なぜ、自民党は定額給金にこれほどまでこだわるのか。


 なにがなんでも給付したようである。


 自民党支持率が低下すればするほど、公明党、創価学会との選挙協力が重要視されるわけで、定額給付金を言い出した、公明党の支持を取り付けるためには重要な政策なのだろう。


 この定額給付金逆風のなかで、それでも給付するということは、よほど、厳しい選挙を自民党は見通しているわけであり、そのような一般常識で考えれば意味のない定額給付金がゴリ押しされる中、それでも創価学会員は自民党をかならず支持するという異常な行動を自民党は当てにしているわけである。


 もはや、自民党の支持基盤の崩壊はここまで進んだわけであり、自由民衆党結党時の保守本流の支持基盤は跡形もなくなった、まさに、小泉総理が「自民党をぶっ壊す」と言ったとおり、自民党はすでに「ぶっ壊れて」いるわけであって、半ば、創価学会の公明党の隠れ蓑政党になれ果てていると言っても過言ではないのかもしれない。


 果たして、さまよえる自民党は権力だけを求めて、どこに行くつもりなのか。


 しかし、かたや、民主党も目立ちたいだけの個人主義政治家が多いこと。


 スタンドプレーばかりのタレント政治家、とにかく権力欲旺盛な政経塾政治家など、また、闇に隠れた組合政治家とまとまりのない政治家集団であり、政党助成金のためと総理というスポットライトを浴びるための集団。


 こういう集団同士で、政権政党として本格的な仕事はできないのではないかと想像ができる。


 よって、政界再編、新党という線がもっともこれからの政局としては考えられるのではないか。


 そして、国を本当に支えているサラリーマンのための政党が生まれてほしいというのが筆者の希望である。

 日本の場合、政治家が官庁のトップである大臣となる。


 その大臣の権力をもってしても、官僚に対抗できないものなのだろうか。


 むしろ、官僚に対抗するよりも、官庁の種類によって形勢する族議員の力の方が大きい。


 族議員の力については、佐藤優氏の「国家の罠」をはじめとし、有名な研究書としては、「族議員の研究」があり、その影響力の大きさがわかる。


 「官高政低」(官僚が政治家に優位していることを示す言葉を気圧の配置をもじってつけられた言葉)から、田中角栄後、「政高官低」と呼ばれるようになった。


 族議員の形勢により、官僚の支配が著しく下がったことを示す。


 吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作をはじめとした官僚政治家が総理大臣となり続けた戦後から、現在では、二世政治家が総理大臣になり続けている現実がある。


 その理由は、族議員としての力を発揮するためには、政治家として当選回数を重ね、族で力を持つ必要があることを端的に示している。


 族議員といえば、言葉が悪いが、要するに、高度な行政を運営するためには、それだけ専門家せざる得ず、政治家も分野の専門化によって対応しているわけだ。


 これだけ、政治家が専門化し、十分な力を発揮しているにもかかわらず、「官僚の支配」声高に叫び続ける必要性はどこにあるのだろうか。


 むしろ、政治の失策という面の方が大きいのではないか。


 筆者はそう考える。

 有効求人倍率が下がる中、それでも、人が必要とされている仕事がある。


 最近、注目されはじめたが、たとえば、介護の仕事などである。


 このように、どうしても人が必要な仕事に対して、労働力をシフトしていく必要が日本にはある。


 しかし、現在の若者をみると、対人関係が苦手であることが多い。


 いわゆる学校の勉強については、優秀でも、対人関係が苦手であることは、このような仕事においては非常に不利である。


 日本の教育でなおざりにされた分野がこの対人関係、または、修身ではないだろうか。


 いくら英語、数学ができても、人との関係がうまくいかなければ、その能力をうまく使うことはできないことは、大人であれば、だれでも思うことである。


 反対に、対人関係のプロであれば、ちょっと能力が低くても、他人とのコミュニケーションでうまく補うことができるだろう。


 これからの教育においては、対人関係構築能力を上げていく教育を行う必要があるだろう。

 日本の異常さは、社会保障である。


 この社会保障、たとえば、雇用保険、国民年金などがあるおかげで、企業は、正社員を雇用することに対して異常なコストを支払わなければいけない。


 そのため、非正規雇用が生まれるという必然性がある。


 非正規雇用でなければ、とうてい雇うことが難しいような低労働力という現実があるのだ。


 企業が、国際企業的、かつ、大企業的となり、半ば企業が国家的になった今、企業が倒産することは、企業人にとって、国家が倒産することと同じことである。


 よって、企業は、国家のように、企業を守るためにその保存行為に必死に行わざる得ない。


 そういう現実を、報道機関は報道する必要があるだろう。


 しかし、日本の報道機関は、売れることのみを考えているせいか、「派遣村」のような感情的な話題ばかり報道している。


 ましてや、国民放送であるNHKですら、その尻馬に乗る状況である。


 NHKという国税で運営されいると言ってよい、報道機関ですらそのような状況であることに日本の異常さ、良心のなさがある。


 この良心のなさは、よく見ると、マスコミ各社の給与の多さ、その異常さをみるとわかる。


 見てくれればいい、売れればいい、売れるのは、どうせ視聴者がバカだから自分たちの責任ではないと思っているのだろう。


 しかし、日本のテレビ、新聞は、半ば、公共のものである。


 マスコミは、最終的には、自分たちが批判したライブドアのホリエモンと同じように、「稼ぐが勝ち」なのだろう。


 しかし、マスコミの陰湿さは、「稼ぐが勝ち」にもかかわらず、表では「世間のため」を装っているところにある。


 まさに、偽装である。


 この偽装は、吉兆と同じくらい悪質なものであると筆者は考える。

 オバマ大統領の宣誓でリンカーンが宣誓したバイブル(聖書)が話題になった。


 このことを、一般の人は簡単に受け流したことだろう。


 しかし、この事実をよくよく考えてほしい。


 よく日本では、神道は宗教であり、神道の行事らしき、玉串や地鎮祭を地方自治体などの政府組織が行うと猛烈に訴訟を起こす輩がいる。


 この論理が政教分離という、いまいちよくわからない基準である。


 また、靖国神社も問題となることがあるが、これも政教分離を理論的根拠とされている。


 そして、そのときあげられるのが、アメリカのような国立墓地をつくれという主張である。


 しかし、アメリカは、政教分離を掲げているが、ご覧のとおり、バイブル(聖書)を使う宗教国家である。


 そもそも、宗教とはなんぞや、国家と宗教の関わりとはいかなるものかと言えば、宗教の全く関わらない国家というのは、実は、強烈な宗教に裏打ちされた国家である。


 それは、共産主義国家の如く、共産主義という宗教を抱えた国家であり、そもそも宗教国家なのである。


 なぜ、このような現象になるかといえば、宗教こそが我々の価値基準を規定しているからであり、どのような人間でも国家でも価値基準が必要とされており、価値基準がなければ行動できない。


 その基礎を理解していなければいけない。


 アメリカは、ムスリム国家ではない。


 れっきとしたキリスト教を基礎においた国なのである。


 その点を見誤ってはいけない。


 たとえば、ブッシュのような福音派が大統領にならずとも、そもそも、キリスト教国家であり、それがリンカーンのバイブルなのだ。


 そのような宗教と密接にある国が政教分離の国なのである。


 その点を見落としてはないらないし、反対に、その点を故意に見落とし、靖国神社を攻撃している識者や評論家、マスコミを注意しなければならない。