウシュビッツを訪れることができたと、今では思っています。


アウシュビッツでたくさんの人々の命を奪っていったナチスの看守たちは戦後、口をそろえて「それがドイツと私たちの未来のために正しいことだと思ったし、命令に忠実に従っただけだ」と語ったといいます。

私たちも、何が正しくて、自分はどう行動するべきなのか。今こそ、このことを歴史から改めて学ぶべき時なのかもしれません。


(終)

アウシュビッツは第二次世界大戦期にナチス・ドイツによって150万人(犠牲者数には諸説あり)とも言われる人々が殺害された強制収容所で、「負の世界遺産」として1979年にユネスコの世界遺産に登録された場所です。



かねてより人生1度はここを訪れたいと思っていましたが、今月、ついに訪問することができました。

ちなみにアウシュビッツはドイツにあると思っている日本人も多いのですが、実際はポーランドの「オシフィエンチム」という市にあります。



ポーランドの古都、クラクフからタクシーで1時間ほどでアウシュビッツ(正式にはポーランド国立オシフィエンチム博物館と言います)に到着。



ビジターセンターというか受付のインフォメーションセンターのような場所は世界各国の観光客でごった返していました。色んな言語が飛び交い、大声で笑ったり、しゃべったりする人も多く、ちょっと不謹慎なんじゃないかと思うくらいにぎやかです。


ともあれ、事前に頼んであったガイドさんとも会う事ができ、いよいよ見学開始です。
(アウシュビッツでは混雑する時間帯は個人で入場することができず、公式ガイドのツアーに申し込むことが義務付けられています。)


見学者も一年のうちでもっとも多い時期の一つだということで、レシーバーでガイドさんの説明を聞きながら施設を見学しました。



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(ビジターセンター。収容所側から撮影)


受付を済ませ、このビジターセンターを反対側に出ればそこはもう、あの「アウシュビッツ」。

大騒ぎだった観光客も、急に静まりかえります。



まずは有名な「Arbeit macht frei」(働けば自由になる)というスローガンが掲げられた門。実際はここをくぐった囚人のほぼ全員が生きてここを出ることはありませんでした。


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(働けば自由になる、という欺瞞に満ちたスローガンが書かれたこの門をくぐって、毎日囚人たちは死ぬまで続く過酷な労働に駆り出されて行きました)



アウシュビッツに到着した囚人たちは荷物を全部取り上げられた後、医師の前に整列させられました。



そして、とりあえず働けそうな者は右、労働に耐えられなさそうな者、老人、14歳以下のこどもは左というように「選別」され、「左」=ガス室で殺害、というシステムになっていました。


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(ガス室の入口)



実際は「Arbeit macht frei」の門すらくぐることなく別れ道の左側を進まされて(下の写真を見ると実際は直進)、そのままガス室で殺害された人が全体の約75%だったと言われています。


収容所と言う名前ですが、実際は収容もされることなく7~8割の人が即座に殺されたことから、ここは殺害そのものを目的とした「絶滅収容所」と呼ばれています。

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(幅の広い手前の部分に並ばされ、右に行けば収容所の入り口、直進すると監視塔の右側にガス室がありました。)




日本人から見ると建物が意外と立派(という表現もおかしいのですが)なことに驚かされます。


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(収容所の収容棟)



それはここが元々はポーランド軍の兵舎だったことと、まだ収容される人数がそれほど多くなかった初期は元々建てられていた兵舎のレベルに近いものが建設されていたことが理由ですが、冬はマイナス20度を超す地域であり、実際は暖をとるための満足な燃料も与えられていなかった現実を考えると、見かけとは程遠い、悲惨な生活環境だったことは間違いありません。



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(高圧の電流が流されていた有刺鉄線。絶望のあまり、自らこれに触れて自殺する囚人もいたそうです)


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(収容棟の内部は展示室に改装されています。写真は連行されるユダヤ人のようす)


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(収容所の窓から見た外の風景)



「囚人」と呼ばれた犠牲者・被害者はその9割ほどがユダヤ人ですが、他にもポーランド人、ジプシーと呼ばれる人々、戦争捕虜、同性愛者、しょうがい者などがいました。



囚人はその区分の違いによって住まいや食事、労働などの待遇が違いました。またユダヤ人の中でも労働の内容によって待遇が違い、階層が作られていました。ドイツ兵はこうすることによって囚人が連帯することを防ぎ、互いに監視し合うシステムを作っていたのです。



実際に、ユダヤ人の中には収容所で他の囚人の脱走計画を密告したり、他の囚人を迫害することでドイツ兵に気に入られ、収容所から生還した人もいます。
戦後、こうした事実は被害者であるはずのユダヤ人同士の間にも深い溝と傷跡を残しました。



しかし、他の囚人たちを迫害し、生き残った人たちを責めることはできません。あの状況では誰もがわずかな「生きる可能性」にかけるしかなかったのです。




一方で、死刑を宣告された他の囚人の身代わりを申し出て殺された神父さん(コルベ神父という方です)の話なども残っており、この方が日本にゆかりのある人物だったりして、特に日本人にとっては興味深いところです。


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(ナチスに抵抗した人などが多数銃殺された「死の壁」。コルベ神父が殺害された収容棟は右側の建物)




実際に自分が立っているこの場所で、また自分が歩いているこの道で、ほんの60数年前の今日も、人間の尊厳を奪われた数万の人たちが、ここでわずかな時間を生き、誰にもかえりみられることなく死んでいったことを思うと、表現しがたい重さを感じます。


心のどこかをオフにして、すこし自分の距離を遠くにおかないと、なかなか足を進めることができません。




数ある展示物の中には有名な「髪の毛の山」とか「メガネの山」「靴の山」とかもあるのですが、私が一番辛かったのは「わずかな希望を与えるためのウソ」に関する展示です。




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(ギリシャ系のユダヤ人に渡された偽物の乗車切符)


当時のユダヤ人はヨーロッパのほとんどがドイツに占領される中で、もうどこにも逃げられない状況におかれている人が多くいました。

そんな彼らからナチスは容赦なく人権を奪い、家を奪い、貯金や自転車まで奪う法律を作って迫害していきました。


そしてついに「財産をまとめて、どこそこに集まりなさい。これから列車で連れていくところにあなた達の住む町を用意しています。」という通知がユダヤ人たちの元に届きます。


もちろん、そんな場所はありません。それはユダヤ人だってわかっています。

でも、もうどこに逃げろというのでしょう。

「たぶん自分たちは今よりもっとひどい目にあわされるに違いない。しかし、わずかでも可能性があるかもしれない。いずれにしても、もう命令に従うしかないんだからそう思うことにしよう」

そう、思ってわずかに手元に残った財産や洋服、靴、メガネなどをカバンに詰めて市役所や駅に集合しました。


そこでナチスやナチスに協力するポーランド人に言われるのです。

「他の人のものと間違えないようにカバンには白いペンキで名前と住所を大きく書いておきなさい」

実際には収容所についたとたん、こん棒で殴られ、軍用犬をけしかけられ、荷物は全部没収されました。

アウシュビッツには名前と住所が書かれたカバンが大量に展示されています。


またある人は言われました。

「荷物はこちらで預かるから預かり証を発行します。引き取り時まで大切に保管するように!」

実際には預かり証がポケットに入っている服ごと脱がされて、ガス室に送られて殺されました。

この時の偽の預かり証も展示されています。


まるで、列車に乗ったその先に新しい生活があるかのように、奪われ続けたユダヤ人がこれ以上奪われる事はないかのように、ナチスはわずかな希望を彼らに与えることで、収容所へ送り込む作業をスムーズに進むようにしていたのです。



ある意味、ただ殺されるよりよほど残酷なのではないでしょうか。

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(「Arbeit macht frei」の門の近くには見せしめのための死刑台があります。ここで絞首刑にされてぶら下がっている仲間の死体の横を、毎朝たくさんの囚人たちが強制労働に出かけて行きました)



<アウシュビッツ訪問(2)に続く>











5月3日号のタウンニュース大和版はGW特別企画で座間版とのコラボだったそうです。


これまでGWは休刊にしたこともあったようですが、今年は特別企画で大和・座間で紙面を統一したとのことで、良く見ると「タウンニュース」のタイトル文字の右下、編集長の記載が右開き側が大和版、左開き側が座間版と、両A面(懐かしい表現ですが・・・)のようになっています。



さて、そんなこととはつゆ知らず、なにげなく座間版側の紙面を読んでいた際に目にとまった記事がありました。

下3段の半面記事「成光学園だより」という月間記事です。



(5月3日号の記事はwebで見つかりませんでしたので過去の記事を貼っておきます。)

http://www.townnews.co.jp/0403/i/2011/01/21/89771.html




成光学園は座間市にある児童養護施設。

昨年、この施設を視察させていただく機会があり、寄稿されている矢部学園長ともお話をする機会がありました。

実は、大和市には児童養護施設がありません。

そして児童相談所もありません。



児童虐待やその他さまざまな事情により、家族による養育が困難なこどもは大和市でも年々増えているのですが、それらのこどもは相模原市にある児童相談所を通じて、座間市や藤沢市の児童養護施設で暮すことになる、といったケースが多くあります。

成光学園は75名定員の大規模施設ですが、大和市からも多くのこどもたちが入所しています。


しかし、残念ながら多くの大和市民はそのことを知りません。


23万人の人口を擁する大和市が、自分たちの将来を担うこどもたちが困難な状況におかれた時、その対応を市内で、地域で行っていないという事実をもっと市民の方々に知っていただき、なんらかの形で、そのようなこどもたちをこの地域で助けてあげられないか、というテーマは今後の私の目標であり夢でもあります。


そんな中、今回たまたまタウンニュースが大和座間広域版と言うことで統一紙面を配布し、またそのタイミングで成光学園の記事が掲載されたことは本当に嬉しかったですし、これを見た大和市民が一人でも二人でもこのことを知ってくれるのではと期待が持てました。


また来年のGWもこの広域版の企画があるそうですので、楽しみにしたいと思います。



私が小学校3年生だった1990年、大和市には民設民営の学童保育が数多くありました。


大和市における学童保育は、行政によるサービスとして始まったのではなく、親たちの「つくり運動」から市が動かされ、その後各学童の運営を市が引き継ぐ形で整備されていったからです。


現在、市内に民設民営の学童はわずかに3つ。私が小学生のころからある生え抜きの学童はそのうちの2つだけになってしまいました。


さて、先日西鶴間小学校区の学童保育わんぱくクラブ(私もここの出身です)に遊びに行った時のこと。指導員の先生が、1990年に出された市内の学童保育の記念誌をくれました。



そこにはなんと、当時の私が書いた作文が!



ぼくのいっている学童ほいくはわんぱくクラブです。

人数が多くてこまっています。

でも、西つるま小学校の校庭が広いのでみんなであそべます。よくやきゅうや、キックベースをしてあそびます。

週に一度ゲームをします。いつも室(※内)であそんでいる女の子もその日はあそびまくって、「ああ、つかれた。」と、いって帰ってきます。

友だちもできるしたくさんあそべる学童はすごくいい所だと思います。

わんぱくクラブ3年 町田れいじ


いっしょに生きよう、明るいみらい。


当時から学童保育の大規模化と保育環境の適正化に関心があったなんて・・・(笑)

しかも、ちゃんと名前が選挙用みたいにひらがなになっているし!




そして、何が一番不思議だったかって、この文章、縦書きで左上から書いてあったんです(写真参照)。


やはりちょっと変わった子だったんですね・・・私。

昨日お知らせしました私の一般質問の登壇時間ですが、午前中の進行が早かった影響で前倒しになり、午後4:30~となりました


ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。

あまり告知とかやらないのですが、したほうが良いよ!というありがたいアドバイスに押され、珍しく・・・。


明日(15日)、だいたい午後5:15~市議会で話します。


前の人が長かったり短かったりするので、多少ずれるかもしれません。

でも、だいたい午後5:15くらいに始まると思います。


一般質問とは市長やら部長やらに

「あれをもっとあーした方が良いと思うけど、どうですか?」とか、

「あれ、あんなことになってるけどどう思うのよ?」とか、質問形式であれやこれや聞くというイベントです。

だいたい初めて聞きに来た人は独特の議会的な言い回しとか、誰一人として声を発さない、相づちも打たない、不思議な世界に圧倒されて、5分で寝ます(笑)


でも、やってる当の議員は必死で準備してその日を迎えています。

それはそれはもう、まじめにやろうと思ったら毎回(最大で年4回やります)が大学の卒論かっていうくらいがんばって作ってます。


そんなわけで明日、その発表というか、いわゆる「一般質問」をやります。


内容は・・・

①放課後のこどもたちについて ~放課後子ども教室と学童保育について~

②市立病院について ~診察までの待ち時間について~

③シティセールスについて ~ゆるキャラ「ヤマトン」の活用について~


の3つです。

もしご興味のある方がいらっしゃいましたら大和市議会のホームページから生中継が見られます。

http://www.yamato-city.stream.jfit.co.jp/


もしくは市役所5階に来ていただけたら生で見れます。


どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m



夜11:30頃までかかり、大和市議会は新たな芸術文化ホールの建設を議決しました。


正確に言うと、大和駅の東側、プロムナードの終点から藤沢街道に出るあたりの地域で、地権者が集まって作った組合がビルを建て、その9割以上の部分について市がホールや図書館や学習センターなどとして使うため、119億円を支払う、という事業をやるのですが、それだけのお金を支出して良いですか?という議案が可決されたという事です。


ちなみに完成するとランニングコストだけでも毎年8億円ほどかかる見通しです。



私の所属する会派「明るいみらい・やまと」は主に、せめてあと2年程度は市民の方々の要望なども聞き、

「これこれこういうホールや図書館を新しく造りたい!」

という計画を争点に市長は選挙で市民の信を問うた方が良いのでは?

という意見を言い続けてきましたが、思い届かず、今日の日を迎えました。


私たちの会派の結論は「現時点で強行するなら反対せざるを得ない」というものです。



朝9:00から始まった各種委員会や本会議は夜の11:30頃ようやく採決に至り、結果は8つの会派中、賛成6会派:反対2会派

終わってみれば大差で私たちは敗れました。




残念ではありますが、結果は結果です。


また、ホールについては少なくない市民が新しいホールを望んでいたということは承知していましたので、ここはしっかりと結果を受け止め、今後は毎年のランニングコストをできるだけ少なくしていくことや、せっかく建った施設が市民に使いやすく、喜ばれる施設になるように、市民のみなさまのご意見を行政側に届けていきたいと思います。


このビルの完成は2015年秋ごろを予定しています。




ちなみに、採決に先立って私が登壇し、以下のような討論を行いました。長いですがご興味のある方はご一読いただければ幸いです。




明るいみらい・やまとを代表いたしまして、本議案に反対の立場から討論をいたします。

私たち大和市民が大木市長に行政のかじ取りをお委ねしてまもなく6年が経とうとしています。私は決して多くのことを知っている訳ではありませんが、少なくとも私が見てきた大木市長のセンスといいますか、目の付けどころや次々と繰り出されるそのアイディアには本当に感銘を受けるところです。

またそれらを実行に移す意志の強さや、市民に広報・周知するための努力においても大変に優秀な方であることは、今や多くの市民も認めるところであります。

しかし、今回ばかりは、やり方が急すぎるのではないでしょうか

大和に文化ホールを!という声は何十年も前からあり、この建設は「市民の悲願」だそうです。

私たち若い世代にとってはなかなかピンとはきませんが、このために寄付をしてくださった市民がおられたり、市としても基金を積み立ててきた経緯もありますので、私はホール建設については今でも賛成です。


しかし一方で私たちの世代は責任をとらなければいけません

今後、施設を回していく。借金を払う。ランニングコストを払い続ける・・・どうしても慎重になってしまうことはご理解いただきたいと思います。


これからはそうでなくても歳入減と歳出増が見込まれます。あれもこれもではなく、まずは各施設の必要性をよく精査し、市全体の公共施設の老朽化対策もあわせて議論し、優先順位を決めて行くのが筋だったのではないでしょうか。


ところでランニングコストが年8億円と言いましても、なかなか実感がわかないという方もおられると思います。これは私の試算ですが、保育園に換算しますと毎年10園分。待機児童900人分に相当します。学童保育なら100施設分にもなります。



そりゃホールも図書館も学習センターも新しくて立派なものがあった方が良いに決まっています。でもそれは、今すぐ、それもまとめて、という理由にはなりません。



どのような施設にするかの検討期間が他市のホール建設に比べて極端に短いこと。


そのため、他市の事例ではしばしば見られる建設計画策定時の市民参画、例えばシンポジウムやワークショップ、公開ヒアリングなどが行なえなかったこと。


耐用年数がまだ20年以上残っている図書館を移転させること。


生涯学習センターと図書館の引っ越し費用が未だ不明であること。


現在の図書館と生涯学習センターの跡地の利用もしくは売却のめどがたっていないこと。


もう少し、時間をかければ肯定的な意味で、各個に議論を深めたり、見通しを明らかにすることができたであろうことは多くあります。


また、長年の課題であった大和天満宮の問題はこれがベストの解決方法だったのでしょうか?


さらに計画区域内に土地を所有する方でこの計画に反対の方もいらっしゃることが、これまで何度も行われた市側の説明では一切触れられず、報道で初めて明らかにされたということもありました。この方は「説明不足だ。財産を預けられるような計画ではない」と市も含めた組合を批判しているそうです。


そして、本市の教育委員会委員長までもが「この計画は拙速すぎる」と、抗議のために辞任したと報道されたことも忘れるわけにはいきません。


説明不足、議論不足、検討不足。つまり全ては時間の不足と、この計画が本当に市民全体のためになるというのなら、もう少しだけ、あと2年間、できるだけたくさんの市民の声を聞き、その結果を

もって、次の選挙の時に市民に訴えるべきではなかったのでしょうか?前回市長選でWスコアで対立候補を破り、圧倒的な人気を誇る市長でしたらきっと多くの市民がそのお考えに賛同したはずです。


もし2年は待てないのとおっしゃるなら、住民投票に付すべきでしたし、それもそぐわないのなら、せめてこのタイミングでパブリックコメントを行うべきでした。


どうしてそのプロセスを避けようとなさったのか、市民目線で見れば理解に苦しむと言わざるを得ません。

他の議員におかれましては、本当にこの進め方で良かったとお考えなのでしょうか。

傍聴席の皆さんは、本当に議論は尽くされたと、お感じになるでしょうか。

残念ではありますが、この市議会で最も若く、おそらく、これから最も長くこの大和市で暮らしていくであろう私たち明るいみらい・やまとは以上の事から、この議案に反対をいたします。


(以上)