「現代の価値相対主義は「近代の原理」を批判するが、
しかしけっしてそれを超えることはできない。
なぜなら、価値相対主義の内的動機はアイロニズムという
かたちをとった現代的な「精神の自由」への希求であり、
つまりそれ自身が近代の「ほんとう」への
欲望の挫折した一形態にすぎないからである」
竹田青嗣 『近代哲学再考』
人間の欲望は、社会関係の中で、各人が「他者の承認」を求めあうという
本質契機の中でのみ形成されるものである。
だから、どんな自然的「実体」ももたないが、この本質契機に規定された
「関係本質」を必ず構造として形成することになる。
これが、コジェーヴが『精神現象学』から
つかみとった人間的欲望の本質
この中心部をよく受け取っているラカンとジジェクだが、
すでにカントによって禁止された”本性起源論”へ向かっている。
なぜなら、フロイトの無意識仮説を媒介項としているために、
人間的欲望は、「欲望起源論」へ向かわざるをえない。
コジェーヴ
ヘーゲルは、ナポレオンという人物の存在意義を
真に理解したと考えたとき
自ら、人間と世界の関係について「一切の認識を包括しうる場所」に
立っているという確信をつかんだ。
この命題を変更し、ヘーゲルは『精神現象学』の「自己意識」の章において
人間的欲望の原理として「自己意識の自由」「他者の欲望」という概念を
手にしたとき、近代社会の本質的意味および近代社会に到る
人類の歴史的発展の意味本質を理解する上での、核心的な視点をつかんだ。
整理
人間の「欲望」の本質が、特定の自然的対象を待つのではなく、
ただ他者関係における「自己価値の承認」の欲望である。
これが出発点
⑴ 人間は「主体」(無意識的な)としては、
つねに「他者」による自己の承認を欲求していること
⑵ この欲求は、より自覚的には「自己意識」への欲望となり、
それは直接的な「愛情欲求」ではなく、
自己価値の「承認」をめぐる諸欲望を形成すること
⑶ 人間の欲望は、したがって、「他者」が一般的にその価値を認め、
それを欲望するものに自己自身が一致することをめがける。
この欲望の関係は相互的であり、したがって、人間の欲望の対象は
実在的なものではなく、「社会関係」が一般価値として承認しているもの
⑷ こうして最後の帰結としては、人間の欲望の諸関係は、
人間社会を一つの独自の構造として定位する。
すなわちそれは、人間社会を「普遍的な承認ゲーム」(相克的ゲーム)という
構造的本質として形成する。
ヘーゲル自身『精神現象学』は、絶対的な「精神」が自己分割によって
「主観的精神」を生み出し、それが相互的な自己了解を通して
絶対としての「一」へと再統合される過程として
人間社会の歴史を描いたものだと言う。
しかしコジェーヴを経由することで、「社会」の構造の本質を
二つの中心的原理で構想していると言える。
一つが「自己意識の自由」
社会関係の基礎単位をなすものとしての個人間の関係幻想の本質であり
「他者の欲望」に定位する関係的な欲望本質
もう一つは、「絶対本質実在」
こうした基礎原理から構成される人間欲望の対象の意味であり、
人間の社会的欲望あるいは”生それ自身の欲望”の「目的性」である。
人間の欲望は、自然的な実体的対象を持たない。
ただ、集合的な「欲望承認のゲーム」を通してのみ実現の可能性を持つ。
ヘーゲルによれば、まず「主と奴の相克の弁証法」として発現する。
最初は力の闘争であるが、秩序と階位が決定されれば、暗黙的約定として機能する。
(共同体幻想、威力、習俗等)
それがどのような種類ののもであれ、およそ権力や支配が成立しているところでは
必ず惰性化された一般的合意が、存在している。
「最強者であっても、自己の力を権利に、彼に対する服従を
義務に変えなかったならば、いつでも支配者でいられるほど強力なわけではない」
(『社会契約論』)
ルソーが「原始契約」の概念を提出するとき、どれほど絶対的なものと見える
「王」の権利や「神」の権威であれ、
必ず暗黙の共同的承認(合意)によってのみ支えられている
ということを言い当てている。
ルソーの「社会契約」の概念は、単に近代社会は自由な個々人による
「契約」を基礎とする社会である、ということを意味するのではない。
太古以来、「社会」(つまり、その集合的権威、権力、支配)の本質が
そのような「普遍的承認ゲーム」として存在してきたことについての
近代的発見と自覚を示唆するものである。
各人は絶えず「自由」たろうとする潜在的欲求をもっており、
そのために人間の集合が造りあげる社会関係は、
本質的に「自由」をめぐる普遍的な承認獲得のゲーム(競合関係)と
ならざるを得ないことが、ヘーゲルが立てた欲望原理のはじめの帰結になる。
ヘーゲルがこの原理をつかんだとき、ただちに古代社会に遡って
人間の「歴史」の本質をも同時に直感させ、
近代にいたる人類の歴史の意味本質の
全体像をはっきり理解させたと言える。
いままで見たような人間社会における関係本質を「近代社会」の展開に適用すると
近代社会における二つの重要な本質契機が帰結する。
⑴ 人間社会を「普遍的な欲望承認ゲーム」として措定することで
近代社会における人間存在の本質を
「自己を社会へと関係づける存在」として定義づけることができる。
⑵ この定義により、近代の人間の本質の自己意識(=思想)の進展を
自己と社会との関係的本質についての自覚的プロセスとして描くことができる
またこのことにより、近代とは、人間がさまざまな幻想的な「超越項」を取り払って
自らの存在本質それ自体を了解していくプロセスの展開として定義できる
『精神現象学』の内容は、以下のように総括できる。
はじめの四章、(A)意識、および、(B)自己意識、では
人間的欲望の基礎的本質論が置かれている。
そして、第五章「理性」では、この基礎理論を前提として
主として⑴の問題が論ぜられ、第六章では、主として⑵の問題が扱われている。
最後の第七章、第八章、「宗教」と「絶対知」は
ヘーゲル体形の総まとめであり
そこでは、体形的な結論が色濃く打ち出されている。
⑴ 人間的欲望の原理論(「意識」「自己意識」の章)
⑵ 近代の人間が。自己を社会に関係づけるその範囲論
(「理性」の章の「快楽〈けらく〉と「必然性」〈さだめ〉
「心胸」〈むね〉の法則〈のり〉「徳と世路」「事そのもの」)
⑶ 人間が関係的な超越項を克服して
関係存在の自覚を深める過程としての近代論
(「精神」の章「啓蒙と信仰」のせめぎあいから「道徳」「良心」へと至る)
⑷ 「宗教」と「絶対知」の章 これらの体系的締めくくり
右派・保守派からも左派・左翼側からも
近代社会や近代国家は、集中砲火されている。
しかし、近代がもたらしたものの大きさに比べて
それ以降、提出されてきた社会構想は、近代社会の矛盾を克服できたのか
と問われると、何一つとして提出されていない。
それどころか、理論としても実践としても、挫折しただけだった。
われわれは、ヘーゲルをまだ超えていない。
ヘーゲル哲学そのものが、難解きわまるものだから仕方のない側面はあるにしても