9月の館巡りでは平和祈念展示資料館を訪れました。2000年(平成12年)11月30日に開館した東京都新宿区に位置する平和祈念展示資料館は、さきの大戦や終戦後において、「兵士」「戦後強制抑留者」「海外からの引揚者」の三つの労苦を扱う施設です。開館当時の所在地は新宿住友ビル31階でしたが、二回目のリニューアルを終え、現在は新宿住友ビル33階に移転しました。当館では、兵士、戦後強制抑留者、引揚者の戦争の労苦(苦しくてつらい)記憶を物語る多くの資料を所蔵しています。
(*所蔵資料:約23,000点、常設展示:約400点)
「帰還者たちの記憶ミュージアム」愛称とロゴマークの意味
7月に正式名称である平和祈念展示資料館の新しい愛称「帰還者たちの記憶ミュージアム」とロゴマークが公開されました。正式名称だけでは、概念的に具体的な内容が分かりづらいため、戦地から家に帰ってきた方々の想いを表す愛称を付けました。ロゴマークは、当館のテーマである三つの労苦を表しています。三つの円は日本に帰国する際の船の窓、線はその窓から見える水平線です。苦しい状況の中で生きてふるさとへ帰るという希望や、祖国を想う帰還者たちの気持ちを表現しています。
1945年(昭和20年)8月15日に生き残られた兵士の数は約789万人、そして約230万人が死亡したとされます。戦争を終えていろんな品物が寄贈されました。2024年(令和6年)で戦後79年が経ち、当時の記憶は年月の経過とともに次第に失われつつあります。戦争が起きると非常に辛く、大変なことがあるということ、そして命がいかに尊いのかを改めて展示品を通して考える機会となりました。この資料館は、戦争中、日本の兵士がどのような生活を送っていたのか、戦後、帰還者たちがどのような状況で祖国を目指し、日本に戻ってきたのか、その実際の姿を後世に伝えるために設立された貴重な施設です。
プログラム
当館では、パネルや映像、音声ガイドにより自由に見学することもできますが、戦争経験者のお話を直接聞くことができる語り部お話し会(*毎月第3日曜日に開催)、解説員による展示解説の団体向けプログラムも用意されています。予約制で行われるため、見学希望日の一週間前までに申し込みが必要です。解説時間は60分程度で、解説員から館内案内と展示解説をしていただきより理解が深まりました。
プロローグ
総合案内から右側に施されているプロローグは「兵士」「戦後強制抑留者」「海外からの引揚」三つの労苦と関連する出来事を紹介しています。当時の写真と戦争経験者の証言で構成されています。
【三つの労苦】
1. 兵士コーナー
一つ目のテーマは、兵士の話です。兵士は、さきの大戦において、国のために家族を本国に残し、命懸けで戦地に向かって戦った方々です。大人になった男性は徴兵検査を受ける義務がありました。本来であれば、普通の生活を送っていたはずの人々が本人の意思に関係なく、戦争が始まったことによって国のために戦地に連れていかれました。一部は志願した人もいましたが、大半が海軍でした。志願すれば17歳から入営が可能で、「この国は自分の手で守る」という純粋な心で志願したそうです。しかし、終戦の二年前、1943年(昭和18年)になると志願者だけだと追いつかなかったため、人気のあった海軍もどんどん召集して集めることになりました。戦争がなければ日常生活をしていた方が殆どで、軍隊生活は厳しく辛い日々が続きました。その中には、軍歴期間が短かったため恩給や年金を受給できない方(*恩給欠格者)もいました。本来国のために働いた方々ですので、恩給や年金にあたるものを支給してもらうのが当然ですが、当時軍に所属している恩給をもらうためには、一定期間の決まりがあり、それに行かない方が400万人もいたといわれます。
明治6年(1873年)1月10日、太政官布告(*明治維新政府の法令形式)により「徴兵令」が発せられたのが始まりで、これにより満20歳の日本の男性(*昭和19年(1944年)からは一歳引き下げられて満19歳)は徴兵検査という一種の身体検査を受けることによって3年間の兵役義務を担うことになりました。徴兵検査の対象となった成人男子は、身体検査を受けて、兵役に適しているかどうかが判定されました。つまり軍隊に就くため健康状態を見る制度のことを言います。徴兵検査の結果によって「甲」「乙」「丙」「丁」「戊」の5種類に分けられました。「甲種」「乙種」「丙種」までは「合格」者とされ、「丁種」「戊種」は兵役の不合格者に分類されました。検査の合格者全員が兵役に就くわけではなく、常備兵として必要な数を確保できれば良いのであって、明治~大正の平時にあっては、現役兵として徴兵されるのは、合格者の2割程度であったといわれます。昭和20年(1945年)、第二次世界大戦で敗戦して以降、日本で徴兵制は廃止されました。
兵士の中でも、三つに分けられ、合格をした人で、すぐ兵士として召集された人を現役兵といい、陸軍は2年、海軍は3年、兵役の義務がありました。服役を終えると日常生活に戻られました。そうなると身分が予備役兵となります。合格はしたけれども、すぐ兵士に召集されなかった人を補充兵といって、兵隊の数が足りないときに補充のために入るものでした。予備役兵と同様に普通のような日常生活を送ってもいいとされました。
❍現役兵
すぐ兵役に召集された人を現役兵という。昭和2年(1927年)兵役法が制定され、満20歳の前年12月1日からその年の11月30日までに徴兵検査を受けた者の中で定められた所要の人員だけ選ばれた。陸軍は、満20歳から陸軍は2年、海軍は3年服役した。
❍予備役兵
現役を終わった軍人が一定期間服する兵役。平常は市民生活を送り、非常時に召集されて軍務に服する。
❍補充兵
徴兵検査には合格したものの、すぐに兵役に召集されなかった人。現役兵の欠員を補充し、また戦時の要員に充当するために、必要に応じて召集するもの。
当時の日本の社会では、兵役に就いてはいるものの、軍隊に行っていない日常生活をしている予備役兵と補充兵が大勢いました。そういう中で戦争が始まり、1937年(昭和12年)、日中戦争が始まった年の日本の人口は7000万弱で、兵士の数は108万人程でした。1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まった年の兵士の数は241万人で2倍以上増えたことが分かります。兵隊を増員するために軍は戦地に行っていない予備役兵と補充兵を呼びつけました。そのときに使ったのが臨時召集令状です。
臨時召集令状(赤紙)
臨時召集令状(りんじしょうしゅうれいじょう)別名赤紙は、戦争が長引いたり激しくなるとより多くの兵士が必要になった際に国の命令に基づいて発行されたものです。徴兵検査の結果、現役兵とならなかった人や、除隊後に予備役になっていた人など、自宅で待機している男性に召集をかける際に国から出された命令書です。使用された用紙が赤色であったため赤紙と呼ばれます。
赤紙は郵送ではなく、役場の兵事係が直接家まで届け、本人に手渡しするのが原則でした。兵事係が受領書の部分を切り取って持っていき、赤紙を受け取った人は、記載された日時・場所に出頭するのが国民の義務でした。兵士として国にために働くことは誇らしく立派なこととされましたので、兵隊として戦地に行く人を出征といいました。赤紙を受け取った男性はいかないというわけにはいきません。本人はもちろんのこと、家族まで非国民として罵られました。実際逃げた人もいたそうですが、その殆どが軍や警察から捕まりました。
本記には住所氏名、召集部隊名、出頭場所、出頭日時などが書かれており、応召者が兵営に出頭した際に回収されました。到着地は大抵、軍隊の駐屯地で、赤紙の左側の「臨時召集應召員旅客運賃後拂證」は後払証として切り離せるようになっており、家からある程度距離がある場合は赤紙を切符代わりに使いました。丁寧に「乗車駅」「下車駅」「乗車すべき席の等級」「運賃(急行料金)」が記載してあります。出発駅の窓口に後払証を差し出すと、到着駅までの切符が交付されました。目的地までの交通費(運賃)は基本的に全額無料になりました。本人が支払った分についても到着後、配属部隊にて支給することになっており、不足するのであれば事前に市町村役所に届け出れば全額を支給するシステムでした。赤紙の裏側には、軍に入る心得や、逃亡した場合の罰則についての規定などが書かれています。現在全国に10枚程しか残っていないといわれているくらい、大変貴重な資料です。
千人針
出征する兵士に女性が贈った代表的なお守りの一種です。主に虎の絵が多かったですが、虎は中国のことわざで1日に千里行って千里還るという意味を持っています。どんなに遠くの戦地に行っても虎のようにまた家族のもとへ無事に帰ってきてほしいという想いをお守りに込めて、1,000人の女性たちが赤い糸で玉留めを縫って作り上げました。玉留めには敵の弾を止めるという願いが、虎の頭の部分に縫い付けられた五銭には、五銭=死線を超えてほしいという想いが込められていました。さらに、胸の部分に縫い付けられた十銭には、十銭=苦戦を超えるという験を担いでいます。
戦陣訓
戦陣訓(せんじんくん)は、1941年(昭和16年)、陸軍大臣東条英機(とうじょうひでき)が全陸軍に発した戦場での心得のことです。 日中戦争が始まり、終わりの見えない戦争の中で、天皇陛下の軍である日本の兵隊の心得がこの戦陣訓に書かれています。「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず」という文言が有名で、敵の捕虜になっては恥であるとして、捕虜になるくらいなら自決しなさいと教えていました。つまり、日本の兵士たるものは生きて敵に捕まって捕虜になるのは恥ずべきことであり、死ぬまで戦って、もし生きて捕まったら潔く命を絶つのがいい。敵に降参をしてはいけなかった日本の兵士は自決の道を選ぶしかなかったのです。自ら命を絶った兵士が多いのは、日本の軍隊の特徴です。兵隊の命がいかに軽く扱われたのかが分かります。
認識票
兵士を識別するために必ず身に着けていかなければならないもの。自分の名前はもちろんのこと、所属する部隊の番号などが刻んでありました。肌身に右肩から左肩にかけ、下着の上ではなく肌身にかけました。
陶器製の手榴弾
陶器で作られた手榴弾、爆弾です。武器に使用する鉄が不足していたため、焼き物が多く、全国各地で大量に生産された陶器が武器として使われました。非常に日本的なものだといえます。
戦線の展開
1931年(昭和6年)9月 満州事変
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1937年(昭和12年)7月 日中戦争
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1941年(昭和16年)12月 太平洋戦争
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昭和19年(1944年)7月 太平洋戦争末期
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1945年(昭和20年)9月 終結
亡くなった兵士の死因を調査した研究者もいました。戦闘による死者だけでなく、間接的な死因で亡くなった人々が多かったという記録があります。230万人の兵士が死亡した中では、水没、食料不足で餓死した人、病死した人、自ら命を絶った人を含めてると約5~6割の兵士が戦闘以外の理由で亡くなったとされています。
当時は、トラックなどを補給する余裕がなかったため、兵士は食料も含めて自分の持ち物を全て持たなければならなかったです。体にかかれた重量は30㎏を超えたといわれます。体験コーナーでは、実際に兵士が背負っていたカバンの重さを再現しています。興味のある方は、ご体験ください。
玉音放送
1945年(昭和20年)8月15日は、第二次世界大戦が終わった「終戦の日」です。この日の正午、ラジオを通じて国民に日本の敗戦を告げる「玉音放送」が流れました。昭和天皇による「終戦の詔書」の朗読がラジオで放送され、多くの国民が日本が敗戦国になったことを知ることになりました。当時はテレビがなく、ラジオを用いて音声を流しましたが、漢語が多く使われていたため、内容を理解できなかった国民も多かったといわれています。玉音放送の内容を簡単に説明しますと、「今までの時代も大変だったけれど、これからの時代は、平和のために日本は敗戦国として国民の皆さんに一層の努力をお願いしたい」という趣旨でした。この放送には、ある逸話があります。日本はポツダム宣言を受諾して敗戦を認めたことを国民に伝えたわけですが、放送されたのは生放送ではなく、NHKの前身である日本放送協会が数日前に原稿を読み、昭和天皇の声を録音して作ったレコード盤を使用していたそうです。当時、陸軍の一部の若い兵士たちは「日本は降伏してはいけない」と考え、放送を阻止するためにレコード盤を盗もうとしました。その気持ちはわからなくもないですが、無事に放送が行われ、日本は終戦を迎えました。
2. 戦後強制抑留コーナー
戦争が終わったにもかかわらず、シベリアを始めとする旧ソ連やモンゴルの酷寒の地において、劣悪な環境の中で過酷な強制労働に従事させられた方々を戦後強制抑留者といいます。抑留とは強制的に留め置くことを意味し、第二次世界大戦で対日参戦したソ連が、投降した日本軍を北方のシベリアやモンゴルなどに送り、強制労働を従事させました。抑留された人は約55万5千人に及ぶとされます。1950年までに大半が帰還されましたが、劣悪な環境に置かれ人々の中で多くの死亡者が出ました。その背景には、戦争により大きな人的被害と物的損害を被ったソ連における労働力不足を補うためであります。日本軍とソ連軍との間で停戦が合意され、日本軍や民間人はソ連兵から「ダモイ(帰国)」と言われ、帰還を命じられましたが、日本へ送還されることなく、シベリアをはじめとするソ連領地内へ強制連行されました。抑留された人々はマーゲリという強制収容所で生活をすることになりました。本コーナーでは、ラーゲリ(収容所)の模型や実際に抑留者たちが使っていた道具、手作りの食器などが展示されています。無理やり留め置かれた人々の暮らしぶりを垣間見ることができます。
1945年、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終結させました。ポツダム宣言は全13か条で構成されており、その中の第9条では、戦争終結後に戦地にいる日本の軍人・兵士は全員家庭に戻ることが許されると定められていました。具体的には、第9条は「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」と記されています。しかし、このポツダム宣言の内容は無視され、戦後多くの日本兵がシベリアに抑留されました。早く帰国できた抑留者は1年後でしたが、長い人は11年を経て帰国したとされています。マイナス30~40度という非常に厳しい冬のシベリアで、重労働を強いられました。抑留者たちには十分な食料が与えられず、一日の食事は黒パン350グラムと薄いカーシャ(お粥)程度の少量に限られていました。抑留者が収容されたラーゲリでは、6人1組で生活しており、黒パンは6等分して分配されました。この黒パンは味がすっぱく、美味しくなかったといわれますが、生き延びるためには公平な分配が求められました。そのため、パンを分けるのにかかる時間は一時間以上に及ぶこともありました。公平さを期すために、じゃんけんで勝った者から順に好きなパンを選んでいったといいます。抑留者たちは、常に飢えに苦しみ、過酷な環境に置かれていました。時にはジャガイモと爆弾を見間違えるほど、極限状態に追い込まれていたと伝えられています。
「ノルマ」の由来
「ノルマ」という言葉は、ロシア語を語源としています。ソ連が抑留者に対して一方的に決めた仕事量の目標値を意味していました。抑留者たちに課されたノルマは非常に過酷なもので、日本でもその辛さが伝わり、社会に広まりました。ちなみに、日本人の多くがその厳しいノルマを達成したといわれています。このような背景から、日本でも「ノルマ」という言葉が目標や課題を指す言葉として定着し、現在では仕事や日常生活における「達成すべき目標」を意味する言葉として広く使われています。
抑留者の手作りスプーン
厳しい抑留生活の中でも、抑留者たちはわずかな楽しみを見つけようとしました。ゲームや音楽、劇団の活動を行い、食器などのものづくりも好みました。しかし、食料は非常に限られており、物を作ること自体が辛さを忘れるための手段となり、希望を見出すための重要な活動となりました。「食べることは生きること、生きることは食べること」という考えのもと、困難な状況にあっても生き延びて故郷に帰り、このスプーンで腹いっぱいおいしいものを食べるという願いを込めて、手に入る材料や道具を使ってスプーンを作りました。シベリアのマイナス30~40度の厳寒の中、カーシャ(お粥)やスープはすぐに凍ってしまいましたが、残った食べ物を一口も無駄にせず食べるためには、指では取り出せない食べ物を掻き出すための道具が必要とされました。特に、飯ごうの底に残ったカーシャを掻き出す際に、スプーンが大変有用でした。スプーンは、生きていく上でなくてはならないものでした。
3. 海外からの引揚げコーナー
本コーナーでは、引揚船の模型や写真、衣類などが展示されています。引揚者とは、第二次世界大戦後、敗戦によって外地での生活のよりどころを失い、身に危険が迫る過酷な状況の中で祖国に戻ってきた人々、帰還者のことです。1945年(昭和20年)8月の敗戦時、約660万人の日本人(軍人・軍属・民間人)が海外に残されていました。満州には日本の企業が多く進出しており、そこで働いていた事務員や、現地で生まれた子供たちも含まれていました。
海外からの引揚げコーナーでは、特に民間人の引き揚げに焦点を当てています。終戦後、海外にいた日本人の民間人の数は300万人に及びました。南方の東南アジアには、日本の領土も多くありましたが、日本が敗戦国となった後、独立国としての主権を失ったため、外国に住んでいた日本人は帰国せざるを得ない状況に追い込まれました。どの国からの帰国も決して容易ではありませんでしたが、特に満州からの引揚げは非常に過酷で、大変な苦労と多くの犠牲が伴いました。
1931年(昭和6年)満州事変以降、満州は農村の余剰人口の移住先として注目され、昭和初期の厳しい日本社会から逃れる手段として、農業移民が推奨されていました。当時の日本社会は大学を出ても出世が決まるわけでもない時代で、どんなに働いても借金が返せなく「口減らし」という家計の負担を減らすために跡継ぎである長男以外の子供は、身売りされることもあり、場合によっては命を絶たれることもありました。借金を返済するために人身売買が行われていた時代、山形県には「娘を身売りしてはいけません。しかし、どうしても身売りをしなければならない場合には、悪質な業者に騙されて安値で売られないように、高く売るための相談に乗ります」と書かれたポスターが存在していました。役所の相談窓口でこのようなポスターが掲示されていたことから、当時の厳しい状況がよく分かります。
1936年(昭和11)年に「満州農業移民100万戸移住計画」という大量移民計画が国策として実施され、終戦時には約27万人が満州に移住しました。全都道府県の中で、一番移住者が多かった地域は長野県で、二番目は山形県です。満州に移住した人々の中には、日本よりも穏やかな生活ができると考えた人も多かったようです。しかし、1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍が満州に侵攻したことで状況は一変しました。もともと満州を守っていた陸軍の関東軍、17歳から45歳までの男性の大半が召集されました。その結果、ソ連軍の攻撃を受けた一部の民間人は集団自決を選び、1万人に上る人が命を絶ったといわれています。
海外引揚概況図
海外引揚概況図には、海外からの引揚者の人数が一桁まで詳細に記録されています。これは非常に珍しいことで、引揚者の帰国手段は船のみであり、引揚者を迎える日本の港は、博多・佐世保・舞鶴・鹿児島など最大で18か所が指定されました。地方引揚援護局が引揚者に対する調査を行い、詳細な記録が残されています。
おむつで作られたワンピース
満州で生まれた4歳の女の子に日本に引き揚げる際に着せようと作ったワンピースです。当時、朝鮮半島の釜山に向けて日本へ戻ろうとしましたが、すぐに船に乗ることができず、約1年間待たされました。その間に赤ちゃんが亡くなり、母親は赤ちゃんのおむつを形見として持ち続けました。故郷に戻った際、娘の服があまりにも汚れていたため、母親はそのおむつを使ってワンピースを作り、娘に着せました。
引き揚げのまち舞鶴
引き揚げは1958年(昭和33年)まで続き、50年以降では舞鶴だけが引揚港となりました。舞鶴は日本海側で唯一の軍港として栄えた都市であり、終戦後の13年間にわたり約66万人の引揚者と遺骨1万6千柱を迎え入れました。舞鶴は、最後の帰還者を出迎えた「引き揚げのまち」として知られています。
平和祈念展示資料館では、戦争に関する様々な資料や写真、戦争経験者の証言を通じて、忘れられつつある戦争の記憶と平和の大切さを再認識させる機会を与えてくれました。皆さんもぜひお立ち寄りください。
❏ 館情報(平和祈念展示資料館)
・住所: 東京都新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル33階
・開館時間:9:30~17:30(入館は17:00まで)
・休館日:月曜日(※祝日または振替休日の場合はその翌日) ・年末年始(12月28日~1月4日) ・新宿住友ビル全館休館日
・入館料:無料
・アクセス:都営大江戸線「都庁前」駅 A6出口より徒歩 約1分
東京メトロ丸ノ内線「西新宿」駅より徒歩 約5分
JR線、小田急線、京王線「新宿」駅西口より徒歩 約10分