9月の館巡りでは平和祈念展示資料館を訪れました。2000年(平成12年)11月30日に開館した東京都新宿区に位置する平和祈念展示資料館は、さきの大戦や終戦後において、「兵士」「戦後強制抑留者」「海外からの引揚者」の三つの労苦を扱う施設です。開館当時の所在地は新宿住友ビル31階でしたが、二回目のリニューアルを終え、現在は新宿住友ビル33階に移転しました。当館では、兵士、戦後強制抑留者、引揚者の戦争の労苦(苦しくてつらい)記憶を物語る多くの資料を所蔵しています。

(*所蔵資料:約23,000点、常設展示:約400点)

 

 

 
 

「帰還者たちの記憶ミュージアム」愛称とロゴマークの意味

 

 

7月に正式名称である平和祈念展示資料館の新しい愛称「帰還者たちの記憶ミュージアム」とロゴマークが公開されました。正式名称だけでは、概念的に具体的な内容が分かりづらいため、戦地から家に帰ってきた方々の想いを表す愛称を付けました。ロゴマークは、当館のテーマである三つの労苦を表しています。三つの円は日本に帰国する際の船の窓、線はその窓から見える水平線です。苦しい状況の中で生きてふるさとへ帰るという希望や、祖国を想う帰還者たちの気持ちを表現しています。

 

 

 
平和祈念展示資料館は

 

1945年(昭和20年)8月15日に生き残られた兵士の数は約789万人、そして約230万人が死亡したとされます。戦争を終えていろんな品物が寄贈されました。2024年(令和6年)で戦後79年が経ち、当時の記憶は年月の経過とともに次第に失われつつあります。戦争が起きると非常に辛く、大変なことがあるということ、そして命がいかに尊いのかを改めて展示品を通して考える機会となりました。この資料館は、戦争中、日本の兵士がどのような生活を送っていたのか、戦後、帰還者たちがどのような状況で祖国を目指し、日本に戻ってきたのか、その実際の姿を後世に伝えるために設立された貴重な施設です。

 

 

 

 
 

 

プログラム

 

当館では、パネルや映像、音声ガイドにより自由に見学することもできますが、戦争経験者のお話を直接聞くことができる語り部お話し会(*毎月第3日曜日に開催)、解説員による展示解説の団体向けプログラムも用意されています。予約制で行われるため、見学希望日の一週間前までに申し込みが必要です。解説時間は60分程度で、解説員から館内案内と展示解説をしていただきより理解が深まりました。

 

 

プロローグ

 

総合案内から右側に施されているプロローグは「兵士」「戦後強制抑留者」「海外からの引揚」三つの労苦と関連する出来事を紹介しています。当時の写真と戦争経験者の証言で構成されています。

 

 

 

【三つの労苦】

 

1. 兵士コーナー

 

一つ目のテーマは、兵士の話です。兵士は、さきの大戦において、国のために家族を本国に残し、命懸けで戦地に向かって戦った方々です。大人になった男性は徴兵検査を受ける義務がありました。本来であれば、普通の生活を送っていたはずの人々が本人の意思に関係なく、戦争が始まったことによって国のために戦地に連れていかれました。一部は志願した人もいましたが、大半が海軍でした。志願すれば17歳から入営が可能で、「この国は自分の手で守る」という純粋な心で志願したそうです。しかし、終戦の二年前、1943年(昭和18年)になると志願者だけだと追いつかなかったため、人気のあった海軍もどんどん召集して集めることになりました。戦争がなければ日常生活をしていた方が殆どで、軍隊生活は厳しく辛い日々が続きました。その中には、軍歴期間が短かったため恩給や年金を受給できない方(*恩給欠格者)もいました。本来国のために働いた方々ですので、恩給や年金にあたるものを支給してもらうのが当然ですが、当時軍に所属している恩給をもらうためには、一定期間の決まりがあり、それに行かない方が400万人もいたといわれます。

 

 

 
徴兵制度

 

明治6年(1873年)1月10日、太政官布告(*明治維新政府の法令形式)により「徴兵令」が発せられたのが始まりで、これにより満20歳の日本の男性(*昭和19年(1944年)からは一歳引き下げられて満19歳)は徴兵検査という一種の身体検査を受けることによって3年間の兵役義務を担うことになりました。徴兵検査の対象となった成人男子は、身体検査を受けて、兵役に適しているかどうかが判定されました。つまり軍隊に就くため健康状態を見る制度のことを言います。徴兵検査の結果によって「甲」「乙」「丙」「丁」「戊」の5種類に分けられました。「甲種」「乙種」「丙種」までは「合格」者とされ、「丁種」「戊種」は兵役の不合格者に分類されました。検査の合格者全員が兵役に就くわけではなく、常備兵として必要な数を確保できれば良いのであって、明治~大正の平時にあっては、現役兵として徴兵されるのは、合格者の2割程度であったといわれます。昭和20年(1945年)、第二次世界大戦で敗戦して以降、日本で徴兵制は廃止されました。

兵士の中でも、三つに分けられ、合格をした人で、すぐ兵士として召集された人を現役兵といい、陸軍は2年、海軍は3年、兵役の義務がありました。服役を終えると日常生活に戻られました。そうなると身分が予備役兵となります。合格はしたけれども、すぐ兵士に召集されなかった人を補充兵といって、兵隊の数が足りないときに補充のために入るものでした。予備役兵と同様に普通のような日常生活を送ってもいいとされました。

 



現役兵

すぐ兵役に召集された人を現役兵という。昭和2年(1927年)兵役法が制定され、満20歳の前年12月1日からその年の11月30日までに徴兵検査を受けた者の中で定められた所要の人員だけ選ばれた。陸軍は、満20歳から陸軍は2年、海軍は3年服役した。

 

予備役兵

現役を終わった軍人が一定期間服する兵役。平常は市民生活を送り、非常時に召集されて軍務に服する。

 

補充兵

徴兵検査には合格したものの、すぐに兵役に召集されなかった人。現役兵の欠員を補充し、また戦時の要員に充当するために、必要に応じて召集するもの。

 

 

 

 
実際に戦地に行かれた方です。赤紙をもらって軍に入り、戦地に行くということは、命の危険を伴うことでした。しかし、当時は「おめでとうございます!」と祝福されていました。どの家にもカメラがある時代ではなかったため、写真を撮ることは非常に珍しかったのですが、村の人や家族が集まって、兵士を送り出す際にお祝いをしながら記念写真を撮っていました。

 

 


当時の日本の社会では、兵役に就いてはいるものの、軍隊に行っていない日常生活をしている予備役兵と補充兵が大勢いました。そういう中で戦争が始まり、1937年(昭和12年)、日中戦争が始まった年の日本の人口は7000万弱で、兵士の数は108万人程でした。1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まった年の兵士の数は241万人で2倍以上増えたことが分かります。兵隊を増員するために軍は戦地に行っていない予備役兵と補充兵を呼びつけました。そのときに使ったのが臨時召集令状です。

 

臨時召集令状(赤紙)

 

臨時召集令状(りんじしょうしゅうれいじょう)別名赤紙は、戦争が長引いたり激しくなるとより多くの兵士が必要になった際に国の命令に基づいて発行されたものです。徴兵検査の結果、現役兵とならなかった人や、除隊後に予備役になっていた人など、自宅で待機している男性に召集をかける際に国から出された命令書です。使用された用紙が赤色であったため赤紙と呼ばれます。

 

赤紙は郵送ではなく、役場の兵事係が直接家まで届け、本人に手渡しするのが原則でした。兵事係が受領書の部分を切り取って持っていき、赤紙を受け取った人は、記載された日時・場所に出頭するのが国民の義務でした。兵士として国にために働くことは誇らしく立派なこととされましたので、兵隊として戦地に行く人を出征といいました。赤紙を受け取った男性はいかないというわけにはいきません。本人はもちろんのこと、家族まで非国民として罵られました。実際逃げた人もいたそうですが、その殆どが軍や警察から捕まりました。

 

本記には住所氏名、召集部隊名、出頭場所、出頭日時などが書かれており、応召者が兵営に出頭した際に回収されました。到着地は大抵、軍隊の駐屯地で、赤紙の左側の「臨時召集應召員旅客運賃後拂證」は後払証として切り離せるようになっており、家からある程度距離がある場合は赤紙を切符代わりに使いました。丁寧に「乗車駅」「下車駅」「乗車すべき席の等級」「運賃(急行料金)」が記載してあります。出発駅の窓口に後払証を差し出すと、到着駅までの切符が交付されました。目的地までの交通費(運賃)は基本的に全額無料になりました。本人が支払った分についても到着後、配属部隊にて支給することになっており、不足するのであれば事前に市町村役所に届け出れば全額を支給するシステムでした。赤紙の裏側には、軍に入る心得や、逃亡した場合の罰則についての規定などが書かれています。現在全国に10枚程しか残っていないといわれているくらい、大変貴重な資料です。

 

 

 
 

 

 

千人針

 

出征する兵士に女性が贈った代表的なお守りの一種です。主に虎の絵が多かったですが、虎は中国のことわざで1日に千里行って千里還るという意味を持っています。どんなに遠くの戦地に行っても虎のようにまた家族のもとへ無事に帰ってきてほしいという想いをお守りに込めて、1,000人の女性たちが赤い糸で玉留めを縫って作り上げました。玉留めには敵の弾を止めるという願いが、虎の頭の部分に縫い付けられた五銭には、五銭=死線を超えてほしいという想いが込められていました。さらに、胸の部分に縫い付けられた十銭には十銭=苦戦を超えるという験を担いでいます。

 

戦陣訓

 

戦陣訓(せんじんくん)は、1941年(昭和16年)、陸軍大臣東条英機(とうじょうひでき)が全陸軍に発した戦場での心得のことです。 日中戦争が始まり、終わりの見えない戦争の中で、天皇陛下の軍である日本の兵隊の心得がこの戦陣訓に書かれています。「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず」という文言が有名で、敵の捕虜になっては恥であるとして、捕虜になるくらいなら自決しなさいと教えていました。つまり、日本の兵士たるものは生きて敵に捕まって捕虜になるのは恥ずべきことであり、死ぬまで戦って、もし生きて捕まったら潔く命を絶つのがいい。敵に降参をしてはいけなかった日本の兵士は自決の道を選ぶしかなかったのです。自ら命を絶った兵士が多いのは、日本の軍隊の特徴です。兵隊の命がいかに軽く扱われたのかが分かります。

 

認識票

 

兵士を識別するために必ず身に着けていかなければならないもの。自分の名前はもちろんのこと、所属する部隊の番号などが刻んでありました。肌身に右肩から左肩にかけ、下着の上ではなく肌身にかけました。

 

陶器製の手榴弾

 

陶器で作られた手榴弾、爆弾です。武器に使用する鉄が不足していたため、焼き物が多く、全国各地で大量に生産された陶器が武器として使われました。非常に日本的なものだといえます。

 



 

戦線の展開

 

1931年(昭和6年)9月 満州事変

1937年(昭和12年)7月 日中戦争

1941年(昭和16年)12月 太平洋戦争

昭和19年(1944年)7月 太平洋戦争末期

1945年(昭和20年)9月 終結

 

 

亡くなった兵士の死因を調査した研究者もいました。戦闘による死者だけでなく、間接的な死因で亡くなった人々が多かったという記録があります。230万人の兵士が死亡した中では、水没、食料不足で餓死した人、病死した人、自ら命を絶った人を含めてると約5~6割の兵士が戦闘以外の理由で亡くなったとされています。

 

 





当時は、トラックなどを補給する余裕がなかったため、兵士は食料も含めて自分の持ち物を全て持たなければならなかったです。体にかかれた重量は30㎏を超えたといわれます。体験コーナーでは、実際に兵士が背負っていたカバンの重さを再現しています。興味のある方は、ご体験ください。

 

 





玉音放送

 

1945年(昭和20年)8月15日は、第二次世界大戦が終わった「終戦の日」です。この日の正午、ラジオを通じて国民に日本の敗戦を告げる「玉音放送」が流れました。昭和天皇による「終戦の詔書」の朗読がラジオで放送され、多くの国民が日本が敗戦国になったことを知ることになりました。当時はテレビがなく、ラジオを用いて音声を流しましたが、漢語が多く使われていたため、内容を理解できなかった国民も多かったといわれています。玉音放送の内容を簡単に説明しますと、「今までの時代も大変だったけれど、これからの時代は、平和のために日本は敗戦国として国民の皆さんに一層の努力をお願いしたい」という趣旨でした。この放送には、ある逸話があります。日本はポツダム宣言を受諾して敗戦を認めたことを国民に伝えたわけですが、放送されたのは生放送ではなく、NHKの前身である日本放送協会が数日前に原稿を読み、昭和天皇の声を録音して作ったレコード盤を使用していたそうです。当時、陸軍の一部の若い兵士たちは「日本は降伏してはいけない」と考え、放送を阻止するためにレコード盤を盗もうとしました。その気持ちはわからなくもないですが、無事に放送が行われ、日本は終戦を迎えました。

 



2. 戦後強制抑留コーナー

 

戦争が終わったにもかかわらず、シベリアを始めとする旧ソ連やモンゴルの酷寒の地において、劣悪な環境の中で過酷な強制労働に従事させられた方々を戦後強制抑留者といいます。抑留とは強制的に留め置くことを意味し、第二次世界大戦で対日参戦したソ連が、投降した日本軍を北方のシベリアやモンゴルなどに送り、強制労働を従事させました。抑留された人は約55万5千人に及ぶとされます。1950年までに大半が帰還されましたが、劣悪な環境に置かれ人々の中で多くの死亡者が出ました。その背景には、戦争により大きな人的被害と物的損害を被ったソ連における労働力不足を補うためであります。日本軍とソ連軍との間で停戦が合意され、日本軍や民間人はソ連兵から「ダモイ(帰国)」と言われ、帰還を命じられましたが、日本へ送還されることなく、シベリアをはじめとするソ連領地内へ強制連行されました。抑留された人々はマーゲリという強制収容所で生活をすることになりました。本コーナーでは、ラーゲリ(収容所)の模型や実際に抑留者たちが使っていた道具、手作りの食器などが展示されています。無理やり留め置かれた人々の暮らしぶりを垣間見ることができます。

 



1945年、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終結させました。ポツダム宣言は全13か条で構成されており、その中の第9条では、戦争終結後に戦地にいる日本の軍人・兵士は全員家庭に戻ることが許されると定められていました。具体的には、第9条は「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」と記されています。しかし、このポツダム宣言の内容は無視され、戦後多くの日本兵がシベリアに抑留されました。早く帰国できた抑留者は1年後でしたが、長い人は11年を経て帰国したとされています。マイナス30~40度という非常に厳しい冬のシベリアで、重労働を強いられました。抑留者たちには十分な食料が与えられず、一日の食事は黒パン350グラムと薄いカーシャ(お粥)程度の少量に限られていました。抑留者が収容されたラーゲリでは、6人1組で生活しており、黒パンは6等分して分配されました。この黒パンは味がすっぱく、美味しくなかったといわれますが、生き延びるためには公平な分配が求められました。そのため、パンを分けるのにかかる時間は一時間以上に及ぶこともありました。公平さを期すために、じゃんけんで勝った者から順に好きなパンを選んでいったといいます。抑留者たちは、常に飢えに苦しみ、過酷な環境に置かれていました。時にはジャガイモと爆弾を見間違えるほど、極限状態に追い込まれていたと伝えられています。

 



「ノルマ」の由来

 

「ノルマ」という言葉は、ロシア語を語源としています。ソ連が抑留者に対して一方的に決めた仕事量の目標値を意味していました。抑留者たちに課されたノルマは非常に過酷なもので、日本でもその辛さが伝わり、社会に広まりました。ちなみに、日本人の多くがその厳しいノルマを達成したといわれています。このような背景から、日本でも「ノルマ」という言葉が目標や課題を指す言葉として定着し、現在では仕事や日常生活における「達成すべき目標」を意味する言葉として広く使われています。

 



抑留者の手作りスプーン

 

厳しい抑留生活の中でも、抑留者たちはわずかな楽しみを見つけようとしました。ゲームや音楽、劇団の活動を行い、食器などのものづくりも好みました。しかし、食料は非常に限られており、物を作ること自体が辛さを忘れるための手段となり、希望を見出すための重要な活動となりました。「食べることは生きること、生きることは食べること」という考えのもと、困難な状況にあっても生き延びて故郷に帰り、このスプーンで腹いっぱいおいしいものを食べるという願いを込めて、手に入る材料や道具を使ってスプーンを作りました。シベリアのマイナス30~40度の厳寒の中、カーシャ(お粥)やスープはすぐに凍ってしまいましたが、残った食べ物を一口も無駄にせず食べるためには、指では取り出せない食べ物を掻き出すための道具が必要とされました。特に、飯ごうの底に残ったカーシャを掻き出す際に、スプーンが大変有用でした。スプーンは、生きていく上でなくてはならないものでした。

 

3. 海外からの引揚げコーナー

 

本コーナーでは、引揚船の模型や写真、衣類などが展示されています。引揚者とは、第二次世界大戦後、敗戦によって外地での生活のよりどころを失い、身に危険が迫る過酷な状況の中で祖国に戻ってきた人々、帰還者のことです。1945年(昭和20年)8月の敗戦時、約660万人の日本人(軍人・軍属・民間人)が海外に残されていました。満州には日本の企業が多く進出しており、そこで働いていた事務員や、現地で生まれた子供たちも含まれていました。

 



海外からの引揚げコーナーでは、特に民間人の引き揚げに焦点を当てています。終戦後、海外にいた日本人の民間人の数は300万人に及びました。南方の東南アジアには、日本の領土も多くありましたが、日本が敗戦国となった後、独立国としての主権を失ったため、外国に住んでいた日本人は帰国せざるを得ない状況に追い込まれました。どの国からの帰国も決して容易ではありませんでしたが、特に満州からの引揚げは非常に過酷で、大変な苦労と多くの犠牲が伴いました。

 



1931年(昭和6年)満州事変以降、満州は農村の余剰人口の移住先として注目され、昭和初期の厳しい日本社会から逃れる手段として、農業移民が推奨されていました。当時の日本社会は大学を出ても出世が決まるわけでもない時代で、どんなに働いても借金が返せなく「口減らし」という家計の負担を減らすために跡継ぎである長男以外の子供は、身売りされることもあり、場合によっては命を絶たれることもありました。借金を返済するために人身売買が行われていた時代、山形県には「娘を身売りしてはいけません。しかし、どうしても身売りをしなければならない場合には、悪質な業者に騙されて安値で売られないように、高く売るための相談に乗ります」と書かれたポスターが存在していました。役所の相談窓口でこのようなポスターが掲示されていたことから、当時の厳しい状況がよく分かります。

 



1936年(昭和11)年に「満州農業移民100万戸移住計画」という大量移民計画が国策として実施され、終戦時には約27万人が満州に移住しました。全都道府県の中で、一番移住者が多かった地域は長野県で、二番目は山形県です。満州に移住した人々の中には、日本よりも穏やかな生活ができると考えた人も多かったようです。しかし、1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍が満州に侵攻したことで状況は一変しました。もともと満州を守っていた陸軍の関東軍、17歳から45歳までの男性の大半が召集されました。その結果、ソ連軍の攻撃を受けた一部の民間人は集団自決を選び、1万人に上る人が命を絶ったといわれています。

 

海外引揚概況図

 

海外引揚概況図には、海外からの引揚者の人数が一桁まで詳細に記録されています。これは非常に珍しいことで、引揚者の帰国手段は船のみであり、引揚者を迎える日本の港は、博多・佐世保・舞鶴・鹿児島など最大で18か所が指定されました。地方引揚援護局が引揚者に対する調査を行い、詳細な記録が残されています。

 



おむつで作られたワンピース

 

満州で生まれた4歳の女の子に日本に引き揚げる際に着せようと作ったワンピースです。当時、朝鮮半島の釜山に向けて日本へ戻ろうとしましたが、すぐに船に乗ることができず、約1年間待たされました。その間に赤ちゃんが亡くなり、母親は赤ちゃんのおむつを形見として持ち続けました。故郷に戻った際、娘の服があまりにも汚れていたため、母親はそのおむつを使ってワンピースを作り、娘に着せました。

 

引き揚げのまち舞鶴

 

引き揚げは1958年(昭和33年)まで続き、50年以降では舞鶴だけが引揚港となりました。舞鶴は日本海側で唯一の軍港として栄えた都市であり、終戦後の13年間にわたり約66万人の引揚者と遺骨1万6千柱を迎え入れました。舞鶴は、最後の帰還者を出迎えた「引き揚げのまち」として知られています。

 



平和祈念展示資料館では、戦争に関する様々な資料や写真、戦争経験者の証言を通じて、忘れられつつある戦争の記憶と平和の大切さを再認識させる機会を与えてくれました。皆さんもぜひお立ち寄りください。

 

❏ 館情報(平和祈念展示資料館

・住所: 東京都新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル33階

・開館時間:9:30~17:30(入館は17:00まで)

・休館日:月曜日(※祝日または振替休日の場合はその翌日) ・年末年始(12月28日~1月4日) ・新宿住友ビル全館休館日

・入館料:無料

・アクセス:都営大江戸線「都庁前」駅 A6出口より徒歩 約1分

                  東京メトロ丸ノ内線「西新宿」駅より徒歩 約5分

                  JR線、小田急線、京王線「新宿」駅西口より徒歩 約10分

さいたま市岩槻区に所在する「岩槻人形博物館」を巡りました。

人形

 

 

巡った当日は、人形に関する「岩槻まつり」が開催されていましたので、その様子をお届けします。

 

 

奥に見えるのが世界最大の「ジャンボ雛壇」

 

1976年(昭和56)から開催されているこのまつりは、毎年7月又は8月に開催され、ジャンボ雛壇をはじめ、人形に関するイベントや、屋台、ダンスショーなど様々な催しが開かれ、見物客は15万人にも及ぶそうです。

 

 

1.人形のまち岩槻

江戸時代となりますが、当時の岩槻は、日光御成街道における江戸からの最初の宿場町でした。そのため、日光東照宮の造営や修築に携わった工匠たちの中には、岩槻に住み着いた者も多くいました。
その工匠たちは、岩槻に多く植えられていた桐を使い、タンスなどの製品を作るようになっていき、中には人形を作りだす者もおり、その人形の技術が広まり人形のまちとなりました。つまり、職人と材料の桐が人形のまち岩槻のはじまりでした。

特に、日光東照宮の修理にあたった京都の仏師「恵信」が、岩槻産の桐粉に着目し、のりで固めて人形の頭を作り始めたといわれています。

人形の頭

 

 

2.人形博物館(にんぱく)について

にんぱくは、2020年に開館した比較的新しい博物館です。
館内は、展示品のある3室、ミュージアムショップ、ワークショップエリアなどから構成されています。
訪問したときは、「人形修復」と題した企画展が行われていました。

館内には様々な人形が展示されており、表情の違いや衣服、小道具などにも注目してみるとより楽しむことができます。
 

 

 

 

3.人形の製作方法

岩槻人形の特徴は、全て手作りであり、頭、胴体、衣服、小道具などそれぞれ分業しているという点が挙げられます。

特に昔から桐を材料として作られています。
桐は樹脂が少ないため、虫がつきにくく、軽くて丈夫で変形しにくいという特徴があるため、人形作りには大変適した素材です。これを用いた木彫人形や桐塑人形などと呼ばれる技法があります。

人形を接着するのり

 

これらの技術によって雛人形や五月人形などが作られています。

岩槻は、人形のまちらしく、駅を出ると専門店をたくさん見かけます。


 

 

皆さまもぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか。


■館情報(岩槻人形博物館
・住所:埼玉県さいたま市岩槻区本町6-1-1
・開館時間:09:00~17:00(最終入館16:30)
・休館日:月曜日、年末年始
・入館料:一般300円、65歳以上800円、高校生・大学生・65歳以上150円、小・中学生100円

今月は昨年度を振り返り、「報告回・発表会」を開催しました。

■報告会
下記の報告事項を、前年度の活動における各種報告を会員同士で共有しました。
(1)全体報告
→活動実績や取組内容

(2)会計報告
→収支状況や監査結果、今年度の収支方針

(3)所有物管理報告及び文書管理報告
→本会所有物の管理状況
→会議資料などのファイリング状況


■発表会
報告会ののち、各自興味のあるテーマを発表する発表会を行いました。
(1)恐竜
→鳥盤目と竜盤目の違い
→福井県立大学での恐竜学部の新たな設立について

(2)牛久シャトー
→神谷傳兵衛記念館
→日本遺産、日本ワイン

(3)生産緑地制度の概要
→指定要件
→宅地並み課税
→面積要件の引き下げ

(4)脳内ホルモン
→ドーパミン
→β-エンドルフィン
→オキシトシン
→セロトニン

会員の発表から、各自の興味関心を共有する機会となり、有意義な意見交換を行うことができました。
 

みなさん、こんにちは!

6月の館巡りでは千葉県立中央博物館を訪れました!

 

JR千葉駅からバスで15分ほどで、この館があります。

閑静な住宅地と緑に囲まれた大きな博物館です。

 

■博物館の概要

1989年 1月 博物館設置

     2月 一般公開

     8月 入館者10万人

 

■博物館の特色

・房総の自然や歴史が常設展示

・国内で唯一、この博物館に隣接する生態園を併設

・地学、動物学、植物学、生態学、歴史学それぞれの分野の研究者がおり、身近な質問にお答えできるよう心がけている

・年間150回以上の観察会や講座を千葉県内各地で開催

・ミュージアムトークや企画展示のマリンサイエンスギャラリー、気軽に参加できる野外観察のフィールドトリップを開催

・千葉県君津市清和県民の森を中心に、「房総の山のフィールド・ミュージアム」事業を実施

 

千葉県立中央博物館は、こうした様々な教育普及活動に注力しています。

 

■展示内容

学校の自由研究等で十分に活かせそうなほど、展示内容がかなり充実していました。

 

千葉県の地形図

千葉県の化石

千葉県の川辺には多くの野鳥が生息しています

千葉県で発見された化石

チバニアン

 

千葉県の自然や歴史を知りたい方には、おすすめの館です。

生態園も含めて、1日中をかけて、この館を回ると良いと思いました。

 

館の基本情報(千葉県立中央博物館

開館時間:午前9時~午後4時30分(入館は午後4時まで)

休館日:毎週月曜日(月曜日が休日の場合は開館し、次の平日が休館)、

    年末年始(12月28日~1月4日)

入場料:一般300円、高・大学生150円

交通アクセス:JR千葉駅 東口の7番乗り場から

       京成バス「千葉大学病院」「南矢作」行きのいずれかに乗車し、

       「中央博物館」で下車(所要時間約15分)して、徒歩約7分

本会は、2024年に創立10周年を迎えました。
この記念事業としてロゴマークを制作しましたのでお知らせします。

ロゴマーク

シンボルマークは、本会の英語名である「Cross Cultural」の頭文字「C」を象っています。
この「C」のボックスは、館巡りを行う博物館・美術館などの建物や研究会で用いる資料、升や容れ物など様々なモノを想起させ、文化を多角的・多面的に見ることを表しています。


2つの丸い雫は、本会における活動や学びの吸収・受容を表し、カラーをターコイズブルーとすることで、知性、柔軟性、創造性などを表しています。

今後も様々な企画を準備していますので、ぜひご期待ください。

2024年5月11日、今回は念願の紅ミュージアムを訪問しました。「伊勢半本店紅ミュージアム」を全面リニューアルし、2019年11月2日に新たに「紅ミュージアム」としてオープンしたと聞き、早速足を運んでみました。

 

 

紅ミュージアムは東京都港区南青山6丁目に位置し、最寄り駅は東京メトロの表参道駅です。駅からは徒歩約12分です。開館時間は午前10時から17時までで無料で入館が可能でした。事前予約も不要です。

 

 

 

紅ミュージアムは江戸時代から続く日本最後の紅屋「伊勢半本店」が運営する施設です。伊勢半本店は文政8年(1825年)、江戸時代後期に、紅を製造・販売する紅屋として現在の日本橋小舟町に創業しました。調べてみると、「伊勢半グループ」と「伊勢半本店」は、密接な関係を持っていることが分かりました。伊勢半グループは、株式会社伊勢半本店を筆頭に、8つの企業で構成されるグループ企業です。化粧品事業、不動産事業、そして祖業である紅の製造販売など幅広い事業を展開しています。その中で伊勢半本店は、千代田区に本社を置き、紅の製造販売をはじめ、化粧品や食紅、絵具の製造販売、紅ミュージアムの運営などを行っています。

 

 

 

館内には、江戸時代の紅道具や化粧下絵などの貴重な資料が数多く展示されていました。江戸時代の化粧に用いられた色は赤(紅)・白(白粉)・黒(眉墨・お歯黒)の三色のみで、唯一の有彩色である紅は唇はもちろんのこと、顔全体に使用され、女性の顔に彩りを添える大事な色でした。特に、小町紅は美人の代名詞である小野小町(おののこまち)の名前から取られたもので、女性たちの憧れの色でした。小町紅はベニバナの花びらから作られる口紅であり、このベニバナの花びらに含まれる赤色色素はわずか1%しかありません。その希少な赤色色素だけで小町紅が作られています。実際に小町紅を体験できるコーナーが展示室の一角にあるコミュニケーションルームに設けられていました。まさに「見て、触れて、体感する」といったテーマに相応しく、特別な体験ができました。

 

 

 

まずは、スタッフさんに紅の種類や使い方などを丁寧に説明していただきました。お試しづけで手の甲で紅の発色を試してみました。水に濡らした筆で磁器に塗られた小町紅を点すと、玉虫色が一瞬で赤に変わります。先に述べた通り、紅にはベニバナの花びらが使用されており、水で溶くとベニバナの成分が溶け出し、玉虫色から赤色へと変わるのです。理論上でただ理解するのとは違い、その変化を目の当たりにし、大変驚きました。

 

 

 

 

 

紅を塗ってみたところ、鮮やかな紅色に染まり、予想以上に美しい発色でした。様々な色合いを試した結果、自分の肌色にピッタリな色を見つけることができ、唇の上にのせてみると、浮いて見えることなくほんのりと唇に馴染みました。誰もが似合うような自然な色で男女を問わず使用できました。今まで紅を点す機会がなかったので、とても興味深い時間でした。ちなみに、先着順の予約制で紅のミニ実験ワークショップも開催されていました。黄色の紅花の花びらから赤色色素を抽出する過程を、簡単な実験を通して観察できるそうです。

 

 

 

 

(口紅はオンラインショップや店内で販売していました。⇩)

 

 

 常設展示室1

 

紅ミュージアムのメインとなる常設展示室は1と2に分かれていますが、常設展示室1では、紅花の生産・流通から市場取引をはじめ、当時の紅の販売における広告宣伝・販売活動、紅づくりの様子、紅に纏わる習俗などの資料を模型や紅ができるまでの映像と共に観覧できました。

 

 

 

 

 ❍ 紅の生産・流通

 

紅花はキク科ベニバナ属の一年草で、花びらから黄色や赤色の色素が取れます。黄色から赤色へと変化する過程で摘み取ることから、末摘花とも呼ばれます。摘み取れる量が極めて少ないため、高い商品価値を持つのは赤色色素です。紅はこの紅花の花びらから赤色色素を抽出して作られ、古くから染料や化粧料などに広く使われました。特に京都では高級織物の染料として需要が高く、化粧料や食品着色、絵具などにも用いられました。

 

 

 

 

江戸時代に紅花は原料需要に応じた換金性と収益性の高い商品作物であったため、上方市場で盛んに取引されました。とりわけ紅花は、山形県の特産品として知られています。全国一の生産量を誇った出羽国(現:山形県)の村山地方で産する紅花を最上紅花(もがみべにばな)と称しました。見立番付(みたてばんづけ)は、日本の江戸時代から明治時代にかけて流行した、ランキング形式の印刷物のことを指します。これらの番付は相撲番付を模倣して作られたもので、さまざまな分野で人気や優劣を競う形で作成されました。この見立番付の上位に出羽国の最上紅花がランキングしていることが分かります。

 

 

 

 

 

当時の日本橋は商業の中心地であり、化粧が特定階級のみならず一般庶民にまで習慣として浸透していましたが、紅の製造・販売は京都が中心でした。また、日本橋本町二丁目の玉屋(元々は京都の紅問屋で小町紅の販売を行った紅問屋)のように、上方商人出店の紅屋が多く存在しました。江戸の紅屋の大半が製造を行わず、卸売を主とした紅問屋がほとんどでした。

 

 

 

 

 

その中で、江戸時代後期の文政8年に創業者である初代澤田半右衛門(現:澤田一郎)は、現在の日本橋大伝馬町といわれる日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に紅白粉問屋で約20年ほど奉公した後、独立しました。その際、「伊勢屋」という和服を扱うお店、呉服屋から株を購入し、店名を「伊勢屋半右衛門」から「伊勢半」と称しました。そして、試行錯誤と工夫を重ねた末に、主流であった京都製の紅に劣らぬ江戸製紅の製造に成功しました。見事に美しい色に輝く玉虫色の紅を作り出し、たちまち江戸の街で評判となったといわれています。

 

 

 

 

 ❍ 紅餅

 

紅餅は、日本の伝統的な紅花製品の一種で、紅花の花びらから抽出された色素を利用して作られるものです。収穫した花びらを水で洗い発酵させます。発酵によって、花びらに含まれる黄色い色素が溶け出し、赤色の色素だけが残ります。これを餅状に固めて乾燥させたものが紅餅です。

 

 

 

 

 ❍ 紅づくり

 

特に印象的だったのは、紅の製造過程を紹介する展示でした。紅餅を水に浸し、何度も圧搾して紅色の紅液を絞り出す、その工程の一つ一つが、職人の手によって丁寧に行われていることを知り、紅づくりが非常に手間と時間を要するものであることに気づきました。紅づくりは以下のような工程を経て作られます。

 

 

 

 

化学反応を利用して赤色色素を取り出す紅の製造方法】

 

1. 紅餅を仕込む

紅餅を清水に一晩漬け、ふやかし、ザルで水気を切ります。

 

2. アルカリ水溶液をかける

昔は純粋なアルカリ剤がなかったので、陸海に生える植物の灰が洗浄に使われました。植物の灰にはアルカリである炭酸カリウムや炭酸ナトリウムが豊富に含まれていて、それを水に浸すと、灰汁と呼ばれる強いアルカリ性の溶液になりました。紅づくりは大量の水を使用するため、アルカリ性の灰汁による化学反応をより発現させます。紅餅にアルカリ性の灰汁をかけ、足で踏み、花びら全体に染み込ませます。

 

3. 赤色色素を抽出する

花びらを袋に入れて、紅絞り機で圧搾します。灰汁の作用で花びら中の赤色色素が溶け出し、暗赤色の紅液が絞り出されます。

 

4. 赤色色素を吸着する

紅液に米酢を加えて、かき回します。これをゾク(麻の束)の入ったタライへ注ぎ入れ、ゾクに赤色色素を染め付けます。

 

5. 赤色色素を脱着する

ゾクに灰汁を染み込ませて、布で包み、再び紅絞り機で圧搾します。赤色色素が濃縮した鮮紅色の紅液が絞り出されます。

 

6. 精製

4と5の過程を繰り返し、赤色色素の純度を高めていきます。

 

7. 酸性水溶液で取り出す

濃縮紅液に梅酢を加えて、かき回して静置すると赤色色素が沈殿しはじめます。

 

8. 濾過、紅の完成

すのこ敷きの蒸籠に羽二重をかけ、7を注ぎます。そして濾し終わると、泥状(でいじょう)の紅が残ります。紅をヘラで掻き集め、紅箱に入れて保管します。

 

 

 

 

 ❍ 紅と魔除けの習俗

 

江戸時代の日本では、紅は単なる化粧品としてだけでなく、魔除けの効果があると信じられていました。この信仰は、紅の鮮やかな赤色が邪気を払うと考えられていたためです。罹患者の衣類や寝具、調度品などは赤いもので揃えていました。

 

 

 

 

紅ミュージアムの常設展示室1では、紅について詳しく「知る」ことができました。紅花から紅づくりの工程で実際に使用される道具が展示されており、さらに映像を通じて製造過程をリアルに感じることができました。数百年前に、紅づくりの技に灰汁を用いて化学反応を起こすという発想を持ち、それを実現した職人たちの技術に感心しました。

 

 

 

 

常設展示室2

 

常設展示室2では「化粧の歩み」というテーマで、江戸時代を中心に、古代から近現代までの日本の化粧や装いの歴史を紹介しています。化粧が持つ社会的な意味合いについて学ぶことができます。化粧がどのようにして日本に伝わり、上流階級の女性たちはもとより一般庶民にも普及し、女性たちに愛されるようになったかが分かります。江戸の女性が実際に使っていた化粧道具や浮世絵などが展示されており、当時の女性の化粧法や、時代を経て変わっていく口紅や頬紅を観察できました。

 

 

 

 

元禄時代(1688~1704年)には、大阪や京の都市を中心に上方で化粧文化が開花しました。文化・文政時代(1804~1830年)には、江戸でも庶民層まで化粧文化が広がりました。しかし、身分や階級、年齢など社会構造の厳しい制約がある中で、自由度は低く、純粋におしゃれを楽しむための化粧ができるようになったのは明治の開国以降と言われます。明治以降に西洋文化を大いに取り入れ、化粧が生活の一部となり、美意識を象徴するアイテムとして用いられました。

 

 

 

 

江戸時代の浮世絵には、紅を塗る女性の姿が描かれており、女性たちの暮らしぶりを垣間見ることができます。そして、当時の口紅の塗り方や眉の書き方、スキンケアに関する洗顔法などが書き記された資料が存在します。以下に、江戸時代のスキンケアと代表的な化粧法についていくつかご紹介します。

 

 

 

 

まず、【洗顔時の注意と糖の効能】についての内容を一部抜粋すると、

 

「毎朝湯を使うとき、極めて熱い湯で顔を洗うと顔に早く皺ができてしまう。(中略)顔に糖袋を強く当てて洗ってはいけない。顔の肌理を損なうことになる。」

 

と書いてあります。このような洗顔法の注意点は、当時の人々が美意識や肌の健康に関する知識を持っていたことを示しています。現代のスキンケアと比較しても、遜色のないほど知識や美意識が十分に発展していたことが窺えます。

 

 

 

 

次に、江戸時代の化粧法についてです。

 

 

 

 

1. アイメイク

現代のアイラインと大きな違いはなく、目の縁に紅をひきました。これを「目弾き」と言います。もともとは歌舞伎役者の舞台化粧として発生した化粧ですが、町方の女性たちが真似るようになり、広く行われるようになりました。

 

2. 頬紅

紅と白粉を混ぜて使用しました。くすみ防止のためや地肌を明るく見せるために、白粉を塗る前に目の周辺から頬にかけて紅を伸ばすこともありました。これは現在のチークと同じ役割を果たします。

 

3. 口紅

江戸時代には、口紅を濃くつけることは卑しいとされ、淡くほのかに色付くように付けるのが良いとされました。また、おちょぼ口のような小さな口元が好まれたため、紅を点す面積は小さかったです。

 

4. 爪紅

爪先を紅や鳳仙花などで赤く染めたり模様を描いたりしました。ネイルアートの原型とも言えます。

 

 

 

 

 

化粧法においても、今とあまり変わらずとても似ていることから、時代は違っても美しさを求める本能は同じだと思いました。壁一面に展示された江戸時代の紅道具や近代の化粧品まで、口紅に関する様々な模型が興味深く陳列されていました。化粧品の様子は時代に応じて変遷していきましたが、その中には歴史と文化が反映されていました。

 

 

 

 

 

今まで紅は単なる昔の色だと思っていましたが、紅や日本の化粧文化に対する理解が一層深まりました。紅ミュージアムは紅に興味がある人はもちろん、日本の伝統文化に興味のある方、そして特別な体験を求めている方にもぜひ訪れてほしい場所です。

 

 

 

 

 

 ❏ 館情報(紅ミュージアム)

・住所:東京都港区南青山6-6-20 K's南青山ビル1F

・開館時間:10:00~17:00(最終入館16:30まで)

・休館日:日曜日・月曜日・創業記念日(7月7日)・年末年始

・入館料:無料 ※ただし、企画展観覧は有料

・公式サイト:紅ミュージアム(公式㏋)

 

今月は「第53回 文京つつじまつり」花見のため、根津神社を訪れました。

根津神社は東京十社に定められた神社の一つです。

社殿は5大将軍徳川綱吉によって造営され、極彩色漆塗りの権現造りの神社建築が特徴です。

国の重要文化財にも指定されています。

 

 

【千本鳥居】

根津神社には、京都の伏見稲荷大社に比べて小ぶりであるものの、約250基、全長200~300mほどの鳥居が並んでいます。

一般的に、稲荷神社に願い事が叶ったお礼として鳥居が奉納されており、それが連なっていることで、願いが叶った人の多さが表されています。根津神社はその点で、ご利益がある神社であることがわかります。

江戸時代以降、「願い事が通る、通ったお礼」の意味を込めた感謝の印として鳥居が奉納され、今日に広まりました。

鳥居は一基10万円ほどで建てられるそうです。

 

 

【文京つつじまつり】

つつじの花見は、まだお花が咲いている箇所が少なく、緑と花の調和が見どころでした。

 

 

昨年の開花状況をみて、それぞれお好みのタイミングで訪れることをおすすめします!

 

 

 

【東京聖テモテ教会】

散歩途中で、聖テモテ教会にお邪魔しました。

 

 

【東京大学】

最後に東京大学の赤門の前で。

 

季節が春になり、お花見と周辺の散歩を楽しんだ館巡りでした。

今月は、世田谷区桜新町の「長谷川町子記念館・美術館」を見学しました!

♪お魚くわえたドラ猫追っかけて~
みなさんご存じ「サザエさん」です。東急田園都市線、桜新町駅を出ると、早速、有名な銅像と花でつくられたサザエさんが出迎えてくれました。

 

サザエさん通りを行くと、

 

交番前にもサザエさんがいました。

 

(参考)モザンビーク大使館もあります。

 

 

1.美術館

到着!

この写真は美術館で、道路を挟んだ反対側に記念館があります。まずは、両館の共通チケットを購入するために美術館に入ります。

 

この美術館は、1985年、漫画「サザエさん」の作者である長谷川町子が65歳のときに、財団法人長谷川美術館として開館しました。

ここでは、町子と姉の毬子(まりこ)がジャンルを問わず収集した作品(日本画や洋画、ガラス、陶芸、彫塑など)が展示されています。
どれも素晴らしい作品ばかりで、東京芸大出身の方の作品が多かったような印象です。
特に印象に残ったのは、花沢花子さんが花沢不動産の娘として、磯野家の模型を紹介しているコーナーです。
(参考)某サイトによりますと、世田谷区の家賃相場は、9.38万円だそうです。港区13.5万円、千代田区13.32万円、渋谷区12.37万円、中央区12.28万円、新宿区11.52万円。
 

 

2.長谷川町子

(左から)いじわるばあさん、長谷川町子、サザエさん

 

サザエさんの生みの親、長谷川町子についてご紹介します。
町子は、1920年(大正9)に佐賀県で生まれました。生後ほどなくして、福岡県に移り住み幼少期を過ごしますが、父の他界により、家族とともに東京に引っ越すこととなりました。

漫画が大好きだった町子は、母のすすめで「のらくろ」などで有名な田河水泡に弟子入りし、そこで才能が認められ、15歳で漫画家デビューしました。
「のらくろ」については、以前、「田河水泡・のらくろ館」を巡っていますので、こちらのブログもあわせてご覧ください。

終戦の翌年、1946年(昭和21)に福岡の新聞「夕刊フクニチ」から漫画連載を頼まれ、これが「サザエさん」の誕生のきっかけとなりました。一度、その連載は終了しましたが、「続・サザエさん」を頼まれたため、連載を再開しました。
その後、毬子、町子、洋子の姉妹で、出版社「姉妹社」を立ち上げ、連載漫画「サザエさん」を単行本化しました。これが大ヒットし、1969年からはフジテレビで「アニメサザエさん」の放送を開始し、今年2024年に55周年を迎えます。

町子は、1992年に72年の生涯に幕を閉じ、同年、国民栄誉賞を受賞しました。


3.記念館

今度は、道路の向いにある記念館に移動します。

 

キャラクターが勢揃い

 

サザエさんに囲まれた空間

 

町子の作品は、サザエさんだけではありません。戦時中、東京から福岡に疎開していたとき、戦況の悪化とともに漫画の仕事が少なくなっていき、漫画以外の仕事をするようになりました。その一つが便箋のデザイン。20種類以上デザインしたといいます。

ちょうど、「わかめちゃん」にフォーカスした企画展を実施していました。

 

サザエさんでは、「ワカメ」の表記ですが、作品によっては、「わかめ」を使用しているそうです。
また、戦前から戦後、ワカメちゃんヘアが流行しました。
 

ミュージアムショップ

チケット購入時に、ドリンク100円割引券がもらえます。館内でごゆっくりどうぞ。

 

 

4.桜新町

別の角度からですが、素敵な名前の「桜新町」について調べてみました。
大正初期、この辺りは、新町村、深沢村と呼ばれていました。当時、東京信託(株)がここで分譲開発を行い、その記念として数百本の桜が植えられたことから桜の歴史が始まります。(関東最初の郊外開発として、農地を買収し、住宅として造成、分譲しました。)

その後、1932年に、玉電の愛称で親しまれた東急玉川線の駅名として「桜新町」と名付けられました。
1968年の住居表示実施の際には、新町という旧名に桜をつけて「桜新町」となりました。

美術館横の公園

 

♪みんなが笑ってるー 子犬も笑ってるー ルルルルルルー 今日もいい天気


以上、桜新町からでした。


■館情報(長谷川町子記念館・美術館
・住所:東京都世田谷区桜新町1-30-6
・開館時間:10:00~17:30(最終入館16:30)
・休館日:月曜日、年末年始、展示替期間
・入館料:一般900円、65歳以上800円、大学生・高校生500円、中学生・小学生400円

みなさん、こんにちは!

 

2月の館巡りは台東区立一葉記念館を館巡りしました!

東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」から徒歩8分ほどにあります。

 

今年7月より新紙幣が発行されるにあたり、五千円札の肖像画が樋口一葉から津田梅子に変わります。

変わる前に、樋口一葉がどんな人物だったのか気になり、この館を巡りました!

 

 

また、この日はガイドさんに館の展示内容をご案内していただきました。

ありがとうございました!

 

 

 

●一葉記念館の経緯

 

名作「たけくらべ」の舞台となった龍泉寺町の人々は、一葉の文学実績を永く後世に遺すべく、有志により「一葉協賛会」を結成しました。

協賛会は記念館建設を目指し、有志会員の積立金をもとに現在の用地を取得し、台東区に寄付をして記念館建設を要請しました。

台東区は、地元住民の熱意に応えて、記念館建設を決定し、1961年に開館しました。

 

 

●樋口一葉の生涯

 

・明治を代表する女流作家

・1872年~1896年(明治5~29年)

 

14歳:

娘・一様に学問を学ばせてあげたいという父の想いから、文京・小石川にあった歌塾「萩の舎」に入門して、和歌・古典の勉強に励みます

 

17歳~21歳:

父を亡くし、戸主として一家を支えざるを得なかった一葉。

母と娘を養うために小説家を目指したり、雑貨や駄菓子の商売をしたりとしましたが、生活苦がなかなか打開できませんでした。

 

↑一葉の住んでいた街並み

 

22歳:

「奇跡の14ヶ月」といわれるほど、たくさんの作品を執筆しました。

代表作:①たけくらべ:

     吉原を舞台にして少年・少女たちの生活を豊富な喩(ゆ)と女性の内面を繊細に描いています。

    ②十三夜:

     離婚の決意を固めながらも、それによって一人息子を失うことを恐れて離婚をとどまる女性を描いています。

 

 

 

●さいごに

男尊女卑の風潮があった明治時代で、女流作家として大いに活躍した樋口一葉。

男女共同参画社会が進む現代社会の時代を表すということから、五千円札の肖像画になったそうです。

 

↑一葉記念館の向かい側にある「一葉記念公園の石碑」

 

【館の基本情報】

台東区立一葉記念館

交通アクセス:東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」下車 徒歩8分

開館時間:9時~16時30分(入館は16時まで)

休館日:月曜日(祝日と重なる場合は翌日)、年末年始、特別整理期間など

入館料:小、中学生100円、一般300円

公式サイト:https://www.taitogeibun.net/ichiyo/

 

今月は、東京都港区の「大倉集古館」を巡りました!

 

1.大倉集古館と大倉喜八郎

大倉集古館は、明治から大正にかけて活躍した実業家の大倉喜八郎(おおくらきはちろう)が設立した日本で最初の財団法人の私立美術館です。
大倉喜八郎が蒐集した日本や東洋各地域の古美術品や、息子の喜七郎が蒐集した日本の近代絵画など、国宝3件、重要文化財13件、重要美術品44件を含む約2,500件の美術・工芸品が所蔵されています。これらの古美術品は、当時、文化財の海外流出に嘆き、その保護と自国文化の向上を目的として喜八郎が約50年に渡り蒐集してきたそうです。

大倉鶴彦翁像(大倉喜八郎の別称)

 

大倉喜八郎(1837~1928)は、大倉財閥の創設者であり、父は新発田藩の大名主でした。18歳で上京し、乾物屋を営んだ後、1865年に大倉屋鉄砲店を開業し、戊辰戦争に際し官軍御用をつとめ巨利を得ました。このことが実業家としての始まりと考えられます。
後に貿易業にも着手し、朝鮮や中国における投資にも積極的で、帝国ホテルも含め国内外に多くの事業を展開し、大倉財閥を築きました。また、教育にも関心を持ち、現在の東京経済大学である大倉商業高校を創立しました。

館の外観
1998年、国の登録有形文化財に指定されました。

 

 

大倉集古館は、1902年に赤坂の喜八郎自邸内に美術館を開館し、訪問客の観覧に供していましたが、1923年の関東大震災により、当初の建物と陳列中の所蔵品を失いました。幸いに無事であった倉庫に残された作品を基本として、1928年に再開館しました。

後に、1955年代には隣接するホテルオークラの建設に伴い建物が整理され、1962年に第一次大規模改修を行い、1997年の第二次大規模改修を経て現在に至ります。

隣接するホテルオークラ

 

 

2.展示品

金剛力士像(鎌倉-南北朝時代)がお出迎えしてくれます。

 

入口の上に、「大倉集古館」と書かれています。
これを書したのは、徐世昌(1855〜1939)北京政府大総統です。

 

中へ入ると右手で受付を済ませ、1階、2階、地下1階(ミュージアムショップあり)を見学することができます。

歴史上の人物とも親交がありました。

  • 孫文の書額「博愛」 孫文は武器調達に関して明治30年代から喜八郎と関わりがありました。
  • 張作霖寄贈の弔旗
  • 蒋介石寄贈の弔旗「普天同吊」 喜八郎の告別式が大倉邸内で執り行われたときに弔旗が掛けられました。
  • 喜八郎は、ソウルに善隣商業高校(現在の善隣インターネット高等学校)をつくりました。その卒業生の中には古賀政男がいます。以前、古賀政男音楽博物館を巡っていますので、あわせてご覧ください。
  • 狂歌(きょうか) 滑稽な趣を57577で詠む短歌。喜八郎は15歳前後でつくりはじめ、亡くなるまでに1万首以上といわれています。
  • 息子、喜七郎に関する展示


1階から2階へ上がる途中

 

2階バルコニー
奥のほうに達磨大師坐像(中国清時代17-19世紀)が展示されています。

 

以上、非常に見応えのある館でした。
見学の後は、目の前にあるホテルオークラでお茶やお食事でもしてみてはいかがでしょうか。

■館情報(大倉集古館
・住所:東京都港区虎ノ門2-10-3
・開館時間:10:00~17:00(最終入館16:30)
・休館日:月曜日、年末年始、展示替期間
・入館料:一般1,000円、大学生・高校生800円、中学生以下無料