日本の場合、政治家が官庁のトップである大臣となる。


 その大臣の権力をもってしても、官僚に対抗できないものなのだろうか。


 むしろ、官僚に対抗するよりも、官庁の種類によって形勢する族議員の力の方が大きい。


 族議員の力については、佐藤優氏の「国家の罠」をはじめとし、有名な研究書としては、「族議員の研究」があり、その影響力の大きさがわかる。


 「官高政低」(官僚が政治家に優位していることを示す言葉を気圧の配置をもじってつけられた言葉)から、田中角栄後、「政高官低」と呼ばれるようになった。


 族議員の形勢により、官僚の支配が著しく下がったことを示す。


 吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作をはじめとした官僚政治家が総理大臣となり続けた戦後から、現在では、二世政治家が総理大臣になり続けている現実がある。


 その理由は、族議員としての力を発揮するためには、政治家として当選回数を重ね、族で力を持つ必要があることを端的に示している。


 族議員といえば、言葉が悪いが、要するに、高度な行政を運営するためには、それだけ専門家せざる得ず、政治家も分野の専門化によって対応しているわけだ。


 これだけ、政治家が専門化し、十分な力を発揮しているにもかかわらず、「官僚の支配」声高に叫び続ける必要性はどこにあるのだろうか。


 むしろ、政治の失策という面の方が大きいのではないか。


 筆者はそう考える。