2024年5月11日、今回は念願の紅ミュージアムを訪問しました。「伊勢半本店紅ミュージアム」を全面リニューアルし、2019年11月2日に新たに「紅ミュージアム」としてオープンしたと聞き、早速足を運んでみました。

 

 

紅ミュージアムは東京都港区南青山6丁目に位置し、最寄り駅は東京メトロの表参道駅です。駅からは徒歩約12分です。開館時間は午前10時から17時までで無料で入館が可能でした。事前予約も不要です。

 

 

 

紅ミュージアムは江戸時代から続く日本最後の紅屋「伊勢半本店」が運営する施設です。伊勢半本店は文政8年(1825年)、江戸時代後期に、紅を製造・販売する紅屋として現在の日本橋小舟町に創業しました。調べてみると、「伊勢半グループ」と「伊勢半本店」は、密接な関係を持っていることが分かりました。伊勢半グループは、株式会社伊勢半本店を筆頭に、8つの企業で構成されるグループ企業です。化粧品事業、不動産事業、そして祖業である紅の製造販売など幅広い事業を展開しています。その中で伊勢半本店は、千代田区に本社を置き、紅の製造販売をはじめ、化粧品や食紅、絵具の製造販売、紅ミュージアムの運営などを行っています。

 

 

 

館内には、江戸時代の紅道具や化粧下絵などの貴重な資料が数多く展示されていました。江戸時代の化粧に用いられた色は赤(紅)・白(白粉)・黒(眉墨・お歯黒)の三色のみで、唯一の有彩色である紅は唇はもちろんのこと、顔全体に使用され、女性の顔に彩りを添える大事な色でした。特に、小町紅は美人の代名詞である小野小町(おののこまち)の名前から取られたもので、女性たちの憧れの色でした。小町紅はベニバナの花びらから作られる口紅であり、このベニバナの花びらに含まれる赤色色素はわずか1%しかありません。その希少な赤色色素だけで小町紅が作られています。実際に小町紅を体験できるコーナーが展示室の一角にあるコミュニケーションルームに設けられていました。まさに「見て、触れて、体感する」といったテーマに相応しく、特別な体験ができました。

 

 

 

まずは、スタッフさんに紅の種類や使い方などを丁寧に説明していただきました。お試しづけで手の甲で紅の発色を試してみました。水に濡らした筆で磁器に塗られた小町紅を点すと、玉虫色が一瞬で赤に変わります。先に述べた通り、紅にはベニバナの花びらが使用されており、水で溶くとベニバナの成分が溶け出し、玉虫色から赤色へと変わるのです。理論上でただ理解するのとは違い、その変化を目の当たりにし、大変驚きました。

 

 

 

 

 

紅を塗ってみたところ、鮮やかな紅色に染まり、予想以上に美しい発色でした。様々な色合いを試した結果、自分の肌色にピッタリな色を見つけることができ、唇の上にのせてみると、浮いて見えることなくほんのりと唇に馴染みました。誰もが似合うような自然な色で男女を問わず使用できました。今まで紅を点す機会がなかったので、とても興味深い時間でした。ちなみに、先着順の予約制で紅のミニ実験ワークショップも開催されていました。黄色の紅花の花びらから赤色色素を抽出する過程を、簡単な実験を通して観察できるそうです。

 

 

 

 

(口紅はオンラインショップや店内で販売していました。⇩)

 

 

 常設展示室1

 

紅ミュージアムのメインとなる常設展示室は1と2に分かれていますが、常設展示室1では、紅花の生産・流通から市場取引をはじめ、当時の紅の販売における広告宣伝・販売活動、紅づくりの様子、紅に纏わる習俗などの資料を模型や紅ができるまでの映像と共に観覧できました。

 

 

 

 

 ❍ 紅の生産・流通

 

紅花はキク科ベニバナ属の一年草で、花びらから黄色や赤色の色素が取れます。黄色から赤色へと変化する過程で摘み取ることから、末摘花とも呼ばれます。摘み取れる量が極めて少ないため、高い商品価値を持つのは赤色色素です。紅はこの紅花の花びらから赤色色素を抽出して作られ、古くから染料や化粧料などに広く使われました。特に京都では高級織物の染料として需要が高く、化粧料や食品着色、絵具などにも用いられました。

 

 

 

 

江戸時代に紅花は原料需要に応じた換金性と収益性の高い商品作物であったため、上方市場で盛んに取引されました。とりわけ紅花は、山形県の特産品として知られています。全国一の生産量を誇った出羽国(現:山形県)の村山地方で産する紅花を最上紅花(もがみべにばな)と称しました。見立番付(みたてばんづけ)は、日本の江戸時代から明治時代にかけて流行した、ランキング形式の印刷物のことを指します。これらの番付は相撲番付を模倣して作られたもので、さまざまな分野で人気や優劣を競う形で作成されました。この見立番付の上位に出羽国の最上紅花がランキングしていることが分かります。

 

 

 

 

 

当時の日本橋は商業の中心地であり、化粧が特定階級のみならず一般庶民にまで習慣として浸透していましたが、紅の製造・販売は京都が中心でした。また、日本橋本町二丁目の玉屋(元々は京都の紅問屋で小町紅の販売を行った紅問屋)のように、上方商人出店の紅屋が多く存在しました。江戸の紅屋の大半が製造を行わず、卸売を主とした紅問屋がほとんどでした。

 

 

 

 

 

その中で、江戸時代後期の文政8年に創業者である初代澤田半右衛門(現:澤田一郎)は、現在の日本橋大伝馬町といわれる日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に紅白粉問屋で約20年ほど奉公した後、独立しました。その際、「伊勢屋」という和服を扱うお店、呉服屋から株を購入し、店名を「伊勢屋半右衛門」から「伊勢半」と称しました。そして、試行錯誤と工夫を重ねた末に、主流であった京都製の紅に劣らぬ江戸製紅の製造に成功しました。見事に美しい色に輝く玉虫色の紅を作り出し、たちまち江戸の街で評判となったといわれています。

 

 

 

 

 ❍ 紅餅

 

紅餅は、日本の伝統的な紅花製品の一種で、紅花の花びらから抽出された色素を利用して作られるものです。収穫した花びらを水で洗い発酵させます。発酵によって、花びらに含まれる黄色い色素が溶け出し、赤色の色素だけが残ります。これを餅状に固めて乾燥させたものが紅餅です。

 

 

 

 

 ❍ 紅づくり

 

特に印象的だったのは、紅の製造過程を紹介する展示でした。紅餅を水に浸し、何度も圧搾して紅色の紅液を絞り出す、その工程の一つ一つが、職人の手によって丁寧に行われていることを知り、紅づくりが非常に手間と時間を要するものであることに気づきました。紅づくりは以下のような工程を経て作られます。

 

 

 

 

化学反応を利用して赤色色素を取り出す紅の製造方法】

 

1. 紅餅を仕込む

紅餅を清水に一晩漬け、ふやかし、ザルで水気を切ります。

 

2. アルカリ水溶液をかける

昔は純粋なアルカリ剤がなかったので、陸海に生える植物の灰が洗浄に使われました。植物の灰にはアルカリである炭酸カリウムや炭酸ナトリウムが豊富に含まれていて、それを水に浸すと、灰汁と呼ばれる強いアルカリ性の溶液になりました。紅づくりは大量の水を使用するため、アルカリ性の灰汁による化学反応をより発現させます。紅餅にアルカリ性の灰汁をかけ、足で踏み、花びら全体に染み込ませます。

 

3. 赤色色素を抽出する

花びらを袋に入れて、紅絞り機で圧搾します。灰汁の作用で花びら中の赤色色素が溶け出し、暗赤色の紅液が絞り出されます。

 

4. 赤色色素を吸着する

紅液に米酢を加えて、かき回します。これをゾク(麻の束)の入ったタライへ注ぎ入れ、ゾクに赤色色素を染め付けます。

 

5. 赤色色素を脱着する

ゾクに灰汁を染み込ませて、布で包み、再び紅絞り機で圧搾します。赤色色素が濃縮した鮮紅色の紅液が絞り出されます。

 

6. 精製

4と5の過程を繰り返し、赤色色素の純度を高めていきます。

 

7. 酸性水溶液で取り出す

濃縮紅液に梅酢を加えて、かき回して静置すると赤色色素が沈殿しはじめます。

 

8. 濾過、紅の完成

すのこ敷きの蒸籠に羽二重をかけ、7を注ぎます。そして濾し終わると、泥状(でいじょう)の紅が残ります。紅をヘラで掻き集め、紅箱に入れて保管します。

 

 

 

 

 ❍ 紅と魔除けの習俗

 

江戸時代の日本では、紅は単なる化粧品としてだけでなく、魔除けの効果があると信じられていました。この信仰は、紅の鮮やかな赤色が邪気を払うと考えられていたためです。罹患者の衣類や寝具、調度品などは赤いもので揃えていました。

 

 

 

 

紅ミュージアムの常設展示室1では、紅について詳しく「知る」ことができました。紅花から紅づくりの工程で実際に使用される道具が展示されており、さらに映像を通じて製造過程をリアルに感じることができました。数百年前に、紅づくりの技に灰汁を用いて化学反応を起こすという発想を持ち、それを実現した職人たちの技術に感心しました。

 

 

 

 

常設展示室2

 

常設展示室2では「化粧の歩み」というテーマで、江戸時代を中心に、古代から近現代までの日本の化粧や装いの歴史を紹介しています。化粧が持つ社会的な意味合いについて学ぶことができます。化粧がどのようにして日本に伝わり、上流階級の女性たちはもとより一般庶民にも普及し、女性たちに愛されるようになったかが分かります。江戸の女性が実際に使っていた化粧道具や浮世絵などが展示されており、当時の女性の化粧法や、時代を経て変わっていく口紅や頬紅を観察できました。

 

 

 

 

元禄時代(1688~1704年)には、大阪や京の都市を中心に上方で化粧文化が開花しました。文化・文政時代(1804~1830年)には、江戸でも庶民層まで化粧文化が広がりました。しかし、身分や階級、年齢など社会構造の厳しい制約がある中で、自由度は低く、純粋におしゃれを楽しむための化粧ができるようになったのは明治の開国以降と言われます。明治以降に西洋文化を大いに取り入れ、化粧が生活の一部となり、美意識を象徴するアイテムとして用いられました。

 

 

 

 

江戸時代の浮世絵には、紅を塗る女性の姿が描かれており、女性たちの暮らしぶりを垣間見ることができます。そして、当時の口紅の塗り方や眉の書き方、スキンケアに関する洗顔法などが書き記された資料が存在します。以下に、江戸時代のスキンケアと代表的な化粧法についていくつかご紹介します。

 

 

 

 

まず、【洗顔時の注意と糖の効能】についての内容を一部抜粋すると、

 

「毎朝湯を使うとき、極めて熱い湯で顔を洗うと顔に早く皺ができてしまう。(中略)顔に糖袋を強く当てて洗ってはいけない。顔の肌理を損なうことになる。」

 

と書いてあります。このような洗顔法の注意点は、当時の人々が美意識や肌の健康に関する知識を持っていたことを示しています。現代のスキンケアと比較しても、遜色のないほど知識や美意識が十分に発展していたことが窺えます。

 

 

 

 

次に、江戸時代の化粧法についてです。

 

 

 

 

1. アイメイク

現代のアイラインと大きな違いはなく、目の縁に紅をひきました。これを「目弾き」と言います。もともとは歌舞伎役者の舞台化粧として発生した化粧ですが、町方の女性たちが真似るようになり、広く行われるようになりました。

 

2. 頬紅

紅と白粉を混ぜて使用しました。くすみ防止のためや地肌を明るく見せるために、白粉を塗る前に目の周辺から頬にかけて紅を伸ばすこともありました。これは現在のチークと同じ役割を果たします。

 

3. 口紅

江戸時代には、口紅を濃くつけることは卑しいとされ、淡くほのかに色付くように付けるのが良いとされました。また、おちょぼ口のような小さな口元が好まれたため、紅を点す面積は小さかったです。

 

4. 爪紅

爪先を紅や鳳仙花などで赤く染めたり模様を描いたりしました。ネイルアートの原型とも言えます。

 

 

 

 

 

化粧法においても、今とあまり変わらずとても似ていることから、時代は違っても美しさを求める本能は同じだと思いました。壁一面に展示された江戸時代の紅道具や近代の化粧品まで、口紅に関する様々な模型が興味深く陳列されていました。化粧品の様子は時代に応じて変遷していきましたが、その中には歴史と文化が反映されていました。

 

 

 

 

 

今まで紅は単なる昔の色だと思っていましたが、紅や日本の化粧文化に対する理解が一層深まりました。紅ミュージアムは紅に興味がある人はもちろん、日本の伝統文化に興味のある方、そして特別な体験を求めている方にもぜひ訪れてほしい場所です。

 

 

 

 

 

 ❏ 館情報(紅ミュージアム)

・住所:東京都港区南青山6-6-20 K's南青山ビル1F

・開館時間:10:00~17:00(最終入館16:30まで)

・休館日:日曜日・月曜日・創業記念日(7月7日)・年末年始

・入館料:無料 ※ただし、企画展観覧は有料

・公式サイト:紅ミュージアム(公式㏋)

 

今月は「第53回 文京つつじまつり」花見のため、根津神社を訪れました。

根津神社は東京十社に定められた神社の一つです。

社殿は5大将軍徳川綱吉によって造営され、極彩色漆塗りの権現造りの神社建築が特徴です。

国の重要文化財にも指定されています。

 

 

【千本鳥居】

根津神社には、京都の伏見稲荷大社に比べて小ぶりであるものの、約250基、全長200~300mほどの鳥居が並んでいます。

一般的に、稲荷神社に願い事が叶ったお礼として鳥居が奉納されており、それが連なっていることで、願いが叶った人の多さが表されています。根津神社はその点で、ご利益がある神社であることがわかります。

江戸時代以降、「願い事が通る、通ったお礼」の意味を込めた感謝の印として鳥居が奉納され、今日に広まりました。

鳥居は一基10万円ほどで建てられるそうです。

 

 

【文京つつじまつり】

つつじの花見は、まだお花が咲いている箇所が少なく、緑と花の調和が見どころでした。

 

 

昨年の開花状況をみて、それぞれお好みのタイミングで訪れることをおすすめします!

 

 

 

【東京聖テモテ教会】

散歩途中で、聖テモテ教会にお邪魔しました。

 

 

【東京大学】

最後に東京大学の赤門の前で。

 

季節が春になり、お花見と周辺の散歩を楽しんだ館巡りでした。

今月は、世田谷区桜新町の「長谷川町子記念館・美術館」を見学しました!

♪お魚くわえたドラ猫追っかけて~
みなさんご存じ「サザエさん」です。東急田園都市線、桜新町駅を出ると、早速、有名な銅像と花でつくられたサザエさんが出迎えてくれました。

 

サザエさん通りを行くと、

 

交番前にもサザエさんがいました。

 

(参考)モザンビーク大使館もあります。

 

 

1.美術館

到着!

この写真は美術館で、道路を挟んだ反対側に記念館があります。まずは、両館の共通チケットを購入するために美術館に入ります。

 

この美術館は、1985年、漫画「サザエさん」の作者である長谷川町子が65歳のときに、財団法人長谷川美術館として開館しました。

ここでは、町子と姉の毬子(まりこ)がジャンルを問わず収集した作品(日本画や洋画、ガラス、陶芸、彫塑など)が展示されています。
どれも素晴らしい作品ばかりで、東京芸大出身の方の作品が多かったような印象です。
特に印象に残ったのは、花沢花子さんが花沢不動産の娘として、磯野家の模型を紹介しているコーナーです。
(参考)某サイトによりますと、世田谷区の家賃相場は、9.38万円だそうです。港区13.5万円、千代田区13.32万円、渋谷区12.37万円、中央区12.28万円、新宿区11.52万円。
 

 

2.長谷川町子

(左から)いじわるばあさん、長谷川町子、サザエさん

 

サザエさんの生みの親、長谷川町子についてご紹介します。
町子は、1920年(大正9)に佐賀県で生まれました。生後ほどなくして、福岡県に移り住み幼少期を過ごしますが、父の他界により、家族とともに東京に引っ越すこととなりました。

漫画が大好きだった町子は、母のすすめで「のらくろ」などで有名な田河水泡に弟子入りし、そこで才能が認められ、15歳で漫画家デビューしました。
「のらくろ」については、以前、「田河水泡・のらくろ館」を巡っていますので、こちらのブログもあわせてご覧ください。

終戦の翌年、1946年(昭和21)に福岡の新聞「夕刊フクニチ」から漫画連載を頼まれ、これが「サザエさん」の誕生のきっかけとなりました。一度、その連載は終了しましたが、「続・サザエさん」を頼まれたため、連載を再開しました。
その後、毬子、町子、洋子の姉妹で、出版社「姉妹社」を立ち上げ、連載漫画「サザエさん」を単行本化しました。これが大ヒットし、1969年からはフジテレビで「アニメサザエさん」の放送を開始し、今年2024年に55周年を迎えます。

町子は、1992年に72年の生涯に幕を閉じ、同年、国民栄誉賞を受賞しました。


3.記念館

今度は、道路の向いにある記念館に移動します。

 

キャラクターが勢揃い

 

サザエさんに囲まれた空間

 

町子の作品は、サザエさんだけではありません。戦時中、東京から福岡に疎開していたとき、戦況の悪化とともに漫画の仕事が少なくなっていき、漫画以外の仕事をするようになりました。その一つが便箋のデザイン。20種類以上デザインしたといいます。

ちょうど、「わかめちゃん」にフォーカスした企画展を実施していました。

 

サザエさんでは、「ワカメ」の表記ですが、作品によっては、「わかめ」を使用しているそうです。
また、戦前から戦後、ワカメちゃんヘアが流行しました。
 

ミュージアムショップ

チケット購入時に、ドリンク100円割引券がもらえます。館内でごゆっくりどうぞ。

 

 

4.桜新町

別の角度からですが、素敵な名前の「桜新町」について調べてみました。
大正初期、この辺りは、新町村、深沢村と呼ばれていました。当時、東京信託(株)がここで分譲開発を行い、その記念として数百本の桜が植えられたことから桜の歴史が始まります。(関東最初の郊外開発として、農地を買収し、住宅として造成、分譲しました。)

その後、1932年に、玉電の愛称で親しまれた東急玉川線の駅名として「桜新町」と名付けられました。
1968年の住居表示実施の際には、新町という旧名に桜をつけて「桜新町」となりました。

美術館横の公園

 

♪みんなが笑ってるー 子犬も笑ってるー ルルルルルルー 今日もいい天気


以上、桜新町からでした。


■館情報(長谷川町子記念館・美術館
・住所:東京都世田谷区桜新町1-30-6
・開館時間:10:00~17:30(最終入館16:30)
・休館日:月曜日、年末年始、展示替期間
・入館料:一般900円、65歳以上800円、大学生・高校生500円、中学生・小学生400円

みなさん、こんにちは!

 

2月の館巡りは台東区立一葉記念館を館巡りしました!

東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」から徒歩8分ほどにあります。

 

今年7月より新紙幣が発行されるにあたり、五千円札の肖像画が樋口一葉から津田梅子に変わります。

変わる前に、樋口一葉がどんな人物だったのか気になり、この館を巡りました!

 

 

また、この日はガイドさんに館の展示内容をご案内していただきました。

ありがとうございました!

 

 

 

●一葉記念館の経緯

 

名作「たけくらべ」の舞台となった龍泉寺町の人々は、一葉の文学実績を永く後世に遺すべく、有志により「一葉協賛会」を結成しました。

協賛会は記念館建設を目指し、有志会員の積立金をもとに現在の用地を取得し、台東区に寄付をして記念館建設を要請しました。

台東区は、地元住民の熱意に応えて、記念館建設を決定し、1961年に開館しました。

 

 

●樋口一葉の生涯

 

・明治を代表する女流作家

・1872年~1896年(明治5~29年)

 

14歳:

娘・一様に学問を学ばせてあげたいという父の想いから、文京・小石川にあった歌塾「萩の舎」に入門して、和歌・古典の勉強に励みます

 

17歳~21歳:

父を亡くし、戸主として一家を支えざるを得なかった一葉。

母と娘を養うために小説家を目指したり、雑貨や駄菓子の商売をしたりとしましたが、生活苦がなかなか打開できませんでした。

 

↑一葉の住んでいた街並み

 

22歳:

「奇跡の14ヶ月」といわれるほど、たくさんの作品を執筆しました。

代表作:①たけくらべ:

     吉原を舞台にして少年・少女たちの生活を豊富な喩(ゆ)と女性の内面を繊細に描いています。

    ②十三夜:

     離婚の決意を固めながらも、それによって一人息子を失うことを恐れて離婚をとどまる女性を描いています。

 

 

 

●さいごに

男尊女卑の風潮があった明治時代で、女流作家として大いに活躍した樋口一葉。

男女共同参画社会が進む現代社会の時代を表すということから、五千円札の肖像画になったそうです。

 

↑一葉記念館の向かい側にある「一葉記念公園の石碑」

 

【館の基本情報】

台東区立一葉記念館

交通アクセス:東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」下車 徒歩8分

開館時間:9時~16時30分(入館は16時まで)

休館日:月曜日(祝日と重なる場合は翌日)、年末年始、特別整理期間など

入館料:小、中学生100円、一般300円

公式サイト:https://www.taitogeibun.net/ichiyo/

 

今月は、東京都港区の「大倉集古館」を巡りました!

 

1.大倉集古館と大倉喜八郎

大倉集古館は、明治から大正にかけて活躍した実業家の大倉喜八郎(おおくらきはちろう)が設立した日本で最初の財団法人の私立美術館です。
大倉喜八郎が蒐集した日本や東洋各地域の古美術品や、息子の喜七郎が蒐集した日本の近代絵画など、国宝3件、重要文化財13件、重要美術品44件を含む約2,500件の美術・工芸品が所蔵されています。これらの古美術品は、当時、文化財の海外流出に嘆き、その保護と自国文化の向上を目的として喜八郎が約50年に渡り蒐集してきたそうです。

大倉鶴彦翁像(大倉喜八郎の別称)

 

大倉喜八郎(1837~1928)は、大倉財閥の創設者であり、父は新発田藩の大名主でした。18歳で上京し、乾物屋を営んだ後、1865年に大倉屋鉄砲店を開業し、戊辰戦争に際し官軍御用をつとめ巨利を得ました。このことが実業家としての始まりと考えられます。
後に貿易業にも着手し、朝鮮や中国における投資にも積極的で、帝国ホテルも含め国内外に多くの事業を展開し、大倉財閥を築きました。また、教育にも関心を持ち、現在の東京経済大学である大倉商業高校を創立しました。

館の外観
1998年、国の登録有形文化財に指定されました。

 

 

大倉集古館は、1902年に赤坂の喜八郎自邸内に美術館を開館し、訪問客の観覧に供していましたが、1923年の関東大震災により、当初の建物と陳列中の所蔵品を失いました。幸いに無事であった倉庫に残された作品を基本として、1928年に再開館しました。

後に、1955年代には隣接するホテルオークラの建設に伴い建物が整理され、1962年に第一次大規模改修を行い、1997年の第二次大規模改修を経て現在に至ります。

隣接するホテルオークラ

 

 

2.展示品

金剛力士像(鎌倉-南北朝時代)がお出迎えしてくれます。

 

入口の上に、「大倉集古館」と書かれています。
これを書したのは、徐世昌(1855〜1939)北京政府大総統です。

 

中へ入ると右手で受付を済ませ、1階、2階、地下1階(ミュージアムショップあり)を見学することができます。

歴史上の人物とも親交がありました。

  • 孫文の書額「博愛」 孫文は武器調達に関して明治30年代から喜八郎と関わりがありました。
  • 張作霖寄贈の弔旗
  • 蒋介石寄贈の弔旗「普天同吊」 喜八郎の告別式が大倉邸内で執り行われたときに弔旗が掛けられました。
  • 喜八郎は、ソウルに善隣商業高校(現在の善隣インターネット高等学校)をつくりました。その卒業生の中には古賀政男がいます。以前、古賀政男音楽博物館を巡っていますので、あわせてご覧ください。
  • 狂歌(きょうか) 滑稽な趣を57577で詠む短歌。喜八郎は15歳前後でつくりはじめ、亡くなるまでに1万首以上といわれています。
  • 息子、喜七郎に関する展示


1階から2階へ上がる途中

 

2階バルコニー
奥のほうに達磨大師坐像(中国清時代17-19世紀)が展示されています。

 

以上、非常に見応えのある館でした。
見学の後は、目の前にあるホテルオークラでお茶やお食事でもしてみてはいかがでしょうか。

■館情報(大倉集古館
・住所:東京都港区虎ノ門2-10-3
・開館時間:10:00~17:00(最終入館16:30)
・休館日:月曜日、年末年始、展示替期間
・入館料:一般1,000円、大学生・高校生800円、中学生以下無料
 

クロスカルチャー研究会は、2024年に創立10周年を迎えました。

2014年に法政大学にて発足してから早10年。時が経つのが、あっという間に感じます。それほど、博物館などを巡るこの活動に対して真摯に向き合ってくることができた証なのだと振り返っています。ここまでの道のりは、ひとえに御支援いただきました関係者の皆さま方のおかげと心から感謝申し上げます。この場をお借りして御礼申し上げます。

本会の活動は、博物館や美術館、資料館などを訪れ、その文化や歴史を学び、知見を広め、有意義な社会人生活を送ろうとするものです。この活動を通じて、私たちの日常生活や現代社会に通じる気づきを得ることができました。

この度、創立10周年を迎えたことを機に、今後、より一層ユニークな発想のもとで、博物館などを巡る企画ができないかと会員同士で話し合いました。予定している10周年記念企画はもちろん、そのほかにもアイデアを重ねて活動に取り組んでまいりたいと考えています。

中長期的なクロスカルチャー研究会の発展にぜひ御期待いただければ幸いです。皆さまにとって今年が素晴らしい1年となりますことをお祈り申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2024年1月
クロスカルチャー研究会

2023年、最後の館巡りは書道博物館(中村不折記念館)を訪れました。

日暮里駅をしばらく歩き、館にたどり着きました。

 

書道博物館の建物は、書家で洋画家でもある中村不折の旧宅でもあります。

中村不折で特に有名な作品は、初版『吾輩は猫である』(夏目漱石 作)の挿絵や、「新宿 中村屋」の文字でお馴染みの方も多いことでしょう。

 

館内の特別展示では、中村不折の没後80年にちなみ、期間限定で書道の展示がありました。

常設展のフロアには、書道の展示のみならず、洋画や文化財のコレクションもみることができます。

 

中村不折が半生にわたって、収集をしてきた殷代の甲骨に始まり、青銅器、玉器、鏡鑑、瓦当、博、陶瓶、封泥、墨印、石経、墓券、仏像、碑碣、墓誌、文房具、碑拓法帖、経卷文書、文人法書、など、重要文化財 12点、重要美術品5点を含む東洋美術上重要な文化財がその多くを占めています。

こうしたコレクションと、1936年に開館した当初の博物館建設に伴う一切の費用は、すべて不折自身の絵画や書作品の潤筆料から捻出されました。

 

残念ながら館内撮影は禁止でしたが、中庭の様子です。

 

 

 

 

 

 

 

館内は全体的に落ち着いた雰囲気でゆっくり展示をみられる空間でした。

館巡りのあと、近くの「羽二重団子 本店」でお団子と抹茶のセットで休憩しました。

ぜひ近くに用事があれば、訪れると良いでしょう。

 

 

■館の基本情報(書道博物館)

所在地:〒110-0003 台東区根岸2丁目10番4号

交通アクセス:鶯谷駅より徒歩5分

開館時間:09

休館日:月曜日(祝休日は開館。翌平日は休館)、展示替期間、年末年始

入館料:500円(一般)

みなさん、こんにちは!

 

今月は埼玉県さいたま市北区土呂町にある「大宮盆栽美術館」を館巡りしました。

JR高崎線「土呂駅」より徒歩7分です。駅から美術館へ向かう途中、歩道に盆栽の絵を見つけました。

 

 

美術館の概要

2006年度、さいたま市盆栽関連施設等基本計画を策定し、2007年度に旧髙木コレクションの盆栽100点を含む資料523点を一括購入しました。2008年10月着工し、2010年3月に総合的な盆栽文化を発信する世界初、効率の盆栽美術館として開館されました。

この美術館の特徴は、①米国立盆栽・盆景園との姉妹間交流事業といった国際交流事業、②入館者総数43,700人の内、約3,000人もの外国人がこの美術館を訪れています。(入館者数は2022年度現在)

それほど盆栽が世界各国で人気であることがわかります。

 

 

海外に親しまれている盆栽アートについて

盆栽が世界に広がったのは、1900年のパリ万博会場で日本庭園や盆栽が展示されたことがきっかけです。認知度が高まり、時が経ち、1989年からは「世界盆栽大会」が初開催され、世界各国からこのイベントに参加するようになりました。

日本独自の魅力的なアートとして、リタイア後の年配が趣味として楽しむ他、若者も楽しんで盆栽アートに励んでおり、幅広い年齢層に盆栽は親しまれているようです。

ちなみに、世界盆栽大会は4年に1度の頻度で開催しており、開催地は世界各地で行われています。(オリンピックに似たような大型イベントです)

 

大宮盆栽村の歴史について

東京の団子坂(文京区千駄木)周辺には、江戸の大名屋敷などの庭造りをしていた植木職人が多く住んでおり、明治になってから盆栽専門の職人も生まれました。しかし、関東大震災(1923年)で大きな被害を受けた盆栽業者が、壊滅した東京から離れ、盆栽育成に適した土壌を求めて、現在の大宮公園近辺に移り住みました。1925年には彼らの自治共同体として大宮盆栽村が生まれ、最盛期の1935年頃には約30の盆栽園がありました。

そういった経緯から、大宮盆栽美術館は大宮公園に近い場所に設立されました。

 

住民協約について

開村当時、大宮盆栽村に住む者の規約が作られました。

①盆栽を10鉢以上持つこと、

②門戸を開放すること、

③二階建ては建てないこと、

④垣は生け垣とすること

盆栽に対する強いこだわりが伝わってきます。

 

 

 

盆栽を鑑賞するポイント(5つ)

盆栽を鑑賞するポイントを知ることで、より一層盆栽アートの鑑賞を楽しむことができます。

①根張り

②幹の立ち上がり

③枝ぶり

④葉の個性

⑤ジンとシャリ(神と舎利)

 

 

 

こちらの美術館に足を運び、盆栽の芸術に触れてみてはいかがでしょうか?

 

■館情報(大宮盆栽美術館

・住所:埼玉県さいたま市北区土呂町2-24-3

・開館時間:(3月~10月)午前9時~午後4時30分 ※入館は午後4時まで
      (11月~2月)午前9時~午後4時 ※入館は午後3時30分まで

・休館日:木曜日(祝日の場合は開館)、年末年始、臨時休館日あり

・入館料:一般 310円(200円)、高大生・65歳以上 150円(100円)、小中学生 100円(50円)

今回は、渋谷区に所在する「古賀政男(こがまさお)音楽博物館」を訪れました。

 

古賀政男(古賀政男音楽博物館HP)

 

小田急線、東京メトロ千代田線「代々木上原駅」から徒歩3分、博物館名の記載がある建物が見えてきました。円形の独特な外観も特徴的です。また、その奥の建物には「JASRAC」日本音楽著作権協会も所在しています。

 

1.古賀政男とは

  • 「演歌・歌謡界の父」古賀政男は、戦前、戦中、戦後と活躍した昭和の作曲家で、音楽会の発展に尽力された方です。古賀政男が遺した名曲は、「古賀メロディー」(※)として親しまれています。(※)生涯4,000曲超。
  • 代表作は、『♪酒は涙か溜息か』、『♪東京ラプソディ』歌:藤山一郎、『♪人生の並木道』歌:ディック・ミネ、『♪柔」歌:美空ひばり、『♪ウソツキ鴎』歌:小林幸子、『♪ふるさと音頭』歌:都はるみ、などなどがあります。
  • 1904年(明治37)福岡県の現大川市に誕生しました。
  • 1912年(大正1)父の死去後、母親や兄弟たちと朝鮮(仁川)に住む長男の元に身を寄せました。この頃、従兄弟から大正琴をもらいました。
  • 1917年(大正6)京城善隣商業学校(※)に入学し、四男からマンドリンを贈られました。(※)ソウル市所在の現:善隣インターネット高校。校内には、古賀政男関係の時計塔や展示室があるので、ソウルに旅行された際は立ち寄ってみるのも良いかもしれません。
  • 1923年(大正12)明治大学入学。マンドリン倶楽部の創設に参加しました。
  • 1931年(昭和6)コロムビアレコードと専属契約を結び、プロの作曲家として歩み始めました。
  • 1959年(昭和34)日本作曲家協会を設立。日本レコード大賞を制定し、運営委員長となりました。
  • 1978年(昭和53)73歳で死去。没後、音楽家として初めて国民栄誉賞を贈られました。

 

2.館内の様子

3階のみ撮影可能です。

 

古賀政男は、1938年(昭和13)、代々木上原に家を建てました。その一部が再現されています。

 

作曲活動の場

 

受賞した記念品などが展示されています。

 

自動演奏してくれます。

 

古賀政男といえばマンドリンです。

マンドリンとは、イタリア発祥の撥弦楽器(はつげんがっき)の一種で、弦を弾いて演奏する楽器全般をいい、ギターやベースなども含まれます。ボディに丸みを帯びているのが特徴で、それ以外は一見ギターやヴァイオリンと似ています。ただ、ギターは弦が6本、マンドリンは8本などの細かな違いがあります。

明治大学出身でマンドリン倶楽部の創設者でもあるので、ぜひ明治大学マンドリン倶楽部の演奏を聴きにいきたいものです。リンク:明治大学マンドリン俱楽部

 

そのほか、

  • 1階 CD、グッズ販売があります。けやきホールではコンサートなどが開催されています。
  • B1階 音楽、映画、書籍の閲覧が可能です。また、カラオケ部屋があり、なんと自身で歌った曲をCDに録音することもできるんです。

 

駅からのアクセスも良いので、ぜひお気軽に足を運んでみてください。

 

 

■館情報(古賀政男音楽博物館

・住所:東京都渋谷区上原3-6-12

・開館時間:10:00~17:00(最終入館16:30)

・休館日:月曜日、年末年始、展示替期間

・入館料:一般550円、学生440円、小・中学生220円

今回は東京都練馬区のちひろ美術館へ足を運びました。

 

1977年、世界初の絵本美術館として、いわさきちひろの自宅兼アトリエ跡に建てられました。

ちひろの絵にいつでも出会える場として、また身近に絵本や絵本の原画に接することができる絵本の専門美術館として、子供から大人までどの世代でも楽しめる空間でした。

 

入場券は次回来館の際は割引料金での入館が可能とのこと。東京だけでなく、分館の安曇野ちひろ美術館でも利用可能です。

 

館内の展示品は写真撮影不可でしたが、館内の一部を紹介します!

 

 

 

最後に、今回の館巡りでは、いわさきちひろの展示以外では谷内こうた展が開催されていました。

空の描き方が鮮やかで、いわさきちひろと同じく絵に優しさとメッセージ性の両方が感じられました。

 
 

■館の基本情報(ちひろ美術館)

 

 

所在地:東京都練馬区下石神井4-7-2

交通アクセス:上井草駅より徒歩7分

開館時間:

休館日:月曜日(祝休日は開館。翌平日は休館)、展示替期間、年末年始

入館料:1000円(一般)