アウシュビッツは第二次世界大戦期にナチス・ドイツによって150万人(犠牲者数には諸説あり)とも言われる人々が殺害された強制収容所で、「負の世界遺産」として1979年にユネスコの世界遺産に登録された場所です。
かねてより人生1度はここを訪れたいと思っていましたが、今月、ついに訪問することができました。
ちなみにアウシュビッツはドイツにあると思っている日本人も多いのですが、実際はポーランドの「オシフィエンチム」という市にあります。
ポーランドの古都、クラクフからタクシーで1時間ほどでアウシュビッツ(正式にはポーランド国立オシフィエンチム博物館と言います)に到着。
ビジターセンターというか受付のインフォメーションセンターのような場所は世界各国の観光客でごった返していました。色んな言語が飛び交い、大声で笑ったり、しゃべったりする人も多く、ちょっと不謹慎なんじゃないかと思うくらいにぎやかです。
ともあれ、事前に頼んであったガイドさんとも会う事ができ、いよいよ見学開始です。
(アウシュビッツでは混雑する時間帯は個人で入場することができず、公式ガイドのツアーに申し込むことが義務付けられています。)
見学者も一年のうちでもっとも多い時期の一つだということで、レシーバーでガイドさんの説明を聞きながら施設を見学しました。
(ビジターセンター。収容所側から撮影)
受付を済ませ、このビジターセンターを反対側に出ればそこはもう、あの「アウシュビッツ」。
大騒ぎだった観光客も、急に静まりかえります。
まずは有名な「Arbeit macht frei」(働けば自由になる)というスローガンが掲げられた門。実際はここをくぐった囚人のほぼ全員が生きてここを出ることはありませんでした。
(働けば自由になる、という欺瞞に満ちたスローガンが書かれたこの門をくぐって、毎日囚人たちは死ぬまで続く過酷な労働に駆り出されて行きました)
アウシュビッツに到着した囚人たちは荷物を全部取り上げられた後、医師の前に整列させられました。
そして、とりあえず働けそうな者は右、労働に耐えられなさそうな者、老人、14歳以下のこどもは左というように「選別」され、「左」=ガス室で殺害、というシステムになっていました。
(ガス室の入口)
実際は「Arbeit macht frei」の門すらくぐることなく別れ道の左側を進まされて(下の写真を見ると実際は直進)、そのままガス室で殺害された人が全体の約75%だったと言われています。
収容所と言う名前ですが、実際は収容もされることなく7~8割の人が即座に殺されたことから、ここは殺害そのものを目的とした「絶滅収容所」と呼ばれています。
(幅の広い手前の部分に並ばされ、右に行けば収容所の入り口、直進すると監視塔の右側にガス室がありました。)
日本人から見ると建物が意外と立派(という表現もおかしいのですが)なことに驚かされます。
(収容所の収容棟)
それはここが元々はポーランド軍の兵舎だったことと、まだ収容される人数がそれほど多くなかった初期は元々建てられていた兵舎のレベルに近いものが建設されていたことが理由ですが、冬はマイナス20度を超す地域であり、実際は暖をとるための満足な燃料も与えられていなかった現実を考えると、見かけとは程遠い、悲惨な生活環境だったことは間違いありません。
(高圧の電流が流されていた有刺鉄線。絶望のあまり、自らこれに触れて自殺する囚人もいたそうです)
(収容棟の内部は展示室に改装されています。写真は連行されるユダヤ人のようす)
(収容所の窓から見た外の風景)
「囚人」と呼ばれた犠牲者・被害者はその9割ほどがユダヤ人ですが、他にもポーランド人、ジプシーと呼ばれる人々、戦争捕虜、同性愛者、しょうがい者などがいました。
囚人はその区分の違いによって住まいや食事、労働などの待遇が違いました。またユダヤ人の中でも労働の内容によって待遇が違い、階層が作られていました。ドイツ兵はこうすることによって囚人が連帯することを防ぎ、互いに監視し合うシステムを作っていたのです。
実際に、ユダヤ人の中には収容所で他の囚人の脱走計画を密告したり、他の囚人を迫害することでドイツ兵に気に入られ、収容所から生還した人もいます。
戦後、こうした事実は被害者であるはずのユダヤ人同士の間にも深い溝と傷跡を残しました。
しかし、他の囚人たちを迫害し、生き残った人たちを責めることはできません。あの状況では誰もがわずかな「生きる可能性」にかけるしかなかったのです。
一方で、死刑を宣告された他の囚人の身代わりを申し出て殺された神父さん(コルベ神父という方です)の話なども残っており、この方が日本にゆかりのある人物だったりして、特に日本人にとっては興味深いところです。
(ナチスに抵抗した人などが多数銃殺された「死の壁」。コルベ神父が殺害された収容棟は右側の建物)
実際に自分が立っているこの場所で、また自分が歩いているこの道で、ほんの60数年前の今日も、人間の尊厳を奪われた数万の人たちが、ここでわずかな時間を生き、誰にもかえりみられることなく死んでいったことを思うと、表現しがたい重さを感じます。
心のどこかをオフにして、すこし自分の距離を遠くにおかないと、なかなか足を進めることができません。
数ある展示物の中には有名な「髪の毛の山」とか「メガネの山」「靴の山」とかもあるのですが、私が一番辛かったのは「わずかな希望を与えるためのウソ」に関する展示です。
当時のユダヤ人はヨーロッパのほとんどがドイツに占領される中で、もうどこにも逃げられない状況におかれている人が多くいました。
そんな彼らからナチスは容赦なく人権を奪い、家を奪い、貯金や自転車まで奪う法律を作って迫害していきました。
そしてついに「財産をまとめて、どこそこに集まりなさい。これから列車で連れていくところにあなた達の住む町を用意しています。」という通知がユダヤ人たちの元に届きます。
もちろん、そんな場所はありません。それはユダヤ人だってわかっています。
でも、もうどこに逃げろというのでしょう。
「たぶん自分たちは今よりもっとひどい目にあわされるに違いない。しかし、わずかでも可能性があるかもしれない。いずれにしても、もう命令に従うしかないんだからそう思うことにしよう」
そう、思ってわずかに手元に残った財産や洋服、靴、メガネなどをカバンに詰めて市役所や駅に集合しました。
そこでナチスやナチスに協力するポーランド人に言われるのです。
「他の人のものと間違えないようにカバンには白いペンキで名前と住所を大きく書いておきなさい」
実際には収容所についたとたん、こん棒で殴られ、軍用犬をけしかけられ、荷物は全部没収されました。
アウシュビッツには名前と住所が書かれたカバンが大量に展示されています。
またある人は言われました。
「荷物はこちらで預かるから預かり証を発行します。引き取り時まで大切に保管するように!」
実際には預かり証がポケットに入っている服ごと脱がされて、ガス室に送られて殺されました。
この時の偽の預かり証も展示されています。
まるで、列車に乗ったその先に新しい生活があるかのように、奪われ続けたユダヤ人がこれ以上奪われる事はないかのように、ナチスはわずかな希望を彼らに与えることで、収容所へ送り込む作業をスムーズに進むようにしていたのです。
ある意味、ただ殺されるよりよほど残酷なのではないでしょうか。
(「Arbeit macht frei」の門の近くには見せしめのための死刑台があります。ここで絞首刑にされてぶら下がっている仲間の死体の横を、毎朝たくさんの囚人たちが強制労働に出かけて行きました)
<アウシュビッツ訪問(2)に続く>









